2023.7.23「宇宙論的キリスト コロサイ1:15-18」

 コロサイの教会は、パウロがエペソに3年近く伝道していたとき、自然発生的にできた教会です。おそらく、エパフロデトが関与したのだと思われますが、近くにはラオデキアもあったと思われます。パウロはローマの獄中から手紙を出していますが、その目的は、エパフロデトからコロサイの教会が異端の教えによって悪い影響を受けていると聞いたからです。その異端の特徴とは、哲学的な知識を求めること、あるいは儀式を重んじていた神秘主義的なものがキリスト教の教えに加えていたものと思われます。端的にいうと、キリストを小さく捉えていたということです。

1.哲学的な異端

コロサイ2:8「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」コロサイの教会には哲学的な異端がありました。パウロはそれは「人の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるもの」と言っています。当時、霊的な知恵と知識を極端に求める異端的なものがありました。彼らはキリストの存在は認めてはいましたが、神のひとりであって、もっと高い存在がいると考えていました。キリスト教の異端の共通点は、キリストの神聖、キリストの絶対性を認めません。キリストが神であることを否定しませんが、より高い神がいると言うのです。それに対してパウロは、コロサイ2:9,10「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです」と言っています。キリストが神そのものであり、キリストがすべての支配と権威のかしらであると言うことです。「キリストがかしらである」これがコロサイ人への手紙の主題です。「かしら」は英語でheadですが、ギリシャ語では「首長」という意味もあります。キリスト教会の歴史において、国王や教皇が「首長」の座を奪ってきました。そうではなく、イエス・キリストが教会のかしら、首長なのであります。

 きょうの説教題は「宇宙論的なキリスト」ですが、パウロはかしらなるキリストがどういうお方なのか、コロサイ1章で、このように力説しています。コロサイ1:15-18「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」この短い箇所に、「造る」creatということばが、何度も出てきます。天と地も、見えるものも見えないものも、天使たちも、御子にあって造られたということです。つまり、御子は宇宙全体を創られた神であるということです。「では、御子はだれが造ったんだ?」という質問が出るかもしれません。パウロは「すべての造られたものより先に生まれた方である」と言っています。「先に生まれた」とは、ギリシャ語で「プロトートコス」であり、「生まれるという概念はほとんどなく、最初の者、第一の者」という意味があります。さらに、「万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」と書かれています。このところでは、父なる神のことは全く言われていません。「万物は御子によって造られ、御子のために造られた」となっており、御子が創造の究極的な目的になっています。しかも、この宇宙を創造後も保持しているというのです。「そんなに高めて良いのだろうか?」と思うくらいです。私たちは人となられたキリストを福音書から見ることができますが、そんなに大きなお方とは思えません。しかも、「キリストが地上に来る前は、どうだったのか?」ということが分かりません。ただし、ヨハネ福音書の書き出しはコロサイ1章と似ています。ヨハネ1:1-3「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」ヨハネは受肉前のキリストを「ロゴス(ことば)」と言っています。「ロゴスなるキリストがすべてのものを創造したのだ」とコロサイと同じことを述べています。当時の異端はキリストの存在は認めていましたが、「最初の者、第一の者」というところまでは高めていなかったようです。

 また、哲学的な異端のもう1つの特徴は、霊的な知恵と知識というものを極端に求めていました。おそらく、キリストの教えは薄っぺらくて、深い知識に欠けていると思われていたのでしょう。紀元60年前後は、新約聖書がまだ完成していませんでした。福音書に記されているような「イエス伝」みたいなものは、あったかもしれません。しかし、神学的な教えが普及していなくて、どうしてもこの世の哲学の方が上回っているように思われたのでしょう。彼らは「キリスト教会は、哲学的な知恵と知識をもっと得るべきだ」と主張したと思われます。これに対して、パウロはこのように書き送っています。コロサイ1:25-27「私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」奥義はmysteryと言いますが、パウロは「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた」と言っています。哲学というものは、人間の知性や理性を基準にしています。理性で認められないものは、真実ではないのだとまで言うでしょう。でも、被造物である人間が、創造者である神のことを知り得るのでしょうか?パウロは、奥義ということばを何度も用いていますが、それは隠されているもので、神が明らかにしてくれてはじめて分かることなんだと言っています。奥義が明らかにされることを、神学的には啓示と言います。啓示はrevelationと言いますが「ベールをはがす、ベールを取り除く」という意味から来ています。つまり、人間の知性や理性では神さまのことを計り知ることはできないということです。神さまがご自身のことや奥義を、私たちに開示してくれてはじめて分かるのです。ですから、キリスト教は人間が探究したものではなく、啓示の宗教と言うことができます。

 ところが紀元後16世紀、イギリスで「理神論」という考えが起りました。それは「神が万物を創造したときに法則を与え、現在はタッチしていない」ということです。理神論とは、簡単に言うと時計仕掛けの宇宙論です。その後、「天動説ではなく、地動説なんだ」とローマ・カトリックの考えが覆されました。さらにはニュートンが太陽系の惑星の模型を作り、「このように神の手を離れ、宇宙は自動的に動いているのだ」と言いました。続いて、17世紀・18世紀は啓蒙主義思想が起り、人間の理性が強調されました。19世紀は聖書が批評学のメスに切り刻まれ、進化論もそれに拍車をかけました。完全に神の創造と、神のことばが否定されました。その時に起きた新正統主義が「聖書にたとえ誤りがあっても、キリストの信仰を与えれば良い」と主張しました。そのため、宗教と自然科学は完全に分離されました。人々は「宗教が霊的なことを追い求めることは結構だが、自然科学には口出ししないでくれ!」と言ったのです。現在も公立の学校では進化論を教え、宗教を持ち込むことは禁じられています。

 パウロは何と言っているでしょうか?コロサイ1:16-17「万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」キリストがこの宇宙を創られただけではなく、今もそれを保持しているという意味です。イエス様がヨハネ福音書で「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(ヨハネ5:17)と言われました。マタイ福音書には「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」(マタイ6:26)と書いてあります。つまり、「父なる神さまが、空の鳥を養っておられる」という現在形です。ですから、この宇宙が神の手を離れて、自動的に動いている、あるいは進化しているというのは間違いです。ダーウィンが唱えたように、生物は進化していません。確かに環境に適応するために、腫の中で進化はしているでしょう。でも、腫を乗り越えるような、進化はしていません。生物の細胞の中あるDNAは進化しているのではなく、むしろ保持しているのです。創造主が創られた設計図とその情報をそのままキープしているのが真実です。人間は自分たちの理性を神よりも上に起きました。これが哲学が犯した罪であります。ローマ1:21「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」人類は進歩していると言いますが、神を離れた人類はむしろ破滅に向かっているのです。私たちは知性や理性ではなく、啓示によって神を知ることができるのです。さらに、キリストを信じることによって救われ、神さまと結びつくことができるのです。

2.神秘主義的な異端

 神秘的主義な異端とは、過度に霊的な体験を求めるものです。あらゆる宗教に共通していることは、何等かの儀式を通して、超自然的な体験をすることです。パウロの時代はギリシャ的なものから、ユダヤ教的なものまで、霊的な経験を強調するものがあったようです。そのことを示唆しているみことばがこれです。コロサイ2:16-18「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって…」とあります。一概に神秘主義的とは言えませんが、ユダヤ教からくる「食べ物や飲み物、あるいは祭りや新月や安息日」についての規定があったようです。また、「自己卑下や御使い礼拝、幻を見ること」というのは、神秘主義に傾いているかもしれません。その後の21節~23節までは「つかむな。味わうな。さわるな、自己卑下とか肉体の苦行」ということが書かれていますが、ストア派の禁欲主義から来ているものと思われます。どんな宗教も、守らなければならない規定や戒律があります。また、どんな宗教も祭りとか特別な日というのが設けられています。人間がそういうことに参加し、また規定を守ることによって、神さまから受け入れられているような気がするのでしょう。私たちキリスト教会も、クリスマスとかイースター、ペンテコステをお祝いします。結婚式や葬儀、故人を偲ぶ召天礼拝があります。また、洗礼式とか聖餐式があります。だれかを任命するとき、任職式というのがあり、手を置いて祈ります。教会によっては、祈祷会や断食祈祷会とか徹夜祈祷会があります。私も最初の頃は、宗教ぽいと思っていましたが、40年も経ちますと、すっかり慣れてしまいました。しかし、できるだけ宗教ぽくならないようには努めています。礼服を着るのは最小限にとどめ、式文もほとんど使わないようにしています。

 パウロはこのことに対してどう述べているのでしょうか?コロサイ2:17「これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」これらのものというのは、16節にある「食べ物や飲み物、あるいは祭りや新月や安息日」についての規定です。つまり、いろいろな儀式や祭りはすべて影であり、本体はキリストであるということです。出エジプト記とレビ記には、律法や規定、祭儀的なことが記されています。また、何がきよくてなにがきよくないのか、何をしたら汚れるのか、何を食べて、何を食べてはいけないのか、たくさんの規定が記されています。しかし、それらはすべて影なのだということです。神学的には「予表」「型」とも言いますが、キリストご自身、あるいはキリストの贖いのことを示しています。それらは影なのですから、本体であるキリストが来られたら、不要となります。私たちは新約聖書のしかも、キリストの贖いが完成された時代に生きています。ですから、「食べ物や飲み物、あるいは祭りや新月や安息日」など、いろいろな儀式や祭りは不要なのです。私はこういうことを言っていますが、ローマ・カトリック教会にはたくさんの儀式や祭りがあります。そればかりか、「典礼暦」というのがあり、待降節、降誕節、四旬節、聖なる過ぎ越しの3日間、復活節、三位一体の主日、キリストの聖体、洗礼者ヨハネの誕生…もう、気が遠くなります。聖公会やルーテル教会は「教会暦」というのがあり、年間21日、特別な日があります。では、自己卑下や御使い礼拝、幻を見る、禁欲主義に対してはどうでしょうか?コロサイ2:20「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら」と言っています。さらに、コロサイ2:22、23「これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」パウロは、私たちはキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れた存在であると言っています。「この世のもろもろの霊」というのは悪霊です。御使い礼拝もそうですが、神秘主義的なものは、悪霊との交わりになっているのだということです。人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行もそうであります。仏教などの宗教には難行苦行というのがあります。断食をしたり、山に籠って、煩悩を断とうとします。しかし、その時だけで、あとでまた戻ってしまいます。私たちの肉はそんなことでは消えてなくなりません。私たちはキリストと共に死んで、キリストと共によみがえり、聖霊によって日々歩むしかないのです。答えはキリスト、中心はキリスト、生きるはキリストなのです。これは神秘主義でも儀式でもありません。生き方そのものです。人々は、本質的なものがないので、さまざな儀式とか規定に走るのです。

 現代のキリスト教会はどうでしょうか?かつてヨーロッパはキリスト教会が最も栄えたところです。ドイツ、イギリス、オランダ、スイスはプロテスタント教会が栄えました。また、フランス、イタリヤ、ポルトガル、スペインなどはローマ・カトリックです。ギリシャやロシアはオーソドックスです。しかし、現在はどうでしょう?歴史的な教会堂は観光地になっています。そればかりか、人が来ないので破産状態になり、バーになったり、イスラム教が購入しています。人々は教会に行かないで、オカルトや東洋の宗教に興味を抱いています。イギリスから『ハリー・ポッター』という魔術の本と映画が出ました。ほとんどの教会が同性婚を認めています。アメリカもその後を追っていますが、フリーメーソン、悪魔崇拝、魔術、オカルト、そしてニューエイジが流行しています。ニューエイジというのは、東洋の宗教と魔術を合体したもので、瞑想、降霊術、心理療法をしています。たくさんの漫画やゲーム、映画にはニューエイジが関わっています。すべてこのような宗教の背後には悪霊がいます。彼らは知ってか知らずか、サタンを礼拝しているのです。

 では、どうして人々は教会を離れ、まやかしの宗教や神秘主義に行ってしまったのでしょうか?第一は教会は形式的になり、福音に生きていないということです。第二は律法主義的になり「あれをやってはいけない、これをやってはいけない」と、道徳に成り下がったということです。第三は奇跡やしるしを排除して、知性に訴えるだけの教義や信条になりました。つまり、私たち教会が人々の魂の飢え渇きを満たしていないということです。人々は神さまを求めているのですが、私たちが生けるキリストを与えていないということです。さらには、聖霊も悪魔も認めず、悪霊を野放ししているということです。残念ながら、多くの教会が聖霊のみわざを強調しません。悪霊との戦いも皆無です。教会は眠ってしまいました。だから、リバイバルが必要なのです。リバイバルは霊的復興という意味ですが、眠っている教会が目覚めるという意味もあります。まず、クリスチャンが目覚め、その後に、未信者の人たちが聖霊によって救われるということです。まとめて言うなら、現代の教会が必要なのは、キリストの福音、聖霊によるみわざ、父なる神さまとの親しい交わりです。ヨハネ黙示録3章には、世の終わりの教会のことが記されています。それはラオデキアの教会です。黙示録3:15-17「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。」ラオデキアの教会はなまるぬい世の終わりの教会を象徴しています。しかも、イエス様を教会から締め出しています。黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら…」というみことばが、伝道のためよく用いられます。ところが、このことばは、イエス様を締め出しているラオデキアの教会に「だれでも、私の声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とイエス様がおっしゃっているのです。キリスト教は宗教ではありません。最も重要なことは、キリストを心の王座に迎え、キリストと共に生活することだと思います。

 きょうは、哲学的な異端と神秘主義的な異端について学びました。実はこの2つは両極にあるものです。リベラルの教会は、聖書を学問的に学ぶので、行き過ぎると哲学になっています。一方、ペンテコステ系の教会は霊的体験を重んじますので、行き過ぎると神秘主義になります。真理は常に真中にあります。もちろん私たちは信仰生活において、極端に走ることがあります。極端な中に、すばらしい真理を発見することもあります。でも、行き過ぎて極端の溝にはまると大変です。その前に、バランスをとって反対側に向かいます。「学問を追求するか?」「霊的体験を追求するか?」実は両方とも追求すべき事柄なのです。ですから、時には哲学の方に傾き、時には神秘主義の方に傾くこともあります。信仰において、もっとも重要なお方はキリストです。キリストがあらゆることのテーマであり、中心であるということです。そうすれば、異端の溝にはまることはありません。何故なら、キリストがかしらであり、第一のお方だからです。コロサイ2:9,10「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです」。