「いわしの頭も信心から」というのは、日本人の宗教観を表しています。日本人は信じる対象はともかく、信じるその心そのものが大切なんだと言います。しかし、私たちは信じるためには、その対象が本当に確かなものなのなのだろうか知る必要があります。言葉を換えると、信じる根拠、あるいは信じる土台というものがなければなりません。私は宗教という表現はあまり好きでありませんが、「キリスト教は聖書に土台した啓示の宗教」です。聖書が啓示しているイエス・キリストは信じるに値するお方です。ですから、もし聖書が作り話だったり、神話であるならば、当然、そこに表されているイエス・キリストもおかしくなります。それでは、キリストに救いがあるのかどうかも分からなくなります。きょうは、私たちが信じて救われる根拠がどこにあるのか、共に学びたいと思います。きょうはちょっと普段よりも難しい、弁証論的な説教になるかもしれません。神様があえて、へそ曲がりで、理屈っぽい私を召されたのは、こういうことのためではないかと思いました。
1.啓示の意味
ガラテヤ1章12節と16節に2回「啓示」という言葉が出てきます。使徒パウロは「私は福音を人からではなく、神様からの啓示よって直接、受けたんだ」と主張しています。まず、私たちは「啓示」とはどういうものなのかということを知らなければなりません。啓示は、ギリシャ語で「覆いを取り除く」という意味があります。英語では、revelation、ベールを剥がすというふうな意味があります。これは、元来、隠されていた真理が神様によって明らかにされるということです。罪ある人間は霊的に盲目なために、神様の真理も神様ご自身も知ることができません。人間の知恵や理性で神を見出し、救いの道を発見するなどというのは不可能です。でも、たった1つだけ方法があります。それは、神様の方から、一方的に、私たちに開示してくださるなら可能です。また、受け取る側の私たちも問題です。神様はそのために、聖霊を送って、私たちの目を開き、理解できるようにしてくださるのです。あるとき、私たちは聖書を読んだり、聖書に関するメッセージを聞いたりするとき、トゥーン、「ああ、わかった」という時があります。そのとき、聖霊があなたに働いたのであります。詩篇の記者はこのように祈っています。詩篇119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」。アーメン。
啓示に関しては、もう1つお話をしなければなりません。それは聖書であります。「神様を知るのに何故、聖書が必要なんだ」と思うかもしれません。神様は歴史に介入され、私たち人間に御自身を示し、また語ってくださいました。そのことを文書化したものが聖書であります。もし、文書に残しておけば、あらゆる時代の人たちがこれを読んだときに、神様のことが分かるでしょう。そこで、神様は預言者や祭司、王様、使徒たちを選んで、啓示を与えました。預言者たちは人々に「神様がこうお語りになった」と告げました。同時に、その語った言葉を、羊皮紙や紙に書きとめました。私たちは聖務表でエレミヤ書を学んでいます。エレミヤ書を読んでいくと分かりますが、主はエレミヤを選び、エレミヤを通して民に語りました。エレミヤは「主は私にこう仰せられた」とか「主の御告げ」というふうに、民に神のことばを語りました。また、それと同時にバルクという助手がいて、エレミヤが語ったことや、民たちの反応を巻物に書き留めています。つまり、神のことばはエレミヤが発したときから、すでに権威ある神のことばだったのです。あとから権威が与えられたのではありません。民たちが信じる、信じないに関わらず、エレミヤは主のことばを告げました。そのことを書き留めたのが聖書であります。ですから、聖書は神のことばであり、権威があるのです。ところが18世紀、啓蒙思想が起こり、合理主義者たちは聖書にもメスを入れるようになりました。聖書も他の書物も同じで、誤りがあるんじゃないかと調べ始めました。これを歴史的批評的研究と言います。聖書が実験室のカエルのように解剖されたのであります。ドイツの神学者たちは、文書資料説を唱え、ヘーゲルの「正反合」を当てはめました。そして、聖書はいろんな資料が組み合わされ、編集されて、今日に至ったんだと主張しました。また、ある人たちは、その当時の生活様式から、いろんな伝説や神話が生まれそれが伝承されて行ったんだと主張しました。この2つを組み合わせたのが、近代の批評学であります。彼らは、「聖書のことばは、人々から自然発生し、正反合と組み合わされて行った」と言うのです。それは、まさしく聖書の進化論であり、聖書の霊感説を全く否定した考えです。
まことに残念ですが、現代、聖書に対する立場は大きく分けて2つあります。1つは「聖書は人間の所産によるもので、誤りが当然含まれる。だが、全部とは言えないが、神のことばが含まれている」という立場です。もう1つは、「聖書は神の霊感によるもので、全く誤りがない。だから、書かれた記述をそのまま信じて良い」という立場です。私は後者の立場です。これを聖書信仰と言います。でも、日本の教会の半分は、聖書が全部、神からの啓示であるとは考えていません。みなさん、もしこの世の相対的な考えを聖書に取り入れたらどうなるでしょうか?私たちの信じる基盤も、おかしくなります。私は聖書の啓示が絶対的なものであると信じます。聖霊が預言者たちに語らせ、聖霊が1冊の本(聖書)になるように働かれたのです。そして、今、聖霊がこの聖書を読むとき、光を与え、「ああ、なるほど」と理解できるように助けてくださるのです。聖書を相対化した人たちは、説教は語られた神のことばである主張します。説教と聖書を同等に扱います。もし、説教が神のことばであるなら、冗談も言えないし、自分の証をすることもできないでしょう。私は説教者とは、神のことばである聖書から語ることだと思います。説教では、みことばを宣言したり、解説したり、時には冗談も加えたりします。でも、私には聖書という絶対的な真理があるので自由なんです。説教の目的は、これをみなさんが理解して信じてくださればよいのです。そのためには歌ったり、踊ったり、笑わせたり、何でもします。
啓示は2種類に分けることができます。1つは聖書が書かれたときに働いた、聖霊の特別な働きです。預言者たちが神のことばを聞いて、それを書きとめました。これを聖書の霊感と言います。聖書はすでに完結したので、もう同じ聖霊の働きはありません。「神がこう言われた」と聖書に付け加えるならば、異端になります。もう1つの啓示は、照明と言いますいが、私たちが聖書を読むときに、理解させてくださる聖霊の働きです。イエス様は弟子たちに真理の御霊が来ることを約束されました。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」アーメン。でも、矛盾するようですが、神様は聖書以外からも語られます。夢や幻、預言でも語られます。でも、この預言は聖書の時代の預言者のようなものではなく、部分的なものであり、時には誤りがあります。だから、吟味が必要なのです。まとめますと、キリスト教は啓示の宗教、聖書の宗教と言うことができます。私たちの救いは、神の啓示、絶対的な真理である聖書の上に立っているのです。だから安心なのです。この世のものは、すべてが相対的で、すべてが変化します。でも、神のことばは天地が滅びても永遠に立つのです。だから、私たちの信仰をこの世のものではなく、神のことばである聖書に土台すべきであります。何か問題が生じたら、「聖書が何と言っているか」、人のことばではなく、「聖書が何と言っているか」そこにポイントを当てるべきであります。ベンがよくおっしゃっていました。「ベン・ウォンを信じないでください。自分で聖書を調べて信じてください。」鈴木牧師を信じないでください。聖書のみことばを信じてください。アーメン。
2.パウロが受けた啓示
ガラテヤ1章12節で、使徒パウロは「この福音は、人間から受けたのでも、教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって受けたのです」と言っています。16節では、神様が私を「異邦人の間に御子を宣べ伝えるために、御子を啓示することをよしとされた」と言っています。1章の後半では、私は「ケパ(ペテロ)以外にはだれとも会っていない」と言っています。Ⅰコリント15:2、3にも同じようなことが書かれています。Ⅰコリント15:2、3「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと・・・」ここに、「私も受けたことであって」と書かれています。この意味は、人から聞いたということではありません。キリストから特別な啓示を受けたということです。なぜ、パウロは自分が宣べ伝えている福音は直接、神から啓示されたものであると主張しなければならなかったのでしょうか?おそらく、こういうことだろうと思います。パウロの後に、ガラテヤの教会に入り込んだ人たちはこう言ったでしょう。「あのパウロはキリストの直接の弟子ではないので、使徒でも何でもないんだ。エルサレムにいるキリスト者たちは、割礼を受けているし、律法も守っている。だから、信じるだけじゃだめなんだ」。このようにパウロの福音を否定したのだと思います。もし、異邦人がユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなければならないとしたら、異邦人の救いはとても困難になります。だから、パウロは、「この福音はキリストから直接受けたんだ」と主張しなければなりませんでした。また、パウロは1章1節で「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」と自分の使徒性を強調しています。
しかし、不思議だなーと思います。イエス様は3年半かけて12人の弟子たちを訓練しました。そして、天に引き上げられる直前、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とお命じになられました。しかし、肝心の弟子たちはどうだったでしょうか?しばらくエルサレムにとどまっていました。いよいよ、ステパノのことで迫害が起こりました。しかし、使徒8:1に何と書いてあるでしょう。「使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの地方に散らされた」とあります。使徒たちは依然として、エルサレムに留まっていました。サマリヤに伝道に行ったのは信徒リーダーのピリポです。そして、アンテオケにも群れができましたが、それは名もない人たちがキリストを宣べ伝えたからです。ペテロはコルネリオのところに行くまで、まぼろしを3度見なければなりませんでした。また、ガラテヤ書2章に書いてありますが、ペテロは割礼を受けている者たちに気兼ねして、異邦人から身を引き、離れて行きました。そのことをパウロからしこたま責められています。ということは、神様は異邦人伝道のために特別にパウロは召したのではないかと思います。「パウロこそが、ユダヤ人と異邦人の橋渡しをする使徒である。パウロが宣べ伝える福音によってキリストの教会が1つになるように」と神様は願ったのではないかと思います。では、パウロの福音と他の弟子たちが宣べ伝えた福音とは、違うんでしょうか?そうではありません。ヨハネもはキリストを信じるだけで永遠のいのちが与えられると言っています。でも、パウロは「人は神から義と認められなければ救われない。だが、キリストを信じることによって神の義が与えられ、人は恵みによって救われるんだ」と言いました。切り口は違いますが、言っていることは同じです。
今まで言ったことをまとめるとこの3点になります。何故、パウロが他の使徒たちからではなく、直接、神から受けたのであると主張したのでしょうか?その答えは3つあると思います。
①異邦人がユダヤ教徒にならなくても、福音だけを信じて救いを得られることを知らせるため。
②異邦人に福音を宣べ伝えるために、神が自分を使徒として召したから。
③信仰による義認(救いの教理)を確立し、ユダ人と異邦人の教会を1つにするため。
3.啓示に対する応答
第一と第二のポイントで頭が随分と痛くなったので、もっとやわらかい話をしたいと思います。それは、パウロが宣べ伝えた福音に対する応答であります。パウロはガラテヤの教会員を激しく叱っています。1:6「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」また、3:1「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」パウロは、福音から離れてしまった人たちのことを嘆いています。日本において、洗礼を受けた人がどのくらいに教会に残るのでしょうか?はっきりとしたデーターを持っているわけではありませんが、ある人が言いました。もしも10人洗礼を受けたら、3年後に残るのは5人程度で、10年後には2,3人であると聞いたことがあります。3年後に半分になるというのは、現実的にありえるかもしれません。リーダー役員会でも、「最近あの人が見えないけどどうなったんだろう」ということが話題にされます。私はその原因に2つあるのではないかと思います。第一は共同体の責任、その人をセルに加えていなかったということです。クリスチャンは孤立してはけません。そして、第二は個人の責任、その人が福音を聞いて、キリストに根ざすということが弱かったということです。このことは第一と矛盾するかもしれませんが、人との関係はともかく、みことばの上に立って信仰を持つということです。
私は古い人間かもしれませんが、神様との個人的な関係をとても重んじるタイプです。使徒パウロにとって、神から使徒として選ばれたという確信はどこから来ていたのでしょうか?1章1節、で「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく」と言っています。ではどこからでしょう?「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」。つまり、イエス様と神様からの召命です。では、パウロはどのように福音を受けたのでしょうか?1章11,12節、「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしません。ただ、イエス・キリストの啓示によって受けたのです」。では、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えなさいと言われたとき、どうしたんでしょう?1章16,17節「私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。それから3年後に、私はケパを訪ねて…」。パウロは少なくとも3年はアラビヤの荒野と故郷のダマスコに逃れ、信仰の吟味をしています。パウロがアンテオケ教会で活躍したのは、回心してから11年後ぐらいたってからです。私はセルチャーチを強調していますので、「人との関係を大事にしましょう。共同体の中で信仰生活をしましょう」と言います。でも、人に依存してはいけません。現代の多くの人たちは一人になることを非常に怖がっています。たえず、携帯とかメール、ブログ等でお話しています。それが悪いとは言いませんが、私たちクリスチャンは神様との縦の関係を重んずるべきです。なぜなら、啓示は神様から受けるものだからです。一人になって、神様と一対一で向き合う。そうすると、様々な確信が与えられます。また、自分は何のために召されているのか、自分は何をすべきなのか分かってきます。神様の前に問題を1つ1つさらけ出すと、秩序と解決がやってきます。神様にちっとも聞かないで、人々の間を回って歩くのは愚かなことです。使徒パウロもそうですが、預言者たちは一人になることを恐れませんでした。イエス様も「寂しい所に行って、父なる神様に祈っていた」と福音書に書いてあります。どうぞ、一人になることを恐れないように。一人で神様と向き合う時間を持ちましょう。
そして、神様との縦の関係がしっかりすると、今度は隣人に、兄弟姉妹へと向くことができます。神様の愛をしっかりと受けていますと、人がそっけない態度をとってもあまりショックを受けません。「ああ、他のことに集中しているんだなー」と善意に解釈できます。たとえ、いやなことを言われても、「ああ、疲れているんだろうなー」と思い、すぐ怒ることはありません。パウロはどういう生き方をしていたのでしょうか?1:10「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」パウロは人に取り入ろうというのではなく、神に取り入ろうとしていました。また、人の関心を買おうと努めたのではなく、イエス様の関心でした。なぜなら、パウロはキリストのしもべだったからです。日本は人の目を気にしすぎです。人の評価などどうも良いとは言いませんが、神様の評価、神様の承認を重要視すべきです。私が自信をもって言えることが1つあります。それはこの説教です。聖書を何度もよみ、調べものもします。「あれやこれや、いろいろあるなー」と頭の中がごちゃごちゃになります。そのままの状態でパソコンに向かって、原稿を作り始めると絶対失敗します。そうではなく、全部投げ出して、椅子から降り、床に小さくなり、目をつぶります。ずっと目をつぶったまま、じっと瞑想します。しばらくすると、この島とこの島がくっつき大きな塊になります。また、こっちとこっちがくっつき、また別な塊ができます。これとこれとこれ、あれとあれとあれ…アウトラインができます。「できた!」すると目を開けて、デスクに向かい、忘れないうちに、さきほどのアウトラインをバーッと紙に書き上げます。その後、パソコンでポチポチを打っていきます。神様は聞けば、必ず語ってくださいます。これは私がディボーションを始めてから、得た確信です。かれこれ、17年くらいになります。私はせっかちで、落ち着きがなく、すぐ動き出す、元来、そういう性格です。「もし、他のことでも、静まって、神様に聞くなら、もっともっとすばらしい解決策や知恵与えられるのに」と思います。
みなさんも、パウロのように啓示を受けてください。もちろん、パウロとレベルは違いますけど、神様は聖書を通して、あるいはあなたの思いの中に、ことばや絵を通して語ってくださいます。