2023.4.23「聖霊の宮 Ⅰコリント3:16-17」

私たちは個人において聖霊を宿しています。そういう意味で、自分のからだは聖霊の宮、神殿であるということです。また、複数形である私たちも聖霊の宮であります。私たちが神殿の生ける石であり、その石が組み合わされることにより大きな神殿になります。つまり、私たちの中に聖霊が臨在してくださるということです。きょうは個人の意味での宮、集団の意味での宮について学びたいと思います。なお、新改訳の2017年度版は「神の宮」と訳されています。

1.個人としての神の宮

 Ⅰコリント3:9-13「私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。」パウロは3章9節で「あなたがたは神の建物です」と言っています。そして、10節から17節までが、神の宮、神の神殿について語っています。コリントの教会はパウロたちが創設しました。パウロは「私は…賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです」と言っています。神の宮の土台は、使徒が据えるということです。言い換えると、使徒には教会の土台をすえる使命と責任があるということです。エペソ人への手紙にも同じようなことが書かれています。エペソ2:20-22「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」エペソには、使徒たちや預言者たちが土台であり、キリストイエスが、要の石、礎石であると書かれています。その上に建物が組み合わされ、聖なる宮になるというのです。これはどういうことかと言うと、教会は使徒たちや預言者たちの教えの上に立っているということです。私たちがこのように聖書から学んでいるのは、聖書は使徒たちや預言者たちによって書かれたからです。彼らの教えを飛び越えて、新しい教えを作って、教会を建ててはならないということです。そういう教会は「異端」と呼ばれ、救いのない教会です。私たちはかなりの聖書解釈の幅が認められてはいますが、使徒たちや預言者たちの教えの範囲内に留まるということが重要です。

 パウロはコリントの教会に、「ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。」と警告しています。つまり、パウロたちが教えた土台の上に、神の宮である教会を建てるときの注意事項を述べています。ここには、建物を建てるための高価な材料と安価な材料が列挙されています。まず、高価な材料とは何でしょうか?金、銀、宝石です。私たちはソロモンが建てた神殿を旧約聖書から知ることができます。柱やかべのほとんどが純金で覆われていました。ソロモンは宮殿も建てましたが、礎石は高価な石を用いました。ヨハネ黙示録に記されている都の城壁や土台には高価な宝石がふんだんに用いられています。一方、安価な材料とは何でしょうか?木、草、藁です。私たちは木材は安くはないだろうと思うかもしれません。イスラエルでもレバノン杉は高価でしたが、神殿を支えているのが石材でした。もちろん木材は柱や壁に用いられますが、おもに彫り物のためであり、その上に純金を着せました。しかし、ここで言われている木、草、藁はほったて小屋のような粗末な建物のことです。南の島に行くと、そのような家を見ることができます。これはたとえであり、みなさんの家のことを言っているのではありません。安易な材料というのは、聖書が教えていない人々が喜ぶような教えです。この世と妥協した教えであり、聖と俗の両方を巧みに生きているクリスチャンのことです。世の終わりになると、教会はどのような誘惑に会うのでしょうか?Ⅱテモテ3:2-5「そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。」かつてキリスト教国だったヨーロッパ諸国は堕落の一途をたどっています。その証拠に、多くの教会が同性婚を認めています。

 パウロはその真価が試される時が来ると言っています。Ⅰコリント3:13-15「それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」「その日」とは、主が再び来られる日、再臨のことです。マタイ25章には、いくつかのたとえ話が記されていますが、そのほとんどが再臨のさばきです。さばきというのは一方は主の報いであり、他方は懲らしめとか審判という意味のさばきです。マタイ25章は信仰義認と相いれないような、永遠のさばきがあるように書かれています。しかし、私は報いと審判というさばきは、千年王国においてなされるのではないかと信じています。千年王国後やってくる、新しい天と新しい地においては、信仰者はだれもが入れると思います。つまり、救いは賜物であり一度得たものは失われることがないと信じます。Ⅰコリント3章にも同じようなことが記されています。再臨の日、それぞれの働きが明らかになります。「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受ける」というのは、金、銀、宝石という価値ある材料で建てられた建物です。たとえ火に焼かれても害を受けずに残るからです。一方「だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受ける」というのは、木、草、藁という安価な材料で建てられた建物です。それらは火で焼かれてしまうでしょう。その人の業績は失われるかもしれませんが、救いは失われることはありません。「その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」と書かれているからです。このところは信仰義認と矛盾しません。しかし、「主の日」における火というのは、恐ろしくて厳粛なものであります。世界には多くの人が集まって、華やかな教会がたくさんあります。一方では、山間部で、数十名しか集まっていない教会もあるでしょう。でも、「主の日」にやってくる火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すのです。ですから、信仰は見かけではなく、実であるということです。それは個人においても、教会においても言えることです。

 これらの一連の終わりに、書かれているみことばがこれです。Ⅰコリント3:16,17「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」神の宮、つまり神の神殿とは、私たち一人一人のからだのことです。私たちのからだの中に聖霊が住んでおられるのです。「だれかが神の宮を壊す」というのは、殺人だけではなく、何か危害を加えることも含まれていると信じます。この世では法律がさばきますが、人の目に隠されていてさばききれないことがたくさんあるでしょう。しかし、神のもとでは白日にさらされ、明確なさばきがなされることでしょう。もう1つは、私たちのからだを大事に扱わなけばならないということも教えられています。なぜなら、私たちのからだの中に聖霊が住んでいらっしゃるからです。だから暴飲暴食はいけません。自分のからだを傷つける人がいますが、内におられる聖霊様が悲しまれます。休まないで働くという中毒も良くありません。キリスト教は霊的なことを強調しますが、からだの健康のことはさっぱりです。何を食べるか、何を飲むかという指導もしません。尾山礼仁師の『心の健康・体の健康』から引用させていただきます。私自身、50代半ばで心筋梗塞の一歩手前というところで倒れ、薬では治すことができず、食生活の改善によって回復しました。…今日、健康を害している人が非常に多いのには驚かされます。それは、若い人から年寄りに至るまですべての人に渡っております。その多くは、食生活の無知によるもので、危険なものを平気で食べているのです。そして病気になると医者にかかれば良いと簡単に考えてしまいます。しかし、自分の健康については、一部の専門家に任せておけば良いのではなく、日ごろから、もっと自分自身の健康を保持することについては深い関心を持たなければならないと思います。食品添加物の問題や水道水に含まれているカルキのことだけでなく、さらに総合的に考えてみなければならない問題がたくさんあります。引用は以上ですが、聖霊の入れ物であるからだを神さまが召される日まで、健康に維持するのは私たちの責任だということです。パウロの祈りです。Ⅰテサロニケ5:23「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」

2.教会としての神の宮

 Ⅰコリント6:19-20「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」ここには「あなたがたは」と書かれているので、複数形です。なぜなら、パウロはコリントの教会の人たちに書き送っているからです。このみことばを解釈する前に、コリントとはどういう町なのか知る必要があります。コリントは、地中海における交通の要所であり、古くから商業都市として栄えました。経済的には繁栄をきわめましたが、宗教的・道徳的には堕落していました。丘の上にはアフロディトの神々が祭られ、神殿には千人を越える娼婦がいたと言われます。コリント化するとは、不道徳になるという意味でした。つまり、コリントの教会にはさまざまな不道徳が入り込んでいたということです。パウロは、なぜ、「あなたがたは聖霊の宮であるから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と強調しているのでしょうか?そのためには、少し前の文章を見る必要があります。Ⅰコリント6:15-18「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。『ふたりは一体となる』と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」ここで言われている「遊女」とは、神殿娼婦であろうと思われます。コリントの男性たちは、みなアフロディト神殿をお参りしたあと、彼女らと交わっていたからです。ギリシャ哲学では魂はきよくて、肉体は汚れていると考えられていました。さらに、肉体で犯した罪は、魂には何の影響も与えないとまで考えられていました。それに対して、パウロは「遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります」と警告しています。そのことによって、遊女のからだの一部が自分たちの中に入り込むということです。

 ですから、パウロは「あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」と言っているのです。つまり、「遊女と同化したからだに、聖霊が宿るだろうか?宿るわけがないでしょう」と言っているのです。コリント教会には、このような不道徳の問題だけではなく、この世の罪がたくさん入り込んでいました。なぜなら、彼らはユダヤ人ではなく、異邦人であったので神の律法については全く無知でした。急に福音を信じて救われても、従来の価値観やライフ・スタイルが一遍に変わるわけがありません。コリントの教会は、パウロにとっての一番の悩みの種であったことは間違いありません。でも、パウロは常に神さまの目から彼らを見ていました。手紙のあいさつ文にはこのように書かれています。Ⅰコリント1:2「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」コリント教会は「神の教会」であるということです。キリストの血によって贖い取られた、神さまの所有の教会です。そしてパウロは彼らを「聖徒」「聖なるもの」と言っています。これは道徳的に聖いという意味ではなく、神さまによって聖なる者とされたという意味です。この世から選び別たれて、神さまのものになった、だから聖なる者なのだということです。この考えは、私たちにもあてはまります。「あなたがたは聖徒であり、聖なるものとされたのだから、聖くなりなさい」と恵みによって言われているのです。恵みの場合は、このようにスタート地点が違います。律法はマイナスからはじまり、「まだ、だめだ」「まだ、基準に達していない」とさばきます。しかし、恵みはプラスの地点からはじまるので、とても楽です。1つでも良いことをするとgood!、2つでも良いことをするとgreat!、3つでも良いことをするとwonderful!となります。4つでも良いことをするとmarvelous!私は聖契神学校で学びましたが、校長先生がピーターソンという宣教師でした。先生のクラスときは、いつも小テストがありました。私はいつも100点プラスでした。前の神学校では「まだ、だめだ」と言われているような気がしました。しかし、ピーターソン先生は、とても甘いんです。学校生活ではいやな思い出ばかりでしたが、その学校ですっかり癒され、自信が持てました。100点をもらうと「もっとがんばろうかな!」と思ってしまいます。

 コリント教会にむけられていることばは、私たちにも向けられています。「神から受けた聖霊の宮」ということは、私たちが神の神殿であり、私たちの中に聖霊がお住になられているということです。前のポイントでは個人が聖霊の宮であると言いましたが、ここでは「私たちが聖霊の宮である」と言われています。日本語の教会は「教える会」と書きますので、あまり良い訳ではありません。また「教会」というと教会堂という建物を指してしまいます。伝統的な教会では、礼拝堂をSanctuary「聖書」と呼んだりします。しかし、それは間違いです。私たちが教会であり、私たちが神殿だからです。たとえ立派な教会堂があっても、クリスチャンがいないなら、それはお寺の伽藍と同じです。ヨーロッパに行くと、観光となった教会堂がたくさんあります。クリスチャンがいないのに、歴史的な建造物だけがあります。私たちは、私たち自身が神の神殿であるという聖書的な考えを持つべきです。パウロはコロサイ1章で「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)と言いました。日本においては教会はマイノリティであるかもしれません。でも、私たちの中にキリストがおられるということは、すばらしい希望です。イスラエルの歴史を見ると分かりますが、兵士が大勢いたら敵国に勝つという保証がありません。人々が神の前に正しい生活をしていると、神さまご自身が周囲の国々に恐れを与えて制圧してくださるのです。この世では人数の多さとか経済力、政治権力がものを言うかもしれません。私たちはそのようなもので教会に価値をつけるのを求めるのをやめるべきです。「本当にキリストの贖いを受けた人が何人いるか?聖霊がそこにお住になっておられるか?」が問題なのです。ラオデキアの教会は、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と誇っていました。しかし、キリスト様を教会から締め出していたのです。イエス様のいない教会があるなんて信じられるでしょうか?最も重要なことは、イエス様がいらっしゃる教会、神の神殿としての教会です。そこにイエス様がいらっしゃれば、魂が救われ、癒しが起り、奇跡が起こり、人々が信仰に満たされて勝利ある生活を送ることが出来ます。

 この世の人たちは満足しているように見えますが、実は満足していません。明石の井上先生のお母さんがこの教会に来たとき、このようにおっしゃっていました。「教会は火を絶やしてはいけない。聖霊の火を燃やし続けなければならない。世の人たちが「寒い、寒い」と言って火にあたりにくるから」と。そうです。私たちの中には、この世にはない、聖霊の聖さ、聖霊の命、聖霊の力があるのです。ただ、私たちが気づいていないだけなのです。いくらテレビを見ても、インターネットを見てもこの情報は分かりません。美味しいものを食べ、美しい洋服を着て、エンターティメントを見ても、神さまの臨在と聖霊のぶどう酒にはかないません。なぜなら、私たち人間は霊的な存在だからです。たとえ肉体や魂を満足させることができても、霊はからからに渇いているのです。だから、イエス様がヨハネ4章で「この水を飲む人はみな、また渇きます」おっしゃたのです。でも、イエス様が与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。それだけではありません。ヨハネ7章ではこう言われています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37,38)。ヨハネ4章は泉でしたが、ヨハネ7章は川の複数形です。「生ける水が、川々となって流れ出る」のです。このみことばは、エゼキエル47章を連想されてくれます。エゼキエルは「神殿の敷居の下から水が湧き出し、大きな川になるという幻を見ました。「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生きる」(47:9)と書かれています。神殿の敷居からいのちの川が流れ出すというのは、新約聖書の私たちのことであります。この世の人たちは、教会は小さく固まっている力のない人たちのように見ているかもしれません。そうではありません。私たちは神の神殿であり、私たちのもとから、いのちの川がこの世にむかって流れ出ているのです。エゼキエル47章の「アラバの海」とは死海のことであり、その水はいのちがありません。まさしく、アラバの海はこの世を象徴しています。しかし、「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる」(47:8)のです。私たち教会だけが神のいのちをもたらすことができるのです。なぜなら、私たちが神の神殿であり、いのちの御霊が住んでいらっしゃるからです。何ができるとか、できないとかではなく、私たちの存在そのものがすばらしいのです。キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召されているからです。神さまの希望は、政治や教育、経済や医療、テクノロジーではありません。聖霊の宮である、神の教会、私たちが神さまの希望なのです。なぜなら、神の神殿である私たちから神のいのちが流れ出るからです。