2023.4.16「からだを献げよ ローマ12:1-5」

 きょうはローマ12章から学びたいと思います。パウロの手紙のほとんどは前半が教理面、後半が倫理面について記されています。それと同じように、ローマ12章から16章までは、倫理的なことが記されています。ところで、説教題が「からだを献げよ」となっておりますが、「人身御供のようで怖い」と言った人がいます。岩本姉も「この漢字で、面に出して良いの?」と心配していました。少し古い訳は「捧げよ」ですが、2017訳は「献げよ(献金の献)」となっています。

1.からだを献げよ

ローマ12章1節の「ですから」あるいは「そういうわけですから」というのは、「これまでのことを踏まえた上で」ということです。教理的に、私たちはどのような存在なのでしょうか?第一は、私たちはキリストの血によって罪が赦され、義とされました。第二は、罪から解放されるために、古い人がキリストと共に十字架につけられました。第三は、律法から解放され、御霊によって肉からも解放されます。ローマ12:1「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」パウロが神のあわれみによって、勧めていることとは何でしょう?「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」と勧めています。言い換えるとこれは「献身」です。献身というと、神さまから特別に召された人だけのものと思いがちですが、そうではありません。すべてのクリスチャンは献身するように求められているのです。これがキリスト者の標準です。第一に「あなたがたのからだを」と言われています。からだはギリシャ語でソーマであり、霊と魂を含んだからだ全体のことであり、良くも悪くもありません。肉はサルクスと言いますが、これはアダムからの罪の残骸であり、からだと魂のどこかに存在しています。私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえった存在です。Ⅱコリント5:17「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。私たちは霊だけが贖われただけではなく、魂もからだも贖われ、新しい存在になったということです。キリストに贖われ、新しくなったからだ全部を献げよと言われているのです。日曜日の礼拝にいろんな事情で来れない方がいました。その方が電話で「心は教会に行っているのですが…」と言っていました。その時は、「うまい言い方だなー」と思いました。後から、「果たして、心とからだを分離できるのだろうか?心だけじゃなく、からだも来ることが必要ではないだろうか」と思いました。

旧約時代は聖なる動物を祭司の前に連れて来て、それを殺して神さまの前にささげました。しかし、新約時代は死んだ動物ではなく、「あなたがたのからだを生きたまま献げよ」と勧められています。私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた存在です。以前はこの世の中で自分の欲望のままに生きてきました。今後、救われてからは何のために生きるのでしょうか?天国に行くことが決まっているので、自由奔放に生きて良いのでしょうか?実はローマ6章でも同じことが言われていたのです。ローマ6:11-13「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」今回も、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」から引用させていただきます。自分自身を神にささげることは、私が完全に神のものであることを承認することです。この自己を献げることは、「認める」こと同様決定的なことです。私の生涯において、私自身が自分の手から神の御手に移る日がなければなりません。その日以来、私は神のものとなり、もはや自分のものではなくなるのです。このことは、私が伝道者や宣教師になるために、自分自身を献げるという意味ではありません。悲しいことには、多くの人が、真に神に自分自身を献げたからではなく、むしろ、私たちがここで述べている意味で自己を神に献げなかったために、伝道者になっているのです。彼らは全然別のもの、すなわちまだ十字架につけられていない生まれながらの機能を「献げ」、神の働きに当たっているのです。しかし、これは真の意味の献身ではありません。では私たちは、何に対して聖別されるべきでしょうか。それは、クリスチャンの働きに対してではなく、「私にこうあってほしい、またこれをなしてほしい」と言われる神のみこころに対してであるのです。アーメン。

パウロはさらに「これこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」と言っています。聖書におけるギリシャ語で「礼拝」は二種類あります。1つはプロスクネオーで「ひれ伏す」という意味の礼拝です。英語ではworsipです。しかし、ローマ12:1の「礼拝」は、ラトリュウォーで「仕える、奉仕する」という意味の礼拝です。英語ではserviceです。旧約聖書の祭司たちは、神さまに仕えることによって礼拝をしていました。ですから、私たちの贖われたからだを神さまにささげること、これが「あなたがたにふさわしい礼拝」なのです。日曜日の礼拝をworsip serviceと言います。ひれ伏して礼拝するとともに、私たちのからだを献げて礼拝しているのです。私たちは礼拝のために交通も合わせて2時間位時間を献げます。賛美と祈りを献げます。メッセージを聞くために耳を献げます。献金を献げます。でも、それだけではありません。私たちのからだ全体を神さまにささげるのです。祝祷が終わって、やれやれと家に帰るのではありません。神さまから派遣されるのです。家に帰ってから、私たちの行いによって神に礼拝をささげるのです。コロサイ3章には、「主に仕えるように地上の主人に仕えなさい」と命じられています。それもserviceとしての礼拝です。妻に仕え、夫に仕え、子どもたちに仕えることもserviceとしての礼拝です。主にあってだれかに仕えることは、礼拝であると考えるなら、伝道者や牧師とも区別はありません。service残業でなく、それは礼拝であると見なすことができたら1つの革命です。

2.思いを変えよ

 ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」この聖句は、たびたびメッセージに引用されるのでよく御存じだと思います。「この世と調子を合わせてはいけません」は、J.B.フィリップス訳がとても良いと思います。Don’t let the world around you squeeze you into its own mould.直訳すると「あなたを取り囲む世界の鋳型に詰め込まれるな」です。私たちは生まれたときから、この世の鋳型にはめられて生きてきました。日本では「世間体」という鋳型が幅をきかせています。「一般常識」「社会」「日本国民」という鋳型もあります。ローマ12章の「この世」はギリシャ語で、アイオーンであり「時代」という意味です。ユダヤ教においては「来るべき世に対して、現在の悪魔とその手下が支配している世」という意味があります。イエス様は度々、「悪い、姦淫の時代だ」とおしゃっています。パウロはローマ1章から3章まで、神を神としてあがめない人たちがいかに堕落した生活をしているか述べています。最後は「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない」と嘆いています。私たちもかつては、無神論あるいは偶像崇拝者の中で、彼らと同じように生きてきたのです。ですから、聖霊によって生まれ変わっても、この世の価値観が私たちの思いの中に染み込んでいるのが本当です。私はクリスチャンになっても、しばらく「天は自ら助くる者を助く」という考えで生きてきました。これは自助論であり、聖書の考え方とはかなり違います。クリスチャンでも、「まず自分で一生懸命努力して、あとは神さまにゆだねる」みたいな考え方をしている人がいます。世の人たちも「最後は祈るしかない」と言います。どうして、最初から祈らないのでしょうか?ウィリアム・バークレー「一日一章」を読んだことがあります。そこに「祈りは神が我々のために何かをなさることではなく、我々が自分でやれるように助けて下さることである」「祈りは状況を変えず、我々を変える」と書いてありました。彼はイギリスの理神論の影響を受けているのか、神さまの超自然的な介入は滅多にないと考えているようです。それは自分で自分を助ける自助論です。

 倫理道徳、価値観、神観など、私たちはこの世のものと聖書のみことばが、混在しているのではないでしょうか?チャールズ・クラフト師が「世界観」という言葉を用いました。時代や民族によって、ものの見方や考え方が違うということです。世界観は1つのスクリーンみたいで、あるものは見えて、あるものは見えないということです。つまり、考えがゆがんでいるということです。日本人はアニミズム、精霊崇拝の国であり、絶対者なる神がいません。頭では西洋の教育を受けていますが、心はアニミズムです。占いを信じたり、パワースポットを捜しに行ったりします。人間は死んだら仏になり、いつか生まれ変わると信じています。一方、欧米の教会は啓蒙主義思想の影響を受け、合理主義になりました。奇跡や病の癒しは滅多に起こらない。そういうものは非科学的であると言います。心では天の神さまを信じていますが、現実は目に見えるものしか信じていません。だから、聖書を読むときも割り引いて読んでいます。パウロは「むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」と言っています。この聖句の中心部分は、「心を新たにする」ということばです。日本語聖書は「心」となっていますが、ギリシャ語はヌースであり、「知能、思考、考え方」という意味のことばです。英語の聖書はmindとなっています。ですから、「心」ではなく、「思い」とか「考え方」の方が良いのです。思いを変えるのは私たちの責任であり、私たち自身を変えて下さるのは神さまです。「自分を変えていただきなさい」というのは、受動態になっているからです。「変える」はギリシャ語でメタモルフォーセーであり、「変革する」「変貌する」という言葉です。さなぎが蝶になる変態と同じことばです。

 パウロはローマ12章で「思いを変えなさい」と言っているのでしょうか?クリスチャンはキリストを信じて霊的に生まれ変わったはずです。それだけではいけないのでしょうか?カウンセラーの丸屋真也先生は、「クリスチャンは霊的に生まれ変わるだけでは不十分です。心理的にも生まれ変わる必要があります」と言っておられます。正確には、霊的に生まれ変わるだけではなく、思いを変える必要があるということでしょう。私たちの思い、つまり考え方は、人生を支配しています。箴言23:7 For as he thinks in his heart.と書いてあります。直訳すると「彼は心の中で考えている人そのものである」という意味です。言い換えると、その人の考えを全部まとめたものが、その人自身であるということです。つまり、私たちが自分で何を考えているか、そのマインドを変えなければ生き方は変わらないということです。なぜなら、私たちのマインドは私たちの主人だからです。「え?イエス様が主人じゃないの?」とおっしゃるかもしれません。確かに目をつぶっているときは、イエス様は主であり、主人なのです。でも、ぱっと目を開けるとイエス様をそっちのけで生きてしまうのです。なぜでしょう?霊的には生まれ変わっていても、思いまで変わっていないからです。ですから、私たちは聖書のみことばをよく読んで、頭と心の中まで浸透させる必要があります。ヨシュア記1:8「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」最後に、みおしえのとおりに守り行うとあります。

神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになるためには神のみことばが最も役に立ちます。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」私たちの思いを神のみことばに従わせるのです。私たちの思いを神のみことばによってチェックさせていただくのです。そうすれば、思いが変えられ、聖霊によって神のみこころが分かるようになります。

3.賜物によって仕える

 最後に12章後半から、どのように私たちをからだを献げるのかということを学びたいと思います。ローマ12:4-5「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」ここで言われている「からだ」とは、キリストのからだなる教会のことです。多くの器官と言うのは、私たち一人一人の聖霊の賜物のことです。それらの賜物が組み合わされて、1つのからだとして協力し合って働くのです。聖霊の賜物はⅠコリント12章にも記されていますが、ローマ12章のものは独特です。これは、資質あるいは動機の賜物と言われ、超自然的な賜物とは違います。私たちは肉体的にこの世に生まれた時から、性格や好みが与えられています。それと同じように、聖霊によって新しく生まれた時に、何をしたいのか資質の賜物が与えられると言うことです。つまり、聖霊が与えた霊的な性格と言うことができます。今から上げる7つの賜物は、その人が興味あること、したいと願うこと、その賜物を用いると喜びを感じるというものです。12章6節から記されていますが、1つずつ上げたいと思います。

第一は預言の賜物です。神の御心をはっきりと察知する人であり、旧約聖書のような預言者の気質(関心)を持っています。この人はものごとを、善か悪、正しいか正しくないか分けたがる傾向があります。主の体の目です。聖書ではバプテスマのヨハネとペテロです。教会に悔い改めを与え、霊的なリバイバルをもたらす人です。注意点は、罪と罪人を区別せずに、すぐにさばいてしまう傾向があります。すべてを善か悪で見ようとして、妥協できなのです。この人のガイドラインはローマ12:9「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい」です。

第二は奉仕(管理)の賜物です。他の人に仕えることを非常に好みます。目に見える兄弟の必要(物質的な必要)に非常によく気がつき、率先してそれを行ないたいと思う人です。主の体の手です。聖書でははパウロによく仕えたテモテです。注意点は、奉仕にとらわれるあまりに、真の意味を見失うことがあります。ルカ10章で、姉のマルタはもてなしのために、気が落ち着かず、マリヤが手伝っていないことを不満に思いました。こういう人はへたをすると奉仕に疲れ、教会や牧師を恨んで去っていく場合があります。この人のガイドラインはローマ12:10「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」です。

第三は教えの賜物です。真理を探究し、伝えることを好みます。心の中に、真理を探し続けたいという強い願いがあります。ものごとを、「真理か偽りか」見分けたがる傾向があります。主の体の頭脳です。聖書を深く研究し、それを理論立てて教えることができます。聖書ではルカ、アポロ、エズラです。注意点は教理にとらわれ、柔軟な適用ができません。学問に深く入りすぎて、実際に必要なものを教えない傾向があります。また、資料情報が間違っていても、「自分が調べたこと以外は真理でない」と他の説を認めない頑固なところがあります。この人のガイドラインはローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」です。ルカは学者だけではなく、よく祈り、聖霊に満たされた人でした。

第四は勧めの賜物です。他の人が勝利の生活を送れるよう、勧めることを好みます。クリスチャンの霊的成長を助けたいという強い願いがあります。この人の関心事は人々の霊的状態です。主の体の口です。この人は教理よりも、適用とか応用面に興味があり、詳しく探求することは得意ではありません。この人は人々の霊的状態を即座に把握し、今後どこに進むべきかを知り、霊的ゴールを立てることができます。聖書ではバルナバとパウロです。注意点は、熱心さのあまり、会話に割って入ろうとするので、他の人の不満の原因になります。また、この人は変わりたいという努力が見られなければ、カウンセリングを止めてしまうでしょう。自分のアドバイスを実行してくれない人には興味が湧かないのです。この人のガイドラインはローマ12:12「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」です。

第五は分け与える賜物です。他の人の益になるような資力(お金や持ち物)を惜しみなく与えます。神様の入り用に備え、ささげる心の動機があります。「寄付する人」とも呼びます。主の体の腕です。聖書ではアブラハムとマタイです。什一献金を強く確信しており、その他の献金も惜しみません。この人のガイドラインはローマ12:13「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい」です。栄光のためにささげるなら、神様がさらに満たして下さるでしょう。

第六は指導の賜物です。組織だて、導き、指導することを好みます。神様の御国(教会)のために、群れを目標までどういうふうに導くかに関心があります。主のからだの肩(聖書では権威を表わす)です。この賜物は「監督する人」とも言い、人々を組織し、長期的な目標に向かって仕事する人です。聖書ではヨセフとネヘミヤです。この人のガイドラインはローマ12:14,18「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。…自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」です。

第七は慈善の賜物です。必要な人に愛、あわれみ、思いやりを示します。心のメガネが愛であり、傷ついている人や弱い人や小さな人に関心があります。主のからだの心臓です。人の苦労や痛みがわかり、また人の痛みをいやすことができます。そして、この人は他者にも個人的で純粋な愛を求めます。聖書ではルツと使徒ヨハネです。現代においてはマザー・テレサでしょう。この人のガイドラインはローマ12:15「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」です。この人は、重荷を負いすぎたり、同情に流れやすい傾向があります。

私たちは12章1節で神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」と言われました。やみくもに献げるのではなく、聖霊によって与えられた霊的な傾向性をわきまえて献げるのです。また、一人一人が違うということもわきまえ知る必要があります。そうすれば、キリストのからだなる教会の中にあって効果的な働きができるのです。きょうはからだを献げること、思いを変えること、そして聖霊の賜物によって仕えることを学びました。