2010.05.16 古き人の死 ローマ6:6-19

私たちはイエス・キリストを信じたことによって、神のものとされました。同時に私たちは、キリストによって新しく生まれたので、聖徒であり神の子です。そういう意味で私たちはすでに聖いのです。でも、問題は私たちの実質、中味であります。私たちはキリストを信じたことによって、新しく生まれました。でも、これから神の子として成長していく必要があります。また、私たちは聖徒とされましたが、実質的に聖徒らしくなるように求められています。キリストが来られ復活したならば、完全な姿(栄化)になります。それまでは、私たちは日々、聖められる必要があるのです。このことを神学的には聖化と言います。信仰のDNAシリーズの聖化ということを4週にわたってお話ししたいと思います。

1.古い人の死

 聖化において最初に語られるべきテーマは「古い人の死」であります。古い人とは何でしょう?古い人とはアダムから受け継いだ罪を持っている、このからだのことです。私たちは罪を犯したから罪人なのではありません。罪人であるから罪を犯すのです。イエス・キリストを信じると、今まで犯したすべての罪が赦されます。キリストの血はすべての悪から私たちをきよめてくださるのです。しかし、どうでしょう?イエス様を信じて救われましたが、それ以降は罪を犯さなくなったでしょうか?「ああ、主よ、また私は罪を犯しました。イエス様、お赦しください。」アーメン。私たちは罪を告白するたびに、キリストの血によって赦されます。なぜなら、2000年前、イエス様は十字架ですべての罪の代価を支払ってくださったからです。私たちが罪を告白するのは、赦されるためというよりは、その赦しを適用するということです。一生分与えられている罪の赦しの銀行口座から、その時、犯した罪の代価が引き落とされるということです。その結果、私たちの良心がきよめられ、神様との交わりが回復します。でも、数時間後「ああ、主よ、また私は罪を犯しました。イエス様、お赦しください」と祈って、罪の赦しをいただきます。でも、それで良いでしょうか?もちろん、父なる神様はこれから先、永遠に私たちを赦してくださるでしょう。でも、父なる神様は「同じ罪を何度も犯し続けないで、神の子として成長するように」と願うのではないでしょうか?そのために、神様は十字架ですばらしいことを成してくださいました。ローマ6:6「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」アーメン。これはどういう意味でしょう?イエス・キリストは私たちの罪を赦すために十字架についてくださいました。このことによって、私たちに罪の赦しが与えられました。アーメンです。しかし、それだけではありません。ローマ6章を見ると、私たちもキリスト様と一緒に十字架につけられて、私たちの古い人が一緒に滅びたということがわかります。バプテスマ(洗礼)とはキリストと1つになるということです。イエス様を信じてバプテスマを受けたときに、私たちの古い人は一緒に、十字架につけられて死んだのです。

 私たちは古い人を、自分の手で十字架につけて殺すことはできません。私が手に金槌を持って自分を十字架に釘付けできるでしょうか?両足を釘付けできるでしょう。また、左手も釘付けできます。でも、この金槌を持った右手はどうするのでしょうか?この右手が罪を犯すでしょう。だから、自分を死なせることはできないのです。私はホーリネス教団の東京聖書学院の基礎科で学びました。いろんな集会で語られることは「古い自分に死になさい。古い自我に死になさい」でした。「死ね、死ね」と何べんも言われると「お前こそ、死ね!」と言いたくなります。なんだか、暗い部屋に閉じ込められて、「まだ罪があるだろう。吐け!吐け!」と、もぐら叩きにあっている感じがしました。私は学院の部屋にこもったり、中庭の樹木の下で、「私の古い自我を殺してください、殺してください」と何度も祈りました。残念ながら、きよめというのを体験しないまま卒業しました。その後、大川牧師がウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』という本を貸してくださいました。その本には、「あなたはすでに死んでいる」と書いてありました。どこかで聞いたような表現ですが、その本で分かったのです。「しかし、どのように死ぬことができるでしょうか?私たちの何人かは、この罪ある生命から逃れるため、ずいぶん努力したでしょうか、逃れる道はどこにあるのでしょうか?それは自分を殺そうと努力することではなく、神がキリストにあって私たちをすでに処理しておられるということを認識することにあります」と書いてありました。ローマ6:11「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。「思いなさい」はギリシャ語で、ロギゾマイといいますが、帳簿や会計に関して勘定することを意味します。私が事実、死んでいるので、神はそのように勘定せよと告げられるのです。そのように思う(認識する)ことによって、私たちが死ぬためではなく、現に私たちが死んでいるからです。アーメン。ですから、これは自分自身に対する信仰ではなく、キリストに対する信仰の問題です。私たちはキリストにあってすでに死んだのです。この事実を私たちは「アーメン」と認めることが唯一、必要なのです。皆さん、一人ひとりも、キリストを信じているなら、あなたの古い人は十字架に付けられてすでに死んだのです。「アーメン」と認めましょう。

 ローマ6:6「罪のからだが滅びて」の「滅び」はどういう意味でしょうか?これは「運営不能、無効となる」という意味です。この事は私たちの古い人とどのように関係しているのでしょうか?分かり易いたとえ話があります。政府がもし徹底的な禁酒運動を行なおうとすれば、どのような手段を取ればよいでしょうか。国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやブランデーなどの瓶を1つ残らずこわしてしまえば、それで問題は解決するでしょうか。もちろんそうはいきません。その背後に醸造工場があれば、瓶だけ処理してもダメです。工場をそのままにしておけば、酒類の生産は継続し、恒久的な解放は望めないでしょう。飲酒問題を恒久的に解決しようと思うなら、国中の醸造工場、蒸溜装置が取り除かれなければなりません。私たちはその工場と言えます。そして、私たちが犯す罪はその生産物なのです。主イエスの血は、生産物、すなわち私たちの罪の問題を処理しました。すでに行なった罪の問題は、これで解決されます。私たちが犯した罪はすでに処理されました。しかし、私たち自身は、どのように処理されるべきでしょうか。神様は、生産されたものと同時に、それを製造する工場も一掃されたのです。つまり、神様は私たちの古い人を十字架で死なせることによって、罪の製造工場を叩き潰してくださったのです。ハレルヤ!製造工場はなくなったのですから、新たにお酒は生産されなくなりました。でも、どうでしょうか?国のどこかの倉庫や販売所にまだお酒があるかもしれません。各ご家庭に買いだめされているかもしれません。車のトランクにウィスキーが隠されているかもしれません。それはどういう意味でしょうか?古い人という罪の工場はなくなりましたが、私たちの魂や肉体に罪を犯す傾向がまだ残っているということです。これを肉と呼びます。肉の問題は次回、取り扱います。きょう、ぜひとも知ってもらいたいことは、罪を作り出す工場である、古い人は死んだということです。ハレルヤ!あとはどこかに残っている酒瓶だけです。それを一本、一本、壊していけば良いのです。これで、私たちに希望が与えられたのではないでしょうか?

 もう1つ別の方向から「古い人の死」について、お話したいと思います。ローマ人への手紙には「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストに接ぎ合わされて」ということばが度々出てきます。私たちは「古い人は死にましたよ」と言われても、「いや、ちゃんとこのように生きているじゃないか」と思ってしまいます。今、私は56歳です。子供のころの記憶もあるし、学生時代、青年のときの記憶もちゃんとあります。クリスチャンになって確かに救われましたが、過去の自分もちゃんと記憶にあります。過去に犯した罪や過ちの記憶、人から受けた傷、あるいは罪の性質も残っています。クリスチャンになったからと言って、すべての傷が癒され、性格が変わったわけではありません。何が変わったのでしょうか?私たちは「キリストにあって」死んでいるのです。もし、私たちがキリストになければ、相変わらず、古いままの自分がそこにいるかもしれません。でも、私たちはキリストを信じたときに、キリストの内に置かれたのです。聖書は「キリストのうちに入るように」とは命じていません。私たちがキリストを信じたときに、神様ご自身が、私たちをキリストの内に入れてくださったのです。神様が私たちの古い人をキリストと共に十字架につけられたのです。するとどうなるのでしょうか?今度はキリストと共によみがえるのです。「きよめ」と言われる、いろんな体験があります。ある人は「○○月○○日に、キリストと共に死んだ」と言うかもしれません。しかし、そういう体験よりも、「神様は私をキリストの内に置かれた。これは真実である。だから、私はキリストの内に宿っていよう」と信仰に立つことが大事なのです。私たちはあまり、体験を求めるならば罠にはまります。そうではなく、キリストにあるならすでに死んだ者であり、また、キリストにあって、神に生きた者なのです。あなたの頭の中に、記憶があるかもしれません。心の傷やトラウマもあるかもしれません。でも、キリストにあって、あなたの古い人は一度死んで、今は新しい人になったのです。これを不連続の連続と言います。一度、あなたという古い人は死んだのです。

牛乳の殺菌方法をご存知でしょうか?牛乳の殺菌方法で最も採用されているのが、超高温短時間殺菌法です。これは、牛乳を120~150 ℃で2秒間位、殺菌処理する方法です。100 ℃を超す殺菌温度のため、滅菌といってもよいほど完全に細菌及び微生物を死滅させます。しかし、短時間のため牛乳固有の栄養成分などは、特別関係ないといわれています。牛乳に人格があるなら、数秒間の出来事だったので、一度死んだことを覚えていないのです。私たちも、キリスト様を信じたとき、「うっ」と数秒間、古い人が死んだのです。そして、その後、キリストと共によみがえらされたのです。まだ、少し「罪の成分」が体の中に残っているかもしれません。しかし、罪を作り出す本体が死んだのです。いわゆる罪の工場が破壊されたのです。Ⅱコリント5:17も同じことを述べています。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。神様は古い創造をキリストの十字架によって切り離されました。それは復活により、キリストにあって新しい創造をもたらすためです。私たちは生まれつきの命が変化したのではありません。全然別の命、神様からの全く新しい命が私たちのものとなったのです。

2.神にささげよ

 使徒パウロは一度死んだ私たちに何と命じているでしょうか?ローマ6:12-13「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」アーメン。「ささげる」ということばは、13から19節の間に、5回記されています。「ささげる」とはどういう意味でしょうか?献身という意味でしょうか?確かに献身ということですが、13節に「死者の中から生かされた者として」と書かれています。これは「古い人」の属している、生まれつきの賜物、生まれつきの知恵や力をささげるということではありません。私たちが神様にささげるものは、死から復活へと移ったものだけをささげるということです。私たちのからだは、私たちのものではありません。このからだは神様のものなのです。では、私たちが持っていた生まれつきの賜物や、生まれつきの知恵や力はどうなったのでしょうか?これも、やはり十字架の死を経なければなりません。神様は死によって古い創造に属するものをすべて切り離してくださいました。ですから、今、持っている賜物や知恵や力すらも、神さまのために、聖別されたのです。私はクリスチャンになる前、この体とその能力を罪の生活のためにささげて生きてきました。高校のときからマージャンやパチンコをしていました。酒やタバコは、中毒にはなりませんでしたが、たしなんでいました。詳しくは申し上げることはできませんが、男性の特有の罪も犯しました。しかし、洗礼を受けてから、そういうものがイヤになり、ぴったりとやめることができました。なぜでしょう?「私は神様のために、福音のために生きたい」と願ったからです。もし、私が、信仰が篤いうちに、献身をしなかったならば、どうなっていたか分かりません。ですから、ただ、そういうものをやめるだけだと誘惑に弱いと思います。積極的に、生まれ変わった私たちのからだとその能力を神様にささげるときに、罪からの誘惑が半減するのではないかと思います。

 ローマ6章の後半には二種類の奴隷について書かれています。1つは罪の奴隷です。もう1つは義の奴隷です。以前の私たちは罪の奴隷でした。なぜなら、罪のために手足をささげて生きてきたからです。「気持ちいい!これが私の生きる道だ」と何の罪責感もなく生きてきました。でも、キリスト様を信じてから、ぐらぐらぐらと、揺らされ、180度、変わってしまいました。180度、方向が変わるということはどういうことでしょうか?これまで右に見えていたものが左に見え、これまで左に見えていたものが右に見えるということです。これを回心、英語でconversionと言います。conversionとは、転換、転化、改造という意味です。私たちクリスチャンは、聖霊によって転換された者であります。パウロは罪の奴隷になるか、あるいは義の奴隷になるか2つに1つしかないと言います。神の奴隷なのか、あるいは悪魔の奴隷なのかということです。自然界には真空というものがないように、ここでも中間というものがありません。罪から解放されて神の奴隷になるか、罪の奴隷となって永遠の滅びに行くか2つに1つです。19節には「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」と書かれています。聖潔というのはホーリネスという意味です。ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』でこのように教えています。聖潔とは何でしょうか?多くの人は、内にある何か悪いものを根絶することによって聖くなると考えます。しかしそうではありません。私たちは、神のために聖別されることによってきよくなるのです。旧約時代には、ある人が全く神のものとなるために選ばれた場合、その人は公に油を注がれました。そして「聖別された」と言われたのです。それ以後、彼は、神のために区別されたものとみなされました。同様に動物や物体さえもきよめられることができました。それは、それらのものの内にある悪しきものを根絶することによるのではなく、主のため全面的に区別されることによってでした。ヘブル語の意味するホーリネスは、このように区別された何ものかを指しています。私は自己を完全にキリストにささげます。それがホーリネスです。アーメン。

 ある人たちは「私は牧師や伝道者になるために、自分自身をささげます」と言うかもしれません。しかし、これはそういう意味ではありません。自分自身を神にささげるということは、自分が完全に神様のものであるということを承認することです。もやは、私は自分のための人生ではなく、神のための人生であると認めることです。これがキリスト者の標準であります。残念ながら、そういう意味で自分を神にささげなかった人が、牧師や伝道者になっている場合があります。そうなると、人々や神様を自分のために利用することになるでしょう。私たちがこのようにして、日曜日、神の前に出て礼拝をささげています。これはありがたいお話を聞くためではありません。ま、そのように思っておられる方には感謝しますが、そのためではありません。日曜日のこの時間をささげるということは、1週間の初穂、最初の時間をささげているということです。みなさんが、この場において献金をささげますが、それは自分のもっとも大切なものをささげているのです。ある人は「お金は自分のいのちの次に大切のものである」と言いました。ですから、信仰がなければ1円たりともささげる気持ちにはならないでしょう。しかし、本当の礼拝は時間やお金だけではありません。あなた自身を神様の御前にささげることなのです。Ⅰコリント6:19-20「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」アーメン。罪から贖われた私たちが、罪から離れ、神の前で聖い生き方ができる一番の秘訣をご存知でしょうか?それは、神様に自分をささげるということです。死者の中から生かされた者として、私たち自身とその手足を義の器として神にささげるということです。そうすれば、世と悪魔の攻撃から解放されるでしょう。もちろん、全く解放されるという訳ではありません。でも、「自分自身は神のものであり、自分を神様のためにささげて生きるんだ」としたら、優先順位ががらっと変わるでしょう。趣味や楽しみを全部捨てろという意味ではありません。休んだり、くつろいだりすることがあって良いのです。でも、そういう時間が心と体を休め、また、次の目標に向かって生きるための力となるのです。

私はクリスチャンになる前、「人間は何のために生きるんだろう」と午前零時くらいまで、よく考えていました。そして、東京FMのジェットストリームを聞きながら寝ました。「ロンリー、アイ、ミスター、ロンリー」の淋しい音楽がテーマソングです。7,8年くらい前、10巻1セットのジェットストリームのCDを買いました。聞いても、昔のように感動しないのです。なぜでしょう?心がもう空虚じゃないからです。私はキリストを信じて自分をささげてから、ぼーっと考えるとか、暇をもて遊ぶということがなくなりました。神様のために生きるということが分かったからです。最後にこのことばを引用いたします。ローマ6:22-23「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」報酬というのは労働に対するサラリーです。給料日が来ると本当に嬉しいものです。人生において罪を犯していただくサラリーが死だとしたら、ちっとも嬉しくありません。しかし、神様が下さる賜物があります。賜物はサラリーと違って、労働なしにただで与えられるものです。神様は私たちの行いに関係なく、イエス様を信じる人に永遠の命を与えてくださるのです。さらに、神さまは永遠の命だけではなく、この世において罪からの解放と、聖潔に至る実を与えてくださるのです。アーメン。