先週は十戒を守っている方々の証しを取り上げました。十戒を守ることはすばらしいことです。悪いことでは決してありません。でも、旧約の時代は過ぎ去り、私たちは新約の時代に生かされていることを忘れてはいけません。せっかく救われ、クリスチャンになったのに、相変わらず、旧約の中に生きている人たちがいます。イエス様が十字架につき、あがないを成し遂げられました。私たちもキリストの内にあるなら、何かが変わったはずです。律法自体は変わりません。なぜなら、「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることがない」と書いてあるからです。では、一体、何が変わったのでしょうか?
1.新しい命令
Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」このところに「新しい命令」が2回、「古い命令」が2回、記されています。ヨハネは、「新しい命令ではなく、むしろ古い命令である」と言いながらも、「新しい命令として書き送る」と言っています。ユダヤ人からクリスチャンになった人は、古い命令とは何かピンと来ました。それは、十戒を代表とする神さまの律法です。詩篇119篇では、律法のことを「戒め、おきて、仰せ、みことば、み教え」というふうに置き換えています。私たちは律法、つまり神さまの教えを守り、行うべきであります。では、旧約時代と新約の私たちでは、一体、何が変わったのでしょうか?律法は永遠であって変わりません。変わったのは、神様の前における私たちの立場であります。旧約においては、律法を守らなければ神様の前に義と認められませんでした。罪を犯した場合は、動物の血を流し、罪の悔い改めをしなければなりませんでした。しかし、新約においてイエス・キリストが律法を全うし、律法の呪いから私たちを解放してくださいました。私たちは律法を守り行うことではなく、キリストを信じることによって、神の前に義とされるのです。
私たちはイエス様を信じてクリスチャンになりました。ハレルヤ!でも、相変わらず、律法は存在しています。では、律法は不必要なのでしょうか?律法は道路の標識やセンターライン、ガードレールのようなものです。もし、私たちがセンターラインを超えるなら、対向車線とぶつかるでしょう。制限速度が50キロなのに、80キロで運転したら、事故を起こす可能性が高くなります。また、スピード違反で捕まるかもしれません。このように律法は正しくて、中立的なものです。でも、私たちの中にある肉が、神の律法に対して逆らうのです。頭では「それは、正しいし、守るべきである」ということは知っています。でも、体が言うことを利きません。パウロは「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。…私は本当にみじめな人間です」と叫んでいます。パウロは、また、Ⅱコリント3章で、このように書いています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」文字、つまり律法は、人を殺します。しかし、御霊は人を生かすのです。私たちは肉で、つまり自分の意思や力で律法を守ることはできません。また、神さまも「肉で律法を守るように」とは願っておられません。どうすれば良いのでしょう?それは、神の御霊が私たちに宿っており、御霊の法則、御霊の助けによって律法が守れるようになるということです。だから、パウロは、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」と言っているのです。旧約と新約の決定的な違いは2つあります。第一は、キリストが律法を完成し、私たちを律法の呪いから解放してくださったということです。第二は、聖霊によって私たちの心が新しくなり、聖霊により頼むならば律法の内を歩むことができるということです。私たちの周りには、この世においても、神の国においても、数限りない、法律、律法、規則があります。でも、私たちはこれら2つの恵みによって、律法に縛られないで、自由に生きることが可能なのです。
では、ヨハネが言う「新しい戒め」とは何でしょうか?ヨハネはいつ、イエス様から新しい戒めを聞いたのでしょうか?それはヨハネの福音書に書いてあります。ヨハネ15:12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」。ヨハネ15:17「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」不思議なことに、イエス様は弟子たちに「十戒を守れよ」とか、「父なる神さまを、心を尽して愛しなさいよ」とは命じませんでした。その代わり「互いに愛し合いなさい」と命じました。使徒パウロもガラテヤ書でこう言っています。ガラテヤ5:14「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」「がーん」であります。教会はこれまで、「どのように十戒を新約的に守るべきなのか」探求してきました。また、「神さまを愛するとはどういうことなのか」検討してきました。たとえば、「安息日は土曜日だけど、私たちは日曜日を主日として公の礼拝を捧げるべきである」と決めました。だから、「日曜日に休まないで、仕事をするとは何ごとだ」とさばきました。また、「割礼の代わりに洗礼がある。その洗礼は浸礼でなければならない」と主張する教派もあります。また、「礼拝は神さまの前に出ることであり、正装し、式順にのっとって静粛に行なうべきである。」「聖餐式のパンとぶどう酒はこういうものであり、こういう人しか加われない」。このように、私たちは「神さまをどう愛するべきか」「神さまの戒めをどう守るべきか」を追求してきました。しかし、イエス様はそれよりも「あなたがたは互いに愛し合いなさい。これが私の戒めです」と言われました。教会は、教理や儀式を守ることに努力してきましたが、そのことで互いに争って来ました。残念ながら、互いに愛し合うことは二の次、三の次にしてきたところがあります。
イエス様はパリサイ人や律法学者を大変、嫌われました。彼らは律法を守ろうとしましたが、その代わり、愛はなおざりにしました。ひょっとしたら、今の教会も彼らと同じことをしているのかもしれません。「互いに愛し合いなさい」。これは古い命令を集約した、新しい命令であります。もし、互いに愛し合っているなら、その人たちは神の戒めを守り、また神を愛している人たちなのです。つまり、互いに愛し合っているということは、神さまを愛していることの証拠なのです。「私たちは神さまを愛しています」と言いながら、兄弟姉妹どうし、争っていたならば、その愛は疑わしいものになります。ヨハネ第一の手紙は、できれば話したくない、説教者泣かせの書物であります。説教、メッセージは「何を信じるべきなのか?」というテーマは案外、話しやすいんです。しかし、「互いに愛し合いましょう」というのは、話しづらいテーマです。なぜなら、「あなたは互いに愛し合っていますか?」と問われるからです。教会において、牧師自身が罪を犯す場合があります。その中でも性的な罪は致命傷であります。ある教会で牧師が性的な罪を犯しました。公に悔い改め、数名の牧師の指導のもとで、2年間の訓練期間を過ごしました。しかし、それでも赦されませんでした。なんと、「本当に罪を悔い改めているか分からない」ということでした。私はその教会において必要なのは、罪のさばきではなく、愛であると思いました。ヨハネ8章で姦淫の女性は即、赦されました。イエス様は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今から罪を犯してはなりません」と言われました。それでOKだったのです。でも、教会は、特に性的な罪の場合は赦そうとしないのです。私たちは新約の時代に生きていながら、十字架以前の、律法の時代に逆戻りする傾向があります。
ヨハネは古くて新しい戒めをあなたがたに書き送りますと言いました。古くて新しい戒めとは、互いに愛し合うことです。この命令はイエス・キリストの十字架と聖霊による助けを通過したものです。逆に言えば、十字架と聖霊なしでは、律法で断罪されて死ぬしかありません。私たちは十字架と聖霊以降の新しい民であることを忘れてはいけません。どうぞ、律法主義を避けて、互いに愛し合うという新しい戒めを守ることに、力を注いでいきたいと思います。
2.やみと光
Ⅰヨハネ2:9-11「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」前半は、「兄弟を愛する」という新しい戒めについてお話ししました。後半は、逆に兄弟や姉妹を憎むとどうなるかということです。やみと光については、Ⅰヨハネ1章にも記されていました。やみは、罪を犯している姿であって、神さまとの交わりが断絶している状態です。その背後には悪魔がいます。逆に光は公明正大とか真理を象徴しています。神さまご自身が光であり、その子どもたちは光の内を歩むべきであるということです。ヨハネは、私たちと光であられる神さまとの交わりを強調しています。しかし、ここでは、兄弟姉妹との関係を教えています。つまり、兄弟を愛する者は光の中にとどまり、兄弟を憎むものはやみの中にいるんだということです。教会は「光である神さまとの関係が良ければ、兄弟姉妹との関係はどうでも良い」みたいなところがありました。しかし、ヨハネはそうじゃない、兄弟姉妹を憎むならば、やみが支配し、やみの中を歩んでしまうと教えています。これはどういう意味でしょうか?光の中に移されたクリスチャンが、やみを歩むことがありえるのでしょうか?おそらく、これはこのように考えることが可能であろうと思います。人がイエス様を信じるなら、光であられる神さまのもとに移されます。その人は、全体が光の中にいるわけです。しかし、良く見ると、その人の中に暗い部分もあるということです。ある部分だけが、光が届かない、暗い部分があるという状態です。それは具体的にはどういうことでしょうか?
マタイ7章でイエス様はこのようなことを話されました。マタイ7:1-5「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」たとえば、兄弟のあることについてさばくとします。Ⅰヨハネ2章で言うなら「兄弟を憎む」と置き換えても結構です。兄弟を憎むならば、自分にもやみの部分ができるということです。それはまるで、梁のように自分の目を覆ってしまいます。もし、梁(材木)のようなものが、目の中にあったら、どのくらい正常に見えるでしょうか?10%くらいは見えても、90%は見えないかもしれません。90%が覆い隠されてしまったら、結構、厳しいですね。これはこういうことです。もし、私が兄弟あるいは姉妹を憎んだとします。私もたまにあります。すると、ある部分が暗くなります。そこの部分だけ、見えません。見えないとどうなるか?躓いてしまって、自分も同じような罪を犯してしまうということです。しかし、それだけではありません。同じような罪を犯しても、神さまの赦しやあわれみが受けられないということです。なぜなら、自分がさばいている、あるいは憎んでいるからです。さばくと赦しをいただけない。憎むとやみが覆ってしまう。そこには共通した呪いがあります。
私たちは小さい時に、お父さんやお母さんが自分に対してした悪いことで怒ります。そして、「あんなふうにならならいぞ」「あんなことは絶対しないぞ」と誓うかもしれません。しかし、いざ、自分が親になり、子どもを持つと、同じことをしている場合があります。なぜでしょう?父や母を憎んでいるからです。憎んでいる部分だけやみになるので、つまずいてしまうのです。「そんなことはしない、そんなことはしないぞ!」と思っていても、気がついたら同じことをしている。よく、子どもを虐待している親がいます。その親は好きで子どもを虐待しているのではありません。「あんな親のようにはならないぞ!あんなひどいことはしないぞ!」と強く思っているのに、そうなるのではないでしょうか?それがやみの力です。ヤコブ1:20「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」と書いてあります。怒りや憎しみは、神の義を全うできないということです。李先生に言わせますと「怨念晴らし」であります。今、李先生のもとで「教役者のための学び」を受けていますが、長いです。2010年2月からですから、1年半、16回目の学びが先週ありました。ゴールは逆転勝利でありますが、その前に、どうしても解決しなければならない課題があります。それは怨念晴らしであります。怨念晴らしは、負のエネルギーです。憎しみ、恨み、怒り、「くそー、今に見返してやるぞ!」です。私も昨年の9月で逆転勝利を経験し、光の中で、さわやかな生き方をしています。しかし、時々、やみが覆うときがあります。私のテーマは「不当な扱いを受けると自分の世界が壊れる」であります。悪く言われたり、計画をじゃまされたり、思いがけないことが起こるとやはり、グラグラときます。そのとき、条件反射的に「くそっ」と思います。でも、あのときから「それでも私は壊れない」という信仰がありますので、ほどなく乗り越えることができるようになりました。これは、私のテーマですが、みなさんも、自分はどういうことをされたら、憎んだり、怒ったり、恨んだりするでしょうか?どんなとき過剰反応をするのか、知る必要があります。人によっては軽く見られたり、存在を否定された場合にそうなる。あるいは無理じいさせられた、つまりコントロールされた場合にそうなる。人から理不尽な扱いを受けた場合にそうなる。もし、自分の世界のテーマを知るならば、対処するのが楽ではないかと思います。めんどうかもしれませんが、自分はどういう時に、憎んだり、怒ったり、恨んだりするのか統計をとったら良いと思います。そのところに。神さまの癒しと解放をいただくのです。
ところで、9月18日は神戸のベテル清水教会、井上先生が牧会している教会で奉仕することになりました。同じ日は毛利佐保伝道師がかわりにメッセージをすることになりましたのでお祈りください。井上先生とは24年来の付き合いですが、先生には敵がいません。だれとも争ったりしないのであります。先生の教会は、ついこの間、会堂建築をされました。私のところにも感謝の報告のお手紙が届きました。その中に外部からの献金のご芳名みたいなものがありました。全国の日本基督教団ばかりか、他教団、いろんな方々からの会堂献金がありました。その数、100くらいあったのではないかと思います。井上先生は二代目のクリスチャンです。一代目は私のように荒削りなところがありますが、二代目は温和というか、初めから角が取れています。弱点は迫力に欠ける、灰汁がないことでしょうか。でも、そんなに大勢の人から支援を受けられるというのは、やはり、人と争わないということでしょう。また、井上先生自身が人のことを悪く言っているのをほとんど聞いたことがありません。もちろん、先生にも「あの人とはどうも会わないなー」という人がいるでしょう。でも、先生は表立って争わない。時間はかかりますが、向こうの方から出て行く。そして、教会の一致と平和が保たれるのです。私などは「対決すべきかな?」と緊張するところがありますが、人と争わない平和の道を学ぶ必要があると思います。私は家内から「洗濯もの干してくれた」と言われると、「そんなの聞いてないよ」と、ついけんか腰になります。「節約してね」と言われると、「まるで、俺が無駄使いしているみたいじゃないか」と思います。なんだか、回路が変というか、変なトランジスタが中間に入っているとしか思えません。そのトランジスタを通すと、何か不当な扱いを受けていると感じるわけです。
結論ですが、私たちは全体的には光の中に移されました。神さまの光は絶対であり、クリスチャンであるなら、もれなく神さまの愛と赦しと恵みを受けています。しかし、受ける私たちの側に問題があります。神様は100%愛で愛してくださっても、受けるこちらに欠けがあるので、50%くらいしか届いていないかもしれません。生活がうまくいかないのは、「自分の努力とがんばりが足りないからだ」と思っておられますか。しかし、そうでしょうか?その前に、神さまから来る愛と恵みを十分、受ける必要があるのではないでしょうか?50%どころではなく、70%、80%、90%を受けるならば、もっと変わるのではないでしょうか?また、憎んだり、さばいたりするのではなく、むしろ兄弟愛をもって愛するならどうでしょうか?この世では人間関係よりも、仕事をして生産高を上げる方により力を傾けるでしょう。しかし、互いに愛し合うことに、もう少し時間とエネルギーを向けるならどうでしょうか?これは、職場だけではなく、家庭においても実行可能ではないでしょうか?人間は関係の生き物と言っても過言ではありません。関係がうまく行けば幸福感を得られますし、関係がうまくいかないと不幸になります。今はどうか分かりませんが、昔は、「味の素」の調味料をよく使いました。田舎では、何にでも味の素を振り掛けました。クリスチャンにとって必要なのは、ちょっとした愛を加えることであります。横断歩道を渡るときでも、待っている車に「すみません」と手を上げると、運転手さんも手をあげてくれます。交通整理をしているガードマンに、こちら側も「ご苦労様です」と挨拶すると良いと思います。なぜなら、あのような仕事はとても殺伐としているからです。香港のベン・ウォン師は、スタッフとすれ違うとき、肩をポンと叩いたり、椅子をちょっとだけ蹴ったりするそうです。相手は「ああ、私のことを気にかけているんだなー」と思うそうです。愛するとは、そう大それたことではありません。神さまから受けている愛を、ちょっと分かち合うだけで良いのです。私たちは伝道というと、緊張してしまいますが、親切にすることから初めてはいかがでしょうか?そのうち、語るべき福音がみつかると思います。私たち全体はすでに神さまの光、神さまの愛の中に移されています。神さまの光、神さまの愛を十分いただいて、隣人に少しでも分かち与えていきたいと思います。