きょうは教会が持っているものが何かということを単純に申し上げたいと思います。教会が持っているというよりも、「イエス様を信じている人たちが持っているもの」と言った方が身近に感じるかもしれせん。それは世の人たちが持っていないものであり、私たちだけしかないものです。この世の人たちは、お金とか健康、物質など、目に見えるものにしか価値を置きません。でも、もっと大事なものがあります。それらは目には見えませんが、あとから形になって現れてくる、価値の源みたいなものです。きょうは、教会あるいは、私たちが持っているものを、もう一度確認したいと思います。
1.福音の実
コロサイにいる人たちは、福音を聞いてイエス様を信じました。でも、パウロが直接、伝道に行ったわけではありません。おそらく、パウロがエペソにいるとき、ある人たちが福音を聞いて、コロサイに持ち運び、そこでイエス様を信じる群ができたのだと思います。使徒19:10「これが二年の間続いたので、アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とあるからです。小アジアのコロサイ、ラオデキア、サルデス、フィラデルフィア、ペルガモ、スミルナなど、パウロが開拓したわけではありせん。でも、福音があちこちに広がって、実を結んだのであります。さきほどの地名は、黙示録2章と3章に載っている、アジアの7つの教会と全く同じであります。今の、トルコのあたりです。現在は、イスラム教が支配していますが、かつては福音が小アジア全体に満ちていたわけです。
ところで、コロサイの人たちが福音を受け入れたことにより、どのような変化がもたらされたのでしょうか?コロサイ1章4,5節を見ますとそこには3つのものを発見することができます。コロサイ1:4「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。」まず、このところからわかることは、キリスト・イエスに対する信仰であります。「イエス・キリスト」と「キリスト・イエス」一体どこが違うのでしょうか?パウロは、キリストが神であることを強調するときは、あえて、「キリスト・イエス」と言ったようです。それはともかく、福音を信じるとその人の中に、「イエス様に対する信仰が生まれる」ということです。2つ目は何でしょう?「すべての聖徒に対する愛」であります。つまり、兄弟姉妹が互いに愛し合っているということです。3つ目は5節にあります。「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。」これは、望みであります。分かりやすく言いますと、天国に対する希望であります。信仰と愛と希望ですね。どこか聞いたことがあります。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」
当教会の週報には、「信仰、希望、愛」と書いています。ハレルヤ!
つまり、福音を信じると3つのものがその人の中に、生まれるということです。コロサイ1章によると、イエス様に対する信仰、兄弟姉妹に対する愛、天国に対する希望であります。とっても分かりやすいですね。みなさんの中に、これらの3つがあるならば、「あなたはクリスチャンです」と自他共に認めることができます。今はコンピューターの時代です。一家に1台というよりも、個人で何台も持っている時代かもしれません。パソコンを使った人ならだれでも知っていますが、何かをソフトを入れることを、インストールと言います。CDを入れると、グルグルグルと音がして、「インストールにようこそ」と出ます。「次へ」クリックします。その後、「内容に同意します」と「内容に同意しません」とを選択しなければなりません。「同意します」をクリックすると、また、グルグルグルと音がします。しかし、まだそれでは使えません。そうです。シリアルナンバーが必要ですね。その数字やアルファベットを入れると、ソフトが作動します。福音もこれと全く同じです。福音というCDソフトをあなたの中に入れます。グルグルグルと音がして、「インストールしますか」と出ます。教会に来て福音を聞くと、頭や心の中がグルグルグルと音がします。ある人は、気持ちが悪いからイヤだということでキャンセルします。しかし、ある人は、「同意します」をクリックします。するとその人の中に、何かが起こります。また、グルグルグルと音がして、どうなるでしょうか?3つのものが出てきます。何でしょう?イエス様に対する信仰、兄弟姉妹に対する愛、天国に対する希望であります。なんと分かりやすい説教でしょうか?もし、あなたに信仰と愛と希望があるなら、あなたはクリスチャンです。
福音はこの3つをあなたに与えることができます。言い換えると、教会はクリスチャンは、この3つのものをもって、生きているということです。どうでしょうか?では、1つ1つ、チェックしていきたいと思います。あなたに「イエス様に対する信仰」はあるでしょうか?ある人は「神様に対する信仰はありますけど、イエス様に対する信仰があるかどうか分かりません。イエス様でなくても、神様を信じていたらそれで良いのでは?」という人がたまにいます。もちろん、私たちは、神様を信じなければなりません。しかし、なぜ、ここで「イエス様に対する信仰」と言われているのでしょうか?これは「イエス様が私たちに何をしてくださったのか」ということと深い関係があります。逆に言いますと、「私にイエス様が何もしてくれてないよ」と思っている人は、イエス様と何の関係もない人です。ペテロは最後の晩餐の席で、「決して、私の足を洗わないでください」と言いました。するとイエス様は「もし、洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。これを私たちはどう理解するでしょうか?イエス様は私たちに何をしてくださったのでしょうか?そうです。イエス様は私たちのために十字架につき、私たちの罪を洗い流してくださったのです。私たちはイエス様から罪を洗っていただいた存在なのです。私たちは贖い主であるイエス様を通してでなければ、神様のところには行けないのです。だから、あえて神様ではなく、イエス様に対する信仰が大事なのです。
では、2番目は「兄弟姉妹に対する愛」があるでしょうか?しかし、このことに対しても難癖をつける人がいます。「私は神様を愛していますよ。神様を愛することが何よりも大切なのではないでしょうか?」そういう人に限って、兄弟姉妹に対する愛を説かれると反発します。「私は神様を愛しているんだから、それで良いでしょう」と言うわけです。でも、コロサイ1章では、福音の実は「兄弟姉妹に対する愛である」と書かれています。Ⅰヨハネにその解答があります。Ⅰヨハネ4:20,21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」きびしいーという感じがしますが、これが真実です。教会は愛の共同体です。私たちは、神様だけを愛しているだけではなく、兄弟姉妹をも愛する。これは福音を信じて救われた人の証しであります。しかし、これも訓練が必要であります。ソフトを入れたとしても、使いこなすまでは、結構時間がかかります。我流でもある程度できますが、本を読んだり、人から教えてもらうとなお良いですね。色々、失敗します。あるときは、データーを失うこともあります。愛も、実践しながら学ぶ必要があります。教会は、愛を学ぶ、共同体であります。
3番目は「天国に対する希望」であります。多くの場合、「天国とは死んだ先に行くところだろう」と言います。確かにそういう意味もあります。私たちはこの地上をいつかおさらばしなければなりません。でも、私たちには行くところがあります。それは天の都、天の故郷であります。「いつ死んでも大丈夫、私は天国に行ける!」確かに、福音を信じると、こういう希望が与えられます。でも、コロサイ1章は「あなたがたのために天にたくわえてある望み」と書いてあります。もし、天にたくわえてあるものが、この地上に送られて来たら、なんとすばらしいことでしょう。主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、「天国の喜び、天国の豊かさ、天国のいのちが私たちにも与えられますように」ということではないでしょうか?「天国の前味」という言葉をご存知でしょうか。私たちがイエス様の名前で求めるとき、聖霊様が天国の喜び、天国の豊かさ、天国のいのちをもたらしてくださるのではないでしょうか?私たちの信仰は、天国に行くことだけではありません。「この地上でも、天国を味わうことができるんだ」ということを、イエス様は癒しや奇跡を行なって証明してくださいました。ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」アーメン。
2.福音の増殖力
コロサイ1:6「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」冒頭でも申し上げましたが、コロサイの教会はパウロが開拓した教会ではありません。パウロがエペソで腰を据えて伝道していましたが、福音を信じたある人たちが、コロサイに帰って福音を宣べ伝えました。その結果、コロサイにイエス様を信じる群れができたのです。その群れの指導者がエパフラスではなかったかと思われます。ところで、1:6「福音は…世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」とあります。しかし、パウロ「世界中で」と言っていることは事実でしょうか?その当時、福音は小アジアに届いていたるところで実を結んでいました。また、ギリシヤやローマにもかなりの群れがあったようです。でも、それだけで「世界中」と言うのは少々オーバーではないでしょうか?1世紀の頃だったら、中国やインドにも文明が開けていたのではないでしょうか?でも、パウロが言ったことは、嘘でもほらでもありません。パウロは、「福音は…世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」と断言しました。では、福音はどのようにして、コロサイに届いたのでしょうか?また、何を根拠に、世界中に実を結び広がり続けていると言えるのでしょうか?
そのヒントはマタイ28:19「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」にあります。イエス様は回心者を作れとは言いませんでした。弟子を作れと命じました。回心者と弟子とはどう違うのでしょうか?回心者とは福音を信じて救われた人です。では、弟子を作れとはどういう意味でしょうか?それは、まず福音を信じて救いに導きます。続いて、その人をキリストの弟子とします。それで終わりではありません。その弟子に、「あなたも新たに弟子を作り、弟子となった人に『新たに弟子を作りなさい』と言うのですよ」と命ずるのです。そうすると、弟子が弟子を生み、どんどん、どんどん増え広がっていきます。それでは、回心者を作るのと、弟子を作ることの違いを考えてみたいと思います。あるところに、人口10,000人の島がありました。もし、一人の牧師がそこへ行って、1年に一人の割合で回心者を得たら、島中の人が救われるために何年要するでしょうか?1年に一人ですから、10,000人だったら1万年かかります。でも、人はそんなに長生きできないので、おそらく50人くらいでストップするでしょう。では、再生産できる弟子を作るとしたらどうなるでしょう。最初の年は1人ですが、その人をキリストの弟子にして、「あなたも自分で弟子を作るのですよ」と命じます。最初の年は自分を入れて2名です。2年目には4人になります。3年目には8人になります。4年目には16人、5年目には32人、6年目には64人、7年目には128人、8年目には256人…何と13年半で1万人に達します。それをさらに繰り返していくとどうなるでしょうか?27年目には1億3千480万人に達します。27年間で日本の全人口が救われることになります。これを倍加の法則、あるいは鼠算とも言われます。
みなさんは、「なあんだ」と眉をひそめるのではないでしょうか?なぜなら、「ねずみ講」とか「マルチ商法」を思い出すからです。でも、その法則を利用しているのが、エホバの証人とか創価学会であります。彼らは信徒の集団であり、信徒が信徒を次々に作っていきます。でも、一般的に、キリスト教会は伝道するのは牧師と数名の献身者ということになっています。あとは、年に2回くらい、特別伝道集会を開いて伝道します。多くのクリスチャンは椅子に座って、「がんばってね。祈っているから!」と声援を送っています。しかし、それは聖書が言う教会ではありません。パウロは「福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」と言いました。どのようにでしょうか?その証拠が、使徒の働きにあります。使徒6:7「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った」とあります。英語の聖書は、Then the word of God spread, and the number of the disciples multiplied greatly in Jerusalem,となっています。また、使徒9:31「聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」英語の聖書は、in the comfort of the Holy Spirit, they were multiplied. 両方に、multiplyという言葉が使われています。これは掛け算的に増えるということですが、「倍加する」ということと同じです。つまり、初代教会はただの回心者ではなく、弟子を作っていったので、倍々に増えていったということです。私たちは回心者に留まるのではなく、自ら新しい弟子を生産できる弟子とならなくてはなりません。そして、新たに救われた人をキリストの弟子とし、「あなたも次の人を弟子とするんですよ」と言わなければなりません。そうすれば、全世界に福音が達したことと同じであります。使徒パウロはおそらくこういう観点で見ていたので、福音が「世界中で、実を結び広がり続けている」と断言できたのではないかと思います。
私はこの倍加の法則を31歳のとき、アメリカに行ったとき知りました。アラバマのある教会が日本人を5名招待し、大学生たちと一緒に訓練してくれたのです。2ヶ月滞在したのですから、旅費も含めて、おそらく一人50万円位かかったと思います。彼らは一人の宣教師を送るよりも、五名の日本人をキリストの弟子とした方が、ずっと価値があると言っていました。ですから、私はアラバマ教会に負債があります。それは、あのマタイ28章の弟子作り大命令を果たす義務があるということです。私は日本に帰ってきてから、小牧者弟子訓練会、そしてセルチャーチネットワークに加わりました。しかし、キリストの弟子を作ることができたかは疑問です。「弟子を作らなければ」とは思いましたが、人数を追い求めたところがあります。でも、セルに出会って、1つ発見したことがあります。それは、一人では無理だということです。一人で次の人を弟子として、倍々になるというのは理屈ではそうですが、実際はうまくいきません。では、自然界の細胞はどのように増えるでしょうか?そうです、細胞は細胞分裂で増えていきます。セルとは小グループ、細胞であります。3人から多くて10人くらいの人たちが、協力して伝道し、弟子を作り、新たに人々を導き弟子とする。そして細胞分裂して増えていくというものです。もし、教会がセルでやろうとするなら、あることに徹底しなければなりません。ただ、礼拝に集まってくるのを待っているのはセルチャーチのやり方ではありません。新約聖書は「来なさい」ではなく、「行きなさい」と命じています。私たちは既に、家庭や学校、職場や地域に行っています。だから、私たちが遣わされているところに、3人から10人くらいの小さな群を作るということです。救われた者同士が、教会という建物の中でセルを持っても効果がありません。セルは、教会の敷居が高くて来れない人たちのところに、自分たちが行って、そこで集会を開くためにあるのです。もし、それができなければ、従来の教会のように、日曜日、イベント的な礼拝を開いて、人々が集まってくるのを待ち構えるしかありません。
イベントやプログラム教会での奉仕とはどういう奉仕でしょうか?チラシ配布をしたり、椅子を並べたり、人々に挨拶したり、集会のための様々な準備をすることです。多くの場合、教会堂という建物の中でやることが奉仕になります。先週の金曜日と土曜日行った、ハワイの教会はそういう教会です。私の母教会の大和キリスト教会も全く同じスタイルです。もちろん、そういう教会もあってよいのです。でも、セルチャーチとして奉仕というものを考えるならどうでしょうか?それは皆さんが遣わされているところで人々に仕え、福音を証しすることだと信じています。私は、教会という建物の中の奉仕よりも、世の中でする方が、ずっと大事だと思います。なぜなら、教会とは建物ではなく、私たち自身だからです。私たちがこの世の中に出て行って、福音の種を蒔くのです。話は戻りますが、コロサイなどの小アジアの教会はそのようにしてできたのです。当時は、教会堂ではなく信者の家々で集会を開いていました。教会堂なんかなかったのです。私たちには教会堂という建物があります。設備があることは良いことです。反面、マイナスもあります。それは出て行かないで、教会堂というところに人々集めて、なんでもかんでも、建物の中でやってしまうということです。そうなるならば、教会に来たくても来れない人のところには、福音を届けることは不可能になります。
日本人は忠臣蔵という物語が大好きです。40数名の人たちは主君のあだ討ちのため、正体を隠して生活していました。彼らはこの世で生活をしていましたが、1つの目的のためだけに生きていました。私たちは主君のあだ討ちではなく、主君の弟子を作ることであります。私たちはこの世ではいろんな職業について良いのです。でも、その職業をしながらも、キリストの弟子として生きていく、これがクリスチャンの生き方であります。どうぞこの世の生活だけのために生きないようにしてください。私たちには主君であるイエス様からの使命があります。それは「行ってあらゆる国の人々を弟子とする」ことです。日本の国民をキリストの弟子とするために、私たちがこの世で生かされているということです。パウロがコロサイの教会に語ったように、日本の教会に対しても同じことを語っていると信じます。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」