クリスマスおめでとうございます。暦の上では、25日がクリスマスなのですが、教会は日曜ごとに礼拝がありますので、少し前ですが「クリスマス礼拝」をしてしまおうということです。ところで、何故、教会には女性が多いのでしょうか?日本の教会の平均は、6割から7割が女性だといわれています。どうして、教会には女性が多いのでしょうか?いろんな答えがあると思います。イエス様が男性だから。男性よりも女性の方が内面をよく見るから。男性は「俺、俺で生きて」プライドを捨てることができないから。いろいろあると思いますが、マリヤの賛美から2つのことをお伝えしたいと思います。第一は、なぜマリヤなのか?第二は、どこへ救いが行くのか?
1.なぜマリヤなのか?
ローマ・カトリックでは、マリヤは神格化されています。メシヤを生んだ母、聖母マリヤ。罪がなくて、永遠の処女であるということです。イエス様と同じように、昇天したとも言われています。それだけではなく、聖母マリヤに祈るならば、マリヤが神さまに執り成してくださるということです。中世の絵を見ると、赤ん坊のイエス様を抱いたマリヤが目立ちます。ある人たちは、今でも、イエス様よりも、マリヤを慕っているのであります。私たちプロテスタントはマリヤも一人の女性であり、立派なクリスチャンであるとは思っています。しかし、どうしてそれほどメシヤを生んだ母として神格化されてしまったのでしょうか?いろんな説がありますが、キリスト教がローマの国教になってしばらく後、数え切れないほどのゲルマン民族が南下してきました。ローマの町中がゲルマンにあふれてしまいました。そのとき、ローマ帝国は武力で追い出すのではなく、彼らをキリスト教化したのです。ゲルマンの人たちは、難しい教理を教えられても分かりません。それで、信仰を目に見えるような形にしました。十字架のロザリオを与え、それに向かって祈るようにさせました。また、ゲルマンの人たちは、男性のメシヤよりも、母性、母マリヤを求める傾向があったようです。優しい母マリヤを通して、神さまに近づく。こういう信仰が、彼らには合っていたようです。そういうこともあってか、ゲルマン民族のほとんどがキリスト教化されました。中世になると、聖母マリヤとして1つの教理として建てられていくのであります。日本の場合も、聖母マリヤに心を開いて、多くの人たちがキリシタンになったのではないかと思います。
しかし、きょう私は、聖母マリヤの話をするのではなく、「なぜ、女性なのか?」ということを一緒に考えてみたいと思います。先週も話しましたが、最も古い、救い主に関する預言は創世記3章にまで遡ります。一番、最初に罪を犯したのは、女性であるエバの方です。エバが木の実をまず食べ、それをアダムに与えたのです。アダムが「そんなにおいしいのか。では、私も一口」とやったのです。木の実に毒があったという訳ではありません。食べてはならない木から取って食べるとは、神の主権を侵す、つまり、自分が神になるということでした。そして、人類全体に罪とのろいが下ってしまいました。しかし、神さまは救いの約束も与えられました。それが、創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえとは、サタンであり、女の子孫とは、イエス・キリストであります。なぜ、ここで男の子孫と言わなかったのでしょう?キリストはアブラハムの子孫、ダビデの子孫と言われます。でも、ここでは「女の子孫」であります。なぜでしょう?「女性であるエバが最初に罪を犯したので、女性の子孫がその汚名を返上しなければならない、罪を贖わなければならない。」そのように考えることはできないでしょうか?だから、イザヤ書7:14 「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と書かれています。ユダヤ人は否定しますが、マタイによる福音書1章には、このみことばがイエス・キリストにあって成就すると書いてあります。やはり、ご自分の民を罪から救うためには、女のすえでなければならなかったのです。マリヤは処女でありましたが、それで罪がないということではありません。もし、男性との自然な関係で救い主が生まれたならば、アダムの罪が転嫁されるからです。神さまはそれを避けるために、聖霊によって超自然的に、メシヤが生まれるようにされたのです。でも、肉体をもってメシヤが生まれるためには、一人の女性が必要だったのです。
女性には子どもを生むという能力があります。神さまは人を男と女に創造してから、このようにお命じになりました。創世記1:28 「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」神さまは、人間が、特に神のこどもが増えることを願っておられます。この世の人たちは産児制限をしても良いですが、クリスチャンは子どもをできるだけ増やさなければなりません。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」。これは、神さまの命令だからです。でも、生むためには女性の助けがなければなりません。女性は神のこどもを増殖する能力があります。サタンがこのことがとってもイヤなのです。神のこどもが増えては困るのです。それでどうしたでしょうか?サタンは2つのことをしました。1つは女性蔑視です。女性は男性よりも劣るという考えを吹き込みました。女性蔑視はローマ時代にもありました。ローマの兵士が、国にいる妻に送っている手紙があります。「もし、男の子が生まれたなら生かしておけ、女の子だったら殺せ」と言うのです。なぜなら、男性は戦力になるからです。聖書にも、「20歳以上の男性を数えよ」というのが、出エジプト記にもあります。新約聖書でもパンが増えたとき、「男性だけでも、5000人いた」と書かれています。昔は、戦争に出て戦える男性の数を数えたようであります。だからと言って、女性蔑視ということではありません。それは、やはり罪から来ているものです。違うのは、能力ではなく、機能であります。男性と女性は神さまから与えられた機能が違うんです。このところを理解すると、男女が争うことはなくなります。もう1つサタンがしかけた罠は性の問題です。女性が子どもを生めるので、そこをなんとかしなければなりません。それで、サタンは性を汚れたものであると思わせました。男性には不品行、汚れ、姦淫への罪の傾向があります。サタンは男性を誘惑し、女性の性を不当に求めるようにさせるのです。世の中には、痴漢、セクハラ、強姦、売春、ポルノ等がありますが、性がゆがめられているところから来ています。明らかに、サタンが女性の性を攻撃し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」という命令を果たせなくしているのです。
救い主の誕生の際、マリヤがこのように歌っています。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」アーメン。讃美歌98「あめにはさかえ」という賛美があります。2節目は「いやしき賎(しず)の処女にやどり」となっています。賎(しず)というのは、賎民と同じ文字です。賎しいという古い表現です。讃美歌21では差別用語ということで、変えています。私は「卑しいはしため」というのは、神さまと比べて、よりへりくだった表現だと思います。でも、明らかにマリヤは女性を救った人ではないかと思います。メシヤを生むことによって、女性としての大切な使命を果たしたということです。しかし、そのためにマリヤはいくつか失ったものがありました。それはヨセフとの婚約が破談になるかもしれないということです。また、結婚前に子どもを宿したということは、姦淫であり、石打ちの刑です。また、生まれた子どもも、私生児と呼ばれるかもしれません。今の時代も「処女から子どもが生まれるだろうか?」とクリスチャンでも疑う人がいます。それは、2000年前とて、同じことです。マリヤはベツレヘムへ行って、なぜ馬小屋で生まなければならなかったのでしょうか?当時は親戚同士が宿を分け合って、泊まるそうです。マリヤは私生児を宿したと噂され、親戚からも排斥されていたのではないかという考えもあります。実際、福音書では「マリヤの子」と呼ばれています。マリヤはそういう誤解や嘲笑を覚悟して、信仰によって「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と告白したのです。そして、そのようになりました。
ハレルヤ!そういう訳で、クリスマスは女性の回復のためにもあるということです。マリヤが救い主を生むために、ご自分をささげられた。これは、すばらしい信仰と献身の証しです。ここにも、大勢の女性がおられますが、クリスマスおめでとうございます。女性の方々、ありがとうございます。どうか、これで牧師や夫をあまり攻撃しないようにお願い申し上げます。
2.どこへ救いが行くのか?
ルカ1:50-53「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」この箇所を見ると、神さまがお嫌いな者と神さまが好まれる者と2種類に分けることができます。神さまがお嫌いな者とはどういう人でしょうか?第一に「心の高ぶっている者を追い散らす」と書いてあります。神さまは高ぶり、高慢がお嫌いです。今、聖書日課ではⅡ歴代誌を読んでいます。歴代誌には、歴代のユダの王様が記されています。アサ王、ヨシャパテ、ヨアシュ、ウジヤ王、最初はみな良い王様でした。ところが、富と誉れが豊かに与えられるとどうでしょう?神さまよりも軍隊を、神さまよりも他の国と同盟を結びました。そうすると預言者が出てきて「やめなさい。主に信頼しなさい」と告げます。しかし、王様は「やかましい、ひっこんでろ」と退けます。そうすると、敵国が侵入し、王宮から宝物が奪われます。ある場合は病気になってしまいます。高慢が、滅びに先立つことが教訓としてよくよく述べられています。神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます」。第二は富む者です。聖書は富自体が悪いとは言っていません。アブラハムやソロモンは富んでいました。悪いのは、神さまよりも富を信頼するということです。新約聖書にありますが、ある金持ちの畑が豊作でした。彼は心の中で、「もっと大きな倉を建てて穀物や財産はみなそこにしまっておこう。魂よ。これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。神さまは「愚か者、お前の魂は、今夜、お前から取り去られる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言われました。金持ちの青年役員も悲しい顔をしてイエス様のもとを去りました。ヤコブ書では「金持ちたちの上に、悲惨なことが迫る」と警告しています。富やお金は中立ですが、それが増してくると、偶像になるということです。お金はあればあるほど、もっと欲しくなるそうです。私は、ないよりはあった方が良いと思いますが、誘惑の度合いが増すことも確かです。
では、神さまが好まれる人とはどういう人でしょうか?第一は低い者です。低い者とは、直訳すると身分の低い者です。イエス様がこの地上に来られたとき、どのような人たちと交わったでしょうか?政治家や高級官僚、あるいはライオンズクラブに集うような名士たちでしょうか?そうではありません。イエス様は「食いしん坊の大酒け飲み、取税人や罪人の仲間」(ルカ7:34)と言われました。当時の宗教家はそういう人たちと一緒に食事をしませんでした。しかし、イエス様は取税人のマタイやザアカイと一緒に食事をしました。また、イエス様の弟子のほとんどが、ガリラヤ湖の漁師でした。イエス様のところには、病人や問題を持っている人たちがよく集まりました。しかし、今日の教会はどうでしょうか?「イエス様は罪人を招かれましたが、刑を犯すような本当の罪人は困ります。イエス様はあらゆる病人を癒されましたが、精神的に病んでいる人は困ります。できれば、社会的に影響のある人、お金持ち、能力のある人が良いです。」口には言いませんが、どこかで思っているのではないでしょうか?教会はだれでも来ても良いところです。しかし、気をつけなければならないこともあります。神さまの愛は無条件で絶対的です。これは確かです。しかし、私たち教会には絶対的な愛はありません。もちろん、できる限りのことはします。私たちは最低限度のルールを設けながら、どんな人でも歓迎するのです。それをしないと、弱い人が王様のようになって、奉仕者が燃え尽きたり、教会が荒らされてしまいます。ここで言われていることは、へりくだるということです。イエス様は神さまであったのに、しもべの姿になるまで、へりくだられました。ヤコブ4:6「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」とかかれています。神さまの恵みと水は高い所から低い所へ流れます。逆流はしないのです。へりくだり、謙遜こそが、神さまの恵みを受ける性質なのであります。
もう1つ神さまが好まれる人は「飢えた者」です。ルカ6:21「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」と書いてあります。私は自慢ではありませんが、結構、貧しい家に育ちました。ですから、粗食と言いましょうか、ある程度のもので満足できます。しかし、外食するときは、腹いっぱい食べないと満足しません。家でいたらそんなことはないのですが、セミナーとか会議では別です。ある教会でセミナーをするときは、いつも弁当です。サンドイッチのときもありました。女性でしたら、それで良いかもしれませんが、「これだけ?」という感じがします。それで、この間は、「弁当ではなく、外食しましょう」と提案しました。その時は、ラーメンの大盛を食べました。私の心の奥深くに、満足しきれていないところがあるのかもしれません。韓国では、今はどうか分かりませんが、「ご飯食べましたか?」とあいさつするそうです。そして、おもてなしをするときは、テーブルの足が折れるくらいのご馳走でもてなすそうです。たくさん残るくらいが良いそうです。でも、それは貧しかった時の傷から来ているかもしれません。とにかく、そういうひもじさ、貧しさの傷はいやされる必要があります。福音書を見ますと、イエス様は常に食べています。イエス様は取税人や罪人とよく食事をされました。ザアカイには、呼ばれていないのに、「こちらから行くから」と言いました。十字架につけられる、最後の夜も弟子たちと一緒に食事をされました。復活してからは、ガリラヤ湖で魚を一緒に食べました。黙示録を見ると、世の終わり、「わたしの声を聞いて戸を開けるなら」何とおっしゃっているでしょうか?「私は彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする」と言われます。どうぞ、貧乏の霊、ひもじさの霊から解放されましょう。神の国は盛大な晩餐会にたとえられています、主は豊かに与える方です。私の杯はあふれるのです。
でも、これは、実際に飢えているという意味もありますが、神さまに対する飢え渇きです。私たちの信仰生活において、霊的な飢え渇きということがとても重要です。私たちはこの地上で住んでいますと、満ち足りた喜びというものが永続しません。「いや、これは最高だ!」と大喜びしても、明日になると冷めてしまいます。「ここまでやったなー」と思っても、「もうちょっと」と願うところがあります。これは私たちの罪の性質です。この世ではどんなものでも、飽きたり、慣れっこなるということがあります。霊的な世界でも同じで、私たちは常に信仰の高嶺へと登るように召されているのです。天国へ行ったらそういうことはありません。信仰は生き物です。そして、教会も生き物です。「昔は霊的に満たされていた、盛んだった」という教会が今ではどうでしょうか?50年たつと全く、様変わりします。教会だけではなく、この世のビジネスでも同じです。私たちは時代を見極める目を持ちながら、同時に、神さまに貪欲に求める必要があります。きのうの恵みときょうの恵みは違うといっても過言ではありません。もちろん、過去の恵みを覚えて、それを数えることも重要です。でも、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むように召されているのです。ですから、私たちはたえずチャレンジ精神が重要です。「前例がない」とか伝統や歴史に縛られているなら、どんどん減っていきます。教会はたえず祈り、信仰を高くあげて、チャレンジすることがとても重要です。20年くらい前、教会で結婚式をあげることがものすごく流行しました。しかし、多くの教会は「未信者の挙式はしない」とはねつけました。それでホテルがチャペルをたくさん作って、チャペル結婚式をしました。その後、ブラックゴスペルが流行りました。しかし、かなりの教会は「未信者を講壇にあげるのは良くない」と会堂も貸しませんでした。幸い亀有教会は、牧師に理解があるので、牧師も一緒に加わって賛美しています。私のことですが…。現代は心の病んでいる人が大勢いますので、カウンセリングとかコーチングが求められています。福音の内容は変えられませんが、伝え方は時代によって変えていかなければなりません。
最後には、私たち自身の霊性です。神さまに対する飢え渇き、霊的な飢え渇きということがとても重要です。どこかの聖会やセミナーに行くと、聖霊に満たされて帰ってきます。でも、次の週になるとぱーっと引いていきます。ですから、私たちは毎日、こつこつと聖書を読み、イエス様と親しく交わる必要があります。「どこかで落ちたかなー」と思ったら、そこまで引き返し、悔い改める必要があります。そして、さらにさらに、神さまに求めるのです。これまでいろんな癒しや奇跡を体験しました。「もっと、与えてください。もっと、体験させてください」と祈り求めるのです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」は有名です。しかし、原文は、「求め続けなさい」という継続形になっています。満足することはとても重要です。でも、さらなる飢え渇きをもって、神さまに期待する。私たちと神さまとの関係は生きた関係です。私たちの霊性は上がったり下がったりします。体調や気分も上がったり下がったりします。そこで、大切なことはどういうことでしょう?霊性が高いとき、体調や気分が上がっているとき、イエス様が会ってくれるのでしょうか?もちろん、会ってくださると思います。でも、イエス様は天の御座から低き所に下って、なんと陰府にまで下られたお方です。私たちがどん底に落ちたとしても、陰府には永遠の腕(申命記33:27)があります。クリスマスというのは、イエス様が地上に降りて生まれて下さったことを覚える日です。だから、私たちはそこでイエス様と出会い、イエス様が私たちを引き上げて下さるのです。主はどんなお方でしょうか?「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせて」くださるお方です。