新年のメッセージはローマ12章から語っています。12章の前半はおもに神さまの賜物について書かれています。そして、12章後半はそれらの賜物を動かすための心構えについて書かれています。心構えとは、私たちの気持ち、態度ですから、私たちに責任があります。元旦では、熱心さを保つことを学びました。そして、本日は希望を保つことについてお話したいと思います。希望はまるで風船のようなものです。膨らむ時もあれば、縮むときもあります。また、あるときは、バーンと破れてしまう時もあるでしょう。みなさんの希望の風船は膨らんでいるでしょうか?それともしぼんでいるでしょうか?
1.望みを抱く
もう一度、ローマ12:12をお読みいたします。「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」原文を直訳したある聖書はこう訳しています。「希望の中で喜び、苦しみの中で耐え、祈りの中でぐらつかず辛抱するように」と。in hope, in affliction, in prayerと語呂合わせしています。「希望の中で喜ぶ」と訳すならば、希望がなければ喜べないことになります。私たちは色んなことを望み、色んなことを希望して生きています。「将来、ああいうふうになれたらならなー」と憧れます。「いつか、あれを持ちたい、あれを買いたい」と望むかもしれません。「お年玉もらったら、あれを買いたい」とかあったでしょうか?あるいは、「こういうふうになったらなー」と何かを目指すかもしれません。すると、自然と喜びがわいてきます。夢や希望を抱くことはとても楽しいことです。しかし、現実はどうでしょうか?箴言13:12「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」望みがかなえられたら、うれしくて喜びいっぱいになります。しかし、なかなかそれが叶えられないと心が病んでしまいます。心が病むとは、おそらく、失望落胆するということでしょう。失望落胆がひどくなると、鬱になったり、自ら命を絶つ場合もあります。残念ながら、多くの人が失望落胆でやられています。日本の牧師たちも例外ではありません。教会がなかなか成長しない。あれだけやったのに、ビジョンが実現しない。日本で一番多い教会の人数は、20名台だそうです。30名いかなくて、苦しんでいます。サタンが一番、用いる道具は何でしょうか?何千年も、この道具を使って、神の人さえも倒してきました。人々を倒せる最も成功率の高い道具とは何でしょう?それは「失望落胆」です。何度も、何度も、その道具を用いているので手垢がついて汚れています。
みなさんの中でも、長い年月、チャレンジしてきたのに思いどおりならなかった。「ああ、もうやめてしまおうか?」「もう、諦めてしまった。」「もう、その話はよしてくれ。」そういうものはないでしょうか?どうして、私たちは思い煩ったり、イライラするのでしょうか?それは目標の立て方に問題があるからではないでしょうか?「ああなったらいいなー、こうなったらいいなー」と、私たちはいろんなことを望んだりします。何故、思いどおり行かないのでしょうか?それは、自分の思いどおりにならないことを望んでいるからです。私たちは自分の思いどおりにならないものと、自分の思いどおりになるものとを分ける必要があります。自分の思いどおりにならないものとは、他の人が噛んでいる望みです。たとえば、子どもがこうなったら良いのに?妻あるいは夫がこうなったら良いのに?牧師だったら、教会がこうなったら良いのに。国がこういうことをやってくれたら良いのに。これらのものは相手がいますので、自分の思いどおりになりません。子どもも夫や妻も、教会員すらも、自分の敵になります。自分のやりたいことを邪魔するかもしれせん。人を動かしたり、人を変えるということはものすごくエネルギーを費やします。そういうことをしている人は、いつも思い煩ったり、イライラして過ごしているでしょう。私たちは目標を他の人が噛まないものに変えるべきです。だれも、邪魔することができない望みとは、自分に関することです。柔和で良い母親になることはだれも妨げることはできません。自分が忠実な会社員になることは、だれも妨げることはできません。自分が神さまと人々を愛する牧師になることはだれも妨げることはできません。私たちは境界線を超えて、他の人の責任、他の人がやることにクビを突っ込んでいる可能性があります。そうです。境界線を設け、自分の思いどおりになるところから始めるべきです。「ヤベツの祈り」というのがありました。Ⅰ歴代誌4:10「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」彼は、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈っています。もし、神さまが地境、境界線を広げてくださるならば、その範囲まで関われば良いのです。地境を超えて何かをすると、コントロールになり、軋轢が生じるでしょう。神さまが広げてくれた分だけ、やれば良いのです。そうすると苦しむことがぐっと減るでしょう。どうぞ、自分がどんなことを望んでいるのかチェックしてみましょう。
私は現在、2つのことに首を突っ込んでいます。1つはJCMNセルチャーチネットワークで、もう1つは常磐セルです。セルチャーチを目指しても、なかなかセルチャーチになりません。教会員を動かそうとしても難しいですね。数年前、台湾から来た奉仕者にケチョンケチョンに言われたのがトラウマになっています。心の奥底からやる気が出ないというか、苦しいというか…。セルチャーチのコーチングも惰性でやっているという感じです。来週は全国のコーディネーターの会議が大津であるのですが、今年は行きません。去年は冬の京都見物がてら行きましたが、今年は予算的にも無理です。また、1月17日から3日間のセミナーがあり、亀有教会が会場になっています。牧師自らが音響をやり、賛美をし、司会もするので、みんなから馬鹿にされています。ちょっと憂鬱です。また、常磐セルですが、1月末、万座温泉でリトリートあります。題名が「主の愛と温泉につかろう!」なんですが、今年は申込みが本当に少ないのです。40名バスに乗らないと貸切バスが出ません。今のところ、申込みが12名です。昨年は地震もあったので、その影響があるのかもしれません。私も皮膚が治らないので、温泉に行きたくないのです。これもちょっと憂鬱な要素です。この間、家内にボロッと愚痴を言ったらこう言われました。「あなた何でもやるからでしょう。どうして断れないの!」。「ああ、そうなんだよなー」と答えました。セルチャーチは、小笠原先生のもとでやっています。関東のコーディネーターです。常磐セルは尾山謙仁先生のもとでやっています。副幹事みたいなものです。最近は李光雨先生のセミナーの書記みたいなものもやっています。「なんだかなー、性格なのかなー」という感じです。私も日本人の一人で「しがらみ」みたいなもので縛られているのでしょうか?昨年を表す漢字は、「絆」だったようです。「絆」、確かに大切なものです。でも、日本の場合は、甘えとか、くされ縁、あるいは「しかなたくて」という要素も入っているかもしれません。何が言いたいかと申しますと「境界線」「地境」であります。自分の責任、自分がやるべきことがあります。しかし、他の人の責任、他の人がやるべきことにクビを突っ込んでいる場合もあるかもしれません。そうすると、他の人の悩みが自分の悩み、他の人の失望が自分の失望になる恐れがあります。もう一度言います。自分がどんなことを望んでいるのかチェックしてみましょう。人に○○してもらいたい。人に○○して欲しい。これは他の人に関する希望です。そういう希望には多くの抵抗が伴うでしょう。そうではなく、自分に関する目標にしたらどうでしょうか?良い夫、良い妻、良い牧師になるためにはどうしたら良いでしょう。朝30分散歩することはだれも邪魔できません。30分家事を手伝うことはだれも邪魔できません。30分聖書を読んで祈ることはだれも邪魔できません。どうぞ、自分の思いどおりなる範囲から始めましょう。そうすると、神さまが祝福して地境を広げてくださるでしょう。そうしたら、望みも広くなり、喜びも大きくなるでしょう。
2.望みを抱いて生きる
後半は望みを抱いて生きるにはどうしたら良いか、4つのポイントでメッセージをお届けしたいと思います。第一は刺激を受けるということです。年を取るとだんだん感動がなくなります。また、「何をやってもおんなじ」みたいに、保守的になります。そうすると、希望もなくなり、やがては失望落胆の沼にはまりこんでしまいます。私たちは努力してでも、色んなものを見たり、どこかへ行ったり、人と会ったりして刺激を受ける必要があります。ご自分がやっているものと違う、全く畑違いのところからも学ぶ必要があります。そうすると、感動とともに、希望がわいてきます。「あんな風になれたらなー」「こんな生き方があるのか」「ああ、こんな世界があるのか、すごいなー」。そうすると自然と希望がわいてきます。昨年の11月、家内と白樺湖に行きましたが、そこに「世界の影絵・きり絵博物館」がありました。八ヶ岳を背景にしたメルヘンチックな、それも大きな切り絵でした。いや影絵というのかもしれません。後ろからライトアップされて、切り絵が浮かび上がる幻想的なものでした。近くに寄るとものすごく繊細であり、すべて剃刀の刃で切ったものでした。「うぁー、小さなものでも大変なのに、こんな大きなものを!なんと根気がいる作業だろう!」と感動しました。どこかへ出かけて何かを見る、とても良いことです。また、私は牧師として、積極的な考えを与える本を多く読みます。アメリカのジョエル・オースチンは毎週、数万人の会衆の前で語っていますが、本当に希望を与えるメッセンジャーです。「積極的思考か?」と蹴飛ばさないで、読んでみるのです。また、いろんなセミナーにでかけ、うまくいった人の話を聞きます。多くの牧師たちは、立場が違うとか、ねたみも加わって、そういうところに出て学ぼうとしません。私たちは、一生学びです。謙遜に、だれからも学ぼうという心構えが必要です。すると、何か刺激を受けて、希望がわいてきます。テレビのアンビリーバブルという番組、所さんのダーツの旅、何でも良いです。とにかく、感動して刺激を受けることです。そうすると、希望の灯がぽーっと燃えてきます。
第二は希望の灯を簡単に消さないということです。希望は日本語で「まれな望み」と書き、「めったにないことを望む」というニュアンスがあります。ですから、「これをしようかな」「こうなりたいな」「こうありたいな」と望んでも、ぱっと消えてしまいます。希望は現実という水をかけられるとすぐ消えてしまいます。多くの人は「現実は厳しいかなー」「現実の壁は厚い」とか言ってすぐ諦めます。この間、テレビで、子どもに対してのインタビューを見ました。アナウンサーが子どもに「クリスマスプレゼントで何をもらったの」と聞きました。すると「望遠鏡」と答えました。「何を見るの?」と聞いたら、その子は「宇宙」と答えました。「わぁー、すごいなー」と思いました。さらに、子どもに「将来何になりたいの?」と聞きました。すると、「床屋さん」と答えました。床屋さんが悪いわけではありません。「普通は、宇宙飛行士だろう。何だか夢がないなー」とがっかりしました。マタイ福音書でイエス様はこのようにおっしゃいました。マタイ12:20「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」。折れかかっている葦、くすぶっている燈心なんか、どうでも良いだろう?そうではありません。イエス様はくすぶっている燈心を消すことをなさらないのです。みなさんは、「ほくち」というものを知っているでしょうか?「火の口」とかいて「ほくち」ですが、サバイバルでよく使います。摩擦で火を起こしたり、火打石で火を起こしたりします。ほくちは、半分、炭みたいになった麻や植物の茎です。「ほくち」は小さな火ですが、馬鹿にできません。それがないと火を起こすことができないからです。希望の火も「ほくち」のようなもので、その火種がないと、信仰も生まれないのです。希望と信仰は兄弟みたいなものであり、希望が信仰になるのです。どうぞ、心に生まれた希望を消さないで、それが信仰になるまで燃え立たせましょう。
第三は耐え忍ぶということです。ローマ12:13「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とあります。大きな夢や希望には、大きな試練が伴います。たとえば、ある人が音楽家として生きるとなったら、それは険しい道です。また、ある人がサッカーの選手になると思ったなら、それも険しい道です。今はお笑いがブームですが、お笑いで生きるということも、大変な道です。何千人、何万人の中から一人生き残るような確率です。浮かんでは消え、浮かんでは消える世界です。昨年、パンクブーブーと言うコンビが、漫才で優勝したようです。彼らがコンビを結成したのは2001年です。10年かかっています。下ずみ生活で終ってしまう人がほとんどでしょう。日本語の聖書は「患難に耐え」ですが、英語にはいろんな訳があります。「苦しみの中における辛抱」あるいは「困難の中で堅く立つ」とも訳されます。私が子どもの頃、若乃花というお相撲さんがいました。体は小さいけど、強い横綱でした。若乃花は「人間、辛抱だ」と言いました。稽古場に「辛抱」と書いてあるのを見た記憶があります。直接、行ったわけではなく、何かの映像です。「我慢するとか、辛抱する」というのは、現代人が失っている心構えではないでしょうか?何でもインスタントリーで、苦労しないで手に入るものを求めます。時間がかかったり、面倒なものは、ポイと捨てます。やっぱり、一度、「こうしよう」「こうしたい」と望んだなら、簡単に捨ててはなりません。私も人にはこうやって偉そうに言っていますが、もうひどいもんです。中学のとき、ブラスバンド部は1週間でやめました。トランペットの人が多くて、トロンボーンに回されたからです。陸上部は1週間でやめました。高校ではボクシング部を半年でやめました。最初のデビュー戦で、TKOで負けたからです。長続きしているのは、キリスト様を信じる信仰です。これだけは、長続きしています。牧師も続けてやっています。昨年、私が親しくしていた牧師は数名やめました。みなさん、単なる希望だと花火のように消えてしまうでしょう。しかし、神さまから来る希望もあります。ピリピ2:13「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」これは、新共同訳ですが、神さまが私たちの内側に働いて、望みや願いを起こさせるということです。使徒パウロは異邦人の伝道に召された人です。パウロの心の中に、いつかはローマに行って伝道したいという思いがありました。すると、ある夜、イエス様から「あなたがエルサレムで私を証をしたように、ローマでも証をしなければならない」と言われました。パウロは囚人としてローマに向かいましたが、パウロが乗った船が大嵐に巻き込まれました。使徒27:20「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」とあります。でも、夜、御使いがパウロに現れ「恐れてはいけません。パウロ、あなたは必ずカイザルの前に立ちます」と言いました。パウロは数多くの苦しみや試練に会いましたが、ローマのカイザルの前に立ちました。ですから、私たちは、それが神さまからいただいた希望であるなら、簡単に手放してはなりません。なぜなら、神さまが共にいて実現させてくださるからです。
第四は究極的な希望を持つということです。みなさん、この地上では思いを成し遂げられないことがたくさんあります。「思い半ば」でということもあるかもしれません。昨年の3.11東北大震災で2万人以上の人々が津波に飲み込まれました。テレビで歯医者さんが身元を確認するために働いた映像を見ました。その歯医者さんは、歯を見るとその人の生活が大体分かると言っていました。ある小学生は虫歯が一本もありませんでした。「よっぽど両親から大事にされて育てられたんだろうなー」と言いました。ところが、その両親も津波に飲み込まれて死んでいたことがわかったそうです。本当に、それを見て、やるせない思いをいたしました。東北大震災のことを抜きにして、希望を語ることは可能かもしれません。しかし、亡くなった一人ひとりには、いろんな人生があり、いろんな希望があったのだと思います。日本では無念とか無常と言うかもしれません。本当に人間的には、何も言うことはできません。しかし、聖書から言うならば、究極的な希望は御国であり、復活にあります。イエス・キリストは「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、方向転換するということです。この世の人たちは、まことの神を否定し、滅びに向かっています。神様は、救いの道をキリストにあって備えてくださいました。この地上に生まれたすべての人は、津波に飲み込まれないかもしれませんが、死に飲み込まれてしまいます。死はすべての人に臨む、最も恐ろしい津波です。しかし、イエス・キリストは十字架で私たちの罪を贖い、3日目によみがえりました。キリストを信じる者は、たとえ死んでもよみがえることができます。それだけではありません。神さまは、私たちに神の国を用意しておられます。そこは「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」永遠の御国です。私たちはこの地上で生きているうちに、死ぬ前に、キリストを信じて、御国に入る必要があります。これがキリスト教の究極の希望です。永遠の御国、復活こそが、私たちの究極な希望です。2年くらい前でしょうか?私は李光雨師からカウンセリングを受けました。小学校5年生のとき、郵便局に並んでオリンピックの記念切手シートを手に入れました。あるとき、上の兄が俺にくれと言って、切手の引っ張り合いになりました。兄が切手をぐちゃぐちゃにしたので、私は大声で泣きました。すると、傍で見ていた父が、「こんなものがあるからだ」と言って、薪ストーブの中にくべました。傍に父がいたのに、ちゃんと治めてくれませんでした。それ以来、切手収集、いや、すべての収集をやめました。「翻弄される中で、なんとか生き延びること」これが私の世界観でした。しかし、三郷の「嵐の湯」という健康ランドから、車で帰る途中です。タオルを忘れていたことに気がつきました。「あー、タオルか。保管してくれるだろう。ま、なくてもいいや」と思いました。その瞬間、「がー」っと来ました。「私が失ったすべてのものは、御国にある」という思いが来ました。そこには、切手もあると思いました。これまで得られなかった、たくさんのものが、御国にある。それを考えたら、車の中で運転できないくらい嗚咽しました。御国に行ったら、早産で失った子どもにも会えるでしょう。地上で失った、目も足も腕も取り返すことができます。私たちは子どものときから、多くのものを失いました。喪失のトラウマというものがあります。だから、新たに希望を抱くことができないのです。でも、大丈夫です。私たちが失ったすべてのもの、いや、それよりもすばらしいものが御国にあります。私たちは「御国が来ますように」と祈ります。また、キリスト教会は一人でも多くの人が御国に入るようにと福音を宣べ伝えるべきであります。救霊、福音宣教こそが教会の第一の使命であり、希望だからです。