2012.12.9「義とされる ローマ3:10-26」

「救い」のことを言う場合、「義とされる」ということが最も重要な要素です。義とされるとは、法的に、神さまから義と認められるということです。私たちの実際の生活や中味には罪があるでしょう。しかし、神さまは、キリストを信じている人に、罪に定めないということです。簡単に言うと、義の衣を頭からすっぽりかぶっているので、罪が見えないということです。たとえば、野口さんは宇宙ステーションで長期滞在したことがあります。彼が船外で作業するときは、宇宙服で身を固めます。そうでないと、死んでしまいます。同じように、義とされるということは、宇宙服を着ているようなものであって、義なる神さまのさばきに耐えられるのです。クリスチャンになるとは、義とされるということですが、それはどういう意味なのでしょうか?

 

1.義人はいない

 

 ローマ3:10-12それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」続いて、ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」。これらのみことばは、人類にとって悪いニュースです。私たちは良いニュース(福音)を聞くために、まず悪いニュースを聞かなければなりません。すべての人はアダムの子孫であり、アダムの罪を遺伝子のように受け継いでいます。そのため、私たちは生きているうち様々な罪を犯します。死後は、神の前に立ち、犯した罪のさばきを受ける運命にあります。かなり前の話ですが、教会が伝道のために婦人のためのランチョンを開きました。そのとき、日本語の未熟な宣教師がスピーチしました。さきほど読んだローマ3章からみことばを引用しました。「美人はいない。ひとりもいない。」と言ってしまったのです。人間をニンジンとまで言いました。主催者は青ざめてしまいました。どのようにフォローしたのかわかりません。でも、まんざら当っていないわけではありません。「美人はいない」とは、お顔のことではなく、心のことを言ったのかもしれません?エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあるとおりです。多くの人たちは姿や顔かたちに神経を使い、心の問題は後回しにしています。姿や顔かたちは一時的ですが、心はもっと重要であり永遠です。その証拠に、結婚したならば、顔かたちはあまり気にならなくなります。もっと大事なのは心であることが分かります。

 「教会は罪人呼ばわりするけど、私はそんな大きな罪を犯していません」と反論する方がおられるでしょう。自分に罪があるかないかは、人と比べても分かりません。ニュースに出てくる人たちと比べたなら、「自分はましな方だな」と思うでしょう。聖書には、その人に罪があるかどうかわかるように、律法が記されています。律法の中心は十戒ですが、第一と第二で、ほとんどの人はひっかかってしまいます。第一戒は、「唯一まことの神を神として敬っているか」ということです。第二戒は、「自分のために偶像を作ってはならない」ということです。しかし、ローマ3:11「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」とあります。ほとんどの人は、神を神としてあがめず、感謝もしません。その代わり、滅ぶべき人間や動物のかたちに神を似せて造りました。日本で偶像礼拝をしていない人が果たしているでしょうか?十戒の後半は「親を敬っているか、殺人するな、姦淫するな、盗むな、偽るな、むさぼるな」です。イエス様は「人を憎んだら、それは殺人をしたのと同じだ」と言われました。また、「情欲を抱いて異性を見るなら姦淫を犯しているのと同じだ」と言われました。私などは果たして何十回、何百回、殺人を犯し、姦淫を犯してきたか分かりません。それが、律法です。パウロが言うように、律法のもとではすべて罪人であります。律法を守り行って、神の義を得られる人など一人もいません。私たちは救いを得るためには、どうしても暗い部分を認めなければなりません。キリスト教の救いとは、罪からの救いであります。「罪からの救い」を言っている宗教は、キリスト教の他にありません。ある宗教は「先祖からの因果だ」と言うでしょう。心理学者たちは「罪ではなく弱さです。親や社会が悪いのです」と言うかもしれません。私たちが一番怖れなければならないのは癌ではなく罪です。罪が人々の人生を破壊し、永遠の死に至らせるからです。あなたには罪があるでしょうか?あなたは神の御前で正しい人でしょうか?イエス様は「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」とおっしゃいました。これに納得しないと、次の段階に進むことができません。あなたには罪があるでしょうか?

 

2.神の義

 

 ローマ3:21-26まで、2種類の義が記されています。1つは神ご自身が義であるということです。神さまは100%正しいお方であり、1点の曇りもありません。神の義と人間の義を比べたなら、月とすっぽんであります。たとえば、一生に1回も罪を犯したことのない人がいたとします。その人は正しい、義であると言えるでしょう。たとえそうであっても、それは人間の義であり、神の義には到達できません。一休さんが「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と言ったそうです。このことばを用いて、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いています。でも、それは全くの誤りです。神さまに到達するためには、1つの罪があってはなりません。神さまから、義と認められない限りは不可能なのです。イエス様の時代、神の律法を守る正しい人たちがいました。パリサイ人や律法学者であります。イエス様は何とおっしゃられたでしょうか?マタイ5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」当時、律法学者やパリサイ人の義にまさる義など他にありませんでした。なぜなら、彼らほど律法を正しく守っている人は他にいなかったからです。でも、イエス様は不可能なことを私たちに教えておられるのでしょうか?そうではありません。実は、もう1つの義があります。ローマ3:21,22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」律法を守り行って得る義とは違います。イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義です。一方は行いによって得る報酬のようなものです。報酬であったら、給料のように、当然、いただけるものです。もう一方は信仰によっていただく恵みです。しかし、恵みであったらだれも誇ることができません。この世では、汗と努力で得るものが最も価値あると思われています。オリンピックの金メダルやノーベル賞は、並大抵の努力では得ることができません。それらは人間的に、最も価値あるものでしょう。一方、神の義はキリストを信じることによって与えられる恵みです。しかし、神の義はオリンピックの金メダルやノーベル賞以上のものです。なぜなら、どんなにがんばって、努力しても得られないからです。だから、聖書は、人が義とされるには、神さまの恵みしかないというのです。

 では、どうして神の義が恵みによって与えられるようになったのでしょうか?ローマ3:24,25「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」このところに聖書で最も大切なことばが出てきます。なぜ、キリスト教会では、十字架をシンボルにしているのでしょうか?その意味がここにあります。キリスト・イエスによる贖いとあります。「贖い」とは、罪の代価を払うという意味です。その代価とは、キリスト・イエスの血です。イエス・キリストは十字架で、ご自分の命である血を流して、私たちの罪を贖ってくださったのです。父なる神さまはイエス様の血を見て、人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。さきほど申しましたが、神さまは義であって、一片の罪をも赦すことができません。必ずさばかなければなりません。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を負って、代わりにさばかれたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。まさしく、その時、イエス様は私たち人類の罪を負ったゆえに、断罪され、神さまから捨てられたのです。しかし、そのことによって、神さまの罪に対する怒りがなだめられたのです。そして、神さまは1つの決断をなされました。「御子イエスが全人類の罪の代価を支払ってくれた。これからは、御子イエスを信じる者に、神の義を与えることにしよう。」父なる神さまは、人間が律法を守り行うことはできないということをご存知でした。もともと、律法は救いのために与えられたものではなく、行いでは無理であるということを示すためだったのです。だから、神さまは行いとは別の、恵みによる救いを設けてくださいました。それがイエス・キリストを信じる信仰であります。

 ですから、私たちが神の義をいただいて救われるためには、イエス・キリストを信じなければなりません。では、何を信じるのでしょうか?イエス・キリストが私の罪のために死んで、代価を払ってくださったことです。他のだれかのためではなく、私のためであると信じなければなりません。信じるということの中には、知的同意と、身をゆだねるという2つの意味があります。世の中にはいろんな薬があります。ここにイエス・キリストという薬があるとします。ラベルにその効能が書いてあります。「これを飲むと罪赦され、永遠の命が与えられる。」「ああ、効能がわかりました。同意します」。でも、飲まなければ効きません。もしかしたら、死ぬかもしれないし、気が狂って人格がなくなるかもしれません。「でも、どうしよう?妻がどう思うだろうか?夫がどう思うだろうか?結婚は、お墓の問題は、この世の楽しみはどうなるだろう?やっぱりやめよう」それでは、全く効果はありません。身をゆだねるとは、飲むことと同じであります。イエス・キリストを救い主として、人生の主として受け入れることです。イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます」と約束されました。みなさんはキリストを飲みましたか?そうするならば、神さまはその人に神の義という救いを恵みとして与えてくださいます。

 

3.義とされる

 

最後に義とされるというのはどういう意味なのかお話したいと思います。義とされるとは、キリストを信じた人に、神の義が与えられるということです。パウロはそのことを、義と認められると言っています。ローマ3:28「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」パウロは義と認められることが、どんなに幸いなことなのかローマ4章と5章に書いています。私たちは聖書から「ああ、キリストを信じるだけで、義と認められるんだ。ああ、そうなのか?」くらいしか思っていないかもしれません。しかし、このことがパウロの後、ずっと長い間、封印されてきたのです。なんと、マルチン・ルターが「信仰のみ」ということを再発見しました。私たちは1517年を宗教改革記念日と呼んでいます。ルターはキリスト教国で生まれ、22歳のとき修道僧になりました。彼は人は一生懸命、修行し、良い行いをしなければ救われないと思っていました。あるときは、血を流しながら膝で階段を上りました。しかし、24歳のとき、「義人は信仰によって生きる」ローマ1:17のみことばが開かれました。そのとき、やっと回心したのです。しかし、当時のローマ・カトリックでは、まだそのことが開かれていませんでした。ルターは宗教改革のとき、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」の3つを掲げました。そのことが、プロテスタント教会の土台となっています。イギリスのスポルジョンも、ジョンウェスレーも、キリスト教国で生まれました。子どものときから、聖書に触れ、教会にも通っていました。しかし、「信仰によって義とされる」ということが分かったのは、青年になってからです。ジョンウェスレーなどは、牧師をして数年後に、悟りました。ですから、「キリストを信じるだけで、義と認められる」というのは、聖書の奥義であり、最もすばらしい宝物であります。イエス様がマタイ13章で「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」とおっしゃったとおりです。

 神様から、義とされているということはどんなに幸いなことでしょう?ローマ3:24、28「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。…人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」私たちは行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。ある先生は、「私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。1つも罪を犯したことのないように正しくされました」と言うかもしれません。みなさん、罪が赦されることと義とされることとは同じでしょうか?神学的に罪の赦しと義とされることは同じではありません。かつての私たちは神様から造られました。その人が罪を犯すとき、造られた位置よりも、低い位置に落ちてしまいます。いわば、マイナスの状態です。では、罪の赦しとはどういう状態でしょうか?もとの位置まで、回復されることです。これは、プラス・マイナス、ゼロの状態です。しかし、聖書が言う「義とされる」は、そうではありません。イエス様を信じて義とされるというのは、もっと高い位置に置かれているのです。神様の御目にかなう、義とされた存在であり、プラス・プラスの状態です。こういうことは現実にないかもしれませんが、1つのたとえです。私がスピード・オーバーして、白バイに捕まりました。「ああ、罰金取られるな」と思いました。すると、お巡りさんが、「あなたは鈴木牧師でしょう。私の家内が教会でお世話になっています。この間、祈ってもらったら病気が治りました。感謝します。」そして、こう言いました。「罰金はしょうがないけど、先生に2万円差し上げます」とポケットから出してくれました。罰金は12,000円でしたが、8,000円プラスになりました。現実にはないたとえでしたが、義とされるとは、こういうふうにプラス・プラスになるということです。

義という漢字はとても良くできています。羊の下に我という字を書きます。羊とは神の小羊であるイエス・キリストのことです。イエス様を信じている人は、頭の上に羊が乗っかっている状態です。頭の上に羊がないならば、我の罪が丸出しになります。でも、頭の上に羊が乗っているなら、神様から見たなら「ああ、あなた義ですね。正しい人ですね」という状態になります。私たちは義という衣を上から着ている状態です。内側はまだ罪がたくさんあり、きよくありません。でも、イエス様から義の衣をいただいているので、義に見えるのです。ある人たちは、「クリスチャンとは罪が赦された罪人であって、世の中の人と全く変わりありません」と言うでしょう。謙遜かもしれませんが、聖書的には正しくありません。もし、「私は罪赦された罪人です」と自分を認識したらどうなるでしょうか?また、罪を犯してしまうでしょう。なぜなら、「自分は罪赦されただけの罪人だから」と思っているからです。フィリピンはカトリックの国ですが、売春婦もマフィアも日曜日、教会に来て罪を懺悔します。「神様、ごめんなさい。また罪を犯してしまいました。どうかお赦しください」と祈ります。罪がきよめられて、すっきりしました。しかし、月曜日から土曜日まで、また同じ罪を犯します。そして、次の日曜日、「神様、ごめんなさい。また罪を犯してしまいました。どうかお赦しください」と祈ります。その繰り返しです。彼らは自分たちが義とされていることを知らないのです。韓国の話です。日本でもほとんど同じかもしれませんが、韓国にも銭湯があるそうです。人々は、お風呂へ入って出てきます。籠の中から衣服を取り出しますが、そのとき、バサバサして、上着の埃を落とすそうです。自分は綺麗になったという自覚があるからです。私たちも風呂に入ったあと、前に来ていた下着をそのまま着るでしょうか?洗濯した綺麗なものを着るでしょう?なぜですか?自分は綺麗になったという自覚があるからです。私たちもキリストにあって義とされた存在です。そういう自覚があるならば、進んで盗みもしないし、嘘もつかないでしょう。もし、罪を犯したなら「ああ、私にはふさわしくないなー」と思うでしょう。そして、義とされている者に、ふわさしい生活をするでしょう。

 義とされているとは、どういう意味でしょうか?ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」つまり、私たちはもはやさばかれることがないということです。なぜなら、キリストが私たちの代わりに十字架でさばかれたからです。私たちが死んで御国に行ったとき、神様のさばきの座に立つことはありません。神様のさばきの座の前に立つ人は未信者です。そのとき、神様はその人が犯した1つ1つの罪を責めることはしません。聞くことはただ1つです。「あなたの罪の身代わりになった、御子イエスをどうして信じなかったのですか?」と、その不信仰を責められるのです。なぜなら、罪の問題はキリストによって解決されているからです。でも、クリスチャンは、キリストのさばきの座に立ちます。これは、その人が忠実に生きたかどうか問われるさばきです。これで、さばかれて地獄に行くということはありません。「忠実な人は御国において、10の町、あるいは5つの町を任せられる」という報いのためのさばきです。パウロはローマ8章で何と叫んでいるでしょうか?ローマ8:33-34「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ハレルヤ!残念ながら、神様が赦しても、自分の良心が赦していない。罪責感で苦しんでいる人がたまにいます。しかし、その良心は間違っています。神様があなたを赦して、義とみなしてくださったのです。だから、自分の心と悪魔に言ってください。「私の良心よ、キリストの血を受けよ。神が私を義として認めてくださった。私を訴える悪魔よ、立ち去れ。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえらされたからである。アーメン。」キリストにあって罪赦されただけではなく、義とみなされていることを感謝します。