ただ今、読まれた聖書箇所から、たくさんのクリスマス・キャロルが作られています。ほとんどの讃美歌は、1番、2番、3番と聖書の物語の順番になっています。ですから、クリスチャンにとってはクリスマスのメッセージは、馴染みのものとなっています。語る方も「どこの箇所から語ろうか」と悩んでしまいます。でも、聖書のことばは生きていますので、いつでも新しいメッセージを下さいます。きょうは、「主の使いが何を言い、どんなふうに賛美したか」にポイントをあてたいと思います。
1.大きな喜び
ルカ2:10-12御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」10節に「すばらしい喜び」とありますが、原語では「メガレー」であり、「大きい、巨大な、驚くべき」という意味のことばです。ですから、「大きな喜び」の方が妥当です。また、メガは100万倍という単位でも知られています。今年は、メガ・マックが安く食べられた時がかなりありましたね。ところで、どうして御使いは御子の誕生が、大きな喜びであると言ったのでしょうか?私は3つの意味がここに隠されているように思います。どうして、御子の誕生が大きな喜びなのか?第一は、「きょう」預言が成就されたからです。御子が生まれるという預言は、イザヤ以降の預言者が多く語っています。何百年も待ってきたメシヤが「きょう生まれた」となると、その喜びはいかばかりでしょうか?人間でも10月10日、待って「きょう生まれた」と喜びます。750年も待って、「きょう生まれた」という喜びは、メガ級の喜びではないでしょうか。聖書に「きょう」という言い方が良く出てきます。イエス様はザアカイに「きょう、あなたの家に泊まることにしている」と言われました。ザアカイは時を延ばさずに、すぐ、イエス様をお家にお招きしました。すると、イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」と言われました。ヘブル3:15「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」とあります。ある人たちは、「明日、信じよう」「いつか信じよう」と決断を延ばすかもしれません。しかし、神さまには、神さまの時があります。神さまが「きょう」と言われたら「きょう」なのです。私たちは「きょう」という日を逃してはいけません。私もいろんな失敗や後悔を重ねて生きてきました。しかし、1979年4月15日、「きょう、今晩、イエス様を信じます」と決断できたことは、人生の最も偉大な成果であると確信しています。結構、失敗してきましたが、そういうものはどうでも良くなります。大切なことを明日に延ばしてはいけません。人生において成功する人は、「きょう」をちゃんと生きる人であります。
どうして、御子の誕生が大きな喜びなのか?第二は、すべての民に与えられるからです。10節には「この民全体のため」と書いてあります。日本語が悪いわけではありませんが、英語はfor all the peopleです。人々の前に定冠詞がついていますので、「ユダヤ人のような特定の民たちのためかな?」と思ってしまいます。しかし、私は「救い主を待ち望んでいるすべての民」という意味が込められていると思います。驚くべきことに、天の御使いは最もすばらしい知らせを、野宿をしていた羊飼いに知らせました。羊飼いは一箇所に留まれないので、安息日を守ることができませんでした。そのため、人々から「汚れている」と思われていました。しかし、すべての民の筆頭に羊飼いが選ばれたのです。今で言うなら、夜間に、道路工事をしている作業員やガードマンに現れたということです。本当に寒い中でご苦労様です。ところで、御使い、天使は、「知らせを持ってくる」というアンゲロゥから来ています。天使の大切な使命は、知らせを伝えるということです。今年はアイフォンがとても流行りました。アイフォンはアップルの創立者、ステーブ・ジョブスが発明しました。彼は今年、亡くなられましたが、非常に創造的な頭脳の持ち主でした。「だれでもが情報に平等にアクセスできるように」とコンセプトで、アイフォンとかクラウドが作り出されたそうです。その「だれでもが」に羊飼いが入っています。御使いは、神様から「野宿している羊飼いに御子の誕生を伝えよ」という命令を受けました。神さまの恵みというのは、高いところではなく、低いところに流れるということが分かります。
どうして、御子の誕生が大きな喜びなのか?第三は、生まれた子どもが「主キリスト」だからです。11節には「救い主がお生まれになりました」とあり、さらに、「この方こそ主キリストです」とあります。「主キリスト」という呼び方は、新約聖書中、ここしかありません。生まれた子どもは、救い主であるけれども、主キリストでもあるということです。救い主というのは、「個人個人の罪を贖い、救ってくださる神様」というイメージがあります。クリスチャンであるなら、もれなく救い主イエス様を心に受け入れていらっしゃると思います。でも、「主キリスト」となるとどうでしょう。主というのは、当時、「王様、主人、領主」という意味がありました。しかし、旧訳聖書で主という場合は、全世界を支配しておられる神さまの呼び名です。つまり、「救い主」であると個人的な救いになりますが、「主キリスト」となると全世界を統べ治める王なるキリストという意味合いになります。私たちクリスチャン、教会はどうしても「救い」を個人的なことに捉える傾向があります。そして、社会や政治は世の中、任せというところがあります。しかし、主キリスト様は世界を治める王様です。つまり、主キリスト様は、個人だけではなく、全世界の希望なのです。日本の今年の政治を振り返ってみてどうでしょうか?東日本の大震災で大きく狂ってしまいました。津波の被害が、原発にまで及び、国家予算がいくらあっても足りません。どこからそのお金を持ってくるのか?いろんな政策を立てましたけど、国会で通ったものは1つもないということです。日本は、ビジョンを持った指導者がいないのでこうなっているのかもしれません。日本の希望、日本の救いは、全世界を統べ治める王なるキリストから来るのではないでしょうか?イエス・キリストは主であり、個人の救いだけではなく、国家の世界を正しく導く、主なる神さまです。ですから、本来なら国をあげて、主イエス・キリスト様を仰いで、助けと導きをいただかなければならないのです。
アフリカのウガンダとロシアの隣の国ウクライナは、「聖書を土台とした政治でなければ」と立ち上がりました。牧師が大統領を助け、議員にも多数のクリスチャンがいます。残念ながら、2010年にウクライナは大統領が代わり、ロシア寄りに逆戻りしたようです。台湾でもクリスチャンの総統が多く立っています。韓国の場合は、最近の大統領はクリスチャンです。なんとか日本も、聖書を土台とした政治を行なえるように祈っていきたいと思います。日本の教会はマイノリティ、少数派コンプレックスがあります。だから、どうしても小さく、狭く考えてしまいます。私たちの信じている神様は世界大、宇宙大の神さまです。今年の10月、『二つの翼』という韓国の弟子訓練セミナーを終了しました。そのとき、講師のキム・ソンゴン牧師は「21世紀リーダーの座右の銘」ということを話してくださいました。第一は、世界的に考え、地域的に行動する。第二は、世界的な夢を持つが、自分の場所から夢をなす。第三は、一番地域的なものが、一番世界的なものになれる。第四は、単純なグローバルではなく、グローカル(グローバルとローカル)を持たなければならない。最も世界的であり、最も地域的である。第五は、自分自身をしっかり治める(管理する)とき、他の人も治める(管理)できる。つまり、世界と地域、世界と個人の両方の目を持つということでしょうか。イエス・キリストは個人の救い主ですが、同時に世界の主キリストです。クリスマスの喜びは、個人の喜びでもありますが、すべての民に与えられる大きな喜びでもあります。
2.大きな賛美
ルカ2:13-14 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」羊飼いたちに、御子の誕生を知らせた御使いはお一人です。その直後、多くの天の軍勢が現れて、神さまを賛美しました。「天の軍勢」とは、天使の軍隊です。ふだん戦いにあけくれている天使が、賛美に駆けつけたということです。私たちは、その前に霊の世界がどうなっているのか知る必要があります。まず、天使たちは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」と賛美しました。「いと高き所」とは、神さまがおられる第三の天のことを意味します。「天は7つある」という人もいますが、ここでは単純化したいと思います。パウロは第三の天に上って、イエス様から直接、啓示を受けた人です。たまに、そういうところに引き上げられる人がいます。うらやましいですね。そして、天使たちは「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美しました。「地の上」つまり、地上は第一の天です。ここには物質があり、生物や人間が住んでいます。地上は自然科学の法則が支配する場所です。目で見て、手で触れる、三次元の世界です。しかし、「第三の天」と「第一の天」の間に、中間層があります。パウロはエペソ2章で「空中の権威を持つ支配者」と言いました。つまり、神様がおられる「第三の天」と私たちが住んでいる「第一の天」の間に、「第二の天」があるということです。「第二の天」こそが、悪霊と天使が活動している場なのであります。そして、目には見えませんが、悪しき霊と神からの天使が日夜、戦いを交えています。悪しき霊は、親分であるサタンと共に、人間を苦しめるために働いています。一方、天使は神さまから命を受けて、神の子たちを守り、導いています。目には見えませんが、天使は私たち神の子らのために働いているのであります。そして、天使たちの中には、もっぱら戦いに従事している軍隊があるということです。その軍勢が、今宵こそは、御子の誕生に駆けつけ、賛美したということです。ベートーベンのレコードジャケットに天の軍勢が賛美している中世の絵を見たことがあります。天使は賛美だけではなく、竪琴やリュートを奏で、トランペットを吹いています。自衛隊の中にも「音楽隊」というのがあるでしょう。行進しながら、いろんな楽器を奏でます。荒くれの天使たちが、その時だけは、賛美したり、楽器を奏でて、御子イエスの誕生を祝ったということです。ハレルヤ!ある人は、「あまりにも大勢の天使がベツレヘムに出現したため、天は空っぽになった」と言っています。天使たちが、総動員で、賛美したのですから、それは、それは、大きな賛美であったと思われます。
次に、賛美の内容を見ていきたいと思います。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」とはどういう賛美で、どういう願いでしょうか?これは、天使たちの賛美でもあり、願いでもあります。いと高き所とは、神さまがおられる天のことです。その神さまに必要なもの、当然あるべきものとは何でしょう?「栄光」です。栄光は神さまだけのものであり、神さまに当然あるべきものです。私たちは神さまの被造物ですから、やはり、神さまの栄光をほめたたえ、神さまに栄光があるように願わなければなりません。たとえば、私たちが毎週、祈りと共に賛美している「主の祈り」はどうでしょうか?第一に来るものは「御名があがめられるように」であります。これは父なる神さまがほめたたえられ、栄光があるようにという意味です。私たちは、このように毎週、主が復活した日を覚えて、公の礼拝をささげています。しかし、初代教会の頃は、毎日、宮で礼拝をささげ、家々でも礼拝をささげていました。毎日、礼拝しても良いのです。そして、礼拝の目的は、「御名があがめられるように」と願い、賛美することです。私は最初、保守的な教団に属していましたので、「聖日礼拝を厳守しなさい」と言われました。これは律法ですから、本来的にはおかしいのですが、恵みとして受け止めたので良かったと思います。私はクリスチャンになってから日曜日の礼拝を中心に生きるようになりました。一週間の頂点が、日曜日の礼拝です。ですから、なんとか日曜日の礼拝をささげられるようにスケジュールを調整しました。数年後、直接、献身をしましたので、それが当たり前になりました。牧師としてメッセージを取り次いでいますが、「まず、自分自身が神さまを礼拝するんだ」ということを忘れていません。優先順位ということばがありますが、「御名があがめられるように」と神さまを第一にすると、他のことがらがなんとかなっていくことも事実です。第一のものを第一とする。これは、生活に背骨ができるということです。第一のものを第一としないならば、イカやタコのようにぐにゃぐにゃになります。時間においてもお金においても、「第一のものを第一とする」なら、何とかなるものです。主日礼拝のときだけではなく、日々の生活の中で、「御名があがめられるように」と願い求めるならば、何と幸いでしょうか。幸いが追いかけてくるでしょう。
次に天使たちが賛美し、願ったことが「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」ということです。戦いにあけくれている天の軍勢が、地の上に平和があるように願っているのです。おそらく、天の軍勢は地の上が平和であるように戦っているのかもしれません。しかし、悪の力が増して、戦争や飢餓、さまざまな天災が襲って人々を苦しめています。今年、起きた3.11の東日本大震災と津波は聖書的にどう考えたら良いのでしょうか?ある人は、「人間の強欲がそうさせた」と言いました。また、ある人は「神さまがいるなら何故、あんなことが起きたの?」と恨んでいるでしょう。根本的な理由は、人間が神さまから離れたために、自然界が人間の言うことをきかない状態になっているということです。日本は4枚のプレートがぶつかり合っている、地震大国です。日本国内の活断層も数え切れないほどあります。ちっちゃな日本が、これまで海の上に浮かんできたのも不思議です。この度の大地震は科学的には、プレートどうしのエネルギーが高まり、あるときに放出せざるを得なかったということです。しかし、霊的にはサタンがそれを用いたということです。大勢の人の命が失われ、原発事故まで起きました。そこには人間の不注意さもあったかもしれませんが、悪魔が最悪になるように手を伸ばしていたということも否めません。悪魔はある程度、自然界に介入することができます。福音書で、イエス様がガリラヤ湖で起きた突然の嵐に「静まれ、黙れ!」と命じたのもそういう意味があります。悪魔は船に乗っているイエス様と弟子たちを嵐によって、亡き者にしようとしたのです。では、神さまは私たちに何を願っておられるのでしょうか?世の終わり、世界各地に大地震が起こることが預言されています。この地上は永遠に続くものではありません。ですから、悔い改めて、神さまと和解しなければなりません。キリストを信じて、永遠の御国に席を置くこと、これが究極的な平和です。
しかし、私たちは一定の期間、地上で生活をしなければなりません。天使たちは、地の上に住む私たちに平和があるようにと賛美し、祈っています。聖書で言われている「平和」は「戦争がないように」という政治的な意味だけではありません。平和はヘブル語ではシャロームと言いますが、そこにはいろんな意味が含まれています。平和、繁栄、健康、和解などの意味が含まれています。イスラエル人にとって、平和は人間生活における、すべての恵みを表しています。これこそ、神さまのわざ、神さまの賜物だということです。今年は、みなさんにとって平和、平安な年だったでしょうか?やはり、3.11の東日本大震災と津波が、あらゆるところに影響を与えたのではないでしょうか?直接、被害に会わなかった人でさえも、悲しみと痛みを覚えたことと思います。原発事故も伴い、本当に日本中が揺り動かされた年でした。この先も、目途が立たない地域がたくさんあります。私たちは、神様のふところで生きるならば、どういう状況の中でも、平和、平安を見出せるのではないかと思います。韓国のある金持ちが「平安」というテーマで二人の画家に絵を描いてもらいました。自分が気に入った方を高価な値段で購入すると約束して、描かせました。一人の画家は、静かな湖面に二羽の白鳥が浮かんでいる絵を描きました。朝もやの中に、二羽の白鳥が仲睦まじく泳いでいる。いかにも、平和、平安を思い起こさせる絵です。もう一人の画家は、全く別の絵を描いてきました。ごうごうと落ちる大きな滝が全面に描かれています。右に目をやると、一本の木の枝がすっと伸びていました。なんと、その枝に巣があり、親鳥がヒナに餌をやっています。ヒナは親鳥のもとで安心していますが、水が当るならば、巣ごと滝つぼに落ちてしまうでしょう。金持ちは、後者の絵を買ったそうです。
我が家では、18年生きていたクルという猫が死にました。その猫から学んだ一番のことは「平安」であります。クルは我が家で生まれたので、自分が人間の一人だと思っていたのかもしれません。気性がおとなしく、食べては、外で日向ぼっこしていました。主人である私がドアを開けたり、餌を与えたり、ある時はおしっこをひっかけたところを拭きました。本人は全く、心配せず、いつもゴロゴロ言っていました。しかし、高齢なのか急に食欲がなくなり、階段も上り下りするのがやっとになりました。動物病院に行って注射を打ってもらいましたが、回復しませんでした。いよいよ、歩けなくなっても、私たちが傍に行くと、ゴロゴロ言っていました。最後は、家内が看取り、真夜中、亡くなりました。クルは、ぜんぜん、明日のことを心配せず、死ぬまで生きたという感じです。私たち人間は彼らよりも高度なので、ちょっとしたことが起きると心配し、平安でなくなります。本来なら、父なる神さまのもとで、安らげるはずなのに、すぐ平安をなくします。イエス様は「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」と言われました。野の草は炉に投げ込まれるまで、ソロモンの栄華よりも、着飾っています。それは、神さまが野の花を装っていてくださるということです。私たちはたとえ明日、いや、今晩、命が取られることがあっても、神さまは野の花よりも、良くしてくださるのです。私たちにとって、死はすべてを取り去る最も恐ろしいものです。でも、神さまが生死の主権を握っておられます。イエス様が死に勝利したのですから、私たちは地上で最後まで生きれば良いのです。あとは復活があるだけです。大切なのは、生かされている限り、主をあがめ、地に平和がくるように働くことです。最後の一息まで、主を信頼し、主をあがめ、平和がくるように願い求めたいと思います。