少し前に、ローマ人への手紙6章から「古い人がキリストと共に十字架につけられたので、アダムから受け継いでいた罪が断ち切られた」ことを学びました。しかし、「聖化には続きがあります」と予告しました。なぜなら、私たちの体に罪の残骸が残っているからです。禁酒法のたとえで言うなら、十字架によって罪の工場は破壊されましたが、酒瓶や樽のようなものが体のどこかに隠されているからです。それを聖書はそれを「肉」と呼んでいます。ウィットネス・リー著『命の経験後編』には肉には三種類あると書かれています。その訳が少し古いので、ところどころ現代風に言いかえました。私は肉を、「罪性、自我、才能」の3つに分けて語りたいと思います。
1.罪性(罪の性質)
アダムからの原罪は共なる十字架によって断ち切られました。クリスチャンはキリストを信じたときに、死からいのちに移された存在です。しかし、私たちの魂と肉体には、罪のかけら、罪の性質が残っています。そのため、教会では「天国に行くまで、罪をできるだけ犯さないようにキリストに留まりましょう」と勧めます。もちろん、御霊によって歩むなら、罪を犯さないで歩めるという保証があります。このことはガラテヤ書2章で学びました。でも、ガラテヤ書を読んで行くと「十字架」ということばが2回出てきます。ガラテヤ5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」もう一箇所、ガラテヤ6:14 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」とあります。前者は、肉が情欲や欲望と並べられています。ですから、肉は汚れとか腐敗という、罪の性質であろうと思います。後者には、「世」と書かれています。世というのは、神に敵対している世界のことです。私たちはこの世に生きている限り、様々な誘惑に会い、時には罪を犯してしまいます。Ⅰヨハネ2:16「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです」と書かれています。パウロは「十字架につけた」とか「十字架につけられて」と言っています。ローマ6章とガラテヤ書2章にも書かれていますが、私たちの古い人は十字架につけられて死んだはずです。ところが、それで終わっていません。私たちの方からも十字架につけるべきものがあることを暗示しています。
ローマ6章には、「神さまが私たちの古い人を十字架につけた」ということが書かれています。罪のからだが滅び、その機能を失ったことを知らせてくれます。これは客観的な事実であり、私たちは信仰によって受け止めれば良いのです。でも、どうして、私たちの内には罪があり、機会があれば罪を犯してしまうのでしょう?ある人は「それは十字架の経験をしていないからだ。きよめられていないからだ。古い人が死んだということを心底、認めなければならない」と言うでしょう。罪の根絶説というのがありますが、私は信じません。なぜなら、罪は雑草のように生えてくるからです。私は天国に行くまで完全にはなくならないと信じます。では、どうしたら良いのでしょう?それは聖霊の助けによって、私たちの罪の性質、すなわち肉を十字架のつけるのです。ウィットネス・リーはこの述べています。「ガラテヤ5章24節のみことばは、主が私たちの肉を十字架につけたと言わないで、私たち自身が肉を十字架につけたと言っています。この事から、私たちは率先して肉を十字架につける責任があることを見出します。古い人を十字架につけるのは神の責任であり、肉を十字架につけるのは私たちの責任です。ですから、ガラテヤ5章24節で言っているのは、私たちが肉を十字架につけたという主観的な経験をさしています。」
かなり前に「エリヤハウスの祈りのミニストリー」を学んだことがあります。エリヤハウスは「悪い実がなるのは、根が原因である。悪い実をたどっていくと、悪い根が見つかる」という考えがあります。「悪い根」というのが、肉であり、罪の性質です。どんなものがあるかと言うと、父母を敬わないこと、さばく気持ち、偽りと誓い、傷ついた霊、家系の罪などがあります。それらをどのように変えていくかというのに5つのステップがあります。第一は認識、自分にはこのような罪があることを認めるということです。第二は悔い改めです。Ⅰヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」このみことばは、クリスチャンになった人に対するものです。罪を発見したら、その都度、神さまの前に告白するのです。「告白」のギリシャ語は「ホモロゲオウ」ですが、お詫びという概念はなく「同じことを言う」という意味があります。ヨハネ黙示録3:19「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」と命じられています。救われるために罪を悔い改める必要はありませんでしたが、救われた後、悔い改めが必要なのです。何故なら、救われる前は霊的に死んでおり、罪が何かも分からなかったからです。第三は赦しです。そのとき赦すべき人がいたら赦すということです。第四は「十字架につけて死なす」です。これが、ガラテヤ5章が述べていることと共通しています。私たちが主体的にその罪を十字架につけるのです。そうすると、十字架が罪の根っこを死なせてくれるのです。十字架には罪を殺す力があるからです。第五は「新しいいのちが与えられるように祈る」です。普通の教会は「悔い改め」で終わります。罪を認めて、それを十字架につけるのです。そうすると、復活のいのちが与えられるのです。復活のいのちとはキリストにある新しい性質です。
コロサイ3章でも同じことが述べられています。コロサイ3:5「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。」まさしくこれは、十字架につけて死なすということです。その先もあります。コロサイ3:12,14「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。…そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。」アーメン。罪の代わりに、キリストの品性が着せられるということです。聖歌701「いかにけがれたる者の心をも、きよめたもう主は、げにほむべきかな。罪汚れはいやますとも、主の恵みもまたいやますなり」です。
2.自我
人間はだれしも自我を持って生きています。しかし、この自我が神さまの御声に逆らうほど、頑固だしたらどうでしょう?アダムとエバが食べてはならない木から食べたとたん、「ふたりの目は開かれました」(創世記3:7)、これは霊が死んで、魂が肥え太ったということです。言い換えると神さまに聞こうとしないで、自分の魂で善悪を判断するということです。堕落以来、人間は神さまから独立し、自分の考えや力で生きるようになりました。クリスチャンはキリストを信じることによって霊的に生まれ変わりました。しかし、魂が生まれ変わったわけではありません。霊的な成長とは、頑なな魂が砕かれ、神さまに聞き従うようになるということです。この意味は、自我をなくすということではありません。私たちの魂は、自ら考え、感じ、選択するように造られています。しかしクリスチャンになっても自己中心、自己義認、自己保身という肉が温存されているのです。いわばこれは、本能みたいなものであります。一体、どうしたら良いのでしょうか?イエス様はルカ福音書でこのように言われました。ルカ9:23「「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」ローマ・カトリックでは、十字架を苦しみと解釈しますが、そうではありません。イエス様が十字架を負われたのは十字架にかかって死ぬためでした。同じように、「自分の十字架を負う」とは、自分自身が十字架にかかって死ぬ準備ができているということです。自分というのが、魂であり、自我なのです。しかも、一回限りではなく、ルカは「日々」と言っています。私たちの自我はゾンビのように、むくむくと頭をもたげて神さまに逆らおうとします。だから、魂は、日々、十字架につけられなければならないのです。そうすれば、新しいいのち、神のいのちが湧き上がってきます。
ウィットネス・リーは自我を「己れ」と言っており、「己れ」の特徴についてこのように述べています。己れとは、人間の思想や主張に重きを置いた魂の命です。己れで満ちている人は、多くの考えや意見を持っています。旧約聖書ではヨブです。聖書全体で最も多く語った人はヨブです。神は環境によって彼を苦しめ、また4人の人の友人を按排することによって彼の内にあるすべての言葉を引き出されました。彼には彼の意見や主張があって、他の人の見解には従おうとしません。彼は自分は何も間違ったことをしていない、罪や、この世や、あるいは良心を対処する必要などないと感じていました。ですから、彼は自分の胸をたたいて義なる方と論じたいと願ったのです。確かにヨブの問題は、罪や、この世や、良心ではありません。真の彼の問題は彼自身です。彼の砕かれていない己れが、神を知ることを妨げている、それが彼の問題です。己れで満ちている人はいつも教会に多くの困難をもたらします。今日キリスト教の中でこんなに多く分裂している分裂の理由は、人の罪やこの世的なことだけではありません。それ以上に人の己れによります。多くの人たちが兄弟姉妹を助けることによって主に奉仕しています。しかし、本当のことを言えば、彼らは自分の考えや意見や見解や方法に、他の人が従って来ることを願っているのです。その結果、今日の教会は数多く分裂しています。マルチン・ルターは「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる、それは私の己れだ」と言いました。教会の中で、己れが砕かれていないなら、ひとり一人が法王となり、ひとり一人が1つの宗派となるでしょう。
ウィットネス・リーはさらに続けてこう述べています。「聖書では、ペテロも己れに満ちている人の見本として出てきます。彼は最もおしゃべりで意見の多い人でした。彼が意見や考えを現さなかった話題は1つもありません。マタイ16章の己れを否むという教えも、ペテロのゆえに語られました。また裏切られる夜、主は弟子たちに言われました。「今夜、あなたがたは皆私に躓くであろう。『私は羊飼いを打つ。そして羊の群れは散らされるであろう』と書いてあるからである」。ペテロはこれを聞いたとき、彼の己れはすぐ引き出されて言いました、「たとい、みんなの者があなたに躓いても、私は決して躓きません」。その結果、ペテロは、主を三度も否み、大きな失敗をしました。これはペテロにとって、本当に砕かれることであり対処でした。」…このように述べられていました。私も己れが強い人です。よく文句を言っていました。悔い改めます。
マタイ16章に書いてあるイエス様とペテロのやりとりを見たいと思います。イエスさまは「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」と示し始められました。すると、ペテロはをわきにお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諌めました。イエス様は振り向いて「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。その後、イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました。イエス様が十字架にかかることは、神さまの御旨でありました。しかし、ペテロには意見があって「主よ、とんでもないことで」と主張しました。ですから、イエス様はペテロを叱り、彼が神のことを思わないで、人のことを思っていると言っておられます。もっと驚くべきことは、サタンがペテロの自我と意見の中に隠れていたということです。一見、イエス様のことを思っているようですが、ペテロは十字架を避けるようにというサタンの誘惑に加担したのです。だから、イエス様は「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ」と叱ったのです。聖書は罪がサタンに属するだけではなく、人が良いと考えている意見でさえサタンに属するものであることを示しています。しかし、このところに解決が示されています。イエス様はこの直後、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました。私たちの古い人は十字架につけられて死にました。しかし、イエス様は私たちが主体的に自我を十字架を適用しなさいと言われています。厳密には、「十字架につけなさい」ではなく「十字架を負いなさい」と命じられています。私たちの古い人は十字架につけられました、その十字架を負うということです。十字架を負うとは十字架から離れないということです。聖歌369「十字架のかげに」は、Jesus, keep me near the cross、「イエス様、十字架のそばにいさせてください」という意味です。
3.才能
肉の中には汚れた罪とか頑固な自我など醜いものばかりではありません、美しいものもあります。それは生まれつきの才能、能力、知恵、賢明さなどです。教会の人たちは「そういう人が奉仕者になったら、神さまに用いられるだろうなー」と思います。しかし、彼らのエネルギーの源は依然として古い人アダムから来たものであり、神さまからのもではありません。歌とか演奏が上手な人が賛美の奉仕をしたとします。音楽的には確かにすばらしいのですが、私たちの霊が呼応しない、喜ばないということがありえます。もともと雄弁な人が牧師になって、講壇から説教したとします。とても情熱的で、私たちを感動させてくれます。でも、霊的にとても淡泊で、乾いている場合もあるでしょう。私はクリスチャン生活を40年以上していますが、その人が歌や話がそんなに上手でなくても、感動したことがたくさんあります。その理由は、神さまがその人を用いておられることが分かるからです。そういう人が奉仕すると私たちの霊が喜び、霊が感動します。生まれつきの才能や能力はあった方がすばらしいとに決まっています。でも、そこに神さまの一撃、つまり十字架と復活がないと神さまの働きはできないのです。たとえその人が用いられても、栄光が神さまではなく、その人自身に向いてしまいます。この世の人たちはそれで良いと思いますし、文句を言われる筋合いはないでしょう。ただし、神さまに用いられたいと思うなら、生まれつきの才能が処理されて、聖霊が用いる器になるべきです。
ウィットネス・リーは生まれつきの才能を「天然の性質」と呼んでいます。「天然」と聞くと、テレビに出てくるタレントさんを連想するかもしれませんが、しばらく彼の本から引用させていただきます。「天然の性質について話そうとするなら、創世記に出てくるヤコブが最も適当な代表的人物です。ヤコブの記録は彼のずるさを指摘していると一般に考えられます。しかし実際ヤコブの全生涯の顕著な特徴は、彼の天然の努力と策略とです。彼は有能で策略にたけ、計画に富み、非常に才能があり、大の手腕家でした。母の胎内で、彼はエサウのかかとをつかんで最初に出ようともがきました。彼は成長したとき、有利な地位を得ようと賢くたちまわりました。彼は陰謀を使ってエサウから長子の権をだまし取りました。その後、賢い策略で父から長子の祝福を得ました。彼がおじのラバンのもとにいた間も、自分の天然の能力によって策略と手腕を用いました。やがて彼は、多くの群れ、しもべ、はしため、らくだや、ろばを得て非常に富む人になりました。ヤボクの渡しで、神はヤコブのもものつがいにさわって彼を対処されました。それによって彼は足をひきずるようになりました。しかし川を渡って後、兄エサウに会うとき、彼は自分の手腕と陰謀を遂行しようとしました。前もって自分で作った計画にしたがって、彼は民、羊の群れ、牛、らくだを2つの組に分け、自分の愛する妻とむすこヨセフを最後に置き、万一攻撃されても彼らは逃げることができるように取り計らいました。」
本来なら、私が聖書から述べるべきですが、彼が述べていることがあまりにも的を得ているので、さらに引用を続けたいと思います。「天然の性質の対処のことを聞いて、ある人々は、神は私たちの能力や才能を必要としないのかと考えます。この概念は間違っています。神に用いられるためには、私たちには確かに能力や才能が必要です。聖書の啓示から、地上での神の働きは人の協力を必要とすることははっきりと見ることができます。人が能力や才能を持たないで神と協力することは不可能です。木や石が神と協力できないように、愚かな無能な人は神と協力できません。賢い人は神の前に役に立たないと言いますが、いいかげんな人はそれよりも悪いのです。幾世代を経て神に用いられてきた人々は、すべてこの世から獲得された有能な人々でした。モーセは才能、洞察力、知恵、聡明さを備えた人であったことを認めなければなりません。ですから神は彼を用いて、イスラエル人をエジプトから救い出すことができました。さらに彼を通して、旧約聖書の中で最も重要な書、すなわちモーセ五書が書かれました。またパウロも偉大な教養と豊富な思想を持った有能な人であったことを認めなければなりません。ですから彼は神から啓示を受けて、新約聖書の中で深く高い真理を書くことが出来ました。霊的な働きの最大の原則は人が神に協力することです。神は何でもすることができますが、すべてのことにおいて神は人の協力を必要とされます。何もできない人、何も知らない人や無能で何もやる気のない人々は神に用いられるはずがありません。」
その点、聖歌は人を下げ過ぎていると思います。聖歌613「虫にも等しき、者のために、主はかくもむごき目にあいしか」。聖歌522「地の塵にひとしかり、何ひとつとりえなし、今あるはただ主の愛にいくるわれぞ、み救いを受けし、罪人にすぎず、されどわれ、人に伝えん、恵み深きイエスを」。気持ちは分かりますが、この賛美は神学的にも間違っています。私たちは赦された罪人以上の者、義と認められた、神の子だからです。さらに引用を続けたいと思います。しかし、神は、単に天然の有能な人を用いることはできません。天然の人は砕かれない限り神にとっては妨げです。それは砕かれなければなりません。それは神に用いられるためには砕かれ、死を通過し復活しなければなりません。天然の能力は未加工の鉄に似ています。未加工の鉄はあまりにも固くてもろいので使用に適しませんし、容易に折れてしまいます。復活した能力は、堅いけれども順応性があり、使用に適していて容易に割れない錬鉄のようです。ですから神は無能な人を用いることもできないし、有能であっても砕かれていない人を用いることもできません。神によって用いられる人々は、有能でしかもその能力が砕かれた人々です。幾世代を通して神に用いられた人々を調べてみれば、ほとんどすべての人々は有能で、精神力が豊かで、洞察力と賢明さとを持った人々であり、同時に神によって砕かれた人々でした。
きょうは「肉」について学びました。最後にローマ8章から引用したいと思います。ローマ8:6-8「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」聖霊の交わりの中で、私たちの肉が十字架によって処理され、復活のいのちに生かされるなら、神さまの栄光を豊かに現すことができると信じます。アーメン。