きょうはペンテコステ礼拝です。ペンテコステのもともとの意味は50というギリシャ語の数字から来ています。イスラエルでは、「過ぎ越しの祭り」で、大麦の初穂の束をささげました。その日から50日目に「五旬節の祭り」というのがありました。ところが、キリストが復活した日から50日目に、聖霊が地上にくだりました。ですから、ペンテコステは私たちとって聖霊降臨記念日なのであります。それ以来、イエス・キリストを信じた人には、もれなく聖霊が与えられるようになったのです。
1.遅れたペンテコステ
今日の説教題は「遅れたペンテコステ」ですが、正確には「遅れてやってきたペンテコステ」です。どのくらい遅れたかというと22、23年です。使徒の働き18章後半を見ますと、アポロがエペソを伝道したと書かれています。アポロはアレキサンドリアの出身で、聖書に大変通じていました。ところが、彼はヨハネのバプテスマしか知りませんでした。そのことを聞いた、プリスキラとアクラは彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明しました。おそらく、旧約聖書の預言としてのキリストの十字架と復活、つまり「キリストの福音」を教えたのだと思います。アポロが去ったあと、パウロがエペソを訪れ、何人かの弟子たちと出会いました。使徒19:2-4彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
これはどういう意味でしょう?アポロは立派な教師でしたが、不完全な福音しか伝えていなかったのです。しかも、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていませんでした。マタイ3章に記されていますが、彼らの受けたものは「悔い改めのバプテスマ」でした。ヨハネは「その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」(マタイ3:11)と預言しました。その預言のごとく、120の弟子たちが屋上の間で祈っていると、聖霊が激しい風のようにやってきました。そして、炎のような分かれた舌が弟子たちの上にとどまりました。まさしく「聖霊と火のバプテスマ」であります。ペンテコステの日、弟子たちは聖霊を内側に受け新生しました。同時に、聖霊を上から注がれ力を受けました。厳密には11の弟子たちは復活の夜、イエス様から「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と言われ、内側に聖霊を受けていました。でも、上からは聖霊を受けていなかったのです。イエス様は「いと高きところから力を着せられるまで都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と命じました。その日から、11人は待ちに待って、ペンテコステの日に上から聖霊が臨む経験をしたのです。そして、11人を除く120人の弟子たちは、内側に聖霊の満たしをいただき、同時に外側から聖霊の満たしを受けたのです。ウィットネスリーはギリシャ語で、内側の満たしを「プレロー」と言い、外側からの満たしを「プレソー」と言っています。外側からの満たしというのは、お風呂にどっぷり浸かったとき、体全体が水で覆われるようなものです。
使徒19章に戻りますが、このところには奇妙な時間差がありました。エペソにはペンテコステが来ていなかったのです。なぜなら、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったからです。パウロが言っていますがそれは、罪の赦しを受ける悔い改めのバプテスマです。それでは私たちが受けるイエス・キリストのバプテスマは何でしょう?ある人たちは水によって罪が洗い流されるのだと考えていますが、そうではありません。バプテスマの本当の意味はキリストの死と一体になるということです。キリストと共に死ぬということです。そして、今度はキリストがよみがえられたように、キリストと共によみがえるということです。そのとき、聖霊がその人を新しく生まれ変わらせるのです。つまり、キリストのバプテスマは新生のバプテスマなの象徴なのです。正確には、イエス様を信じたとき、人は聖霊によって新しく生まれます。でも、水のバプテスマはその預言的な行為であり、そうなったことの確認なのです。信じても水のバプテスマを受けていない人がいますが、確認してくれる人がだれもいないということになります。たとえて言うと、籍を入れるだけで結婚は成立します。しかし、神と人の前で結婚式をあげるなら人々から、確認を受けることになります。そしてみんなから祝福を受けます。信じてバプテスマを受けるのは、「私はクリスチャンになりました」ということを公に示すことなのです。
私は厳密に言うなら、エペソの人たちは2つのことを経験したのではないかと思います。まず、パウロから主イエスの名によってバプテスマを受けた時、聖霊が内側に臨んだのだと思います。つまり、彼らは霊的に生まれ変わった、新生したのです。これは旧約時代にはありえないことでした。ペンテコステ以来、人がイエス様を信じると聖霊が内側に宿るようになったのです。その次、パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨みました。英語の聖書には“ Holy Spirit came upon them,”とあります。直訳すると、聖霊が上から臨んだのです。その結果として、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。つまり、ペンテコステの日のようなことが起こったということです。実際にはペンテコステの日から、22年もしくは23年遅れて訪れたということです。長い歴史を見ますと、全く福音が宣べ伝えられていないところに行って福音を伝えると、ペンテコステのようなことが度々、繰り返されています。確かにペンテコステは歴史的には1回のことですが、新しい地に福音が宣べ伝えられ、人々が信じるとペンテコステが起こるということです。言い換えると、聖霊による新生と聖霊が上から臨む、力としてのバプテスマです。使徒の働きを見ますと、水のバプテスマを受けたあと、使徒たちが手を置くと聖霊を上から受けて、異言や預言を発しています。パウロはテモテに「私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ1:6)と願っています。人は按手によって、聖霊を上から受けることもあれば、コルネリオたちのように直接、聖霊が臨むこともあります。
私は20年前くらい前からこのようなことを言い始めました。信仰をもって40年以上になりますが、前半の20年は内側の満たししか信じていませんでした。なぜなら、『聖霊』を書いたビリーグラハムの考えを支持していたからです。ビリーグラハムは「信じたとき聖霊を受けるのであり、それは一度きりである」と言っています。それはそうなのですが、上から臨む聖霊のことは書いていません。ペンテコステ教会は上から臨む聖霊が聖霊のバプテスマであると断固として譲りません。私の解釈はペンテコステの聖霊のバプテスマは、マタイ3章のように「聖霊と火によるバプテスマ」だと思います。つまり、内側にいただく新生としてのバプテスマ、外側にいただく火のバプテスマであると思います。簡単に言うと、内側からいただく新生のバプテスマだけでは不十分で、外側からいただく力としてのバプテスマが必要だということです。
まことに残念ですが、日本の福音派は内側からいただく新生のバプテスマしか信じていません。そして内側に満たされることを望みます。エペソ5章に「御霊に満たされなさい」とありますが、それは人格的なものであり、御霊の実と関係があります。しかし、ルカ24章の「上から力を着せられる」ことと、使徒1章の「上から聖霊が臨む」こととは違います。どこが違うかと言うと、聖霊の力、聖霊の賜物が現れるために必要なのです。きよめを強調する教会は、「きよさが力である」と言いますが、そうではありません。初代教会の人たちが迫害されたのは、きよいからではなく、力強い働きをしたからです。彼らは迫害を受けたあとこのように祈っています。使徒4:30,31「また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。このところは、2回目の聖霊の外側からの満たしと言えます。なぜなら、満たしのギリシャ語はプレソーだからです。私はアメリカのベテル教会の本をはじめ、カリスマ・ペンテコステの本を読んでいますが、聖霊の力と賜物が当たり前のように書かれています。多くの人たちは聖霊が与えてくださる賜物を用いることにより、初代教会のようにすばらしい奉仕ができます。また、聖書だけではなく、預言や異言、夢や幻、天使の訪問からも導きを受けます。「奇跡やしるしはない、聖書のみことばだけである」としたら、伝道の幅がとても狭くなります。パウロはⅠコリント2章で「私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(Ⅰコリント2:4)と言っています。
日本の教会の多くは、エペソの人たちのように、半分のペンテコステしか経験していないかもしれません?ペンテコステ派の人たちは100年前からこのことを強調しています。しかし、神に用いられたリバイバリストたちは、ほとんど上から聖霊が臨んだことを経験しています。彼らは力に満たされ、福音を大胆に語り、しるしや奇跡、病の癒しを行いました。福音宣教は大事であり、日本の教会はそのことを行ってきました。しかし、マルコ16章でイエス様は「信じる人には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます」と言われました。聖霊が上から臨み、力を受けるならこのようなことが可能になるのです。
2.エペソのリバイバル
使徒の働き19章8節以降からパウロの宣教と、続いて起こったリバイバルについて記されています。パウロは少なくともエペソに2年以上滞在しました。それで、小アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主の言葉を聞きました。では、どんなことが起きたのでしょう?これがエペソのリバイバルの特徴です。
第一にリバイバルは奇跡やしるし、病の癒しが起こります。パウロの手によって驚くべき力あるわざが行われました。パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人たちに手を当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであったと書かれています。使徒5章にはペテロの陰によって、病気が癒されたことが記されています。一体このようなことがどうして起こるのでしょう?聖霊の臨在が人をいやすのです。何年か前、21世紀教会にクリス・ゴアという癒しを行う牧師が来られました。第一回目は癒しの方法について教えていただき大変参考になりました。次の年も来られたので、また行きました。こんどは詳しい教えがありませんでした。前回述べた病の癒しについても語っていました。「この先生は準備していないのでは?」と疑いが起こりました。しかし、最後に教えた先生の教えに驚かされました。「癒しは方法ではなく、聖霊の臨在によって人が癒されるのです。臨在を解き放つのです」と言われました。そのとき、究極の癒しは「聖霊の臨在」であることに気が付きました。リバイバルは聖霊が濃厚に働くときです。ちょっと祈れば、聖霊が勝手に人々を癒してくださるのです。
第二にリバイバルは悪霊との闘いが起こります。ユダヤ人の祭司たちが、パウロの真似をして悪霊を追い出しました。すると悪霊が「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、お前たちは何者だ」と言われ、悪霊によってこてんぱんにやられてしまいました。それで、どうなったでしょう?使徒19:17「このことが、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。」聖霊の働きが増し加わると、悪霊も現れてきます。魔術師や祈祷師との闘いが必ず起こります。私たちも与えられている権威は彼らよりもはるかに上です。エペソ1:21,22「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」アーメン。パウロのように、悪霊たちから恐れられる人になりたいです。
第三にリバイバルは罪の悔い改めが起こり、悔い改めの実を見ることができます。使徒19:18-19「そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。」人々がイエス様を信じて救われることだけに満足してはいけません。罪を告白し、悪霊から解放されることが必要です。エペソの人たちのほとんどは、魔術を行っていました。魔術の中には、占い、霊媒、様々なオカルトも含まれます。エペソは日本と同じで偶像が満ちています。後に出てきますが、エペソにはアルテミスの女神が祀られており、彼らから大迫害を受けることになります。なぜなら、偶像による商売ができなくなったからです。2002年くらいから日本では「解放のミニストリー」が起こりました。石原師がインドネシアの教会から学びました。私も直接、インドネシアに2回行って、解放の現場を目撃することができました。参加者200人のうち、100人に悪霊現象が起こっていました。偶像礼拝、性的な罪のため、悪霊が人々に入っていたのです。彼らは解放を受けた後、プールで洗礼を受けていました。エディレオ師は「救われた直後に、解放を受けるととても効果的である」と言っていました。魔術や偶像崇拝と決別し、悪霊との関係を断ち切る必要があります。インドネシアは悪霊がはっきり現れる傾向がありますが、日本の場合は陰湿であり、あまり現れてきません。でも、リバイバルが起こると、聖霊の臨在が濃くなるので、これまで隠れていた悪霊が出てきます。当教会ではゴスペルで救われた人たちのほとんどが解放を受けたので、健全な信仰をもって成長しておられます。ハレルヤ!
第四、教会がいたるところに生まれます。使徒19:20「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。」実は、エペソを中心に小アジアにたくさんの教会が生まれました。たとえば、コロサイはパウロが直接行ったのではなく、エペソから行った人たちが伝道して生まれた教会です。また、ヨハネの黙示録2章と3章にアジアの7つの教会がありますが、おそらくその時に誕生したと思われます。教会の歴史をたどりますと、リバイバルが起こるとたくさんの教会が生み出されます。なぜなら、人々が増えるからです。でも、救われた人を群衆にしておくのではなく、ちゃんと地方教会に属させる必要があります。なぜなら、信仰は点ではなく、継続的なものだからです。リバイバルは数年しか続きません。波のように去っていきます。ですから、健全な教会に人々を属させ、養う必要があります。しかし、教会設置で満足してはいけません。リバイバルのゴールは変革、トランス・フォーメーションです。聖霊に満たされた聖徒たちが、家庭、ビジネス、政治、教育、医療、芸術の場に行って、神の栄光を現すのです。これまでクリスチャンは罪を犯さない正直な人が特徴でした。それも重要ですが、神から与えられた賜物、知恵、創造力をもって人々に仕えることができます。旧約聖書でいうと、ヨセフやダニエルのように王や国に影響を与えることができます。
私はいろいろやってうまくいきませんでしたが、最後はリバイバルしかないと思いっています。日本はエペソと良く似ていますので、エペソのようなリバイバルが起こることを期待しています。エペソの町にはアルテミスの神殿がありました。パウロによってリバイバルが起こると、偶像のおみやげが売れなくなりました。彼らがこう言っています。使徒19:27-28「これでは、私たちの仕事の評判が悪くなる恐れがあるばかりか、偉大な女神アルテミスの神殿も軽んじられ、全アジア、全世界が拝むこの女神のご威光さえも失われそうです。」これを聞くと彼らは激しく怒り、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と叫び始めた。つまり、アルテミスは小アジア一帯にまで影響を及ぼしている女神であったということです。それによって、エペソ中の人たちも、狂わされていました。日本においては、天照大御神にあたります。この女神はすべての神道の上に立つものであり、天皇家が拝んできました。亀有の町の人たちは香取神社の氏子になっています。申し込んだ訳ではないのですが、町内会がそのようにしているのです。町内会費のほとんどが、祭礼に使われます。一緒に神輿を担ぐことにより、町内会の団結が深まるようになっています。でも、偶像崇拝であり、悪霊の支配にあります。エペソのアルテミスは「天の女王」であり、国々や州を支配する「支配」もしくは「主権」かもしれません。エペソにはリバイバルが起こりましたが、まもなく大混乱が起きました。リバイバルが起こると、このようなサタンの反撃にあうことを知っておく必要があります。しかし、現在の日本は、サタンがまったく油断している状態です。なぜなら、ペンテコステが完全に来ていないからです。イエス様を信じて、聖霊が内に宿るバプテスマは来ています。ところが、聖霊が上から臨み、力を受け、聖霊の賜物によって伝道することがなされていません。私もやりましたが日本の教会は、特別伝道集会、映画伝道、英会話伝道、コンサート、ランチョンさまざまなイベントでした。しかし、初代教会の伝道法とは全く違っています。彼らは「あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください」と祈りました。パウロも「私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(Ⅰコリント2:4)と言っています。つまり、福音を語るだけでは不十分であり、聖霊による賜物を用いなければならないということです。それには、パウロがエペソに来て行ったように、聖霊を上から受け、満たされる必要があります。最初は12人でしたが、3カ月たち、2年たってエペソ中に広がって、リバイバルになりました。
教会は3年半におよぶ新型コロナウィルスのため活動が制限されました。私はその期間、英語の本を読み、それを翻訳しました。本当はリバイバルが起きているベテル教会に行きたかったのですが、お金も暇もありません。それで、彼らの本をかたっぱしから読んで、リバイバルに浸ろうと思ったのです。彼らの本は日本語にそんなに訳されていません。日本人も本を読む人がいないのでキリスト教の出版会社は低迷しています。現在はインターネットで、直接、リバイバルの教会から学ぶことができます。保守的な教会も、信徒たちがインターネットで情報を得ているので、「癒しはない、奇跡はない」と言っていられなくなりました。私は大川牧師と同じ、聖霊の賜物を信じるカリスマ牧師です。でも、リバイバルが起こっている教会はそれが標準です。聖霊の力による奇跡や癒し、預言、異言、知識の言葉…は常識になっています。リバイバルが起こるとカオス(混沌)もやってきます。極端なことが起きても、驚かないでください。リバイバルの火を消すのは、秩序を重んじるクリスチャンであることも覚えておいてください。ビルジョンソンは「肉は食べ、骨は出すように」と言いました。一時的にバランスを欠くことがあっても、覚悟が必要です。聖霊様に期待しましょう。日本にも聖霊の風が吹き、聖霊の火が降りますように。