私たちの体にはいろんな器官があります。教会もキリストのからだにたとえられ、いろんな人が組み合わされ、いろんな働きをするように召されています。ローマ12:4-6「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので…」。パウロは教会をキリストからだにたとえて説明しています。キリストがかしらであり、私たち一人ひとりは、そのからだの器官なのです。私たちのからだにいろんな器官があるように、キリストのからだにもいろんな器官があります。その器官とは賜物のことであり、神様から与えられた様々な能力です。私たちには大きく分けて、2種類の賜物があります。1つは生来の賜物であり、努力して得たものや才能が含まれます。生まれつき手先の器用な人もいれば、生まれつき声の良い人がいます。才能に恵まれている人は、あまり努力しなくても、それができるということです。もう1つはイエス様を信じて、新しく生まれた時に与えられるものです。それを聖霊の賜物と言いますが、多くの場合、これまでなかったものが急に現れ出します。どちらにしても、与えられている賜物を用いるならば、効率の上がる働きができるばかりか、あまり疲れません。逆に賜物がないのに、使命感だけでやっていると、効率が上がらないばかりか、疲れる一方です。パウロは私たちに与えられたそれぞれの賜物を用いるように教えています。しかし、その前に、大事なことを教えています。それが、互いに一つ心になるということです。ローマ12:15、16「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」です。「互いに一つ心になる」という意味は、2つの意味があります。第一は「互いに心を分かち合う」ことであり、第二は「互いに賜物を分かち合う」ということです。
1.互いに心を分かち合う
第一に互いに一つ心になるとは、互いに心を分かち合うということです。パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と命じています。JB.フィリップスはこの箇所をこのように訳しています。「幸いなことがあった人は、その幸いを分かち合いなさい。悲しいことがあった人は、その悲しみを分かち合いなさい」と訳しています。みなさん、これが神の家族であり、キリストの共同体ではないでしょうか?家族や夫婦の間で、今日、起こったこと、最近考えていることを話し合わないでしょうか?特に楽しかったことや、悲しかったことは分かち合うべきでしょう。ある人が、楽しいことを分かち合えば倍になり、悲しみを分かち合えば二分の一になると言いました。昨年の末、ある姉妹が階段を踏み外して大怪我をしました。礼拝後、クリスマスの飾りをはずしていた時です。日曜日ですから、病院がやっていなくて、救急車の中で長時間待たされました。その知らせを聞いて、みんなが痛みを覚え、祈りました。メーリングリストにも流れ、他の人たちも祈りました。元旦の礼拝に見えられたとき、みんなが「大変だったねー」と励ましました。教会はキリストのからだにたとえられています。小指を椅子の角にぶっつけときはどうでしょうか?「うぁー」と口で叫び、その痛みが全身に走り、涙が出ます。指でさすったり、冷蔵庫から保冷剤を出してきて、冷やすでしょう。体の全器官が総動員して、痛みに対処するでしょう。「小指だから、まぁ良いか?」という人はいません。もし、そういう人がいたら、凍傷を起こして、足が壊死しているのかもしれません。つまり、互いに一つになるとは、互いに命を分かち合うということです。
私たちが、互いに心を分かち合うために、妨げになるものがあります。それは、教えたり、さばいたりすることです。「どうして階段から落ちたの!」と言ったらどうなるでしょうか?本人がわざと落ちたのではなく、気が付いたらもう落ちていたのです。しかし、親であったら、自分の子どもこんなことを言うかもしれません。「どこ見ていたの?ぼっとしてたんだろう!」と叱ったり、さらには頭をこづいたりします。本人は既に痛みを味わっているのに、追い討ちをかけるようなものです。妻に対してはどうでしょうか?「なんだよ、こうすれば良かったのに」と忠告したり、教えたりします。1時間くらいたってから、「ああ、痛かったんだよね」と同情します。残念ながら、親しい家族には、それがないときがあるのではないでしょうか?教会内ではどうでしょうか?ローマ12章に7つの賜物がありますが、その中の、教える人、勧める人、預言の人、指導の人は教えたり、さばいたりする傾向があります。慈善の賜物の人は自然に、「ああ、何と大変だったろう」と心から同情することができるでしょう。クリスチャンとして成熟してきますと、「今は教える時ではない、心から同情するときだ」と自制することができます。神の家族、キリストのからだにおいて何よりも重要なことは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」ことです。
カウンセリングや心理学では、「共感」とか「傾聴」という用語が用いられます。私も仕事柄、相談や面談を受けたりすることがあります。若い頃はよく失敗しました。会話の途中から割り込んだり、自分のことを語ったり、教えたり、さばいたりしました。人の話をだまって聞いていられないのが、私の性分でした。失敗を重ねてから、いくつかのことを学びました。人は自分のことをだれかに話すことによって、重荷の半分が取り去られるということです。キリスト教会では「聞き屋」と言って、駅前に椅子を持ち出して、だまって聞く奉仕をしている方がいます。でも、人の話を聞くと、怒りや悲しみ、恐れ、不信感…いろんなものを一緒に受けます。向こうは悪いものを吐き出しているので良いかもしれませんが、聞く方は、その何分の一かを受けしまうことになります。ハッピーなことを聞くのならともかく、否定的なことを聞くと、私たちの魂や霊がダメージを受けます。ですから、専門に人の話を聞く人は、いろんな知恵や技術が必要でしょう。でも、ここで言われていることは、友だちの一人として、兄弟姉妹の一人として分かち合いを受け止めるということです。カウンセリングや心理学を学んだ人の欠点は、わざとらしいということです。自然ではなくて、「あなたを治療してやっています」みたいな感じがします。素人の方がかえって、自然で良いのです。たまには「そうじゃないだろう」みたいに反論しても良いのです。もちろん技術も学ぶことは大切ですが、もっと重要なのは神の愛であり、兄弟愛です。昨年、ゴスペルで賛美した歌にBe Blessedがあります。これは、苦しみの中にある兄弟姉妹を励ます歌ですが、その歌詞がとても感動的です。「私はあなたのために祈り続けます。あなたのことを見ておられる神様に頼って良いのですよ。あなたのために祈っている私に頼って良いのですよ。」という歌詞です。私たちは「全面的に頼られたらどうしよう?」と心配します。ところが、神さまがなさってくださる分野と自分ができる分野を分けるならどうでしょうか?そして、私ができる最大のことは、あなたのために祈り続けるということです。祈りによって、神さまのところへ、その人の苦しみや悲しみを運んであげるということです。ですから、私たちができる最大の分かち合いは、その人の重荷を祈りによって、神さまのところへ届けるということです。私たちはその人の重荷を、自分で負うべきものもあるでしょう。分かち合ってもらっても、負いきれないものもたくさんあります。私たちには、神さまがおられるので、その重荷を神さまにとどけることができるのです。私たちの分かち合いは神さま、イエス様を媒介した、分かち合いなのです。
2.互いに賜物を分かち合う
何度か申し上げていますが、ローマ12章は前半が聖霊の賜物、後半はその賜物をどのように用いるか心構えについて書かれています。同じような構造が他にもあります。たとえば、Ⅰコリント12章の前半は9種類の聖霊の賜物について書かれています。そして、12章の後半から13章までは賜物を用いるための心構えが記されています。つまり、「賜物を用いるとき、いろんな問題も起こるので、こういうことを気をつけるのですよ」と教えているのです。その中で、最も起こりやすい問題は、賜物の優劣を競って、仲たがいをしてしまうということです。だから、ローマ12:6でもこのように教えているのです。ローマ12:16「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」互いに一つになれない最も大きな障害は高ぶりです。自分の賜物は優れていて、他の賜物は劣っているという考えです。人間の体の器官を考えるとどうでしょうか?人間の体で最も重要で、最も高ぶって良い器官はどこでしょうか?右腕でしょうか?サッカー選手だったら足でしょうか?やっぱり、心臓だと答えるでしょうか?いや、脳が一番大切だ。料理人にとっては舌だ。ピアニストにとっては指だ。ある人にとっては腎臓かもしれないし、肝臓かもしれません。生命に関わる器官は確かに重要です。でも、他の器官が失われたなら、とても不便に感じるでしょう。目は体の中で最も弱い器官です。この目が失明したなら、生活の幅が大きく減ってしまうでしょう。では、耳だったら良いのでしょうか?耳が聞こえないと、人との会話が制限されます。Ⅰコリント12章で何と教えているでしょうか?Ⅰコリント12:21-25「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」
アーメン。教会の中で一番、目立って格好のよい賜物は何でしょうか?こうやって話している牧師の賜物と勧めの賜物かもしれません。いや、賛美の賜物と言うかもしれません。実際、アメリカでは賛美をリードしながら、メッセージを語っている人もいます。あるいは、みんなの前で預言したり、癒しのわざをする人でしょうか?分け与える賜物や指導の賜物も目立ちます。ここに億万長者が来られて、「10分の1を捧げます」と言ったら、嬉しいんじゃないでしょうか?では、奉仕の賜物や慈愛の賜物はどうなるでしょうか?補助や管理、もてなしの賜物は不必要なのでしょうか?すべての賜物で最も多いのは、奉仕の賜物と言われています。最も少ないのは、牧師とか預言者です。もし、この教会に30人の牧師の賜物がいたらどうなるでしょう?私はいっぺんに失業してしまうでしょう。でも、奉仕の賜物が多いのはなぜでしょう?牧師が持っている勧めの賜物はいわば口であります。口は体の中で一個で良いのです。それよりも、腕や手、足、目など実際に動いてくれる多くの器官が必要なのです。私たちはキリストのからだなる教会における、かけがえのない器官なのです。問題は、自分の役目を知っているかどうかです。また、奉仕というのは教会という建物の中だけではありません。みなさんが毎日、触れている人々や会社、家庭などのコミュニティで発揮されるべきものなのです。イエス様の地上での生涯はどのようだったでしょうか?町々や村々に出かけ、教え、癒し、助け、様々な必要を満たしてあげました。もちろん、生活のために仕事をしているかもしれません。しかし、その中に「キリストの愛をもって人々に奉仕をしているんだ」という要素があることを忘れてはいけません。こうやって集まる日曜日の奉仕も重要ですが、月曜日から土曜日までの、日常の奉仕も重要なのです。
では、何のために賜物を用いて、奉仕をするのでしょうか?それは神の国をもたらすためです。なぜなら、イエス様は神の国をもたらすために、地上で働いたからです。同じ勤めをイエス様は教会に与えておられます。なぜなら、教会はキリストのからだだからです。昨年、役員会で「当亀有教会の理念は何なのか?」いろいろ話し合われました。神さまはこの地上にたくさんの教会、ローカルチャーチの存在を許しておられます。ローカルチャーチ、地域教会は普遍的教会の代表であります。私は、神さまは、1つの地域教会で全部をしなさいとは命じておられないと信じます。1つ1つの地域教会にも賜物と召命があります。究極的な目標は、1つなのですが、地域教会によって賜物が異なります。特に、どんな牧師がそこに配属されているか?どんなリーダーがそこに配属されているか?また、どんな人々が集っているか?工場地帯なのか?農村部なのか?あるいは商業地域か?住居地か?土浦とかつくばに行くと、研究機関に勤めている方が多くいらっしゃいます。緻密で理論的な人が多いと思います。TGC、土浦ゴスペルクワイヤーのメンバーを見ますとそういう感じがします。歌う曲を録音し、自分たちで一生懸命、練習し、全部覚えています。そこへ行くとこの葛飾区亀有はどうでしょうか?両さんや寅さんに代表されるように、ちょっといい加減で、ちょっと人情に篤い。とても面白いんだけど、底知れない力知を備えている。神さまは亀有教会がどのように伝道牧会したら良いのかご存知です。そして、他の教会とは違った、賜物と召命を用意しておられると信じます。でも、私がどうしても曲げられないものがあります。それは「御国をもたらす教会です」。セルチャーチになるとか、セルチャーチどうのこうのは申しません。この地に御国をもたらす教会です。主の祈りでも「御名があがめられ、御国がきますように」と祈ります。ですから、聖書的であると確信します。では、どのように、この地に御国をもたらすのでしょうか?それはキリストのからだなる教会においてです。キリストがかしらで、私たち一人ひとりは器官なのです。そのために、神さまから与えられたそれぞれの賜物と召命を差し出し、それを組み合わせる必要があります。
もう一度、本題にもどりますが、互いに一つになれない最も大きな障害は高ぶりです。では、どうしたら高ぶりを排除して、一つになれるのでしょうか?JB.フィリップスはこの16節を「他の人とハーモニーを持って生活しなさい。上流気取りしないで、普通の人に興味を持ちなさい。自分の意見だけを主張しないように」と訳しています。ハーモニーという考えはとても重要です。ハーモニーとは調和という意味ですが、音楽でもよく用いられます。違う音色どうしが、組み合わされて1つになるということです。ソリストも悪くはないですが、合唱やオーケストラの方が迫力があります。そのためには、自分の賜物を知り、そして他の人と協力するということです。協力という漢字はとても聖書的です。十字架のもとに、力を組み合わせるということです。年末に大学のチアリーダーのコンテストがありました。一人ひとりバク転やバク宙ができます。さらに、組み合わせ体操みたいなことをします。上がるとき、ひねりを加えながら、他の人から持ち上げられます。口で説明しても分からないかもしれませんが、持ち上げられ腕の上に止まるのが最も難しいんです。バランスを崩して、落ちるチームが何組もありました。同じのを3つ作るのですが、1組が崩れると失敗になります。チームワークってとても難しいと思いました。教会もチームワークが必要です。そういっている私は、チームワークが非常に苦手で、スポーツはみんな個人競技が好きでした。学校では、バレーボール、サッカー、ラグビー全部ダメでした。唯一、ソフトボールは打つことだけが好きでした。こういう人が、チームワークだというのですから、矛盾があります。つまりこういうことです。生まれつきの肉においては個人プレーが好きです。しかし、霊においてはチームワークでなければならないということです。なぜなら、私たちはキリストのからだにおける大切な器官だからです。一人で「御国が来るように」と、働いても限界があります。ちょっと腰が痛い人を癒すくらいしかできません。癒しも重要ですが、御国には、たくさんの働きがあります。どうぞ、違う賜物、違う性格の人を排除しないで、ハーモニーを持つことを考えましょう。ハーモニー、調和は、違う者どうしが組み合わされることです。違う者どうしが組み合わされることによって、ダイナミックな働きができるのです。隣の人に「あなたと私、違うから良いのですね」と言いましょう。「あなたと私、違うから良いのですね」。アーメン。
もう一つ高ぶりによる争いは、同じ賜物同士に起こることがよくあります。たとえば、腕は右腕と左腕があります。片方が利き腕で、片方は支える方です。目も2つあります。耳も2つあります。他に肺や腎臓、生殖器など2つあります。なぜ、同じものが2つあるのでしょうか?1つの理由はスペアです。1つ何らかの理由で働けないとき、もう片方がその代わりをするというものです。鼻の穴が片方つまってたら、もう片方があります。それでもダメだったら口があります。目や耳が2つあるのは、スペアのためだけではありません。2つあるのは距離感が分かるためです。また、1つの器官が働いているとき、もう1つの器官が休むというのもあるようです。交替交替で働くということです。教会でも同じ賜物があるとどうでしょうか?賜物が同じだと優劣がはっきりします。どっちが上手かどっちが下手か分かります。そして、同じ賜物の場合、とても気になります。ある場合は、対抗意識を持ってしまいます。私も他の牧師が説教すると、「釈義的にどうなのか、構成はどうなのか」と、コンピューターが動き出します。ライバル意識を持ったり、ある場合は、「おお、この人にはかなわない」と敬服したりします。でも、どうして教会内に同じ賜物があるのでしょうか?それは体の器官と全く同じです。1つはスペアーとして、交替交替で働くためです。1人が疲れたら、他の人が支えるということが必要になるでしょう。でも、もう1つの理由は、キリストのからだなる教会の働きを拡大するためです。葛飾区亀有の奉仕だったら同じものはそんなに要らないかもしれません。しかし、年齢別、地域別、あるいは対象が異なる場合は必要になってきます。神さまは「生めよ。増えよ。地を満たせ」と命じられました。「御国が来るように」とは、亀有だけではなく、首都圏、あるいは日本全国に拡大することを意味しています。イエス様は弟子たちにこうお命じになられました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」エルサレムが亀有だったら、ユダヤは首都圏でしょうか?サマリヤは日本、地の果てとはまさしく世界であります。御国が拡大するように1つ心になって、与えられた賜物を用いていきたいと思います。