2023.7.16「喜びなさい ピリピ4:4,5」

ピリピ人へ手紙には「喜び」、あるいは「喜べ」という言葉が16回も使われています。この手紙がローマの獄中で書かれたとは思われません。一般的に私たちの喜びは、環境や状況によって左右されます。簡単に喜べないようなことが、たくさんあります。喜びを阻むものを4つ取り上げたいと思います。そして、そういう状態で、パウロがどうして喜べることができたのか、その秘訣を学びたいと思います。

1.この世

私たちの喜びを阻むものはこの世です。この世とは、神に敵対している悪魔的な世界です。イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)とおっしゃいました。思い起こせば、パウロのローマ行きは不当なものでした。エルサレムでユダヤ人から訴えられました。その後、パウロはカイザルに上訴したために、ローマまで護送されました。カイザリヤでは2年間、牢に閉じ込められたままでした。エーゲ―海ではユーラクロンという暴風に巻き込まれ、船が難破し、九死に一生を得ました。やがてローマに着きますが、最初は使徒28章の後半に記されているように比較的、自由な環境だったようです。テモテの手紙を見るかぎり、パウロはローマでの裁判の時、福音を十分に述べることができたと思われます。しかし、最後は地下の排水溝のような劣悪な環境の中で捕えられていました。エパフロディトと言う人物が彼の面倒をみていましたが、彼自身が病気になってピリピに送り返されようとしていました。この手紙は獄中からパウロが書いたものです。伝承によれば、パウロはネロ皇帝によって首をはねられたと言われています。ローマ市内の大火災の責任をなすりつけようとして起こした紀元64年の大迫害の一部として執行されたようです。

 パウロはこのような不条理な中で喜ぶことができたのでしょうか?私たちはどうしても環境や状況によって左右されてしまいます。自分が思ったとおり物事が進めば喜ぶことができるでしょう。災いや事故、何かの妨げが起きた場合は喜ぶことができません。パウロは「ローマが悪い」「カイザルが悪い」「ユダヤ人が悪い」「環境が悪い」「神さまどうしてですか?あなたのために働いているのに?」と言えたはずですが、ピリピ人への手紙にはそのような不平不満は一言もありません。この世の人たちは、自分の罪を世の中のせいにします。評論家も「あの人のせいではなく、あのような人を生み出した社会が悪いんだ」と言ったりします。私は育った環境や人のせいにして生きてきました。ですから、感謝するとか喜ぶということは滅多になく、「ちくしょう、ちくしょう、何でだよ!」と、怒ってきました。「不当な扱い」というのが、私のテーマであり、歪んだ世界観でした。「不当な扱い」という色メガネをかけて生きているので、不当な扱いを受ける運命へと導かれていくようでした。もちろん、不当な扱いを期待しているわけではありませんが、結果的に不当な扱いを受けてしまうのです。明らかに呪いとしか言いようがありません。

 パウロがどのような状況の中でも、喜ぶことのできた秘訣な何だったのでしょう?パウロは「喜びなさい・・・主は近いのです」と命じています。主は近いというのは、主が共におられる。どんなことが起きても主のご支配のもとにあるということです。もう1つの意味は、やがて主が来られるという再臨信仰です。主が来られたら正しいさばきが行われ、報いられるからです。すばらしいことに、パウロはどんな状況の中でも喜び、キリストの福音を宣べ伝えるチャンスにしています。ピリピ1:12-14「私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」このところに、「親衛隊の全員」と書かれていますが、おそらくローマ兵であろうと思われます。信じる、信じないはともかく、彼らにも福音が届けられたのでしょう。その中にキリストを信じて救われた人を起こされたのではないかと思われます。その証拠となるものが、ピリピ4:22「すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています」という挨拶です。注解書には「このことばは、皇帝の近衛兵ばかりでなく、宮中で仕える役人、奴隷のすべてを意味し、さらにはすべてのローマ政府に属する働き人や奴隷をも含めてもちいられた」と書かれています。つまり、主にある喜びは伝染するということです。看守やローマ兵が「なぜ、そんな状況の中で喜べるのだろう?」と不思議がっていたことでしょう。しかし、パウロがだれかに話している福音を耳にして、「そうか、キリストなんだ。キリストのゆえなんだ」と理解するようになったのかもしれません。彼らはパウロがローマの獄中に捕えられなければ、福音を聞くことのできなかった人たちです。ハレルヤ!どんな環境や状況でも主にあって喜ぶなら、キリストの福音を証するチャンスになります。

 

2.人々

 私たちの喜びを奪うものは人々、人間です。パウロは獄中に捕えられていましたが、ピリピの教会のことがとても心配でした。ピリピ1章を見ますとこのようなことが書かれています。ピリピ1:15-17「人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。」ピリピには、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者がいました。彼らは純粋な動機からではなく党派心からキリストを宣べ伝えていました。パウロは鎖につながれていましたが、そのことを思うと苦しくなったようです。しかし、ねたみや争いから福音を宣べ伝えることが可能なのでしょうか?おそらく、自分たちが導いた人を増やして、派閥を広げようとしていたのかもしれません。まるで、政治の世界です。私たちはピリピの人たちを裁くことはできません。日本の教会はたくさんの教団教派に分かれていますが、自分たちの団体が大きくなることを願っています。1つの町や市にある教会も、ライバル心があり仲よくすることができません。しかし、良く考えたら同じキリストを礼拝し、同じ神さまを慕い求めています。パウロがそのようなピリピ教会のことを思って心を痛めているなら、イエス・キリストも日本の教会に心を痛めておられるでしょう。私たち教会は、この世の企業とは違います。車も家電製品も携帯会社も競い合っています。小笠原牧師がセルチャーチでよくおっしゃっていました。「あなたの成功は私の成功、私の成功はあなたの成功」と。キリスト教会においては、主にあって共に喜ぶということが大事です。パウロはどのように思っているのでしょうか?ピリピ1:18「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」パウロはどちらにしても、キリストが宣べ伝えられているのですから、そのことを私は喜ぶと言っています。パウロの願いと喜びは福音が宣べ伝えられ、人々が救われることだったのです。

 もう1つのグループはパウロに敵対する人たちです。ピリピ3:1-3「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」パウロは「主にあって喜びなさい」と命じながら、すぐその後に、「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい」と警告しています。文脈から察すると、割礼を強要するユダヤ教徒たちのことでしょう。彼らは自称クリスチャンであったとしても、救いを得ていない人たちです。ピリピ3:18,19「今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」ただ救われていないだけではなく、キリストの十字架の敵として歩んでいる人たちがいました。彼らは十字架の救いを否定する人たちです。その代り、割礼を受け、モーセの律法を守ることを救いの条件としていました。パウロはかつて彼らと同じ信仰を持っていました。「私は八日目に割礼を受け…きっすいのヘブル人、律法についてはパリサイ人…しかし、キリストにゆえに損と思うようになった」と述べています。

 つまり、パウロの心に苦しみを与える人たちとは、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者たち、そして割礼を強要する犬どもでした。パウロはすぐにでもピリピに飛んで行きたいと思っていたでしょう。でも、それが叶わないので、イライラする誘惑に駆られたのではないでしょうか。でも、パウロは喜んでいました。なぜなら、ピリピの教会の人たちがパウロが投獄されても、恐れることなく、大胆に神のことばを語っているからです。また、ピリピの人たちは反対者たちに驚かされることなく、心を一つにして福音の信仰のために、共に奮闘していることを知ったからです。パウロが一緒にいれば、どうしても甘えてしまうでしょう。しかし、霊の父パウロが捕らわれの身になっているので、かえってそれが励みになったのです。私たちの信仰に敵対する人たちもいますが、私たちと一緒に信仰の火を燃やす友もいます。私たちは敵対する人たちに「何故なんだ」と、無駄なエネルギーを費やしてはいけません。イエス様やパウロの時もそうでしたが、そういう人たちはいるのです。それよりも私たちは十字架のもとに結集して、私たちと共におられる主を喜ぶべきなのです。

 

3.死の恐れ

 私たちの喜びを消し去るのは、死の恐れではないでしょうか?パウロは牢獄に捕えられ、いつ殺されるか分からない状況でした。でも、パウロはこのように述べています。ピリピ1:20-23「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」パウロはどちらかと言うと、世を去ってキリストのもとにいることです。言い換えると死んで、イエス様のところに行く方が幸いであるということです。でも、パウロは、「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」と述べています。パウロの究極的な目的は、自分の身によってキリストがあがめられることです。そのためだったら、死んでも生きても、どちらでも良いということです。死ぬことによってキリストがあがめられるなら、死んでも良いとなんて、「すごい」としか言いようがありません。なんという死生観でしょう。大体、殺される場合でも、事故か病気か寿命で死ぬときも、死はあまり格好の良いものではないでしょう。パウロは首を切られて殉教しましたが、恐ろしくて身が縮みます。でも、そのような死を乗り越えられる信仰というのはすばらしいと思います。

 パウロは「死ぬことは益です」と言っています。一般的に、死は喪失であり、すべてのものを失う、最も恐ろしいことでしょう。それなのに、死が益になるのでしょうか?イエス様はヨハネ12章でこのように言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)このみことばは、イエス様ご自身のことをおっしゃっています。イエス様が死ぬことによって、多くの人たちが救いを受けるということです。豊かな実というのは、救われた私たちのことをさしています。イザヤ書53章はキリストの受難を預言している書物として知られています。イザヤ53:11「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う」とあります。確かにキリストの十字架は激しい苦しみでありました。しかし、そのあと満足すると言われています。なぜなら、そのことによって多くの人が義とされるからです。このような贖いの死はイエス・キリストだけです。そして、その後、キリストのために死ぬ人を殉教者と言います。ですから、パウロの死は殉教の死です。贖いの死ではありませんが、パウロが死ぬことによって豊かな実を結ぶ、利益となるということは共通して言えることです。ローマの迫害の時は、数えきれない人たちが殉教死しました。ところが、人が殉教すればするほど、多くの人たちが救われました。最終的にキリスト教はローマの国教になりました。テルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子である」と言いました。

 私たちのだれかが、殉教するかどうかは分かりません。私は、できれば、殉教したくないです。でも、その時が来たなら、そのような信仰を神さまが下さると信じます。パウロは本当は死んでイエス様のところに行きたいのですが、「この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です」とも言っています。つまり、生きていていることがピリピ教会のためになるなら、まだ生きているということです。「使命」という日本語は、命を使うと書きます。すばらしい漢字の二文字だと思います。私たちも生きているのは、何か使命が残されているからです。使命がなくなったら、主のもとに喜んで行きます。アーメン。このような身軽な生き方をしたいです。でも、「老後、寝たっきりになったらどうしようか?」と心配しているかもしれません。あるおばあちゃんが、「年とって体も動かないので、何の奉仕もできまません。ただ、祈ることしかできません」と言ったそうです。それに対してある伝道者が、こう答えたそうです。「それは、私はマシンガンも手りゅう弾もありません。持っているのはミサイルだけです」。信仰生活は悪魔との戦いです。そして祈りは悪魔が最も恐れるものです。パウロは「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(エペソ6:20)と願っています。寝たっきりになって、たとえ口がきけなくなっても、最大の攻撃の武器であるとりなしの祈りができます。この世の人たちが、死ぬのが怖いのは死後どこへ行くかわからないからです。私たちがこの地上の使命が終えると行くところがあります。たとえ、肉体が滅んでも、栄光の復活があるので安心です。ピリピ3:20,21「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」アーメン。

 

4.乏しさ

 私たちが喜べないのは、どのような時でしょうか?お金がないとき、食べ物や着る物がないときではないでしょうか?娯楽やレジャーはお金がないときは諦めるでしょう。でも、あす食べる物すらないときであっても喜べるでしょうか?みなさんは、そのようなギリギリの生活を過ごした経験はおありでしょうか?まず、パウロはどのような生活をしていたのが調べたいと思います。ピリピの教会の人たちは、パウロのために必要なものを送っていたようです。ピリピ4:15-18「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」ピリピの人たちは、パウロたちの宣教活動のために献金をしていました(ピリピ4:15)。現在、パウロは、獄中に捕えられて、自由がありません。そのため、エパフロディトという人物がピリピからの贈り物をパウロのもとに届けていたようです。パウロだけではなく、ルカやテモテも一緒にいたかもしれません。パウロは捕えられていても、方々の教会に手紙を書き送り、まわりの人たちに伝道をしていました。ピレモン書という獄中からの手紙がありますが、オネシモという人物を導いています。ですから生活や宣教活動のためにも、お金や物資が必要であったと思われます。パウロは「それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です」と言っており、ここにも「喜び」ということばが用いられています。人間ではなく、神さまが喜んでいて下さるということです。

 もう一箇所、お金や物資に関する「喜び」が出てきます。ピリピ4:10-11「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。」パウロはピリピの人たちが、パウロを案じていること、そして具体的な必要を与える心がよみがえってきたことを喜んでいます。小さな子どもは親からいただく一方です。親は自分がもらうことなど期待していません。でも、子どもが大きくなり、逆に与えるようになったら、親はどんなに喜ぶでしょうか?ピリピの人たちは成長し、パウロの宣教を助けるために、与える人になったのです。最後に、パウロの金銭や物質に対する信仰を私たちは見倣うべきであります。ピリピ4:12-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」多くの人たちは、13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」しか見ません。でも、「富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣」が何かという答えなのです。その答えは、私を強くしてくださるキリストのゆえに、どんな境遇の中でも満足して生きることができるのです。私たちの満足と喜びの秘訣は何でしょう?もう一度、確かめたいと思います。「いつも主にあって喜びなさい。…主は近いからです。」