2011.12.18「男の子を産む ルカ1:26-35」

「クリスマス」というと馬小屋で生まれた赤ん坊のイエス様というイメージがあります。夜空には星が輝き、御使いが歌い、羊飼いや東の博士たちが訪ねてくるというシーンです。とてもロマンチックで良いと思いますが、聖書はもっと現実的で力強いメッセージを語っています。その男の子に、ダビデの王位が与えられ、やがて永遠の御国を治めます。この方を王として受け入れるなら、御国に入ることができます。神さまはエデンの園ではなく、イエス様が王として治める永遠の御国を私たちに用意しておられます。ですから、「クリスマス」は「王としてお生まれになったこの方をあなたはどうしますか?」という問いかけを与えてくれています。

 

1.御国の王

 

 ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」これは、イエス様が生まれる前に、御使いによってマリヤに語られた預言です。このところから気づくことは、神である主は、その子に、ダビデの王位をお与えになるということです。そして、その子はヤコブの家、イスラエルを治め、その国は終ることがありません。つまり、イエス・キリストが王となって治める永遠の御国があるということです。なぜ、ここにダビデという名前が登場するのでしょうか?それは、ダビデを通して与えられた契約だからです。Ⅱサムエル7:12-13「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この預言の意味は、ダビデの子孫に王国を確立させるということです。ユダヤ人は「メシヤはダビデの家系から生まれる」と、信じていました。だから、盲人のバルテマイは、「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫んだのです。そして、弟子たちもイエス様がローマを倒し、イスラエル王国を復興させてくださると堅く信じていました。しかし、神さまの計画には順番がありました。御国の完成ではなく、まず、御国に入る人々を集めることでした。そのために、イエス・キリストが十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げる必要があったのです。残念ながら、ユダヤ人は、そのことを理解できず、十字架に躓いてしまいました。

 私たち日本人は「王国」という意味をあまり理解できません。昔、邪馬台国という国があって、卑弥呼という女王が治めていたと言われています。3世紀には日本列島に砦の町があったようです。しかし、天皇制、武家社会、民主主義と歴史が進み、王国という意味がよく分かりません。ヨーロッパの国々は、昔は王国でしたが、今では多くが民主主義の国家になっています。国王や王女は象徴になっています。少し前に、ブータンの国王が王妃と共に日本に訪れました。アジヤには国王が実際に国を治めている国がまだまだあります。多くの場合、王様は身勝手なことをして、民衆を苦しめる独裁者になります。しかし、民主主義が本当に理想的な国家を作ることが可能なのでしょうか?国民は税金が安い方が良いでしょう。だから、減税を約束してくれる議員を選びます。国民はあんまり先のことを考えていません。だから、国の借金はかさむ一方です。最近は大阪府と大阪市が注目されています。「独裁」とか「独断」とは言われていますが、ビジョンを持った強いリーダーシップを持った人が求められているようです。実はイスラエルが初めから王国だったわけではありません。イスラエルは神さまが主、つまり王様として治める国でありました。しかし、カナンに移り住んでから、民たちが「私たちをさばく王を与えてください」とサムエルにねだりました。主は祭司サムエルに「あなたを退けたのではなく、彼らを治めている私を退けたのだ」と言いました。サムエルは王様があなたがたを治めたら、どういうことになるか、その弊害を語りました。「息子が兵隊のために取られ、畑の最も良いものが王の家来に与えられる。穀物やぶどう、羊の十分の一が取られ、王の奴隷になるよ」と言いました。それでも民たちは、サムエルの言うことを聞かず「どうしても私たちの上に王がいなくてはいけません」と主張しました。イスラエル第一代目の王様がサウルです。でも、彼は二度も不従順の罪を犯し、王位から退けられました。その後、ダビデ、ソロモンと続きますが、ソロモン王の後は国が北と南に二分されました。その後のことが列王記第一と第二に記されていますが、ひどい王様ばかりです。かろうじて、南ユダ王国のヒゼキヤやヨシャパテは良い王様でした。人間が王になって民を治めてもうまくいかないことが聖書に書かれています。それは中世のヨーロッパの歴史を見てもわかることです。人が一旦、権力を持ったらば、堕落することが歴史から証明されています。

 では、どうしたら良いのでしょうか?神さまの計画は、ご自分の御子イエスが王となって、ご自分の王国を治めさせることでした。そのことが、先週、学んだイザヤ書9章にも記されていました。イザヤ96-7「ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれるその主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」旧訳聖書の神さまは「万軍の主」と呼ばれました。その神さまが、ひとりの男の子をダビデの王座に着かせ、その王国を治めさせるということです。新約聖書では、イエス様が弟子たちに「御国が来るように祈れ」と言われました。それはどういう意味でしょうか?これは、「神が世を治め、神が王としての主権と権力を現わし、神が全世界の王になるように」ということです。ある人たちは、母マリヤに抱かれた赤ん坊のイエス様を思い描いています。しかし、このお方は、御国の王として、初めから来られたのです。マタイ福音書に東から来た博士の記事があります。彼らはヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」と尋ねました。そのとき、ヘロデは恐れ惑いました。その男の子が王様だったら、自分が王でなくなるからです。私たちは、御国に入るためには、イエス様を王として認め、そのご支配に自分をゆだねなければなりません。御国においては、イエス様が王であり、私たちはその民であります。しかし、イエス様は専制君主でもなければ、無能な王様でもありません。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」お方です。愛と正義とによって私たちを正しく治めてくださいます。残念ながら、御国はまだ完成していません。目に見えない神の支配だけが来ています。やがて、キリスト様が再臨されてから、その領土が現れるでしょう。今の時代、「あなたは神と和解し、来るべき御国に入りますか?」という招待状が来ています。招待状とは、別の言い方では御国の福音です。イエス様を信じる者だけが、いのちの書に名前が記され、御国が完成した暁に、栄光のからだをいただいて入国することができるのです。

黙示録には、人々が右と左により分けられる日が来ることが記されています。黙示録2127「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」アーメン。私は何度か、飛行機に乗って外国に行ったことがあります。そこには入国管理局というのがあって、パスポートとビザが必要です。ビザが不要の国もありますが、最低限、パスポートは必要です。パスポートがないと、その国に入れてもらえません。『最後の審判』という絵を何人かの人が描いています。共通しているのは、主イエス・キリストが裁き主として中央に描かれていることです。キリストが永遠の御国に入る者と、永遠の滅びに行く者とを裁いています。絵を見ると、滅びに行かされた人々が崖からよじ登って御国に入ろうとします。ところが、御使いたちが、槍で彼らを突き落としています。下では角の生えた鬼どもが、嫌がる人々を燃える火の中に引っ張って行きます。私たちは生きているうちに、イエス様を御国の王として受け入れる必要があります。選択は本人の自由ですが、世の中にはかけがえのないものというものがあります。ぜがひでも、何を差し置いてでも、御国に入るべきではないでしょうか?マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」デバートのバーゲンセールには、主婦たちがわれ先にと突進します。今の時代は、閉店ギリギリの時刻です。神さまは、閉店の時刻を遅らせてまでも、一人でも多くの人を御国に入れたいと願っているのです。

 

2.御国の備え

 

 私たちの側からは、イエス様を信じて、御国に入るということが必要です。しかし、神さまの方では、私たちを受け入れる準備が必要でした。どんな準備だったのでしょうか?ルカ1:26-27「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」とんで、ルカ1: 34-35「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」その当時、ナザレの町にどれくらいのおとめがいたのでしょうか?ルカは「ナザレという町のひとりの処女」と書いています。しかも、彼女はヨセフと婚約中でした。婚約者がいるなんて、ちょっと厄介です。でも、それゆえにヨセフが彼女をベツレヘムに伴い、そこでお産をすることができました。さらにはヘロデ王から逃れるため、エジプトまで一緒に下ったのですから、神さまの深いご計画かもしれません。問題は「処女から子どもが生まれるかどうか?」ということです。これはクリスチャンであっても、いや、神学者でも信じない人がいます。神さまはなぜ、躓きを与えるような方法で御子イエスを誕生させたのでしょうか?保守的な聖書学者はこのように説明します。もし、ヨセフと自然な関係で生まれたなら、アダムの原罪を受け継いでしまう。救い主には罪があっては身代わりになれない。ダビデの家系を守りながらも、罪から自由になるためには、聖霊の介在が必要だったのです。聖霊は無から有を呼び出す神です。創世記12「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」この時は、地球がまだ出来上がっていませんでした。かたちが出来ていない地球の上を、神の霊が覆っていました。「動いていた」とは、「雌鳥が卵を孵化させようとバタバタ羽ばたいている」状態であります。その時、神さまが「光あれ」と言われました。すると光がありました。それは、聖霊が神のことばによって、光を創り出したということです。この先、同じように神さまがことばを発し、聖霊が物質を創り出すというようになっています。世の中の生物学者が何と言おうとも、処女マリヤは聖霊によってイエス様を身ごもったのです。それ以上でも、それ以下でもありません。聖書に「そうだ」と書いてあれば、私たちは「アーメン」と信じるべきです。

 ルカは医者でした。医者として、イエスさまが人間として生まれ、人間として成長していった様を医学用語で説明しています。たとえば、ルカ240「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。」また、ルカ252にも同じような表現があります。「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」メシヤはどうして、30歳の大人で天から来ないで、赤ん坊としてこの世に生まれたのでしょうか?それはあらゆる年代の代表となるためです。言い換えるなら、あらゆる年代の救い主になるためです。だから、イエス様はおなかにいる嬰児の子どもから、大人の気持ちも分かるのです。ある人は、子どものとき虐待を受け、「私の気持ちなんかだれも分からない」と言うかもしれません。しかし、イエス様は理解することができます。イエス様はナザレの村の人たちから「マリヤの子、私生児」として思われていました。「だから、親戚がいるはずのベツレヘムの宿に泊まれなかった」とエリヤハウスの先生がおっしゃっていました。生まれてまもなく、ヘロデ王から命を狙われ、ヨセフに連れられ、エジプトに逃れました。少し前、ターミネーターという映画がありました。幼子イエス様に、ターミネーターが送られたのです。王になる前に抹殺するためです。そのため、イエス様はナザレというメシヤが出そうもないところで育ったのです。イエス様は30歳まで沈黙の人生を送っていました。父ヨセフが死んだ後は、大工をしながら母マリヤと兄弟たちを支えていたようです。ヨセフとマリヤとの間に、自然に生まれた子どもが少なくとも弟が4人、妹が複数いたと思われます。兄弟たちはイエス様が救い主だとだれも信じませんでした。しかし、ペンテコステの前、「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ祈りに専念していた」とあります。主の兄弟の中の、ヤコブとユダが聖書の書簡を書いています。二人はイエス様の弟ではなく、「主イエス・キリストのしもべ」と紹介しています。イエス様は仕事を持ち、家庭に仕えていました。それは何故でしょう?仕事を聖め、家庭を聖めるためです。中世では、神さまに仕える仕事、聖職者だけが尊いと思われてきました。しかし、ルターは「神さまから召された仕事ならば聖い。それは天職(ベルーフ)である」と言いました。イエス様は、最後、人類の最大の敵である死を経験し、また、その死に勝利されました。

ヘブル人への手紙にこのように書かれています。ヘブル29「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」神の子が御使いよりもしばらくの間、低くされました。イエス様は死の苦しみを受けましたが、「その死はすべての人のために味わわれたものです」とあります。イエス様は本来、不死の神さまでしたが、人間となって死を味わわれました。しかし、それだけではありません。イエス様は死に勝利したのです。ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」私たちは血と肉体を持っているために、必ず死がやってきます。しかし、イエス様は私たちのように血と肉体を持ち、その死によって、死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださったのです。イエス様は死んで復活したことにより、死に勝利されました。それゆえに、死のとげは取り去られたのです。クリスチャンにとって、死は滅びではなく、御国に入る門となったのです。イギリスのチャーチル首相は、非常に熱心なクリスチャンであったことでも知られています。彼は生前、自分のお葬式のプロデュースをしたそうです。「自分のお葬式のときには、こういうプログラムで、こういう歌を歌って、こういう演出をしてほしい」と、プロデュースしました。そして、彼のお葬式には、彼が願ったとおりのことが行われました。聖パウロ大聖堂で荘厳な賛美歌が流れる中、彼の葬儀が淡々と進んでいきました。日本で言うなら、しめやかに行われました。いよいよ葬儀が終わりに近づいた時に、軍人の格好をした人が、ラッパを吹きました。それは軍隊で毎晩吹かれる消灯ラッパでした。つまり、一日の終わりを告げるラッパなのです。「今日も一日終ったぞ。ベッドにつけよ。一日、ご苦労さん」というようなメッセージがこめられて、消灯ラッパが吹かれるのです。つまり、「チャーチルという一人の偉大な人の人生が終ったぞ。ご苦労様」ということです。その演出によって人々が静かに深い悲しみを覚えている時です。今度は突然、起床ラッパが鳴ったのです。「朝だぞ、起きよ」というラッパです。チャーチルはこの演出を通して何を伝えたかったのでしょうか。彼はこう言いたかったのです。「自分は死んだのではない。新しい御国の朝によみがえったのだ。だから、みんな悲しまないでくれ。私は今日、生きているのだ。新しい人生、新しい一日を生き始めたのだ」と。キリストにあって、死は終わりではないのです。

 私たちが御国に入るためには私たちの罪が取り除かれる必要があります。罪があるままでは、御国に入ることができません。イエス様は私たちが持っている罪を取り除くために、最後に十字架にかかって死んでくださいました。ヘブル人への手紙926-28「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」昔、宣教師が作ったトラクト(伝道用のチラシ)には、27節の「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」というみことばだけが書かれていました。死後のさばきだけが強調されていました。そのトラクトを見て、怖がる人はいても、喜ぶ人はあまりいないでしょう。しかし、ヘブル人への手紙が言いたいことは、キリストが、多くの人の罪を負うために一度、死んで、さばきを受けられたということです。そして、たた一度の死によって、罪を取り除いたということです。これが、キリストの初臨です。神との和解を成し遂げるために、人間として来られたということです。しかし、二度目に来られるとき、再臨は、「彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」。それは私たちの滅びた肉体を復活させるために来られるのです。私たちの肉体が、滅びない栄光のからだへと復活することが、贖いの完成だからです。そうすることによって、私たちは永遠の御国に住まうことができるのです。神様は私たちのために、永遠の御国と永遠のからだとを備えてくださるのです。神さまは永遠の御国を私たちのためにご用意されています。そこでは、御子イエスが王です。私たちがそこに入るためには、神との和解が必要です。イエス様は私たちの罪を取り除き、和解を成し遂げるために、この地上に来られたのです。