パウロの多くの手紙の前半は教理的な事が書かれており、後半は倫理的な事が書かれています。3:1「こういうわけで」という書き出しは、教理的なことを踏まえた上で、「あなたがたはこのように生活しなさい」という勧めになっています。言い換えると、キリストを信じて霊的に生まれ変わった人たちへの勧めということになります。その証拠に、コロサイ2:12「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです」書いてあるとおりです。クリスチャンとは古い人がキリストと共に死んで、キリストと共に新しい人によみがえらされた存在です。霊においては新しくなりましたが、肉体と魂に古い人の性質がまだこびりついているというのが聖書的な考えです。
1.古い人を脱ぎ捨てる
コロサイ3:5-9「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて」。パウロは「古い人をその行いとともに脱ぎ捨てている」と言っています。ギリシャ語の動詞は、「脱ぐ」のアオリスト形です。正確には「一度過去において脱いでおり、そのことが現在に影響を与えている」という意味です。古い人をこれから脱ぐのではなく、「あなたが信じて救われたとき脱いだのですよ」ということです。現実には、古い人の性質が私たちの魂と肉体に染み込んでいます。でも、「一旦、そういうものとは決別したのですよ」という意味です。私が子どもの頃、どぶにはまって大変なことになったことがあります。昔はそれを堰(せき)と言ったのですが、草が生えていてどこが境なのか分かりません。たぶん、友だちとふざけてだと思いますが、どぼんと落ちたわけです。底はどす黒い泥であり、堰(せき)から上がると靴と靴下とズボンも黒光りしています。すぐ家に帰って、井戸水で洗います。でも、そのとき靴もズボンも脱いで、バケツで何杯も水をかけます。でも、わずかにドブの匂いが手足に残っているんです。重要なことは、水で洗う前に、汚れた靴と靴下とズボンを脱ぐということです。汚れた衣服の上から、水をかけて洗っても無駄です。同じように、神さまは私たちがキリストを信じたとき、古い人とその行いを脱ぎ捨てることが起きたんだということです。そのことがないと、この先、聖くはなれないからです。
地にあるからだの部分には、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲がありました。また、以前の歩み方には、怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべきことば、偽りなどがありました。それらが、古い人にくっついていた古い人の行いです。言い換えると、クリスチャンになる前は、そういう汚いものを着ていたということです。近代の教育は人間は無垢な状態で生まれ、それから悪いことを覚えるのだと言います。だから、正しいことを教えれば、正しい人になるのだと信じてきました。学校で、道徳を教えるのはそのためです。道徳は外側から「こうしてはいけない、こうしなさい」と人を律することです。聖書でいう律法ととても良くにています。しかし、聖書は律法では人は変わらないことを教えています。むしろ、律法は罪を助長し、悪いことをさせるとまで言います。聖書の考え方は、アダムの子孫として生まれ、罪の種が宿っているということです。生まれたときは、無垢な赤ん坊に見えますが、そうではありません。だだをこねるし、言うことをきかないし、やがては「馬鹿」とか親に言ったりします。正しくは、罪や汚れが見えなかっただけであり、成長するとともに内側から出て来たということです。アダムの子孫はだれからも教えられなくても、罪を犯し、悪いことをするということです。そのリストが、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲、怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべきことば、偽りなどです。みなさんは品行方正だと思われますが、私はそれらを全部行ってきたので、試験をしたならばAプラス、間違いないです。
問題は「イエス様を信じて、クリスチャンになってからはどうなのか?」ということです。もう一度言いますが、クリスチャンは霊的に新しく生まれ変わった存在です。でも、魂と肉体に、古い人の性質と行いがくっついているということです。さきほどのドブから上がった私のように、泥にまみれた靴と靴下とズボンは脱ぎました。それだけではきれいになっていません。バケツに水をくんで洗う必要があります。水だけだと匂いが残るので、石鹸でごしごし洗うともっと良く取れます。クリスチャン生活は、汚い服は脱ぎましたが、体を水で汚れを洗い流している状態なのです。まだ完全にきれいになっていないので、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲、怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべきことば、偽りなどの片りんがあるのです。でも、神さまと交わって行くうちに、聖霊が私たちをきよめてくださいます。ちょっとはあっても、以前ほどではなくなります。でも、人によって育った環境が違います。また、受けた傷、恥、虐待、トラウマによって簡単にはなくならないものがあります。他に何等かの中毒(依存症)があるかもしれません。人間依存症は共依存と言います。食べ物や性的なもの、酒やたばこの嗜好品の依存症、何らかの悪習慣があるかもしれません。そこには悪霊が関与しているものもあるでしょう。ですから、水で洗っただけではダメで、そこに癒しやきよめ、解放が必要となります。大体は長い間の信仰生活によって徐々になくなります。でも、救われた時に、癒しや解放を受けるのが効果的であり、その後の成長が早いようです。罪や悪いものをそのまま温存していると、内部に葛藤があり、霊的に成長しません。昔は解放のキャンプという荒療治がありましたが、弊害もありました。今は、教会に通院して直したり、みことばの漢方で治すというのが一般的です。
重要なのは、神さまの前で正直になるということです。「問題ありません」と否認する人がいますが、それだと癒しと解放が起りません。核信念のときも言いましたが、自分のテーマというものを発見すると良いと思います。過去にさかのぼり、どれが自分に致命的なダメージを与えたのか検証すべきです。自分の心の叫び何なのか?怒りや悲しみ、トラウマがきっとあるはずです。そこにイエス様をお迎えするのです。過去の出来事は変えることはできません。変えられるのは、どのように自分が考えたのか、応答の仕方です。そこをイエス様と一緒に修正すれば、悪い感情や行いが正されていきます。恥や汚れは聖霊の水によってきよめてもらいましょう。悪魔の訴えがあるならば、「キリストの血によって去るよう」に命ずるのです。私はキリストによって贖われた者、義とされた神の子どもであるというアイディンティテイがとても重要です。自分がキリストにあってだれかということを知るなら、行ないが後からついてきます。すばらしいみことばの約束があります。コロサイ3:1-3「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」
2.新しい人を着る
コロサイ3:10-12「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」「新しい人を来た」とありますが、これも「着る」のアオリスト形です。正確には「一度過去において着ており、そのことが現在に影響を与えている」ということです。しかし、3章12節の「着なさい」は受動態の意味があり「着せられなさい」という意味が含まれています。「新しい人は、それを造られた方のかたち」となっていますが、どういう人なのでしょうか?コロサイ人の手紙は、エペソ人への手紙と兄弟分というか姉妹関係になっています。良く似ているので、互いに補い合うことができるということです。エペソ4:24「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした」とあります。つまり、新しい人とは神にかたどり造られたものであり、真理に基づく、義と聖が備わっているということです。神さまご自身が、真理に基づく、義と聖なるお方であり、ご自身に似せて人を再生するということです。コロサイ人への手紙には、あなたはキリストにあってどういう身分なのかということもはっきり述べています。「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として」と言われています。第一のポイントでも申し上げましたが、キリストにあって自分がだれなのかを知るということがとても重要です。何か良い行いをする前に、あなたはすでに、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者なのです。これらの身分はあなたが信じたときに、恵みよって与えられたものです。信仰と恵みによって与えられたものなので、その後、どんな悪いことをしても、これらの身分を失うことはないのです。あなたが自分の身分を正しく知るならば、それに伴う正しい行いや生活がついて来ると言うことです。
私たちに、これらの新しい人が着るべき衣類が必要です。心理学的に言うと、魂の中にある人格といえるでしょう。ある人たちは、「クリスチャンは、ありのままで生きるべきだ」と言います。確かにある部分は当たっています。私は神さまの前で、ありのままで生きています。しかし、人々の前でもありのままで生きようとするので、よく失敗します。思っていることをすぐ口に出します。家の中で、ありのままでも許されますが、家の外や、教会ではどうでしょうか?みなさんは、お風呂以外は、何らかの着物を身に着けていると思います。家の中では比較的ゆるいものを着ても大丈夫です。しかし、一旦、外に出る時はスチュエーションに合ったものを着るでしょう。スーパーに買い物に行くときと、電車に乗って職場に行くときとは違うでしょう。冠婚葬祭のときはもっと違うかもしれません。私たちが裸で過ごすことができないように、私たちはありのままでは生きてゆけないということです。なぜなら、アダムとエバが罪を犯してから、私たちに恥と恐れが入り込んでしまったからです。クリスチャンなって、虚栄心とか恐れはかなり取り除かれましたが、裸のままでは無理なのです。もちろん、神さまの前ではありのままで良いのです。でも、一旦、人前に出るときには、ありのままでは済まされないのです。なぜなら、私たちには肉があるからです。ですから、パウロは、裸のままではなく、人格の上に神さまがくださる品性を着なさいと薦めています。私たちが身に着けるべき衣服(衣装)が12節以降に記されています。昔は十二単というのがありましたが、着るべき衣装は何枚あるのでしょうか?
最初は深い同情心です。和服でいうと肌襦袢です。これは肌の上というか、もっとも下に着るものです。それは「深い同情心」です。人々が一番、最後に出会うものです。つまり、そしそ、私たちの人格に最も近いものが「深い同情心」です。ギリシャ語では「憐れみ深い」という意味です。ルカ6:36「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」と書かれています。父なる神さまの心は「あわれみの心です」。私たちが最も内側に持つべき品性の衣装は「あわれみの心」であるべきです。次は「親切」です。前の聖書は「慈愛」ですが、英語の聖書はkindnessなのでその方が良いと思います。ギリシャ語では「親切」の他に「善、好意」という意味もあります。別な言い方をすると、親切は意地悪の反対です。私たちはちょっと手を差し伸べるだけで良いのに、手をひっこめてしまう時はないでしょうか?親切というのは、愛のかたちであり、良くしてあげたいと手を差し伸べることです。その次は「謙遜」です。この世では、かたちだけの謙遜はいくらでもあります。礼儀作法の中で、謙譲は最も美徳とされています。ほとんどが、聖霊からくるものではなく、人為的なものです。ですから、もし礼儀作法に無礼があったとき、軽蔑されたり、怒りを買うことがあります。私たちが神さまからいただく謙遜は、イエス様の謙遜です。イエス様は神であられたのに、しもべの姿を取り、十字架にかかられました。私たちはキリストの十字架以外に誇るべきものはありません。その次は「柔和」です。最後は「寛容」です。一番、外側の衣装は寛容です。人々が見るのは、あなたの寛容さなのです。
しかし、これで終わりではありません。コロサイ3:14「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」愛が一番最後のように思えますが、パウロは「愛は結びの帯として完全です」と言いました。つまり、これまで深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容と5枚の衣装をまといましたが、最後にそれらを結ぶ帯が必要です。その帯というのが愛だというのです。もし、帯がないならば、5枚の衣装はばらばらにはだけてしまいます。愛は5つの品性を束ねるものです。聖書で「愛」とは、アガペーの愛であり、無条件の愛という意味です。これは人間が生まれつき持っている愛ではありません。聖霊が与えてくださるものです。ガラテヤ書5章には「愛、喜び、平安、寛容、親切…」と御霊の実として表現されています。コロサイ書の場合は、人格の上に着る衣装のように例えられています。たとえは異なっていますが、すべての品性は、聖霊によって与えられるものです。つまり、神さまから着せて頂くものなのです。この世で、人々は流行の先端を行くようなモード(ファッション)を求めています。今年はどのような色が流行るかというのをテレビでやっているのを見るときがあります。一体、だれが決めるのでしょうか?しかし、コロサイ3章の深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、愛は、どの季節であっても、どの時代であっても必要な衣装です。私たちは新しい人である、このような品性を私たちの人格にまとわせていただきましょう。
3.キリストのことばを住まわせる
人格的な衣装の後にも、勧めが続きますが、最後に16節をとりあげたいとおもいます。コロサイ3:16「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」パウロは私たちの内側のことを心配して、勧めています。これはもっとも深い霊の部分です。私たちの霊には聖霊なる神が宿っています。その霊が何かを必要としているのです。それは何でしょう?キリストのことばです。パウロは「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」と命じています。神のことばでも良いのですが、あえてキリストのことばと書かれています。実は、コロサイ人への手紙は「キリスト」というお名前が数えきれないほどでています。「キリストにあって」「キリストとともに」「キリストのからだ」「キリストにおいて」…不思議なくらい度々出てきます。つまり、「キリストのことば」とはキリストに関することばであり、「私たちがキリストにあってどのような存在なのか?」ということを知る必要があるということです。そこには、キリストにある約束、保証、希望、信仰の土台が示されているからです。私たちには、キリストのことばを私たちうちに豊かに住むようにさせるという義務というか、特権が残されています。
弟子訓練においては、この聖句は「みことばの暗誦だ」と言いました。あるいは、これは「日々のディボーションである」と言いました。それらのことによって、みことばが心の中に蓄えられていくと考えるからでしょう。ビルジョンソン師は「父なる神さまとの親しい交わりが基本にあるべきだ」と言います。私たちは「みことばの暗誦」でも、「日々のディボーション」でも、お勤めになる場合があります。お勤めというのは、この世の宗教と同じで、義務的な感じがします。そうではなく、私たちはみことばを通して、父なる神さまと親しく交わるのです。さらに、そのみことばを味わい、みことばをいのちとして生きるということです。つまり、日々の事柄に、そのみことばを適用していくということです。そうすると、そのみことばが生きたものになり、私たちの霊的な食物になります。牧師は人に教えるために、あるいは説教するために聖書を読むようなところがあります。そうすると、頭だけの知識になり、霊的にはカラカラの状態になります。ですから、このことは自分の戒めにもなります。つまり、他のだれかのためではなく、まずは、自分のためにみことばが必要だということです。私は最初、東京聖書学院の基礎科で学びました。聖書に関する神学的な立場は、保守的でとても良かったと思っています。度々、「みことばに立つ」「みことばをいただく」「みことばを掴む」と教えられました。しかし、さきほどのビルジョンソン師の言うような「親しい神さまとの交わりが根底にあっただろうか?」という疑問が残りました。律法主義的になり、変わったつもりでも、内側は変わっていない場合があります。
コロサイ3:16「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」この箇所は、キリストのことばを自分に住まわせた結果のことも書かれています。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合うということは、互いにみことばを分かち合うということでしょう。さらには、「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」と言われています。おそらくは、互いにキリストのことばを分かち合うと、神さまが生きておられることが分かり、賛美したくなるということでしょう。これは、教会のあるべき姿を現しています。なぜなら、個人の満たしだけではなく、キリストのことばを互いに分かち合うことによってみなが満たされ、神さまを賛美するようになるからです。聖日礼拝においては、説教者が一方的に語るようになっていますので、コロサイ3章16節は当てはまりません。これは、家庭や小グループでの礼拝を語っている箇所ではないかと思います。つまり、聖日の礼拝だけではなく、そのようなグループにおいて、互いにみことばを教え合う機会が必要だということです。そこでは、だれか一人が教えるのではなく、互いに神さまからいただいたみことばを分かち合うのです。一方向ではなく、いろんな方向から分かち合うので、すばらしい効果があります。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とあります。これは、個人の中だけではなく、私たちの中にキリストがおられるということです。これこそ、教会のことを指しているみことばです。キリストが私たちの中におられて、私たちを教え、私たちを恵み、私たちを栄光へと変えて下さるのです。