2008.02.17 イエスの裁判 マルコ14:51-65

イエス様がゲツセマネで祈り終わる頃、追っ手はすぐ側まで迫っていました。おそらく、午前零時は過ぎていたと思われます。イエス・キリストが捕らえられ、まさしく、暗闇が支配する時が来ました。昨年、ナルニア王国物語の『ライオンと魔女』という映画がありました。ライオンが少年の罪を贖うために、魔女たちに捕らえられました。そのとき、ライオンが縛られた上に、立派なたてがみが切られました。ライオンの丸刈りの状態が、神の権威が剥奪されたことを象徴していました。本日の箇所から、神の子イエスが闇の子らに捕らえられ、好き勝手にされるという受難が始まります。

1.イエスの捕縛

 イエス様が祈り終わる頃、イエス様を捕らえようと、たいまつを手にした群衆が山を登ってきました。ヨハネ福音書を見ますと、「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たち」と書いてありますから、数百人はいたと思われます。かなり前になりますが、オーム真理教の上九一色村の本部に武装した機動隊が攻め入りました。まさしく、祭司長、律法学者、長老たちは、「イエスという教祖」を捕らえるために、一隊の兵士と役人たちをオリーブ山に送ったのであります。その群集の先頭に立って、手引きをしたのが弟子の一人、ユダでした。彼は「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえよ」という合図を決めていました。ユダは「先生」と言って、ハグして口づけをしました。マタイ26章には、そのあとイエス様が「友よ。何のために来たのですか」と言ったと書いてあります。なんと、ユダは友愛のしるしで「口づけ」で主を裏切ったのであります。少し前、ユダは銀貨30枚でイエス様を祭司長たちに売り渡しています。このようなユダの行為は、一体何を意味するのでしょうか?ユダはイエス様を憎んでいたのではないでしょうか?「こいつがメシヤだと思って従ってきたのに、メシヤでもなんでもなかった。俺の人生を台無しにしやがって!」と憎しみと怒りがこめられていたと思われます。ユダもそうですが、弟子たちは地上的なメシヤを求めていました。他の弟子たちの場合は、失望と落胆でしたが、ユダは怒りと憎しみという強い方に出ていたのではないかと思います。

 人々はイエス様を手にかけて捕らえましたが、48節でイエス様は「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って私を捕らえに来たのですか?」とおっしゃっています。祭司長、律法学者、長老たちが何故、このような人たちを差し向けたのでしょうか?1つは「イエスが奇跡的な力をもって、はむかって来るかもしれない?あのイエスを失敗しないで捕らえるためには、棒と剣を持った一隊の兵士が必要だろう」ということでした。彼らの必死さがここに現わされています。もう1つは、ポーズであります。イエスが強盗に等しい悪者で、神殿を荒らす者として成敗しなければならない。「イエスは神殿を汚す犯罪者だ」ということを世間に知らしめるためだったかもしれません。弟子たちの1人、ペテロは勇敢にも剣を抜いて、大祭司のしもべに撃ちかかり、耳を切り落としました。マタイ福音書でイエス様はこの後、ペテロにこのように言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びます。それとも、私が父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも言うのですか」。1軍団は6,000人編成ですから、その12倍は、72,000人になります。Ⅱ列王記19章を見ますと、主の使いが、一夜のうちに18万5000人を撃ち殺したという記事があります。それだけ力のある御使いが12軍団、72,000もいたら人間はひとたまりもありません。でも、イエス様はご自分の力でもなく、また御使いを呼ぶこともなく、だまって捕らえられました。祭司長、律法学者、長老たちは勝ち誇ったかもしれませんが、イエス様は自らの意思で、捕らえられたのです。なぜでしょう?

 49節後半には「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」と書いてあります。イエス様は直前に、杯を飲む決断をされていました。そして、そのことは聖書のことばが実現するためであることを知っておられまさした。「聖書のことば」とは、イザヤ書53章をはじめとする、メシヤの贖いの死であります。創世記からマラキ書にいたるまで、直接的あるいは間接的に、「人類を贖うためには、だれかが死ななければならない。それは女の末であり、ダビデの子孫であり、主のしもべである」ということが書かれています。さらにまた、イエス様ご自身も、「人の子は長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」と少なくとも3回は語っておられます。イエス様が言われたことは預言であり、また新約聖書の一部でもあります。イエス様は神のことば、聖書に対し、全面的に従いました。なぜでしょう?聖書は父なる神様のみこころであり、法律であり、命令であるからです。先週は、ディボーションの講師として招かれ、1泊2日で御殿場東山荘に行ってきました。大和カルバリーから30名近くの青年たちが集まりました。彼らが一番、悟ったことは、「みことばを聞くだけではなく行わなければならない」ということです。ある人から「先生のところは、みんながディボーションを守っているのですか?」と、聞かれました。「ま、そこそこやっているんじゃないかなー」と答えておきました。ディボーションの奥義は、みことばを瞑想することです。すると必ず神様は必要なことを教えてくださいます。でも、もう1つの課題は、適用であります。自分の生活において、実行することです。これがないと、信仰の成長はないし、神様のわざも起こりません。聖書を重んじることは信仰生活の「いろは」基本中の基本であります。

イエス様は聖書のことばをとても重んじられました。イエス様ご自身がことばそのものなのに、そのことばにご自分を制限しておられます。みことばは真理であり、神様も真理です。もし、イエス様がみことばに逆らうなら、父なる神様にも逆らうことになります。イエス様は「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」と言われました。ということは、イエス様を縛っていたのは人々のロープではなく、聖書、神様のことばだったということです。イエス様は贖いのわざを成し遂げるために、あえて、捕縛されたということです。私たちの人生の中においても、あえてみことばによって、自分を縛る。みことばの枠を越えないようにする。こういう生き方は、不自由かもしれませんが、かえって、自分を守るのではないでしょうか。十戒の中には、「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽りの証言をするな」「むさぼるな」という戒めがあります。新約聖書では「自分を愛するように隣人を愛せよ」「妻を愛せよ」「夫に従え」「へりくだれ」「死に至るまで忠実であれ」…たくさんの命令とか戒めがあります。これらは一見、不自由に思えます。でも、神様の戒めや命令は、実は私たちを守るものです。イエス様が神のことば聖書を重んじられたように、私たちも聖書を重んじ、みことばに喜んで従うべきであります。詩篇119篇を引用いたします。詩篇119:93,94「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。」私たちも聖書を重んじ、みことばを慕い求めたいと思います。

2.イエスの裁判

 この箇所を読むと、混乱してしまいます。本来、主イエス・キリストこそが裁判官であり、人間を裁くことのできる唯一のお方です。しかし、イエス様がこの地上におられた時は、人々から裁かれ、死刑宣告を受けました。昔、『猿の惑星』という映画がありました。猿の方が人間よりも偉くて、人間が奴隷です。猿によって人間が裁かれるというシーンもありました。しかし、神の御子が人間から「罪あり」と裁かれるというのは、それ以上のことであります。イエス様を捕らえ、裁判にかけたのは当時の宗教家たちです。当時はユダヤではサンヒドリンという最高議会がありました。祭司長、律法学者、長老たち70人によって、構成されていました。彼らのほとんどがイエス様を憎んでいました。イエス様がたとえ話で彼らに語ったことがあります。ある主人が農民たちにぶどう園や酒ぶねを全部貸して旅に出かけました。季節になると、主人は収穫の分け前をいただこうと思ってしもべたちを遣わしました。しかし、彼らはそのしもべたちを袋叩きにし、何も持たせないで送り返しました。別のしもべたち遣わしましたが、彼らは袋叩きにしたり、殺したりしました。最後に、「私の息子だったら敬うだろうと」思って息子を遣わしました。だが、農夫たちは「あれはあと取りだ、あれを殺してしまえば、財産はこちらのものだ」と言って、息子をつかまえて殺、ぶどう園の外に投げ捨てました(マルコ12:1-8)。このたとえのようにユダヤ教の指導者たちは、神のものを盗んでいたのです。そして、あととりである御子イエスを殺そうとしたのです。この裁判は不当な裁判です。なぜなら、裁判というのは、夜が明けてから公式になされるべきです。だが、彼らは真夜中、用意周到に、イエス様を死刑にするために集まったのです。

 55、56節「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。」いちおうは裁判ですから、死刑にあたる罪状がなければなりません。彼らは神に仕える身でありながら、次から次へと偽証をたてました。しかし、どれも一致するものがありませんでした。一致というのは、彼らの意見が一致という意味ではなく、イエス様の言動と一致しなかったということです。イエス様はことばにおいても、行いにおいても罪がなかったということです。彼らがそれを証明しているようなものです。「イエス様に罪がなくても、死刑にだけはしたい」とはどういう魂胆でしょうか。これが宗教の持つ恐ろしさです。歴史の中で教会が権力もって腐敗した時代がありました。たくさんの宗教裁判も開かれたことでしょう。そのたびごとに、権力にあぐらをかいた宗教的指導者たちが、独断的に審判を下しました。彼らは神の真理よりも、自分たちの利益や考えを優先させたのです。では、現代はないのかと言いますと、ないとは言えません。ある程度の歴史のある教団になりますと、地域教会よりも教団本部が力を持ちます。一握りの指導者とか理事たちが、教会を牛耳るということが起こります。大小の違いはあれ、現実に起こりうることであります。それだけ宗教というものは、恐ろしいものです。神様の権威を自分のために乱用し、誤用する恐れがあるからです。ですから、「ユダヤ教の指導者たちがイエス様を十字架につけた張本人だ」とは言えないのであります。傲慢な人間の罪がイエス様を十字架につけたのであります。私たちも当時の祭司長、律法学者、長老たちになりうる可能性は十分にあります。

 でも、ここに悪者の親分がいました。ヘブル書ではイエス・キリストがまことの大祭司だと書いてありますが、福音書ではどういう人が大祭司なのでしょうか?カヤパという大祭司が、イエス様に対して、決定的なことを言いました。ある意味で、彼は真実を語りました。イエス様は大祭司が真実を語ったので、真実で言い返しただけのことです。61節の半ばからお読みいたします。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。大祭司は、「しめた、ひっかかった」と内心、喜びしました。そして、自分の衣を引き裂いて「あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いた」と大きな声で叫びました。すばらしい演技です。そして、全員が「イエスは死刑に当たる罪がある」と決めました。正しい審判がなされたように思えますが、全くの茶番であります。ここで分かるのは、イエス様の罪は、冒とく罪だということです。イエス様はご自分を神と等しい者としたので、死刑になったのです。「人の子」というのは、ダニエル書では父なる神と同じ権威を持つ者であり、メシヤを指します。彼らは2つに1つという選択に迫られていました。目の前のイエスが、ご自分を神と等しい者、メシヤとしたのです。本来ならば、イエス様の前に全員ひれ伏さなければなりません。しかし、彼らはあざ笑い、メシヤに対して死刑を言い渡しました。そのあと、何をしたでしょう。イエス様につばきをかけ、顔をおおい、こぶしでなぐりつけ「だれが殴ったか言い当ててみろ」と言いました。役人たちはイエス様を受け取ってから平手で打ったとも書いてあります。

 彼らは眼の前にメシヤがいるのに、あざ笑い「お前は死刑だ」と言いました。そのあと、つばきをかけたり、こうぶしや平手で殴りました。なんということでしょう。でも、これは私たち人間にもあることです。もし、眼の前に「私は神と等しいメシヤである」という人が現れたらどうでしょう?信じるか、殺すかどちかしかありません。ある人たちは、「聖書の教えは大変ためになる」と言って聖書を読みます。ミッションスクールはそういう価値観で建てられた学校です。またある人たちは「イエスは最高の道徳家だ、偉人だ」と言うでしょう。でも、聖書の「イエスはキリスト、つまり、神と等しいメシヤである」ということばと出会ったらどうするでしょう。そのことばを受け入れて神を礼拝するか、もう1つはそのことばを殺すしかありません。日本人の多くは「さわらぬ神にたたりなし」ということで、見ることも聞くこともしません。「宗教は一切お断りです」と言います。無視や無関心も1つの拒絶の形であります。つまり、人は神様に出会ったなら、信じるかもしくは殺すしかないのです。ある人は「殺す?なんて乱暴な表現だ」と言うかもしれません。ここにコカコーラーと牛乳があるとします。英語で決断をdecision と言います。decisionはとても強いことばで、一方を選んだなら、他方は殺すという意味があるそうです。もし、コカコーラーを選んだなら、牛乳は殺すということです。ある人は「イヤです」とか言って、コカコーラーと牛乳を混ぜて飲むかもしれません。「えー、キモイ」といいたくなります。結婚も同じです。この女性を選ぶ、つまりdecisionしたら、他の女性は殺す(捨てる)しかないのです。ある人は「いやです」とか言って、他の女性とも結婚するならば、それは重婚罪になります。もちろん、イエス・キリストがどんなお方なのか、調べる必要があるでしょう。時間もある程度かかるでしょう。でも、遅かれ早かれ、この方を信じるかもしくは殺すか、decision決断しなければなりません。イエス・キリストも信じるけど、他の神様も信じるという訳にはいかないのです。キリスト教の神様は唯一絶対であり、他に神はいないのです。

 そして、イエス・キリストこそが宇宙の審判者です。イエス様が「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来る」と言われました。それは世の終りに実現します。力ある方とは父なる神様のことです。そして、右の座とは権威の座を意味します。つまり、父なる神様が御子イエスに審判における、すべての権威を与えるということです。教会によっては、使徒信条というのを告白します。うちではやっていませんが、歴史的には洗礼式などのとき告白するようになっています。数年前、本郷台キリスト教会の祈祷会に合流したことがあります。セミナーが目的でありましたが、当教会の青年たちも何名か加わっていました。祈祷会で司会者が「さあ、みんなで使徒信条を唱えましょう」と言いました。ゴスペルで救われた姉妹方は「何の告白?」みたいな顔をして、みんな口パクでした。私は「申し訳ないことをしたなー」と思いました。使徒信条の後半はこのようなくだりになっています。「三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」となっています。イエス・キリストが全能の父なる神の右に座し、生ける者と死にたる者とを審判するということです。いわゆる「最後の審判」であります。このことは黙示録20章にも書いてあります。死んだすべての者が復活し、神様とイエス・キリストの前に立つのです。みなさん、イエス様を信じている人は、神様の間に救い主イエス・キリストがおられます。でも、イエス様を信じていない人は、じかに神様の前に立つしかありません。だれも弁護する者はおりません。聖書では自分の義では神様の義に達することができないと書いてあります。全ての人は罪があり、神の栄光には達しないのであります。でも、イエス様を信じている人には、神の義が着せられていますので、もう罪は覆い隠されています。神様は「あなたには罪がない。義である」とおっしゃるでしょう。もしかしたら、神様の前にも立たないかもしれません。なぜなら、キリストの贖いのゆえに、審判はパスされ、キリストの花嫁に迎えられるからです。ヨハネ5:24にその証拠があります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」ヨハネは、「キリストを信じる者はさばきに会うことがない」と言っています。英語ではyou shall not come into judgmentとなっています。単なる未来形ではなく、神様のご意思で、決してそうならないということです。

 みなさん、主イエス・キリストを信じている人の魂には平安があります。たとえ今晩、心臓が止まっても、神様の前に立てるのです。こういう平安を持っている人の生き方は、世の人とは違います。世の人は平安を得るためにいろんなことをします。より多くのお金や持ち物、名声、資格、有力な知人、スティタス、願望の追及…でも、それは無理です。この世のものでは私たちの魂は満足するどころか、「まだダメだ、もっと欲しい」と叫ぶでしょう。主イエス・キリストしか、本当の平安は与えられないのです。みなさん、本当の平安を心に持っている人の生き方は違います。第一は、一日一日を感謝して大事に使います。なぜなら、自分は生きているのではなく、神様から生かされていることを知っているからです。第二は、だれか他の人からさばかれてもあまり気にかけることはありません。なぜなら、神様が何もかもご存知であり、神様がすべてをさばくからです。神様は絶対者です。日本には絶対者という考えがありません。だから不安定なのです。キリストにあって、絶対者なる神様が私の見方なら、どんな被造物も恐れることはありません。