2008.02.03 最後の晩餐 マルコ14:17-25

イスラエルの3大祭りの1つに「過ぎ越しの祭り」があります。イスラエルの先祖は長い間、エジプトの奴隷を、余儀なくされていました。主によって立てられたモーセが、パロ王に「私たちを出て行かせてくれ」と何度も願いました。しかし、なかなかOKを出してくれません。最後の最後、主は「羊の血を家の門柱とかもいに塗らない家を裁く」とおっしゃいました。エジプトの民はそれをしませんでしたので、奴隷からパロ王まで、長子が死にました。血を塗った家だけは、主の怒りが過ぎ越したのであります。イスラエルの民は家の中で、裂かれた羊の肉に苦菜を添えて食べました。そして、朝一番に彼らはエジプトを脱出したのであります。このことを忘れないために、イスラエルの民は毎年、「過ぎ越しの祭り」を行い、その中で過ぎ越しの食事をしました。種入れぬパンとぶどう酒がメインですから、晩餐とは言えないかもしれません。

1.過ぎ越しの食事の準備

 12節から16節まで、過ぎ越しの食事の準備の様子が記されていますが、少々、奇妙であります。弟子たちは「どこで過ぎ越しの食事をしたら良いでしょうか?」とイエス様に尋ねました。するとイエス様は「都に入ると水がめを運んでいる男性に会うから、その人について行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過ぎ越しの食事をする、私の客間はどこです』と言いなさい」とおっしゃいました。実際、都に入るとそういう男性がいて、そこのご主人が、席が整い、用意のできた二階座敷を見せてくれました。これは奇跡であります。第一は、水がめを運んでいる男性に会うという預言です。男性はあまり、水がめを運ばないので、弟子たちにはすぐわかったことでしょう。第二は、ご主人に「イエス様が弟子たちと一緒に食事をする客間はどこですか」と聞いたら、そうなったということです。これは、イエス様のことばに権威があるということです。また、イエス様は全世界の創造者であり、所有者ですから、必要とあらばどうにでもなるということです。その男性は、神様に動かされて、イエス様と弟子たちのために過ぎ越しの食事を用意したのです。このようなことは福音書に何箇所もあります。

 たとえば、エルサレムに入城するとき、イエス様はロバを必要とされました。そのとき、弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。そこにロバがつないであるから、ほどいて引いて来なさい。持ち主が、『なぜそんなことをするのか』と聞いたなら、『主がお入用なのです』と答えなさい」と言われました。出かけてみると、ロバの子どもが親ロバとつないであり、持ち主に、イエス様が言われたとおり話すと、ロバを貸してくれました。これも奇跡であります。イエス様はロバの存在を遠くから知っていました。そして、ロバの持ち主に「主がお入用なのです」と言ったとき、渡してくれました。これは、主のことばに権威があり、主が全世界の所有者だという証拠であります。また、ペテロに対して、「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい」と言いました。ペテロは「でも、ことばどおり、網をおろしてみましょう」と言って、網をおろしました。そうしたら、大漁で、舟ニそう分の魚が取れました。また、宮の納入金のとき、イエス様はどうしたでしょう?イエス様はペテロにこう言われました。「湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル1枚が見つかるから、それを取って、私とあなたの分として納めなさい」(マタイ17:27)。実際に、釣れた魚の中からコインが出て気ました。これらのことから、イエス様が全世界の所有者だということがわかります。詩篇50:10、11「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ」。ハガイ2:8「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」。イエス様は人や自然界から無理矢理ではありませんが、神としての権威により、必要なときにそれらを用いたのであります。

 イエス様が、父なる神と等しい、創造者であり所有者であるなら、私たちはどうなるでしょうか。イエス様と共に生活するならば、イエス様が必要なものを供給してくださるということではないでしょうか?イエス様は、マタイ6:33で「だから、神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と約束されました。必要なものが備えられるための1つだけ条件があります。それは「神の国とその義とを、まず第一に求める」ということです。イエス様ご自身もこの地上におられたとき、「神の国とその義とをまず第一に求めた」のです。そして、すべてが与えられました。メル・ボンド師はアメリカインディアンですが、アメリカインディアンは世界で最も貧しい人たちだということです。おじいちゃんも貧しく、お父さんも貧しく、彼自身も貧しかった。メル・ボンドの車はポンコツ車で、ドアの開け閉めができず、番線でドアをくくりつけていた。乗り降りは、窓からするしかありませんでした。メル・ボンドは父なる神様に「マフィアですら、私の車よりもはるかに立派な車に乗っています。私はあなたの子供ですよ。私にふさわしい車を与えてください」と訴えました。そして、ディラーへ行ったら、紫色のビュィックが目に留まりました。父なる神様に「あの車が私にふさわしいです。あの車を私にください」と祈りました。係員は、下取りする車はほとんど見ませんでした。そして「お金はいくらあるのですか?」と聞きました。「え?これだけですか?」「はい」。係員は二階の店長となんども行き来しました。最後に、メル・ボンドは紫色のビュィックに乗って帰ってくることができたそうです。いくらで買ったかわかりません。とにかく破格のお値段だったことは確かです。また、メル・ボンドはたった1ドル銀貨で、何エーカーもの広さの土地を神学校のために買うことができました。しかし、所有者が死ぬとき、その1ドル銀貨を返してくれたそうです。その経緯は分かりません。でも、「これは主にあって、私のものです」と主張したそうです。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」「だから、神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。

2.過ぎ越しの食事の悲劇

イエス様は12弟子たちと一緒に、過ぎ越しの食事をしましたが、悲しい出来事が1つありました。それは12人の中に、イエス様を裏切る者がいるということです。19-21、弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」ここでは、それがだれとは書かれていませんが、ヨハネによる福音書を見ますと、イスカリオテのユダであることが分かります。それにしてもイエス様は、ひどいことを言われると思います。とても慈愛に満ちたイエス様のおことばとは思えません。イエス様が「そういう人は生まれなかったほうが良かった」というような人は、そんなにはいないと思います。でも、ある人たちは「ユダの立場をかばい、ユダも重要な役割を果たした」とか、「おそらくユダも救われただろう」と言います。でも、申し上げますが、イエス様がユダを呪ったのですから、私たちはユダを同情することはできません。テレビ伝道をしておられる中川健一先生がこうおっしゃいました。「ユダに対して同情する人がいるが、おそらくその人はユダと同じことをしているからだろう。純粋な信仰を持っている人は、ユダに対して怒りを持つことさえあっても、同情することはできない。」。そのようにおっしゃっていました。私も過去を振り返ると、青年会の一人にユダに対してとても同情的な人がいました。その人は、遠藤周作の本を愛読していた方で、江戸時代に転んだ人(信仰を捨てた人)に対しても同情していました。私は神様が呪うものは呪い、神様が嫌いなものは嫌いたいと思っています。ユダはこのように何度もチャンスが与えられましたが、それでも心の向きを変えることなく、ますます頑なになり、イエス様を裏切ったのであります。

では、私たちの中にユダ性、イエス様を裏切るような心がないかと言ったら、それは別問題です。だれでも、ユダになる可能性はあります。他の弟子たちは、口々になんと言ったでしょう?19節、弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだしたとあります。英語の聖書は、”Is it I?”となっています。昔、座間キャンプでイースターの集いに行ったことがあります。キャンプの中央にシアターがあり、教会員たちが劇をしました。みんな、レオナルド・ダビンチの最後の晩餐のように、席についています。彼らはまるで絵画のように、静止しています。面白いことに、ひとりが「自分はこうだんたんですよ。これかもこうします。”Is it I?”と言います。そのセリフを語っている人だけが動き、他の人たちは静止しています。また、他の弟子が同じようなことを語り、12人が”Is it I?”と言っては、またもとの静止画にもどります。英語の芝居だったので、はっきりとは分かりませんが、みんなが「私ではないでしょう」と言いました。でも、イエス様を直接的に裏切ったのはユダかもしれませんが、他の弟子たちもみんなイエス様を裏切ったのではないかと思います。なぜなら、イエス様が捕らえられ十字架にかかるとき、みんなイエス様を見捨てて逃げたからです。一番弟子のペテロなどは、「私はそんな人を知らない」と3度も言いました。最後は呪って誓ったほどです。ペテロはユダの次に、イエス様を裏切った人だと思っても間違いはないでしょう。つまり、12弟子は「まさか私ではないでしょう」と言いながらも、みんなイエス様を裏切ったのです。

罪を犯すということは、愛であり真実なる神様を裏切るということです。でも、日本には愛なる神様もいないし、真実なる神様もいません。大体は、人から嫌われないようにとか、人がどう思うかが基準であります。だから、人に害を及ぼしていなければ、人に迷惑をかけていなければたいしたことはないと考えます。でも、私たちが罪を犯すのは、人ではなく、神様の前なのです。イスラエルの王、ダビデはウリヤの妻バテシバと姦通しました。そして、バテシバがみごもったと知ると、夫のウリヤを戦場から呼び戻しました。「ウリヤ、ご苦労さん。足を洗ってお家に帰りなさい」と言いました。ウリヤは「主人も仲間も戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか」と家に帰りませんでした。それが2日も続きました。ダビデは「これは困った」と思い、ヨアブに手紙を書き、それをウリヤに持たせました。その手紙には、「ウリヤを激戦の真正面に残して、他のものは退いて、彼が打たれて死ぬようにせよ」と書いてありました。軍長ヨアブはダビデの命令通りしたので、ウリヤは戦死しました。ダビデ王は何食わぬ顔で、バテシバを王宮に召し抱えました。その後、神様から遣わされた預言者ナタンがこのように告げました。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう』(Ⅱサムエル12:7,8)。ダビデは詩篇でどのように言っているでしょうか?詩篇51:4「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」

ダビデは主の恵みによって、一介の羊飼いからイスラエルの王に召し出されました。それなのに、姦淫と殺人の罪を犯しました。それは自分を選んで下さった神様を裏切ることでした。また、ダビデは人ではなく、神様に対して罪を犯したのです。私たちは日本に住んでいますので、神様よりも人の目を気にする傾向があります。私たちは神を恐れる必要があります。神を恐れるとはどういうことでしょうか。それは人が見ていようと、見ていまいと、神の御前で正しく生きるということです。イエス様は罪の世から私たちを救い出し、神の子どもとし、義の衣を与えてくださいました。私たちは神様の恵みによって、主の信頼に答えるべきであります。使徒パウロは、Ⅰテモテ1:12「キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです」と言いました。イエス様が私たちをそのようにご覧になっているのです。私はそのように人から是認された経験がありません。イエス様は私を忠実な者と見ておられる。だから、イエス様の信頼に応えたいのです。アーメン。

3.過ぎ越しの食事の意味

 イエス様は22節以降、過ぎ越しの食事の意味を教えておられます。それはとりもなおさず、私たちが毎月行っている聖餐式の意味でもあります。イエス様はパンを裂きながら、「取りなさい、これはわたしの体です」と言われました。また、杯を取りながら、「これは私の契約の血です」と言われました。そのことをもっと詳しく書いているのがヨハネ6章です。ヨハネ6:53-55「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」このことばを聞いた弟子たちの何人かは、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」とつぶやいて、去って行きました。「肉を食べ、またその血を飲む」とはどういう意味でしょうか?それはイエス様を自分の中に取り込み、イエス様と一心同体になるということです。このことは信仰を表しています。イエス様を自分の中に受け入れたら、もしかしたら死ぬかもしれないし、中毒になるかもしれません。先週、中国から輸入した餃子の中に、毒物が入っていたということで日本中大騒ぎになりました。食べるということは、自分の中に取り込むということです。それは、イエス様を受け入れることを同じです。どうでしょうか?イエス様を受け入れた人は気がおかしくなったり、あるいは死にそうな目にあったのでしょうか?そうではありません、イエス様を内に取り込んだ人は、死に打ち勝つ神の命、永遠の命が与えられたのです。

 また、イエス様は杯に対して、「私の契約の血です。多くの人のために流されるものです」と言われました。出エジプトのときは、一歳の雄羊がほふられました。人々はその血を家の門柱とかもいに塗りました。主は血を塗った家だけを過ぎ越しました。血を塗った家の中にいた者たちはさばかれなかったのです。クリスチャンとは、神の怒りがふりかかることはありません。なぜなら、イエス様が身代わりにさばかれ、血を流してくださったからです。ヘブル人への手紙9-10章を見ますと、「血」ということばが何度も出てきます。古い契約はきよい動物の血をささげました。モーセは「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血です」と言いながら、民と契約を交わしました。しかし、イエス様は、ただ一度、ご自身をいけにえとしてささげました。そして、流された血潮によって、新しい契約が交わされたのです。それは律法ではなく、信仰による救いです。イエス様ご自身がささげられたことによって神様は満足されました。そのために、罪のために動物をささげることは廃止されました。そのとき私たちはどこにいたのでしょうか?キリストの内にいたのです。キリストが私たちの代わりに、神様と契約を結んでくださったのです。私たちが神様と100回契約を結ぶなら、100回とも失敗するでしょう。でも、イエス様が神からの仲介者として、私たちの代表となって神様と契約を結ばれたのです。大切なのは、キリストの内にいるということです。エディ・レオ師は「契約の内を歩みましょう」と言われました。それは、恵みによって神様のみことばを守り、行うということです。神様はそれができるように、信じる者の心を新たにし、さらに聖霊を与えてくださいました。新しい契約の内にある人は、旧約の人たちとは違います。霊的に生まれ変わり、さらには聖霊が与えられているのです。

 では、聖餐式は何のためにあるのでしょう。私はキリストのあがないを体験し、契約の内を歩んでいることを確認する時です。パンを食べるとき、「あがないの命を感謝します。あなたの命は死に打ち勝つ神の命です。アーメン。あなたの命を取り込みます。死にたる体を生かしてください。そして、神の健康を与えてください」と祈ります。ぶどう液を飲む時はどうでしょうか。「あなたの血による契約を感謝します。私たちは失敗することがあっても、あなたは失敗することがありません。あなたの契約によって、永遠に救われていることを感謝します。どうか私が契約の内を歩むことができますように、導いてください。アーメン」。私たちはこの世に住んでいます。この世は神を否定する死の世界です。私たちは天国の民ではありますが、この世に住んでいますと、肉体と魂が少しずつやられてしまいます。そうならないために、みことばをいただき、神様と交わります。そして、聖餐によってあがない主を覚え、あがないの命を取り込みます。私たちはキリストに合体しますので、キリストの命が私たちは入り込んでくるのです。また、私たちはキリストの血潮によって、罪責感から解放されます。それだけではなく、新しい契約の中にいることが分かりますので、積極的に神様に従う者となるのです。

私は礼拝の中で、あるいは聖餐式の中で、何度も祝福しています。祝福は単なる言葉ではありません。これは実体です。みなさんは礼拝に来ている間、知らず知らずのうちに、祝福を受けているのです。神の健康が与えられ、罪の鎖から解放され、聖霊の新たな息吹が与えられます。そのことによって、肉体と魂と霊がリユーアル(刷新)されます。天国に行ったら、リユーアルは不要です。でも、この世ではたえず私たちはリユーアル(刷新)される必要があります。みなさんは、恵みと信仰と祝福を携えて、この世に遣わされて行くのです。だから、神様に礼拝をささげられるということは、すばらしいことなのです。アーメン。