2011.08.21 なだめの供え物 Ⅰヨハネ2:1-6

先週、お話しましたが、私たちが罪を犯してなくすものは、神さまとの交わりです。しかし、私たちが罪を犯しても永遠のいのち、神の子である身分は失いません。罪を犯してなくすのは、神さまとの親しい交わりです。でも、私たちがその罪を神さまの前で告白するならば、御子イエスの血によって赦され、すべての悪からきよめられるのです。そして、きょうからⅠヨハネ2章に入りますが、この手紙が書かれた目的が記されています。2:1「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」アーメン。でも、私たちは罪を犯してしまうかもしれません。そのために、神さまは私たちにすばらしい恵みを与えておられます。

1.神さまの2つの備え

もし、私たちが罪を犯すならば、神様は2つのものを私たちのために備えておられます。第一は何でしょうか?Ⅰヨハネ2:1後半「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」アーメン。義なるイエスさまは、私たちの弁護人でもあります。神さまがいて、罪を犯した私たちが神さまの前に立っています。だれかが私たちを訴えています。検事役はあなたの被害者、あるいは悪魔かもしれません。黙示録12章に、悪魔は「日夜、兄弟たちを神の御前で訴える」と書いてあります。よく、人々を訴える人、さばく人がいますが、悪魔に加担をしているかもしれません。私たちは罪を犯して、こちらに非がある場合、訴えられると弱いですね。100のうち、こちらに10でも、非があれば、訴えられる可能性があります。交通事故でもよっぽどのことでない限り、100-0にはなりません。自動車が動いているなら、80-20、60-40とかになります。保険屋さんから「絶対に、『こっちが一方的に悪うございました』と言ってもいけないし、一筆書いてもいけない」と注意されたことがあります。当人同士で争うよりも、保険屋さんに間に入ってもらう方が楽です。あっちは、プロですから、どうすべきか連絡したら良いですね。

それはともかく、私たちが罪を犯した場合、過失なのか、魔がさしたのかどちらか分かりません。私たちは告発され、神さまの前にうなだれて立っています。でも、どうでしょう?神さまの前で弁護してくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。ハレルヤ!弁護者は、ギリシャ語では、パラクレートスです。 これは、「援助者として呼ばれたる者、人のために語る者、調停者」という意味です。世の中の弁護人は、お金にならなかったり、不利な弁護はあまりしないでしょう。しかし、義なるイエス・キリストは「私たちをなんとか助けたい」という聖い動機をお持ちです。神さまと、私たちの間に立って、「この兄弟(姉妹)は、これこれ、しかじかで、このような罪を犯してしまいました。本当はこういう状況だったのです。兄弟も罪を告白していますので、どうかお赦しください」と謝ってくださる。すると、そばにいた私たちも、「どうもごめんなさい」と一緒に頭を下げます。イエス様が一緒に謝ってくださると、こっちも一緒に謝りやすいですね。子どものとき、悪いことをして、お母さんか、お父さんが一緒に謝りに行ってくれたという記憶はないでしょうか?隣の窓ガラスを割ったとか、友だちに石を投げて傷つけたとか?親が一緒に行ってくれるとありがたいですよね。ある場合は、弁償しなければならない時があります。子どもにはお金がないので、親が相当の金額を弁償するか、実物を弁償する場合があります。数年前、うちの子供が自転車で黒いベンツの横っ腹に当ったことがあります。「うぁー、よりにもよってベンツか?」と両手で頭をかかえました。そのときは、山澤兄弟の口ききで、安く修理してもらいましたけど、本当に弱りました。このように、口で謝っただけでは、すまない、弁償しなければならない時もあります。そういう場合はどうするでしょうか?

それが、Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」イエス様は私たちを弁護してくださるだけではなく、その罪さえも償ってくださるお方だということです。「なだめの供え物」は、ローマ3章にもありますが、イエス様が、私たちが贖いを受けるための犠牲になったということです。「なだめ」というと異教的な意味あいにどうしてもなります。元来のことばは、「ヒラスモス」であり、契約の蓋から来ています。年に一度、贖罪の日、大祭司によって、契約の箱の蓋に、贖いの血が注がれました。金のケルビムが両側から、その血潮を仰いでいる姿になります。Ⅰペテロ1:12「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」と書いてあります。まさしく、イエス様は十字架で血を流し、私たちの罪のためのいけにえとなってくださいました。その血によって、罪に対する神さまの怒りがなだめられたのです。神さまは「キリストの血のゆえにもうさばかない」とおっしゃるのです。なんとすばらしいことでしょう。弁護してくださるお方が、同時に、私たちの罪の代価を支払ってくださるとは!

しかし、私たちクリスチャンのためだけではありません。ここには「私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」とあります。ジョン・カルバンは「イエス様の贖いは、救われる人だけのものである」と限定しました。しかし、聖書を良く見ると、イエス様は信じない人のためにも、血を流し、なだめの供え物となったということです。ある神学者たちは、「だから、イエス様を信じなくても、すべての人が救われるんだ」とまで言います。そこまで行くと行き過ぎです。ギリシャ語で贖いということばが2つあります。1つはアゴラゾーで、「贖われた」という意味です。これは「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払うという」ニュアンスがあります。もう1つはエクサゴラゾーということばがあります、贖うというアゴラゾーに、エクス(~の外へ)という接頭語がついたものです。ただ単に代価を払うというのではなく、「奴隷市場から外へ連れ出す」という意味があります。つまり、こういうことです。2000年前、イエス・キリストが全人類の罪の代価を支払われました。しかし、それだけで、すべての人が救われるわけではありません。キリストを救い主と信じ受け入れて、初めて人は救われるのです。信じない人は、代価が支払われたにも関わらず、まだサタンの奴隷市場の中につながれたままなのです。ですから、宣教、伝道とは、「あなたの罪はイエス・キリストによって既に支払われていますよ。イエス様を信じて、そこから出てきなさい」ということなのです。人類にとって、これほど良い知らせはありません。ハレルヤ!私たちクリスチャンにとっても良い知らせは、信じた後からも、贖いの代価は有効であるということです。イエス様が、私たちが犯すであろう一生分の罪まで、前もって贖ってくださったことを感謝します。

2.神さまのテスト

Ⅰヨハネ2:3-6「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」この世の中には、「私は神様を信じています」あるいは「私はキリストを信じています」という人がいます。私たちは「うぁー、それはすばらしいことですね!」と喜ぶでしょう。おそらく、その次の質問は「どこの教会に行っていますか?」でしょう。すると、「いゃー、私は教会には行っていません。でも、私はクリスチャンです」と答えるかもしれません。教会に行っている、行っていないで、本当のクリスチャンなのかどうか分かりません。面白いことに、ヨハネはここで「信じる」と言うことばを使っていません。その代わり、「神を知っている」という表現をしています。ここでいう「知る」は、頭の知識ではなく、夫と妻の親密な関係を表す「知る」であります。旧訳聖書には「アダムが妻エバを知った」と書いてあります。つまり、神さまと親しい関係にあるということです。もちろん、それは信じると言い換えても結構です。でも、ここで、「本当に神さまを知っているの?本当に神さまを信じているの?テストしたい」と言っています。実際、英国の聖書には3節と6節に「ここに、こういうテストがあります」と2回記されています。テストというよりも試金石かもしれません。では、どういう人が、本当に神さまを知っている、あるいは信じているのでしょうか?

第一のテストは3節「神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」とあります。4節「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者です」とあります。神の命令とは何でしょう?命令は「戒め」「律法」とも訳せることばです。出エジプト記には有名な十戒が記されています。昔、座間キリスト教会で、礼拝のテープを全国に発送する奉仕をしていました。その中に、埼玉県浦和市の三崎さんというパン工場の社長さんがテープを注文しておられました。一度、お会いしたことがありますが、とても上品なご婦人でした。テープの奉仕をしている私たちに、お菓子など、よく差し入れを送っていただいたことがあります。三崎さんは、パン工場を経営しながら、里親になられています。確かあの頃は、8人目だったように記憶しています。お会いしたとき、私は「その子どもたちに何を教えられるのですか?」と質問しました。すると、三崎さんは「はい、最初に十戒を教えます」とお答えになりました。私は恵みで救われ、恵みの一本漬けだったので、「随分、厳しいお人だなー」と思いました。また、その当時、一緒に奉仕していた、関根音楽主事に聞きました。「子どもたちに一番、大切なこととして教えていることは何ですか?」と。すると、「はい『父母を敬え』です」と答えてくれました。このときも、びっくりしました。また、その当時、滝元明先生が全国を回り、火を吐くようなメッセージをしておられました。滝元先生は日本人が犯している偶像礼拝と姦淫の罪をものすごく強調しておられました。「うぁー、なんと怖い人なんだろう」と思いました。その後、私は亀有教会の牧師になりましたが、恐ろしくてしばらく先生を招待できませんでした。その当時、日本基督教団の教会は、仏壇をお家にもっている人が結構いたからです。亀有にも仏壇を引き継ぐことになって、教会から離れた方が何人かおられました。「十戒?」なんときびしい戒めでしょう。でも、神さまを知っている、信じている人は、神さまの戒めを守る人であります。これが本当に信じているか、信じていないかのテスト、試金石であります。

第二のテストは、みことばを守っている人です。5節に「みことばを守っている者なら、神のうちにいることが分かる」と書いてあります。十戒とみことば、どこが違うのでしょうか?イエス様はヨハネ14:23「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」と言われました。イエス様に言わせますと、イエス様とことばは同じであります。イエス様に従うということは、イエス様のことばに従うということです。イエス様のことばと十戒、どっちが守るのが大変でしょうか?どっちが守るのが楽でしょうか?多くの人たちは、「イエス様のことばが楽でしょう」と答えるかもしれません。しかし、山上の説教を見ますと、十戒よりも厳しいです。「ばか者」と言っただけで地獄行きです。私などは何百回言ったか分かりません。憎んだだけで、殺人と等しいなら、何十人殺して来たでしょうか?情欲をもって異性を見るだけで姦淫であるなら、何百回、姦淫を犯したでしょうか?うぁー、イエス様のことばの方が厳しいです。でも、どうでしょう、イエス様を信じ、イエス様を愛していると、だんだん、守ることができるようになります。気付かないで罪を犯しているときもありますが、聖霊様が優しいお声をかけて、守ってくださいます。あるご婦人が牧師先生のところへ泣いてきました。「先生、私は何度も何度も、罪を犯してしまいます。もうしませんと誓っても、また誘惑に負けて、罪を犯します。もう、イエス様は私のことをあきれ果てて、赦してくれないのでしょう。こんなに罪を犯すなんて、先生、私は本当に生まれ変わっているのでしょうか?先生、私は、本当は救われていないのではないでしょうか?」そのとき、牧師はどう答えたら良いか迷いました。しばらくしてから、姉妹に質問しました。「あなたはそれでもイエス様がいりますか?それともイエス様はいりませんか?」。姉妹は泣きながら答えました。「先生、もちろんイエス様が必要です。イエス様がいなくては生きてゆけません」。牧師先生は、「それだったら、あなたは救われていますよ。イエス様にすがっていけば、やがて、罪から解放されますよ」と言いました。

第三のテストは、6節「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」これは最も、難しいですね。ある人たちは、「キリストのようになるんだ」と一生懸命がんばっています。『キリストのように』とか『キリストに倣いて』という有名な本があります。本の内容は忘れましたが、キリストの品性を真似ることはとても大変です。イエス様は「7度の70倍を赦せよ」とおっしゃったのですから、私たちもどこまでも寛容に人の罪を赦さなければなりません。「あなたはイエス様のようになりたいのですね?」「はい、イエス様のようになりたいです」「では、私がお手伝いしてあげましょう」と言って、「ぴしゃ」とほっぺたを叩きました。「何をするんだ!」と怒ろうとしますが、「イエス様だったら、もう片方も差し出すんじゃないですか?」「ああ、そうだな」すると、その人がまた「ぴしゃ」とほっぺたを叩きました。「わざとだろう!」「いやー、ごめんなさい。手がすべりました。でも、イエス様だったら赦すんじゃないでしょうか?」「ああ、そうだな」。今度、その人はげんこつで頭を叩きました。「こら、本当に怒るぞ!」「いやー、ごめんなさい。悔い改めます。イエス様だったら無限に赦すんでしょう」。はぁー、3回くらいで、限界ですね。人格的にイエス様の真似をしようとしたら、とても無理です。できません。

では、みことばは何と言っているのでしょうか?「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」「歩まれたように歩む?」歩むとは、生活の仕方、ライフ・スタイルです。そうです。私たちはイエス様の人格をすぐに真似ることはできません。しかし、イエス様がどのように生活されたか、そのライフ・スタイルは真似ることができます。新約聖書を読むと、イエス様がどのように歩まれたか、書いてあります。私たちがイエス様の生き方を真似ていけば、結果的に、人格がイエスさまに似たものとなるのです。ところで、みなさんはこの夏休みをどのように過ごされたでしょうか?私はクリスチャンの青写真、「伝道・養育・弟子・リーダー」と4段階になるテキスト、計128ページを作りました。これは、今まで学んできたことの集大成です。ある人から、「先生、60歳になったら、気力がなくなりますよ」とおどされました「そうか、気力が落ちるのか」と思い、一心発起しました。4つできたのであります。私も嬉しいですから、30名くらいの先生にファイルをお送りしました。「ありがとうございました!」と2,3名しか返事が来ない。「何だかナー、自己満足かなー」とガッカリしました。あとから、さらに返事は着ましたが、みんな夏休みだったんですねー。小笠原先生は「がんばっているねー」と励ましのお電話をくださいました。尾山先生からは「こんなに暑いのに、そんなにがんばってどうする?」とメールが来ました。もちろん、これは自分とこれからの教会のためにやったことであり、先生方のためにやったことではありません。聖書に「受けることは、与えることよりも幸いなり」と書いてあります。いいんですこれで…。

人間と言うか、私たちは報われないとがっかりします。考えてみれば、イエス様ほど、報われないけれど、人のために仕えたという方はおられないのではないでしょうか?イエス様のライフ・スタイル、生き方は何でしょう。パウロは使徒の働き20:35でこのように言っています。「また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということばは福音書に見ることができません。でも、パウロは誰かから、イエス様のことばを聞いて、自分もそのように働いてきたと言っています。パウロはイエス様の生き方を真似ました。私たちも「これじゃぜんぜん、報いられないじゃないか」と嘆くときがあるかもしれません。でも、「受けるよりも与えるほうが幸いなのです」。ペテロはどうでしょうか?ペテロはⅠペテロ2章で「キリストは不当な苦しみを受けても、このような模範を示された」と教えています。Ⅰペテロ2:22-23「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」ある人たちは、不当な扱い、不当な苦しみを受けると、過剰に反応します。私たちは日常の生活において、怨念晴らしをしたり、怨念晴らしを受けたりします。怨念晴らしを受けたとき、「なにくそー」と仕返しをしたくなります。私は牧師ですが、そういう時があります。みなさんはどうでしょうか?自分の持っている権威や立場を用いて、「なんとか仕返しをしないと気持ちが納まらない」とかないですか?しかし、イエス様はどうでしょうか?イエス様は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」しませんでした。ペテロ自身も、そして当時の教会も、迫害、不当な苦しみを受けていたでしょう。でも、彼らはイエス様を模範とし、イエス様の生き方を真似しました。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」アーメン。「受けるよりも与えるほうが幸いである」「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」この2つだけでも、イエス様から学び、イエス様が歩まれたように歩むならば、多くの悩みが解決するのではないでしょうか?

たとい、罪を犯すことがあっても、私たちには「なだめの供え物」をもって弁護してくださるイエス様がおられます。また、私たちの中には「神の戒め、イエス様のことばを守りたい」「イエス様の生き方に倣いたい」という願いがあります。愛なる神さまは私たちのことを強い御手をもって、守り、導き、報いてくださることを信じます。