前回の学びでは、私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられ死んだということを知りました。次に私たちは死人の中からよみがえらされた者として、自分自身を神様にささげました。しかし、この続きがあることを忘れてはいけません。あるところにそこつな召使がいました。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。でも、一日中何もせずにしておれば、何の役にもたちません。ところが「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言われれば、すぐさまトラブルが起こるのです。彼は立ち上がる拍子に、イスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。それから大事なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。彼に何も要求しないなら、彼のそこつさはわかりませんが、何かするように頼んだとたん、彼は本性を表すのです。この物語はウォッチマンニーの『キリスト者の標準』からの引用ですが、私たちのことを言い当てています。
1.肉の存在
ローマ3章にはキリストを信じて義とされたことが記されています。そして、ローマ6章には私たちがキリストと共に死んで共によみがえらされたことが記されています。「主が私のためにこんなすばらしいことをしてくださったのだから、私も主のために何かをしなければならない」と考えるでしょう。みなさんも、洗礼を受けた後、「ああ、私も何か奉仕をしたいので、何でもおっしゃってください」と思ったことはないでしょうか?車の送迎、台所のお手伝い、お掃除、集会の奉仕。しかし、どうでしょう?「なんだかしっくりこない。クリスチャンって、みんな良い人だと思っていたのに、案外、冷たいわ。私がこんだけ一生懸命やっているのに手伝ってくれない。感謝もしない」。そのように思ったことはないでしょうか?最初は喜びでやったつもりなのに、さばき心や怒りが生まれたということはないでしょうか?これが最初にお話した「そこつな召使」であります。あなたは失敗しないで、その奉仕を完璧にこなしたかもしれません。しかし、問題なのは、あなたの中に生じた「しっくりこない思い」であります。最初は、表面には出てこないかもしれません。しかし、やがて「躓いた」とか「疲れた」「いやになった」という形で出てきます。その原因は何でしょう?それは肉でやっていたからです。肉というのは神様に寄り頼まない一切のものです。自分の力、自分の考え、自分の経験から来るものです。それらは決して醜いものではなく、むしろ美しいものです。しかし、あなたが肉で始めるならば、罪を刈り取ることになるのです。私たちがクリスチャンになって、どうしても知らなければならないものは、自分の中に存在する肉、つまり罪の性質です。
「え、どうして私にそのような肉があるのですか?」とおっしゃるかもしれません。肉がわかるのは、律法が来たときであります。律法とは神様が私たちに命じておられる様々な要求です。聖書には数限りない律法が記されていますが、律法は大体「○○せよ」「○○するな」という形で書かれています。もし、私たちが「○○せよ」という命令を受けたならどう反応するでしょうか?「やーだよ」と言わないでしょうか?あるいは「○○するな」と言われたらどうでしょうか?してはいけないことをあえてするんじゃないでしょうか?たとえば、子どもに「ゲームをしないで宿題をしなさい」と言ったらどうでしょう?かなりの確立で、もう2、3回言わないとやめないでしょう。子どもの心の中に律法が反応したからです。人間の心というのは天邪鬼です。「見るな」と言われたら「見たい」。「さわるな」と言われたら「さわりたい」。「食べるな」と言われたら「食べたい」。これが、罪の中にある私たちです。使徒パウロはこう言っています。ローマ7:18-20「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
前回は、お酒のたとえを用いて、罪を製造する工場が潰されたということを知りました。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられて死んだのです。しかし、製造工場は閉鎖されても、酒瓶がどこかに残っているということを申し上げました。政府がお酒を飲むことを禁じても、どこかの倉庫や、家の台所、車のトランクの中に隠されているかもしれません。同じように、私たちの魂と肉体には、残念ながら罪の残渣(ざんさ)、残りかすが残っているのです。パウロはそれに気づいて愕然としています。ローマ7:23-24「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」聖書には、「力を尽くし、思いを尽して主なる神を愛しなさい。あなたを愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。この戒めにだれも反対する人はいないでしょう。私たちは「ああ、そうです。愛します」と隣人を愛そうとします。しかし、どうでしょう。そのようにできるときもあれば、そのようにできないときもあります。神の愛は無条件の愛、自分自身を捨てる愛であるということは頭では分かっています。でも、そのような愛がないのです。逆に、憎しみ、妬み、怒り、さばき心が出てきます。愛とは正反対のものが心の中にあるのです。「いや、私の心にそういう醜いものはありません」という人は、それ以上、成長もしないし、聖められることはありません。「自分にはそういう愛はない」。これは、悲しい発見ですが、主にあってはすばらしい前進になるのです。
2.律法からの解放
律法とは何でしょう。旧訳聖書では「おきて」「命令」「さばき」「教え」と言われています。詩篇19篇には、「主のみおしえは完全で主の仰せはきよい。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それを守れば、報いは大きい」と書いてあります。律法は私たちが幸いを受けるように、与えられたものです。これを守れば、確かに報いられるのです。しかし、イスラエルの民はどうだったでしょうか?私たちは、少し前に聖書日課で申命記を学びましたが、モーセは何べんも主の戒めを彼らに伝えました。でも、どうでしょうか?彼らはカナンの地に入ってから、主の戒めを破り、偶像礼拝をしてしまいました。イスラエルの歴史は不従順の歴史と言っても過言ではありません。彼らは律法を守れなかったのです。新約の私たちはキリストの恵みによって救われました。キリストは律法を全うし、律法の呪いから私たちを贖い出してくださいました。私たちはすでに、恵みの世界に生きているのですから、律法は不要なはずです。でも、どうして再び、律法を持ち出してくるのでしょうか?パウロは何と言っているでしょうか?ローマ7:7-8「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」そうです。律法は、「あなたの内側に罪がまだ宿っていますよ」ということを教えてくれるのです。律法自体は悪いものではありません。今も、律法は正しくて完全です。しかし、私たちの肉がその律法に反応するのです。律法が、「むさぼってはならない」と言うまでは、むさぼりはないと思っていました。しかし、律法が「むさぼってはならない」と言ったので自分のうちにあらゆるむさぼりが引き起こされたのです。つまり、律法の役割は「あなたには罪がありますよ」ということを教えるのです。
さて、イエス様によって救われた私たちは、この律法に対して、どうしたら良いのでしょうか?確かに私たちの内には肉がある。神の律法に従えない罪の法則があるということが分かりました。ここで私たちは仕えるべき主人を換えなければなりません。平野耕一先生の『これだけは知ってもらいたい』という本にこのような物語が記されています。アメリカに一人の女性がおりました。彼女はとても人のいい、やさしい女性でしたが、ちょっとおっちょこちょいで、彼女のやることには少々抜けたところがありました。反対に、彼女のご主人は完全主義者で、とても几帳面な人でした。そんなご主人が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルちゃんと拭いたか?ここにほこりがついているぞ」とやり始めるのです。食事を出すと「おい、このスープ、ちょっと塩がききすぎて塩辛いぞ」といちいちチェックが入ります。もともと彼女は大雑把な性格だったにも関わらず、かなり神経質にならざるをえませんでした。夫に気を使うと同時に、いつもビクビクしながら生活するようになってきました。ところで、彼女の家の隣に一人の男性が住んでいました。ある日、「奥さん、ちょっと芝生が伸びているようですね。私でよかったら刈っておきますよ」と言って、その男性は機械を持って来て庭の芝生を刈ってくれました。他に窓拭きやリビングルームのお掃除もしてくれました。彼女は次第に、私の夫もこんな人だったらいいのにと思い始めます。自分の夫に比べると、隣の人は全然違う。隣の人と一緒にいると心が安らぐし、喜びを感じるけれど、夫といると、自分の過ちやいたらなばかりを指摘されて、自己嫌悪に陥ってしまう。彼女はその夫と別れて、隣の男性と結婚したくなりました。夫が死んじゃえば良いと思ったけど、夫はすごく健康で、風邪一つひかない人でした。
これは実際あった話ではありませんが、どうしたら、彼女はこの夫から解放されるでしょうか?実はこの夫こそ、律法の象徴です。律法も道徳的な完全を要求するのです。彼女が夫の要求を満たすことができないように、私たちも律法の要求を満たすことができません。夫が頑丈なからだを持ち、健康そのものであったように、律法も健全で、どの時代でも揺るがない強さを誇っています。夫と同じように、律法が死ぬことを期待できないならどうしたら良いでしょう。聖書が教える解決は、妻が死ねば、夫から解放されるということです。でも、自分が死んだらすべてが終ってしまいますから、死人には再婚などできません。パウロはローマ7章の前半でこのように述べています。ローマ7:4「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」私たちはキリストと共に死んで葬られ、キリストと共によみがえったということです。そしてどうなったのでしょうか?かつての古い人は律法と結ばれていました。しかし、古い人が死んで、今は、キリストによって生かされ、キリストという夫のもとで生活しているということです。律法は多くのことを要求しますが、その要求を達成するために、何らの助けも与えてくれません。一方、キリストも私たちに要求なさいますが、ご自分でなさった要求を、私たちの内に成就されるのです。律法はなおも要求を続けるでしょうが、私たち対する力はすでに失ったのです。なぜなら、私たちは一度、キリストと共に死んだので、律法から解放されているからです。そして私たちクリスチャンは、新しい夫であるキリストと再婚したのです。しかも、キリストは、要求を出すだけではなく、彼みずから私たちの中にあって、それを達成する力となられるのです。この力については、次回の「御霊の法則」で学びます。
3.神の要求
ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。」使徒パウロは、「自分の力で神様にお仕えしよう。律法を守って聖くなろう」と一生懸命、努力しました。その結果はどうだったでしょうか?「私の内に善が住んでいないのを知っています。したいと思う善を行なわないで、かえて、したくない悪を行なっています」と告白しました。最後には「私はほんとうにみじめな人間です」と絶望しています。スティーブ・マクベイという牧師は、16歳の時から説教しました。駐車場に車を駐車して、その車の上に上って、駐車場の中でよく説教をしました。映画館で並んでいる列の人たちに向かって説教をしたこともあります。19歳で教会の主任牧師になりました。それから21年間、神様に仕えました。教会の人数も増え、いろんなところからも呼ばれるようになりました。人々から「良くやっていますね」「先生の説教は本当に面白い」「あなたのカウンセリングで変えられました」と言われました。先生自身は「自分は物足りない。何とか自分の努力によって、もっと、もっと神様にふさわしい者にならなければならない」と、プレッシャーを感じていました。そのように、いつも自分のことを見つめてばかりいました。あるとき、他の教会から招聘を受けました。祈って、神様の導きであると確信し、行くことに決めました。「牧師先生どうして、この教会を去るのですか!」と悲痛な叫びを振り切って、新しい教会に赴任しました。先生は、そこへ着いて一生懸命、神様のために働きました。一番、良い説教をしました。地域の人たちを訪問し、自分が知っている一番良いプログラムをやってみました。ところが、赴任して1ヶ月くらいたってからあることに気付きました。この人たちは先生のことを気に入っていないということを悟りました。「前の牧師が良かった」という雰囲気がありました。先生は一生懸命、その教会を成長させようとしました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問し、できるだけのことをしました。それでも人数は減るばかりでした。先生は神様に祈りました。「主よ、この教会が成長するのではなく、むしろ死んでいくんじゃないのですか。主よ、どうぞ私を強めてください。力をください。私は諦めません。がんばりますから。あなたの助けによって私はできます。」赴任してちょうど1年目になりました。明日は一年目の記念礼拝です。土曜日の夜、先生は事務所の中でうつぶせになっていました。午前2時、鬱で、まったくやる気がない状態になりました。「神様、前の教会では成功していたのに、なぜ、こんな教会に導いたのですか?私を殺すためですか?何故、私に力を与えてくれないのですか?私は16歳のときから説教して、あなたを喜ばしてくたではないですか?」そして、天に向かって「私から何を望んでいるのですか!」と言いました。すると、神様は先生の霊に語ってくださいました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。先生はこのように大切なことを悟りました。「神様は、私がいろんなことができるから、そのために私を欲しかったと思っていました。そうではなく、神様は私自身を欲しいということが分かりました。神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる。神様の働きをする者を求めているのではなくて、神様の愛の対象を求めているのです。」スティーブ・マクベイ師は一生懸命努力して、挫折し、再献身しました。また、一生懸命努力して、挫折し、再献身するという生活でした。しかし、最後に分かったことは、一生懸命努力することではなく、努力を諦めることだったのです。
私たちは自分の力で、神様のために良い働きをすれば、神様から愛され、受け入れられ、評価されると思って頑張ります。肉で行なうと私たちは律法の中にはまりこみます。律法は、やればやるほど、「あなたはまだ、足りませんよ。あなたはまだ完全ではありません」と主張します。使徒パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、自分に絶望するところまで到達しました。そこで、はじめて「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と問題の解決を発見したのです。自分がするのではなく、神様がすべてのことをなさるということを発見したのです。父なる神様はキリストにあって、すでに満足しておられるのです。なぜなら、私たちの代わりに、キリストがすべての要求を満たしてくれたからです。また、これからもキリストが満たしてくださるのです。私たちのすべきことは、肉による一切の努力を放棄して、神様のふところに安らぐことです。「ああ、キリストにあって受け入れられている」ということを心から喜ぶことです。パウロはローマ8:8で「肉にある者は神を喜ばせることができません。」と言いました。これはどういう意味でしょう?神様は「あなたの肉によって、私を喜ばせなくても良いのです。肉でやるくらいなら、やらない方がよっぽどましです」とおっしゃっているのです。どうでしょう、「私たちの肉で神様を喜ばせなくても良い。神様はそのことを私たちに要求してはおられない」、これは福音ではないでしょうか?私たちはキリストにあって、父なる神様のもとで完全に受け入れられているのです。神様から受け入れられるために、何もしなくて良いのです。そうしますと、私たちの心の深いところに、安心感がやってきます。するとどうなるでしょうか?今度は、私たちの心の中に、神様に仕えたいという思いがやってきます。それは外側からの「やりなさい」という律法ではなく、内側から「やらせてください」という自主的な声です。Ⅱコリント3:6、17 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。私たちに与えられた思いというのは、主の御霊から来るものです。肉ではありません。私たちの深い霊のところに、御霊が宿っておられます。この御霊が私たちに思いと願いを起させているのです。そして私たちが自由な中から、「このことをしよう」と願うのです。「しなさい」と外から言われたらイヤですが、自分自身の中から、「こうしよう」と自主的に決めたものには力があります。
でも、一番、大事なのはこのことです。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。」神様は、私たち自身の力でご自分を喜ばせることを要求していないということです。つまり、私たちの肉で、神に仕え、神の律法を守り、神の命令を守る責任はないということです。どうぞ、安心してください。その代わり何があるのでしょうか?イエス・キリストの御霊が、私たちの内にあって、私たちの力となってくださるのです。私たちを通して、イエス様が働いてくださるのです。このことは次回、学びたいと思います。でも、本日、ぜひ理解していただきたいことは、キリストにあって神様のもとに安らぐことです。肉によって、律法の要求を果たさなくても良いのです。私たちは一度死んで、キリストと新たに結ばれたものです。私たちの夫、私たちの主人は律法ではなく、イエス・キリストです。こんどはイエス・キリストが私たちの内にあって思いを与え、神のみこころを実現させてくださるのです。