「ガラテヤ人への手紙」は「ローマ人への手紙」の短縮版と言えます。律法からの解放についてはローマ7章に書いてありましたが、ガラテヤはほとんどがそのテーマで書かれています。これをたった1回で語ろうとしているのですから、無理があるかもしれません。さらには、異邦人である日本人には、律法はなじみがないので、これまた問題です。しかし、ガラテヤの教会も異邦人であり、恵みによって救われました。後から律法がやってきて、大変なことになりました。
1.パウロの福音
ガラテヤ1:8「しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。」パウロは大変怒っています。なぜでしょう?後から入って来た人たちが、パウロたちが宣べ伝えた福音を排除して別のことを宣べ伝えたからです。パウロは第一次伝道旅行で、小アジアに福音を宣べ伝えに行きました。その後エルサレム会議があり、異邦人は割礼や安息日を守ることなく、信仰のみによって救われるという決議が下されました。さらにパウロは第二次伝道旅行に行きました。第一もしくは第二伝道旅行のときにガラテヤ教会が生み出されたものと思われます。パウロは「私たちが宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝える者はのろわれるべきである」と激しい口調で述べています。では、本当の福音とは何なのでしょう?
まず、第一にパウロが伝えた福音は人間によるものではなかったということです。ガラテヤ1:12「私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」続いて、パウロは自分が回心した時のことを述べていますが、パウロはいつ啓示を受けたのでしょうか?ずっと見て行くと、エルサレムにいるペテロや他の使徒たちから受けたのではないようです。パウロはダマスコの途上で、復活のイエスと出会って地に倒れました。その後、アナニヤから祈ってもらいましたが、その時「異邦人の使徒になる」という召命を受けました。使徒の働きを見ると、回心後、ダマスコの教会やエルサレムの教会にも行きました。しかし、教会の人たちからは恐れられ、ユダヤ人たちからは裏切り者として命を狙われました。その後、パウロはアラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。私はアラビヤかダマスコにおいて、福音に関するキリストの啓示を受けたのではないかと思います。そのことは、Ⅱコリント12章に記されています。Ⅱコリント12:2「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。」パウロは、「その啓示があまりにもすばらしかった」と証言しています。パウロはその後、アンテオケ教会に教師として招聘を受け、バルナバとともに伝道旅行に出かけました。その時か、あるいは第二伝道旅行のとき、ガラテヤの教会が誕生したのだと思われます。このことは聖書学者たちが今でも一致を見ません。とにかく、パウロが受けた福音はキリストから直接、受けたものでした。
第二のパウロたちが宣べ伝えた福音の特徴とは何でしょうか?ガラテヤ2章の半ばに記されていますが、信仰義認による福音です。ガラテヤ2:16「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」このみことばと同じようなことが、ローマ3章にも記されています。信仰義認が語られており、マルチン・ルターがこの書物をこよなく愛した理由でもあります。この16節に同じことが3回も繰り返されています。「人は律法を行なうことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」と三度繰り返されているだけで、説得力に欠けているように思われます。その理由が、3章、4章と長々と説明されていますが何でしょう?短く言うなら、律法は守るために人間に与えられたのではなく、律法は破るために与えられたのです。つまり、律法によって「あなたは罪があり、不完全ですよ」ということを悟らさせるためです。その結果どうなるのでしょう?人は自分の行いによる救いを諦めて、キリストのところに向かいます。ガラテヤ3:24「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」アーメン。律法はキリストに導く、養育係だったのです。自分の行いに絶望した人は幸いです。キリストに出会うことができるからです。
第三にパウロたちが宣べ伝えた福音は、御霊の裏付けがあったということです。ガラテヤ3:2「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」さらに、ガラテヤ3:4、5「あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。」この2つの節から言えることは、ガラテヤの教会の人たちは、パウロから福音を聞いて、イエス・キリストを信じました。そのとき聖霊が彼らの中に入って新生したということです。しかし、それだけではありません、おそらくパウロは彼らの上に手を置いて祈ったのではないでしょうか?すると上からも聖霊が注がれ、御霊による賜物が現れたのではないでしょうか?だから、「あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか?」とパウロが問うているのです。
このように、パウロたちが宣べ伝えたのは人間によるものではなく、神からの啓示であったということです。また、律法による行いではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められ救われるということです。さらに、信じた者には聖霊が与えられます。エペソ1章には「聖霊の証印」と言われています。つまり、聖霊が「あなたは神の子であり、御国を受け継ぐことができる」と確証を与えてくださるということです。この世にはたくさんのニュースが飛び交っています。しかし、パウロの福音は人を新たに生まれ変わらせる救いのグッド・ニュースなのです。
2.愚かなガラテヤ人
第二のポイントは、ガラテヤの人たちは、なぜパウロの福音から離れてしまったのかという理由を調べてみたいと思います。ガラテヤ3:1-3「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤの教会の人たちは、キリストを信じて新生し、聖霊による奇跡的な体験をしたと思われます。それなのに、パウロが宣べ伝えた福音から離れてしまったのです。パウロは「だれがあなたがたを惑わしたのですか」と嘆いていますが、だれが、別の福音を宣べ伝えたのでしょうか?パウロは以前、エルサレムに上った時、そういう人たちと出会ったことがあったようです。ガラテヤ2:4「忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。」彼らはユダヤから下ってきて「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていたようです(使徒15:1)。ヤコブによって異邦人の信仰義認が議決されました。ところが、ペテロはその後、彼らを恐れて、一緒に異邦人と食事をしなかったようです。そのことをパウロは面と向かって彼に抗議しました(ガラテヤ2:11)。それだけ、割礼を主張するユダヤ人が怖かったということです。
では、キリストを信じるだけではなく、割礼をはじめとするモーセの律法を守らなければ救われないとなるならどうなるのでしょう?それはキリストの十字架の贖いでは、足りないということです。律法を守るというのは、人間の行いをプラスしなければならないということです。どういう意味かと言うと、一度、完成した建物を再び壊してしまうということです。その結果、旧約聖書に逆戻りし、「まだ、だめだ」「まだ、だめだ」という律法の奴隷になってしまうでしょう。ガラテヤ3:12,13「律法は、『信仰による』のではありません。『律法の掟を行う人は、その掟によって生きる』のです。キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」律法ののろいとは、掟にしばられて奴隷のように生きるということです。なぜなら、律法は完全を求め、1つでも欠けているなら「罪あり」と告発するからです。罪を犯さない完ぺきな人はこの地上に一人もいません。ところが、唯一、神の子イエス様が律法のもとで誕生させられ、律法を全うしました。そのお方が律法の呪いとなって十字架につけられました。その結果、キリストを信じる者は律法ののろいから贖い出され、アブラハムの祝福を受けることができるのです。なぜなら、信仰の父アブラハムも「主を信じて義とされた」という信仰義認の人だったからです。信仰による義人は生きるのです。
しかし、キリスト教会ではどうでしょう?カトリック教会を除いて、ほとんどのプロテスタント教会は「信仰義認」の教理に立っています。キリストを信じることによって、罪赦され、義とされると言います。ところが、ところがです。その後、洗礼準備会というのを行ないます。なぜなら、信じた後、バプテスマを施しても、教会を去って行く人が多いからです。そのため、教会では「なんとかその人が離れないように」と親切心から洗礼準備会をします。残念ながら、使徒の働きを見ますと、信じたらすぐバプテスマを受けているケースがほとんどです。洗礼準備会をしたという記事はどこにも見当たりません。でも、百歩譲って、洗礼準備会は救われた人のためにあると認めます。でも、その内容が問題です。どこが問題なのでしょう?ある教会では、これまで犯した罪を牧師の前で洗いざらい告白し、赦しの祈りをしてもらうそうです。罪の断ち切りの祈りをしてくださるのでしょうか?解放のキャンプをやってしまうのです。そういう教会は少ないと思いますが、大体は、毎日聖書を読むこと、聖日礼拝を休まないこと、十分の一献金をささげること、祈祷会に出席すること、何らかを奉仕を喜んですることなどを奨励します。ある教会では最後に、教会員になるために署名させられるとこともあります。他に教会員として守るべき条項があり、それに同意してもらうためなのでしょう。いやーびっくりです。
それを聞いている救われたばかりの兄弟姉妹はどのようなことが頭に浮かぶでしょうか?「救いは恵みかもしれないけど、信仰生活はいろいろやることがあるんだ、大変だなー」と思うでしょう。良く分かりませんが、ずっすりと重荷を肩に背負わされた感じがします。「救いは恵みだけど、教会生活には律法が必要です」と言っているようなものです。しかし、それは立派な詐欺です。ほとんどの牧師たちは悪気があってやっているわけではありません。信徒が成長するように、信徒訓練のつもりで言っているのです。でも、その内容は立派な律法です。なぜなら、その人に行ないを求めるからです。パウロが「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか」と嘆いています。聖書を読むことも、お祈りすることも、礼拝に出席することも、献金することも良いことです。でも、それらは私の内におられるキリストのいのちがそうさせるのです。キリスト様は聖書を読まなくても、お祈りしなくても、礼拝に出席しなくても、献金しなくても愛しておられます。「しなくても良い」と言われるとしたくなるのです。しかし、それらを神さまに喜んでもらおうと肉で行うなら、律法主義に陥ってしまいます。つまり、自分の行いによって神さまに近づこうとするからです。いつのまには、「聖書を読まにゃー、お祈りしにゃー、礼拝に出席しにゃー、献金しにゃー」となります。これを本田弘慈先生は「猫信者」と言っておりました。つまり、私の中におられるキリスト様が一緒にいてそうさせてくださるということです。イエス様ともっと親しくなるために、聖書を読み、お祈りするし、礼拝をささげるのです。教会はキリストの弟子となれとか、罪からきよめられなさいと勧めるでしょう。自分の行いでやるなら、きっと自分を誇るでしょう。そうではなく、主の恵みによってキリストの弟子となり、主の恵みによってきよめられるのです。
3.律法からの解放
ガラテヤ2章19、20節「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」この箇所はローマ人への手紙6章、7章、8章の内容をコンパクトにまとめたものです。大きく分けて、このところには律法から解放されるために3つのことが言われています。第一は私たちは律法に死んだということです。死んだ人は律法を守る必要はありません。でも、どうやって死んだのでしょうか?私はキリストとともに十字架につけられたのです。「私」というのは、アダムにある古い人です。自分で死ぬのではなく、キリストと共に十字架につけられ、死んだことを認めるのです。そこのとはバプテスマが象徴しています。第二はキリストとともに復活したのです。つまり、古い夫である律法と別れ、今度は新しい夫であるキリストと結婚したのです。キリストは律法を全うされた唯一のお方であり、あなたに律法を全うする新しいいのちを与えてくださいます。第三は御霊によってキリストが内側に住んでいることを認め、信仰によって歩むということです。あとで肉のことをお話ししますが、古い人は死にましたが、肉があります。肉は律法に刺激されて、罪を犯したくなります。しかし、キリストの御霊によりたのむなら、罪から解放されて、義の道を歩むことができるのです。
ただ今から、ガラテヤ書の他の部分を引用しながら、御霊によって歩むということをもう少し述べたいと思います。パウロは律法ではなく、信仰で生きることをガラテヤ3章、4章で詳しく述べています。そして、ガラテヤ5章の冒頭にこう書かれています。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」これは、ダメ押しとも言えることばであり、「律法主義になってはいけませんよ」と教えています。しかし、私たちの中に肉は依然として存在しています。そして、肉は律法に対して過剰に反応します。してはならないことをして、すべきことをしないのです。パウロはそのことをローマ7章で語っています。その解決がローマ8章の「いのちの御霊の法則でした。同じことがガラテヤ書にも書かれています。ガラテヤ5:16-18「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」御霊に導かれることが、積極的な意味での律法からの解放なのです。どういうことかと言うと、肉が律法に反応してそれを破ろうとします。しかし、御霊によって導かれるなら、律法の罠にはまることなく、自然に律法を守ることができます。つまり、その人が肉で生きるか、御霊で生きるか、だれに主導権を渡すか決断する責任があるのです。御霊に導かれて生きるとは、肉で生きることを断念し、御霊にお願いするということです。
A.Bシンプソンという人が『聖霊による歩み』という本を書いています。少し引用させていただきます。聖霊は、たましいをキリストに導かれた後は、信者の個人的先導者、教師、きよめ主、また慰め主となられる。人の心が全く聖霊にまかせ従いきった時に、聖霊は個人的に、永遠に、その心の内住の客となり、ご自身と共に御父と御子の明らかな臨在を与え、すべての真理に導き、すべての神の御心に導き、すべての必要な恩寵を施される。そして信徒の日々の生活にイエス・キリストのいのちを明らかに示し、御霊の実の様々な種類と、それが十分に成熟した姿として召されるのである。さらに、A.Bシンプソンはその著書において「聖霊によって歩むとはどういうことか」ということを教えています。第一、聖霊によって歩むとは、私たちの中に臨在され、宿られるお方として御霊を認識することである。第二、聖霊によって歩むとは、まさかの時にも常に御霊に信頼し、これにより頼むことである。第三、私たちが聖霊によって歩もうとするなら、聖霊に相談しなければならない。第四、私たちが聖霊によって歩みたいと願うなら、御霊の語られる時に従わなければならない。第五、聖霊によって歩むとは、聖霊と歩調を合わせて歩むことである。…これだけ語られると前のことを全部忘れてしまいます。私はこの本を30年前に読んだことがありますが、他は全部忘れ、たった1つだけ覚えていました。第五の「聖霊によって歩むとは、聖霊と歩調を合わせて歩むことである」ということです。歩調を合わせるとは、時には立ち止まり、右か左か考えるときもあるということです。
私なりにこのように結論しました。あなたはすでに新しい人になったのです。どうすればよいでしょう?「イエス様、一緒にやりましょう。私を通してあなたが現れてください」とイエス様から力をいただくのです。外側から見るとやっているのはあなたです。しかし、内側を見るとイエス様が聖霊によってあなたを動かしているのです。あなたが意志してお願いしているのですから、ロボットではありません。一種の共働作業です。時々、忘れることがあっても大丈夫です。気が付いていたら自分の力でやっている場合もあります。あまり意識し過ぎると不自然になります。聖霊によって導かれていると、自動的に聖霊モードにしてくださいます。最近の車はハイブリッド車が多いです。普通はガソリンで走りますが、ブレーキをかけると電気がたまっていきます。電気がある程度たまると、今度はモーターで走ります。御霊によって歩むとは神経質になることではありません。気が付いていたら聖霊モードになっていたということがあって良いのです。もし、心の中で、主を崇め、主を賛美し、主と会話をしていたら罪を犯す暇はありません。でも、歩むと言うのは、止まったり動いたりというイメージがあるので、主を忘れるときもあっても大丈夫です。向こうは、私たちを忘れないからです。イエス様は「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。つまり、律法からの解放とはキリストの御霊によって導かれて、生活することなのです。キリストの御霊によって導かれて行けば律法から解放され、恵みといのちにあふれた生活ができるのです。