パウロは人間をたった三種類に分けています。第一は「生まれながらの人間」、第二は「肉に属する人」、第三は「御霊に属する人」です。きょうはこれら3種類の人の特徴について学びたいと思います。
1.生まれながらの人
Ⅰコリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」「生まれながらの人間」は、原文のギリシャ語では、「魂に属する人」です。回復訳という聖書がありますが「魂の人」と訳しています。「とても深いなー」と思います。創世記1章28節には人間は神のかたちに創られたと書かれています。神のかたちとは何なのか、神学的いろいろ議論されるテーマです。確かに言えることは、神は霊であり、人間も霊的なものとして創られたということはどの神学者も認めることです。しかし、創世記3章に書いてありますが、アダムとエバは食べてはならない知識の木から食べました。創世記3:7「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った」とあります。これはどういうことかと言うと、二人は霊的に死んで、魂が異常に発達したということです。神さまから創られた時は、霊、魂、肉体がとてもバランスよく機能していました。霊によって神さまと交わり、神さまに聞き従いました。魂は霊の言うことを聞きました。そして、肉体は魂が言うことを聞いて生きていたのです。ところが、霊が死んでしまって神さまとの交わりが断たれました。その代り、アダム以降、堕落した人間は神さまを無視して、自分の魂だけで生きるようになったのです。魂とは何でしょう?何かを考える知性、何かを感じる感情、何かを選択する意志の3つの機能があります。残念ながら、霊が死んでいるので、神さまから来る深い知性、安定した感情、正しい選択が欠如しているのです。「生まれながらの人間」は、英語の聖書ではnatural manとなっており、訳すと「自然の人」「生来の人」という意味です。つまり、生まれながらの人間は、霊ではなく、自分の魂で生きているということです。
生まれながらの人間の特徴とはどのようなものなのでしょうか?Ⅰコリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。」かつての私は一生懸命伝道してくれる職場の先輩に、「神さまがいるなら見せてください。そうすれば信じるよ」と言いました。1年半後、イエス様を信じて、神さまがおられることが分かりました。その後、彼女と友人に一生懸命、神さまのことを話しました。二人は私が頭がおかしくなった、キリスト教にかぶれてしまったと思って相手にしてくれませんでした。かつての私と全く同じような反応をしたのです。いくら神さまのことを言っても、最後は「私を馬鹿にしているのか」と拒絶されました。皆さんの家族や友人にイエス・キリストを信じていない人たちがいると思います。どうでしょう?異星人と話しているような空しさを覚えることはないでしょうか?世の中の一般的なことは、理解し合うことができます。ところが、いざ神さまのことになると、まったく分かり合えないのです。パウロが「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです」と言っているとおりです。キリストを信じて霊的に生まれ変わることを、パウロは「御霊を受けている人」と言っています。クリスチャンであるなら、すべて「御霊を受けている人」ということになります。どういうことかと言うと、ヨハネ3章でイエス様がおっしゃったように、霊的に新しく生まれたということです。これまで死んでいた霊が生きたのです。その霊の部分に聖霊が宿って下さり、私たちの霊が神の霊と交流するようになったのです。神の霊が私たちの霊に語りかけて、神さまのことを教えてくださるのです。つまり、霊的に生まれ変わっていない人は、神さまのことを言われてもさっぱりわかりません。神の霊だけが、神さまのことを知らせてくれます。だから、その人が霊的に生まれ変わらない限り、聖書のことがらが馬鹿らしく思えてしまうのです。
ニール・アンダーソン師著の“Victory over the Darkness”に「生まれつきの人間」がどのようなものか記されていました。知性においては、強迫観念、空しい思いがあります。感情においては、苦々しさ、不安、うつが支配的です。意志は肉に従って歩んでおり、汚れや争い、ねたみや怒りがあります。肉体においては、緊張や偏頭痛、過敏な胃腸、じんましん、アレルギー、喘息、心臓、呼吸器系の不調があるということです。私たちは生まれつき、神さまから離れて暮らしていましたので、知性が暗くても、感情が不安定でも、意志が肉的でも、肉体が病気がちでも「人間だもの」と諦めていました。この世は人間に悪いことをさせないように、道徳教育、罰則を与えてきました。しかし、人が新しく生まれ変わると、神の性質が与えられ、正しいことがおのずとできるようになるのです。滝元明牧師は10代後半で洗礼を受けましたが、長い間、悩んでいた痔が治ったそうです。ある人は、いつの間にか偏頭痛が治ったと言う人がいます。また、ある人は霊が強められたせいか、以前のように怪我や事故を拾わなくなったそうです。「生まれつきの人間」は、「私に神さまのことを話さないで」「私に信仰を強制しないで」とよく言います。でも、生まれ変わった私たちは、「ああ、もったいない。良い人生があるのになー」と残念な気持ちになります。生まれつきの人間のままで、その先、生きているのは不幸で可哀そうです。Ⅰコリント1:18「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあります。確かに、十字架のことばは、滅びる者たちには愚かに思えるのです。でも、救われる私たちには神の力です。
2.肉に属する人
Ⅰコリント3:1-3「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」これはコリントの教会に向けて語られたパウロのことばです。この手紙の挨拶にもあったように、コリントの人たちは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された」人たちでした。霊的に生まれ変わることによって、神の性質が与えられ、正しいことが自然に行えるようになります。「ハレルヤ!アーメン」と言いたいところですが、古いアダムの性質が残っています。言っておきますが、私たちの古い人は洗礼を受けたとき、死んだのです。ローマ6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」でも、肉の性質が残っています。簡単に言うと、霊的な部分と肉的な部分が混在しているということです。ガラテヤ5:17「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」クリスチャンになると、霊が目覚めるので、神さまに聞き従うようになります。しかし、これまで染みついて来た生き方があります。神に依存せず、自分の考えや好みで生きようとします。とことん困らないと神さまに頼ろうとしません。私たちの霊は確かに語っているのですが、自分の考えや感情、意志が強くて聞こえてきません。そのため、クリスチャンであっても、この世の人と同じように生きているのです。
ニール・アンダーソン師が先ほどの本でこのように述べています。肉的な人はクリスチャンであり、キリストにあって霊的に生きており、神から義と宣言されています。しかし、その類似性はそこで終わります。このクリスチャンは、御霊に導かれるのではなく、自分の肉の衝動に従うことを選びます。その結果、彼の心は肉的な考えで占められ、彼の感情は否定的な感情に悩まされています。また、御霊に導かれて御霊の実を結ぶことを選択する自由があるにもかかわらず、故意に肉に導かれて罪深い活動に身を投じ続けています。数年前、私は、今でも肉の犠牲になっているクリスチャンがどのくらいいるのか、ちょっとした個人的な調査を行いました。私のところに相談に来た50人のクリスチャンに、同じ質問をしてみました。「劣等感、不安感、不完全さ、罪悪感、心配事、疑いなど、あなたの人生を特徴づけるものはいくつありますか?50人のうち、誰もが「6つ全部 」と答えました。50人の新生した正しい神の子たちが、肉に悩まされ、絶えず肉に生きている不信心な人たちに氾濫しているのと同じ自己疑念の問題に悩んでいたのです。ニール・アンダーソン師は、自分が何者であるか、知ることが重要であると言っています。自分たちの行動を変えるまえに、自分が神の子であり、聖徒であるというアイディンティテイをしっかり持つということです。そうすれば、それに相応しい行いが出てくるからです。
もう1つは、肉に従うのではなく、御霊に導かれて生きるということです。ガラテヤ書5章にあるように、肉のわざは、「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです」。一方、御霊の実は「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。聖書でこれだけ、はっきりと言われているのに、どうして肉に従ってしまうのでしょうか?これは、意志が強いかとか弱いかという問題ではありません。肉の背後には、敵であるサタンがおり、神の子として成熟していくのを妨げているのです。サタンは私たちの弱点を良く知っています。また、クリスチャンになる前の心の傷やトラウマ、罪の習慣があるので、そこを足場にして攻撃してくるのです。信仰を持つときは、これまで犯した罪の悔い改めは必要でありませんでした。しかし、救われた後でも、罪や肉の性質があるなら、これを主の前に告白する必要があります。Ⅰヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」アーメン。これはクリスチャンになるための告白の祈りではなく、クリスチャンになってからのものです。神さまの前で罪を告白するなら、神さまが罪の性質を取り除いてくださるのです。あるクリスチャンは「これは私の弱さです」「これは私の傷です」と言ってごまかしていますが、それは罪です。罪を認めて告白しない限り、罪から自由になることはできません。
パウロはエペソ5章で「実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです」と言っています。私たちが神さまの前に祈るとき、大切なポイントがあります。「〇〇したいです」とか「〇〇できるようにしてください」と決断を神さまに任せるような祈りは効果がありません。決断するのはあなた自身なのです。口ではっきりと、「〇〇します」「〇〇しません」と告白するなら、イエス様は「あなたの信仰のごとくなるように」とおっしゃってくださいます。私は洗礼を受けた後、「私は酒とたばこをやめます。どうか、私をそのようにさせてください」と祈ったら、今もそうなっています。罪と肉は私たちを慕ってきます。でも、それらを十字架に付けて、キリストに従うことを願うなら、罪と肉は弱くなります。たとえ、そこに存在しても、私たちを動かさなくなるのです。
3.御霊に属する人
Ⅰコリント3:1「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」このところに「御霊に属する人」と出てきますが、「肉に属する人」と比較されています。両者とも新生したクリスチャンなのですが、一体何が違うのでしょうか?前のポイントと重複しますが、要は、肉ではなく、御霊に従うということです。でも、御霊に従うということは、頭では分かりますが、なかなか実行できないことも確かです。キリスト教会では「御霊に満たされる」とか「御霊によって歩む」ということが良く聞かれます。でも、実のところはどうなのか、分からない方が多いのではないかと思います。教会では親切心から、信仰者が正しい歩みをするように、いろんな規則や規定を与えます。聖書を読むこと、祈ること、聖日礼拝を守ること、献金をすること、奉仕をすること…すべて良いことなのですが、果たしてそれが御霊によって歩むことなのでしょうか?クリスチャンは律法から解放されたと言うけれど、新手の律法によってクリスチャンを統制しようとしているのではないでしょうか?実は教会は、御霊ではなく、律法によってクリスチャンを歩ませようとする愚かなことをしているのです。Ⅱコリント3章にそのことが書かれています。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。…主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」とあります。つまり、「これをしなさい」「これをしてはいけません」という戒めを外から与えると、人は霊的に死ぬのです。なぜなら、それは律法だからです。このことはパウロもローマ7章で悩んでいます。でも、ローマ8章で、急に「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」と歓喜して叫んでいます。日本語の聖書は「御霊の律法」と言っていますが、本来は「御霊の法則」です。一方、「罪と死の法則」も存在しています。問題は、私たちがどちらの法則に身を委ねるかであります。
パウロはⅡコリント3章で「文字は殺し」、「御霊は生かす」と言っています。また、ローマ8章では「罪と死の法則」に対し「いのちの御霊の法則」と言っています。一方は死であり、他方はいのちです。新生したクリスチャンであっても、死かいのちのどちらかを選んで、その結果を刈り取ってしまうということです。何度も言いますが、信仰生活は意志の力ではありません。歯を食いしばって罪を犯さず、善を行うというのではありません。私は御霊に導かれるとは、御霊の法則に身を委ねるという意味だと思います。そうすれば、罪と死の法則からおのずと解放され、いのちの道を歩んで行けるということです。さて、御霊とは何でしょう?日本語の聖書は「御」という丁寧なことばがあるので、これは聖霊であろうと一般には解釈されます。でも、ギリシャ語の聖書を読むと、私たちの霊なのか、神の霊なのか全く区別がつきません。日本語の聖書で「御霊」と訳しているのは、「文脈から判断して、おそらく聖霊のことだろうな」と解釈しているからです。本来は区別がつかないのです。ですから、共同訳では「霊」としか訳していません。「霊によって歩もう」「霊に導かれて」「霊に満たされて」と訳しています。私はこちらの方が正直で良いと思います。実は聖霊は私たちの霊に宿っています。ウィットネス・リーは、「聖霊と私たちの霊が混じり合って区別がつかない」と言っています。私は見分けがつかない位、両者が重なり合っているのではないかと思います。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?今、「私たちは」と言いました。多くの場合は、「私たちは」というと、「私たちの魂である知性と感情と意志のことだろう」と考えます。そうではないのです。「私」あるいは「私たち」というのは、魂ではなく「霊」なのです。
ケネス・ヘーゲン著の『人間の三重の本質』にこう書いてありました。「人間の霊は、内側のその人であり、神を知るというその人の部分です。聖霊は私たちの知性の中におられないので、私たちの知性とじかにコミュニケーションをなさることはありません。彼は私たちの霊の内におられ、私たちの霊を通して私たちとコミュニケーションをなさいます。聖霊は私たちの霊の内で話してくださるのです。私たちの霊は、聖霊から情報を得ているのです。」ローマ8:14「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」とあります。これがクリスチャンの標準的な生き方です。私たちが律法に歩調を合わせようとすると、罪と死の法則に落ちてしまいます。そうではなく、私たちが霊に歩調を合わせようとすると、いのちの法則に落ちます。そうすると、自然に神さまの望まれる歩みができてくるのです。私たちにはそれでも、知性や感情や意志という魂があります。どうすれば良いのでしょう?自分の知性や感情や意志という魂を信頼するのではなく、内なる声、霊を信頼するのです。私たちの霊は神の霊と繋がっています。「私は神の御霊に従って生きます」と主導権を明け渡すと、神の御霊が私たちの霊とタッグを組んで、神さまが望まれる道へと導いてくださるのです。「罪を犯さないようにしよう。律法を守らなければならない」と考えると急に息苦しくなります。霊が窒息してしまうからです。御霊のあるところには自由があります。主の御霊が、私たちを栄光から栄光へと変えさせてくださるのです。自分が変わるのではありません。主の御霊に委ねると、あちらの方が変えてくださるのです。この世の人たちは、御霊の働きを知りません。霊が死んでいるので、法律や宗教で正しい行いはできないのです。私たちがキリストを信じて、霊的に生まれ変わり、御霊によって導かれて生きる時に、本来の生き方ができます。堕落前のアダムとエバは、父なる神さまに聞き従うことで善を行なうことができました。私たちの場合は、主の御霊が私たちの霊と共に働いて導いて下さいます。聖霊様を認め、聖霊様を信頼し、聖霊様に従いましょう。最後にまとめたいと思います。
生まれながらの人が霊的に生まれ変わるのを回心と言います。これはとても劇的な変化であり、一生に一度の大イベントです。その人は、この地上に住んでいながら、御国において生活しているのです。しかし、その人は霊的に生まれ変わっていても、自分の魂に従っています。霊の存在は認めますが、あまり気にしないで生きています。読みたいときだけ聖書を読み、行きたいときに教会に行き、困ったときだけ「神様なんとかしてください」と祈ります。でも、神さまはご自分の子供をそのままにしてはおきません。小笠原牧師はそのことを「神様の取り扱い、お取り扱いを受ける」と言われました。そうです。聖霊がある出来事を通して、あなたの魂を砕いて下さるのです。どんな出来事か分かりませんが、「ああ、私は神さまに頼るしかない」と降参するのです。そのように砕かれると内側から御霊があふれ出し、あなたの魂と肉体を支配するようになります。時々、肉的なことをしてしまいますが、一度、砕かれた魂はすぐまた砕かれ、神さまに従順することができます。その人は、「ああ御霊によって歩むことが一番良いんだ」と分かります。