2010.11.21 牧会の働き Ⅰペテロ5:1-4

信仰のDNAシリーズ、11回目は、指導者(リーダー)の役割について4回に渡って学びたいと思います。本来、こういうテーマは皆さんには関係ないと思われるかもしれません。しかし、牧師だけが指導者ではありません。みなさんが、大中小の違いはあれども、何らかのリーダーです。教会において牧師だけがリーダーで他の人は何も考えないで従っていくならばカルトになります。もし、教会において責任が分担され、そして任せられていくなら、力といのちにあふれた教会が形成されるのではないでしょうか?きょうは、牧会についてお話しいたします。牧師は英語でパスターと言いますが、「羊飼い」から来ています。ローマ・カトリックは神父と言います、神父は神さまとの間に立って、執り成すようなイメージがあります。一方、プロテスタント教会は「牧師」と言います。牧師は羊を養い、正しい道へと導くというイメージがあります。

1.牧会の働き

牧会にはどんな働きがあるのでしょう?詩篇231-3「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」羊飼いは、羊に良い草や水を与えます。では、牧会において草と水にあたるものは何でしょう?それは、みことばの食物と聖霊の水と考えることができます。牧会者は聖書のみことばを解き明かし、霊的な食物としてみなさんに与えます。水とは、聖霊がくださる新鮮な命、喜び、希望です。それらをいただくことによって、たましいが生き返ることができるのです。牧師がメッセージを語る、これは大きなウェートを占めていると思います。だから、牧師はみことばを研究し、祈りながら、調理をしなければなりません。毎回、同じメニューだと人々は飽きてしまいます。ですから、ここを変え、あそこをちょっと変えて話すのです。でも、話しているテーマ、言いたいことはほとんど同じです。まず、自分自身が、聖霊様によって生きたみことばをいただき、そのエキスをみなさんに分かち合う必要があります。でも、一週間、一回の食事で間に合うはずがありません。それで、みなさんが聖書を読んで自分自身を養うように指導することも必要です。ディボーションとも呼ばれていますが、日々、みことばに親しむ。そして、聖霊様と共に歩む。どちらかと言うと、人々を牧師に結びつけるのではなく、みことばと聖霊に結びつける、これが重要です。パウロは使徒2032「私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と言いました。

でも、羊を養うだけが牧会ではありません。ビジョンを示し、神さまが示す場所へと導く必要があります。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」どうしても通過しなければならない死の陰の谷があります。パレスチナというところは、ヨーロッパやオーストラリアとは違って広大な牧草地がありません。荒地の中に、こちらに少し、あちらに少ししかないのです。だから牧者は羊がその草を食べ切る前に、次の牧草地を探さなくてはなりません。でも羊は近視眼的で保守的です。「ずっとここにいたい」と願います。しかし、まもなく、その場所は草がなくなります。新しいところへ行かなければなりません。でも、その途中に、死の陰の谷があります。そこを通過しなければ、新しい牧草にありつくことができません。「羊はイヤだ。ここが良い」と動こうとしません。そこで、牧者はむちと杖で、「向こうへ行こう!」と追い立てるのです。教会ほど保守的なところはありません。福音の本質は変わりません。何十年も、何百年も同じことをしています。しかし、音楽、用語、組織、礼拝形式は時代によってどんどん変えていくべきです。そうでないと、今、生きている人たちに福音を伝えることができないからです。また、教会はビジョンが必要です。今の世代だけではなく、子供の世代、孫の世代の教会はどうなのか?私がこの教会に残したいことは、聖書に土台する教会です。この世のものはすべて相対的になっています。ある教会はその影響を受けて、聖書のみことばを疑い、「キリスト以外にも救いがある」と言います。しかし、世の中や他の教会がどうであれ、私たちは絶対的なみことばの上に土台する教会を後代に残す必要があります。

また、ヨハネ10章にも羊飼いと羊のたとえが記されています。ヨハネ10:11-13「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」ここには、2種類の牧者がいます。第一は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。命がけで羊を守るということです。第二は雇い人です。雇われ牧者は狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。雇い人とは、自分の生活のために、牧会をしているサラリーマン牧師かもしれません。1997年に香港が中国に返還されました。その前に、多くの牧師たちがカナダやアメリカ、オーストラリアに移民したそうです。それも大教会の有名な牧師たちだったそうです。残された教会員は果たして、どうなるのでしょうか?ベン・ウォン師は先輩達の姿を見て、とてもがっかりしたそうです。「神さまはアフガニスタンやカンボジアではなく、どうしてカナダやアメリカへ行けと言うのだろうか?」と不思議に思ったそうです。キリスト教国では、「他に何もできないので、牧師にでもなるか」という人がいるようです。生活のために牧師になるのです。とんでもありません。逆にクリスチャンの少ない日本ではどうでしょうか?「牧師になっても食べていけないので、牧師になんかならない」という人もいます。どちらも似ているような気がします。経済的な問題を信仰によってクリアーできるか、それが日本では試金石になっています。本当に神さまが召してくださるならば、フルタイムの牧師になることができるでしょう。しかし、みんながみんなフルタイムの牧師になる必要はありません。何か仕事を持ちながら、あるいは家庭の主婦をしながらも、魂を牧会することは可能だからです。問題は、牧会者の心があるかないかです。

私は牧師のコーチングをして不思議に思うことがあります。教会員がいないのに「私は牧師です」という人がいます。あるいは家族だけなのに教会の看板あげている先生もおられます。悪いとは申しません。でも、本当に牧師として召されたのであれば、信徒が集まるはずです。もし、集まっていないならば、どこかの教会に属して、信徒リーダーとして奉仕した方がよっぽど用いられるのではないかと思います。私がインドネシアに行ったとき、とっても驚きました。あるビジネスマンのセル集会に招かれました。その兄弟は60のセルグループを持っていると言っていました。1つのセルには10人以上が集っていますので、少なくとも600人以上のメンバーを牧会していることになります。日本だったら大教会になります。その人はフルタイムではなく、ビジネスマンとして働いておられるのです。もちろん、神さまの召命が第一ですが、賜物と実績が伴う必要があると思います。本当に神さまから召されたのであれば、実が現れるはずだからです。1つの教会に忠実に留まっていて、実が現れてから、「私はフルタイムの牧師になります」と言っても良いと思います。いや、その方が間違いないと思います。私は26歳のとき、牧師になりたいと志願しました。洗礼を受けて、まだ1年たっていませんでした。大川牧師は「志願兵」として私を受け入れてくれました。先生はまず「基礎科で学んで、その後、教会で奉仕をしなさい」と言われました。4、5年、教会で奉仕をした後、改めて神学校へ行きました。神学校へ行きながら、教会で奉仕をしていました。33歳で神学校を卒業し、この亀有教会に牧師として招かれました。計8年間は信徒として教会に仕えていたことになります。座間キリスト教会は日本でも最も大きな教会の1つでした。私は大きい教会を見て育ったので、「教会は成長して大きくなるのは当たり前だ」という信仰がありました。そういう意味では母教会にとても感謝しております。また、神学校卒業したばかりの、若造を招いてくれたこの亀有教会にも感謝しております。ですから、神さまの召命も大切ですが、インターン、見習いの期間を経てから、そういう道を歩むべきだと思います。

2.牧会の心構え

 Ⅰペテロ5:2-4「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」ペテロは長老たちに「神の羊の群れを牧しなさい」と命じています。イエス様は大牧者です。そして、長老の中で牧師をしている人たちがいます。さらには、牧師の働きに召されている信徒リーダーもいるということです。私は「10年間に、50名の信徒リーダーが与えられるように」と祈っています。牧師一人だけが牧会するのではありません。神さまはチームで牧会するように願っておられると信じます。それでは、牧会する者としての資質とは、どのようなものでしょうか?ここには3つの大切な資質が記されています。

第一は「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなす」ということです。日本では「お前は牧師になれ」とか「あなたはリーダーになりなさい」と強制されることがあるでしょうか?あまりないように思います。しかし、教団の権威で動いている教会は、任命制を取っています。自分にその気がなくても、「お前やれ!」と言われて、その教会の牧師になる場合もあるでしょう。その人は、仕方なくやっているわけです。仕方なく牧師をやっている人を見たことがあるでしょうか?あるいは、上からの命令で「伝道をしなさい。人々の世話をしなさい」と言われたことがあるでしょうか?その時は仕方なくやるかもしれませんが、おそらく長続きしないでしょう。それは雇い人の羊飼いです。カルト宗教は、上からの命令なので、仕方なくやっています。大切なのは「それは私の仕事です。私が進んでやりましょう」ということです。心の内側から、そういう情熱が湧いてくることが重要です。イエス様が群衆を見たときにどのように思われたでしょうか?マタイ9:36「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります。「かわいそうに思う」とは原文では、「内臓」という意味であり、深いあわれみの心です。神さまからそういう思いが与えられなければ、他の人をお世話するなんて不可能なことです。魂を愛する愛は、神さまからくるものです。それがあると、「自分から進んでそれをなす」ことができるのです。私はかつて、そういう心が全くありませんでした。ルカの15章に、ありますが100匹のうち、1匹が迷っていなくなりました。その羊飼いは99匹を野原に残して、いなくなった羊を見つけるまで捜しに行きました。かつての私だったらどうでしょう?最初はちょっと捜します。しかし、見つかりません。心の中でどう思うでしょうか?「あいつは弱いくせに、わがままなんだよなー、勝手に離れて行ったんだからしょうがないか」でした。私は放任主義の家庭で育ったので、愛というものが全くありませんでした。しかし、自らが失われた羊であることに気付きました。その後、父の心が与えられました。それから徐々にですが、神さまの愛に促されて、「自分から進んでそれをなす」ようになったのです。

第二は「卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい」です。これは「純粋な動機をもってしなさい」ということです。使徒の働き8章に、金で神の賜物を手に入れようとしたシモンのことが記されています。彼は魔術師でしたが、さらに奇跡を行って、「自分は偉大な者だ」と思わせたかったのです。名誉とかお金のために伝道者や牧師になる人がいるのでしょうか? 20年くらい前、アメリカのテレビ伝道者が相次いでスキャンダルで倒れた時がありました。今でも、癒しを受けるために数万人も集まる集会があります。「タッチ」などとやると、多くの人が倒れます。確かにものすごい癒しが起こります。そして、献金もささげられます。残念ながら、集まったお金の使い道が正しくないことがあるようです。有名になると、様々な誘惑が起こってきます。そのため、最後まで走り通す、finish wellの伝道者が少ないのです。だれにでも、「いつまでも鳴かず飛ばずではなく、どこかでブレィクしたい」という気持ちがあるのではないでしょうか?正直、私もそういう気持ちがあります。イエス様の時代、律法学者やパリサイ人たちは、人々から一目置かれることを求めていました。人々から「先生」と呼ばれ、上座に着くことを求めていました。イエス様は「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と言いました。イエス様は、人々を食い物にしている宗教家を本当に嫌われました。願わくば、私もそういう偽善者にならないで、常に純粋な気持ちで主に仕えたいと思います。一番の報いは、人々からではなく、天において、いただく神さまからの栄誉です。もし、地上で十分に報われたなら、天における報いはないでしょう。私たちは天におけるイエス様からの報いを得るために働きたいと思います。

第三は「その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と命じられています。どんな指導者にも言えることですが、人を支配できるということは大きな魅力です。ある人は、「そんな、大それたことを…」と言うかもしれません。しかし、お母さんが子どもを支配している場合があります。夫が妻を、妻が夫を支配している場合があります。エリヤハウスで教えられました。愛の反対は憎しみと答えるかもしれません。しかし、「愛の反対は支配、コントロールである」と言うことです。牧師も支配的な人がいます。「あなたは、ここが変わらなければならない」といつも人々に要求します。もし、その人が変わらなければ、御霊に剣によって切りつけることになります。そのためたくさんの人が傷つけられます。ピラミッド型の支配構造は、この世の支配構造です。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ20:25,26「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」イエス様は、この世のリーダーシップではなく、神の国のリーダーシップについて教えてくださいました。それは仕えるリーダーシップです。弟子のペテロは「他のだれよりも偉くなりたい」と思っていました。彼にはリーダーの賜物があったのかもしれません。しかし、十字架の前に逃げてしまいました。イエス様を3度も知らないとまで言いました。ペテロはすっかり砕かれて、肉の力ではなく、御霊による力を求めました。そして、初代教会の素晴らしいリーダーになりました。ペテロはこの手紙で、「支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と勧めました。まさしく、それはイエス様の生き方でした。イエス様がペテロをはじめ、弟子たちの足を洗ってあげました。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と模範を示してくれたのです。だから、リーダーは自ら模範を示しながら、人々を導く必要があります。

「人を支配したい、自分の思うとおりに動かしたい」。これは支配の霊です。私は、以前は、こういうことがさっぱり分かりませんでした。しかし、自分が癒されてから、とても敏感になりました。セミナーとかで、色んな教会に行くことがあります。教会に入った瞬間、「ここには支配の霊があるなー」とか「ここにはないなー」ということが良くわかります。支配の霊がある教会は、牧師が支配的な人なのです。そのため、教会の雰囲気がピリピリしています。勝手なことをしたら裁かれる。何でも報告しなければならない。何でも許可を得なければならない。それは完全に、支配の霊の教会です。反対に、御霊の自由にあふれた教会があります。それは善意の霊、喜びの霊にあふれています。みんな自主的に、喜んで奉仕しています。なぜでしょう?好きでやっているからです。その教会は、たとえ失敗しても、「失敗から学ぶ」という雰囲気があります。主任牧師は、ある意味では、その教会の雰囲気を決めてしまいます。主任牧師が神経質だと、教会も神経質になります。私の場合はどちらかと言うと楽観的なので、教会も楽観的になっているでしょうか?香港のベン・ウォン師は「教会は雰囲気が大切である」と言いました。どんな雰囲気が良いでしょうか?だれが書いたか忘れましたが『愛、受け入れ、赦し』という本がありました。当教会に、「愛、受け入れ、赦し」という雰囲気があったら本当に良いなーと思います。雰囲気とはどこから出てくるのでしょうか?リーダーだけではなく、一人ひとりの魂の内側から出てくるものです。その人と接すると、ことばでは言い表せない、何かが出てきます。ある場合は敵意であったり、怒りであったり、疑いであったりします。教会は聖霊の宮であると聖書に書いてあります。私たち個人個人が聖霊の宮であり、聖霊が住んでおられます。また教会全体で集まっているところにも聖霊がおられます。心構え、動機、心の傷はすぐに表には出てきません。それらはまるで木の根っこのような存在です。私たちはどうしても目に見える木とか木の実の方に注意を向けてしまいます。それは表に出てくる行動とか考えということができるでしょう。確かに、それらも大切ですが、もっと大切なのは内部に潜む、心構え、動機、心の傷です。では、どうしたら心構え、動機、心の傷がきよめられていくのでしょうか?そこには2つの方法があります。第一は聖霊様(イエス様)を心の中に歓迎することです。そして、罪や傷があるならば神さまに差し出して癒してもらうことです。第二は兄弟姉妹でそれらを分かち合うことです。ヤコブ書5章には「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」と書いてあります。これは自分がリーダーであるとかないとか全く関係ありません。いや、むしろリーダーであるからこそ、罪を言い表して、自ら模範を示す必要があります。自分が癒され、解放されるならば、周りがその影響を受けるからです。

イエス様が教会の大牧者です。その下に中くらいの牧者、小さな群の牧者がいます。もし、あなたが何年か前にイエス様を信じた人であるなら、これからの人を指導する立場にあります。そういう意味では、皆さん全員が牧会の心、イエス様の心を持つ必要があります。大牧者が現れる時、そういう人たちが「しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」