2011.04.17 主イエスの御顔 ルカ9:51-62

今週は受難週で、イエス様が十字架におかかりになった日が金曜日です。そして、来週はイースター(復活祭)です。ルカによる福音書の構造を考えますと、ルカ9章がまさしく、受難週のメッセージにふさわしいのではないかと思います。ルカ9章の中ほどに変貌山の物語があります。イエス様の御顔が変わり、父なる神さまの御声がありました。イエス様はそのまま天にお帰りになることもできましたが、そうはしませんでした。なぜなら、モーセとエリヤと、「エルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話しておられたからです。「ご最期」とはギリシャ語でエキサダス、出エジプトという意味です。旧訳聖書で最も偉大な出来事はモーセによってイスラエルの民が奴隷の地であるエジプトから解放されたことです。そして、新約聖書で最も偉大な出来事はイエス・キリストの十字架の贖いによって、全人類が罪とサタンの世から解放されたことであります。ルカ福音書は、イエス様がこの後、山を降りてまっすぐエルサレムに向かうという構造になっています。

1.主イエスの御顔

ルカ9:51「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。」51節と53節に、「御顔」ということばが二回出てきます。その御顔はエルサレムに真っ直ぐに向けられています。イエス様の御顔はどのような表情だったでしょう?私は普段とは違って、緊張した面持ちではなかったかと思います。「きいっ」と、遠くを見つめる鋭い眼光、しまった口元、握り締めたこぶしだったでしょう。イエス様は、ご自分のことを、このように予告しておられます。ルカ9:22「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」イエス様はエルサレムに行ったら、苦しみを受け、殺されることが分かっていました。しかし、人類の贖いのために、それは避けては通れない道でした。だから、決死の覚悟と言いましょうか、不退転の覚悟でエルサレムに向かったのであります。

ところでイエス様がこの地上に来られたのは何のためでしょう?イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。病人を癒し、死人をよみがえらせ、神の国がどのようなものかお示しになられました。また、神の国の律法に従う生き方とはどのようなものなのか教えました。そして、地上を去る前に後継者、弟子たちを育てました。でも、最大の使命は何でしょうか?それはエルサレムで死ぬことであります。ちょうどその日は、過ぎ越しの祭りの日であり、小羊がほふられる日であります。イエス様はご自分こそ、神の小羊として十字架にかかり、血を流して、贖いのわざを成し遂げるんだということを知っていたのです。つまり、イエス様はこの地上に、人類の罪の身代わりのために死ぬために来られたのです。十字架の贖いこそが、イエス様が地上に来られた最大の使命なのです。十字架の贖いがなければ、人々が神の国に入ることができないからです。だれ一人、良い行いによって神の国に入ることはできません。すべての人が罪の中にあり、神さまの前に立てる人はいません。しかし、イエス・キリストを救い主として信じる者は罪赦され、神の御前で義とみなされます。イエス・キリストを信じる信仰によって、神の国に入ることができるのです。イエス様がいくら良い教えを宣べ伝えても、いくら病を癒し死人をよみがえらせても、十字架の贖いがなければ一時的なものです。永続的な救い、永続する救いは、イエス様の十字架の贖いによってもたらされたのです。

東日本大震災から1ヶ月たちますが、ようやく「復興」ということばが聞かれるようになりました。もちろん、瓦礫の山で、まだどこから手をつけて良いか分からないところがいっぱいあるでしょう。私も五月の連休で南三陸の方へボランティアに出かけたいと思います。家内の実家から車で真横に1時間少し走ると南三陸らしいのです。何もできなくても、現場を見るだけでも、大分違うと思います。香港のセルチャーチからも行ったようですが、南三陸には教会がないそうです。ですから、「神様が現地に拠点となる場所を与えてくださり、私たちが長期的に仕えることができるように」祈ってくださいというリクエストがありました。復興ということももちろん大事ですが、復興以上のものがあると思います。それは、御国に本当の住まいをもうけるということです。ある人たちは家屋、財産、すべてのものを失って命しか持っていない状況かもしれません。でも、永遠の命を得ることができたら、元を取れるのではいかと信じます。みなさん、日本は地震大国であって、安全な場所などありません。オーストラリアのある預言者が北海道、関東、関西にも来ると言っています。「勝手なことを言うな」と言いたいところですが、まず御国に入っておくことが最優先ではないでしょうか。私たちは隣人を助けながら、同時に、イエス・キリストの贖いによってもたらされた、無償の救いを分かち与える使命があります。私は毎朝、散歩していますが、そのとき、フツフツと沸いてくるものがあります。25歳のとき、イエス様を信じて本当に良かったなーと思います。「私に福音を伝えてくれた、増田さんありがとう」と天国に向かって告白します。私たちがこうやって毎週、礼拝堂に集まっている究極的な目的は何でしょうか?それはイエス様が十字架で成し遂げられた救いを感謝するためです。そして、この礼拝堂を出るとき、イエス様の救いをこの世に宣べ伝えるために出ていくのです。

2.エルサレムへの妨げ

 ルカ9: 53-55「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。」イエス様は、北のおそらくヘルモン山からエルサレムへ南下している途中だったでしょう。その途中に、サマリヤの町があります。その当時、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったようです。ユダヤ人が「お前たちは混血だ、混合宗教だ」と見下げていたので、サマリヤ人は敵対意識を持っていたのでしょう。ヤコブとヨハネは「雷の子」とあだなされている通り、かっと来るタイプです。それにしても、乱暴なことを言うものです。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」彼らはイスラムのジハードのような存在です。あの愛の使徒、ヨハネが「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って良いのでしょうか?みなさん、ヨハネの性格をご存知でしょうか?ヨハネはイエス様を心から愛していました。そして、弟子たちの中で最も忠義に篤い人でした。忠義に篤い人というのは、反面、逆らう者に対しては、極端な態度を取るものです。それだけ、イエス様を思う想いが篤いからです。それに対して、イエス様はどうされたでしょうか?イエス様は彼らを戒めて、他の道を選びました。おそらく、迂回して行ったものと思われます。

 私たちも「これが神のみこころだ」と信じて立ち上っても、「そうじゃない」と妨害する人が起こるものです。どこでも反対者はいるものです。ユダヤでは満場一致のときは、「だれか後ろで手を回しているんじゃないか」と逆に疑うそうです。彼らは付和雷同というのを非常に嫌います。日本人の場合は保守的で、変化をとても嫌います。しかも、寄らば大樹の陰、みたいなところがあります。実はきょう教会総会があります。イエス様にとって変貌山がターニングポイント(分岐点)だったように、本日の総会も当教会にとってターニングポイントになるでしょう。なぜなら、日本基督教団を出て、独立した教会となろうとしているからです。難しいことばで言うなら、「被包括団体を解く」協議を総会でいたします。しかし、この話題が最初に登ったのは5年前の役員会です。その翌年、4回の懇談会を持ちました。ある人から「教会がちょっとばかり大きくなったからと言って、そんなことを」とたしなめられました。「まさか、この人がそんなことを言うとは?」と驚きました。2年前の総会では「もっと教団から学んだらどうですか?」と言われてそうしました。昨年の総会では「もっと理解してもらう必要があるでしょう」とのことで、各会を説明して回りました。そのとき、「このためにどのくらい祈ってきたのですか!」と言われ、やる役員さんはかなりへこんだようです。また、「独立よりもこの教会はどういうものを目指したいのですか?理念や組織形態はどうなんでしょうか?」とも言われました。

 本当に、サマリヤ人から妨げにあったような気持ちでした。もし、ヤコブやヨハネがいたなら、「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言っていたかもしれません。しかし、私はそういう反対や疑問の声があったからこそ、考え、また、祈らされました。このまま、ずっと教団の中にいたら、「教会の理念や組織をどうしようか?」と悩むことはなかったでしょう。このまま私が停年退職になり、教団から新しい牧師が推薦されてくる。でも、それでは私が24年築き上げてきたものが水の泡になり、全く別の流れになってしまうでしょう。多くの人たちは亀有教会しか知りません。日本基督教団に属しながら、日本基督教団を知らないかもしれません。実は私が大事にしてきたものがあり、それを失わないで、次の世代に継承させていきたいのです。時間がないので2つだけ申し上げます。その第一が聖書信仰です。日本基督教団の信仰告白はすばらしいものです。「旧新約聖書は神の霊感によって成り、唯一の聖典なり、誤りなき規範」となっています。しかし、中味はどうかというと、神の霊感を信じていません。自然発生的に聖書の物語が生まれ、それが進化したと考えています。ですから、どこからどこまでが神のことばなのかわかりません。そして、「聖書は人間の所産であるけれど、聖霊によって神のことばになるのだ」とまで言います。そうなるとだんだん相対的になり、仏教や他の宗教にも神が啓示されており、キリスト以外にも救いがあると主張するようになります。違います。聖書は預言者や使徒たちが語ったとき、すでに権威ある神のことばだったのです。教会や神学者が決めたのではありません。教会はどこに土台を置くべきなのでしょうか?エペソ2:20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」アーメン。第二は皮袋の問題です。教団の組織や制度が古くなっているということです。今でもジョン・カルバンが考えた長老制度を用いています。17-19世紀の曲を歌っています。会議や委員会を度々開いては「こうしよう、ああしよう」と決めています。しかし、実際に決める人とそれを行う人が違うのです。そこにかけるお金と時間があったら、もっと伝道や牧会に向けたら良いと思います。教会はキリストのからだです。いわば生き物です。からだである教会が、かしらであるイエス様に聞きながら、絶えず進むべきであります。教会は一体、だれが建てるのでしょうか?マタイ16:18「私が私の教会を建てる」と書いてあります。当亀有教会は聖書を土台として、かしらなるキリストに導かれる教会を目指していきたいと思います。

3.弟子たるもの

 ルカ9:57-62「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」イエス様は今、エルサレムにまっすぐ向かっています。もう、無駄な時間はありません。そのとき、「あなたに従って行きたいです」という人がいました。また、イエス様の方から「わたしについて来なさい」と招かれたときもあります。これはイエス様の弟子とはどういうものなのかを教えている箇所です。イエス様はこれからどこへ行って、何をなさろうとしているのでしょうか?そうです。エルサレムに行って十字架で死ぬつもりなのです。すぐ死ぬわけではありません。不当な裁判を受け、鞭打たれ、辱めを受け、神からも人からも捨てられて殺されるのです。そのイエス様に従う弟子とはどのような資格がいるのでしょうか?

 少し前の箇所でイエス様はこのように言われました。ルカ9:23、24「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』」そうです。自分もイエス様と同じ、十字架を負う必要があるということです。この世の人たちも「十字架を負う」と言いますが、ちょっとニュアンスが違います。家族や親しい人の負い目や障害を背負うという意味に使われています。しかし、聖書の意味はそうではありません。十字架とは自分がかかる十字架です。イエス様に従って行ったら、イエス様と同じ辱めを受けたり、迫害を受けるでしょう。イエス様は自分を捨て自分を否定しました。つまり、私たちが負うべき十字架は迫害とか自己否定を意味する十字架です。ですから、イエス様の弟子になって着いて行くというのは、「イエス様を信じます」という決断だけでは足りません。「イエス様と一緒に死にます」ぐらいでないとダメです。ここに3人の言い訳、エクスキューズする人が出ています。一人目は、弟子になっても生活の支えがあるだろうかということです。福利厚生面はどうだろうか?家や車や給料は保証されているだろうか、ということです。二人目は肉親への情が第一になっています。イエス様は「死人は死人に葬らせ、あなたは出て行って福音を言い広めなさい」と言いました。三人目は後ろを振り返る人です。「あなたに着いて行きますが、ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言うのです。おそらく彼は家に行ったら戻って来ないでしょう。なぜなら、家の者たちから「やめなさい」と、説得されるからです。

 きょうの午後、教会総会があります。「どうしても、そこに持ってくるのはいかがなものでしょう?」と反論が出そうです。きょうは大事なことを決断しなければなりません。そのとき、あなたは神さまに聞いて、決断しなければなりません。この三人の人たちのようであるならば、イエス様の弟子にはふさわしくありません。この教会で自分の生活、老後の問題は大丈夫だろうか?この教会で肉親はどう思うだろう。「カルトぽいからやめろ!」と言われるかもしれません。また、「従来の教会の方が良いのでは」と、後ろを振り返る人もあるいはいるかもしれません。イエス様は何とおっしゃったでしょう。ルカ9:62「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」これはどういう意味でしょう。昔は桑や鋤をもって畑を耕しました。しかし、多くの場合は、牛に鋤を引かせました。耕す人は前を向いていないとダメです。後ろを向いたらどうでしょう?腕も曲がってしまいます。すると、牛も曲がってしまって、畑の畝も曲がってしまいます。イエス様は「一旦はじめたら、うしろを振り返ってはいけない」とおっしゃったのです。すべてに時があります。1949(昭和24)年に初代の牧師、山下米吉先生がここで教会をはじめました。1987年に二代目の神川牧師が10年牧会された後、退職されました。そして、私が座間キリスト教会からこの教会に招聘されました。今から24年前のことです。その間に新しい会堂も建てられました。もう古くなりましたけど。すべてに時があります。

 ある先生が「リバイバルとは何ですか?」という質問に対してこう答えられました。それは聖霊の波に乗ることです。サーファーは手でパドリングしながら良い波を待っています。手で漕いでいる状態はリバイバルではありません。待っていると、良い波が来ます。「ああ、これだ」と思ったら、立ち上がり、その波に乗るのです。すると、波がものすごい勢いで自分を運んでくれます。これがリバイバルです。2000年には、日本に大きなリバイバルが来ると多くの預言者たちが言いました。しかし、リバイバルは来ませんでした。今、日本の教会はリバイバルではなく、サバイバル、生き残りをかけています。でも、亀有教会を振り返ると、小さな波がありました。それはブラックゴスペルの波に乗ったということです。2000年にKGC、ゴスペル・クワイヤーを立ち上げて40人以上の人たちが救われました。今、そういう人たちが教会の中軸を担っています。やっぱり、当教会に小さなリバイバルがあったのではないかと思います。でも、神さまは今後も、リバイバルの波を送ってくださると信じます。

 でも、リバイバルは受身的な面だけではありません。私たち個人個人の姿勢が大事です。もっと言うならリバイバルは個人から起こると信じます。ヨハネ7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とあります。私は長い間、恨みとか怒りをエネルギーとして生きてきました。それが、1年半前、がらっと変えられました。過去から現在まで、すべての人を心から赦し、訴える証書を神さまの前に置きました。今は、神さまがくださる御国のエネルギーで生きています。もう、リバイバルは私の中から始まっています。私たちは毎週、「御国が来ますように」と賛美し祈っています。御国とは「神のご支配」という意味です。御国が一番最初に来るべきところはどこでしょうか?それは自分自身であります。まず、自分の中に神のご支配が来ることが最初であるべきです。それから、聖霊さまが私たちを用いて、私たちが行くところ、私たちが出会う人々に、御国をもたらしてくださるのです。ですから、私たちの祈りは、また教会の願いは、「御国をもたらすことができるように、私たちを用いてください」ということです。御国はまだ目に見えるかたちでは来ていません。でも、イエス様が来られてから、御国は私たちのただ中に来て、見えないところで拡大しているのです。御国は将来だけのものではありません。今、御国の喜びを味わい、御国の豊かさに預かることができるのです。「亀有教会は、これからどうなるのだろう?」と心配しておられる兄姉もおられるかもしれません。もう一度申し上げます。教会のかしらはイエス・キリストです。私たち一人ひとりが、キリストのからだです。どうぞ、神のことば聖書とかしらなる

キリストに導かれて、御国をもたらす教会として進んでまいりたいと思います。