2008.02.24 ペテロの裏切り マルコ14:66-72

ペテロはイエス様の一番弟子でした。「使徒の働き」を見ますと、初代教会において、使徒ペテロは第一の指導者であることは明らかです。でも、福音書は、ペテロの過去をはっきりと書きとめています。中国などの歴史書においては、新しい皇帝は前の皇帝をさんざん悪く書き、自分を良く書きます。決して、自分の失敗や悪事は書き残さないのであります。でも、聖書は赤裸々に、人の失敗を書いています。どんなに立派な神の人であっても失敗したことがありました。そして、聖書は彼らの汚点を包み隠さず書き残しています。1つは、神は完全であるけれど、人間はそうではない。神の栄光だけがあがめられますようにという願いがあるからでしょう。もう2つは、私たちが励ましを受けるためです。「1度や2度の失敗でめげるな。聖書で、神の人と言われる人は、あなたよりもひどいぞ」と言わんばかりです。アブラハムは自分の妻を妹と偽りました。モーセは人を殺しました。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。そして、新約聖書の使徒たちも、失敗したことがあります。きょうは、一番弟子のペテロの失敗から学びたいと思います。

1.誘惑に負けたペテロ

 ペテロはイエス様を3度も知らないと言いました。このところだけを見たならば、「ペテロはふがいない男だなー、なんと情けないことか」と思うかもしれません。でも、ここまで行くまでの段階を見ていきたいと思います。ペテロは勇敢にも、大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落としました。また、ペテロは他の弟子たちと一緒に逃げはしたものの、「イエス様はどうなるんだろう」と後から追いかけました。少し前の14:53にこうかいてあります。「ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた」。ペテロはつい先ほど、イエス様を捕らえた役人たちのところに行きました。そして、何くわぬ顔で、一緒に火にあたっていました。ペテロは無用心にも、敵の真ん中に入っていたのです。これは、「ビー、ビー、ビー」と警報が鳴るような危険な状況です。なぜ、ペテロはこんなに簡単に敵の誘惑にはまってしまったのでしょうか?少し前に、ペテロは力をこめてイエス様こう告げています。「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と誓いました。だから、主イエス様を完全に見捨てるわけにはいかなかったのです。そのため、つかず離れずと申しましょうか、裁判所に入るわけでもなく、遠くへ逃げるわけでもなく、中庭で座っていたのです。なんという中途半端な行為でしょうか?

 第二にこれはサタンである悪魔が関与していたということです。ルカ22:31でイエス様はあらかじめ、ペテロにこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」つまり、ペテロはサタンが作った舞台セットにまんまと誘い込まれたのです。場所は大祭司の中庭。セットは、照明を落として、焚き火の光だけにする。中庭では役人たちが火にあたっている。ペテロが入ってきても気づかないふりをする。まず、女中Aがペテロに問いかける。その後、ペテロが逃げるはずだから、女中Bが出口付近でペテロに問いかける。するとペテロは焚き火のところに戻るだろう。こんどは役人たちがペテロに問いかける。最後に効果音、「コケコッコー」と鶏の鳴き声。サタンが映画監督のように、メガホンを手にして「さあー本番スタート」と言いました。そうは書いていませんが、最初にペテロに語りかけるのは、男性ではなく女性でなければなりませんでした。もし、ペテロが公開裁判で、「お前は、イエスを知っているか」と問われたならば、「もちろんです!」と胸を張って答えたでしょう。でも、そこは公のところではありません。お互いに顔も見えない暗がりです。火にあたりながら雑談する、いわば井戸端会議です。しかも、女中さんですから、たいしたことはありません。女中さんは、「あなたも、あのナザレ人、あのイエスと一緒にいましたね」と言いました。彼女は「あなたはイエスの弟子ですか」とは聞いていません。「あのイエスと一緒にいましたね」と、少し遠まわしに聞いています。ペテロは思わず、「わからない、見当もつかない」と否定しました。1度否定してしまったので、2度目は否定するわけにはいきません。撤回することの方が、勇気が要ります。自衛隊のイージス艦と同じです。最初、嘘をついてしまうと、そのまま嘘を貫き通したくなります。69節で別の女中さんが「この人はあの仲間です」と言いました。するとペテロは再び打ち消しました。三度目は、「毒を食らわば皿までも」と、のろいをかけて誓いました。「私は、あなたがたの話しているその人を知りません!」。最後は、完全な否定です。そして、鶏が「コケコッコー、バカペテロー」と鳴きました。ペテロはその時、我に帰りました。

 詩篇1:1にこのようなみ言葉があります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」。ここには、「歩まず、立たず、座らず」とあります。「立つ」「歩む」「座る」とだんだん、誘惑の深みにはまっていくプロセスをあらわしています。ペテロが誘惑に負けたのは、まさしく、この段階を踏んだからです。ペテロは中途半端に役人たちについて行きました。その後、彼らの中に立ちました。最後に、焚き火の中に座ってしまいました。彼らはイエス様の敵であり、イエス様をあざけっていたのです。それでもペテロは何食わぬ顔をして、彼らの中にいました。もう1つ原因があります。ゲツセマネの園で、彼はちっとも祈らないで、眠りこけていました。マルコ14:37-38でイエス様はペテロにこのようにおっしゃっていました。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」シモンとは、ペテロの本名であり、葦、風にゆらぐ葦という意味です。福音書では人間ペテロを指すときに、あえて「シモン」と呼ばれています。ペテロは岩という意味ですが、シモンは葦です。一人の人間の中に、強い人と弱い人という二面性があるのでしょうか。それとも、イエス様を信じない生まれつきの人がシモンなのでしょうか?とにかく、彼は誘惑に対しては、無防備だったということです。

 ペテロは誘惑に負けました。でも、誘惑に負けないほど強い人はこの世にいるのでしょうか?では、誘惑に勝利する方法とは何でしょうか?それは、誘惑に近づかないのが一番です。ペテロは中途半端な気持ちで、イエス様を捕らえた敵の中に入り込みました。私はわざわざ、歓楽街や盛り場には行きません。また、誘惑は目から入りますので、そういうものを極力見ないことにしています。でも、偶然、目に入ってくるものもあります。電車でチラっと見えた、目に入った。しかし、二度目は自分の意思で見ないということです。チラッと目に入るのは罪ではありませんが、二度目に意識して見るならば、それは罪になります。誘惑に勝利する方法は、あえて誘惑と戦わない、迂回するなどして避けるということです。第二番目は自分がクリスチャンであるということを言えないような仲間とは付き合わないことです。詩篇1:1「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」とあります。伝道のために近づくことはあるでしょう。でも、それは信仰がある場合だけです。しかし、神を否定する人、神を敵として歩んでいるような人の仲間になってはいけません。聖書に「遊女と交われば1つになる」とか「異端の人とは挨拶もするな」とあります。第三番目は、目をさまして祈っているということです。これはイエス様が弟子たちにおっしゃったことであります。また、使徒パウロもエペソ6章で「どんなときでも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさまして祈れ」と命じています。では、ペテロはどう言っているのでしょうか?Ⅰペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」一度、悪魔にやられたペテロが述べているんですから、説得力があります。

 悪魔は、頭に角をはやし、口が耳まで裂けているような醜い姿ではありません。悪魔は堕落する前は美の極みだったと聖書に書かれています。おそらく、もっとも美しい姿であなたのところに近づいてくるでしょう。悪魔はその場限りの快楽、あるいは感情の爆発、あるいは破壊的な行為をあなたにもちかけてくるでしょう。誘惑自体に罪はありません。あなたがそれを選択し、実行してしまうなら罪になります。悪魔は私たちの弱点をだれよりもよく知っています。誘惑には近づかない。悪い人の仲間にならない。目をさまして祈っている。このような初期の段階で、対処しているならば、誘惑に負けることはありません。

2.愛されたペテロ

 マルコ14:72「するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」イエス様はペテロに「あなたは、わたしを知らないと三度言うよ」とあらかじめ告げていました。それは預言かもしれません。それに対して、ペテロは何と答えたのでしょうか?マルコ14:31、ペテロは力を込めて言い張った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」では、ペテロはそのとき嘘をついたのでしょうか?そうではないと思います。ペテロは本心で、そう言ったのだと思います。でも、その本心というのは、自分の力、自分の意思、自分の思いでした。聖書はこれを「肉」と呼んでいます。ペテロは心理学的に言うと多血質かもしれません。彼は弟子たちの中ではリーダー的な存在であり、何か聞かれると「はい、はい、はい」と答えました。考えないうちに、口がもう勝手に動いているのです。ペテロは積極的で、大胆で、自信家でした。また、イエス様に対する忠誠心は、他のだれよりも勝っていたかもしれません。でも、それは所詮、肉の力です。彼の本名はシモンでした。シモンは水辺に植わっている「葦」という意味です。葦は風にゆらぎます。多血質の人は「意志の面で弱く、持続力に欠け、途中で投げ出す」性質があるそうです。ま、そういう性格はともかく、神様はペテロの生まれつきの性質、肉を砕く必要がありました。「砕く」というのは、神様の「取り扱いを受ける」ということです。イエス様はあえて、サタンの誘惑を許し、ペテロが肉に死んで、神様により頼む人になるように取り扱ったのです。ペテロは自分に力ではなく、完全に神様により頼む人になる必要があったのです。

 聖書を見ますと、神様に用いられた人は必ずと言って良いほど、「取り扱い」を受けています。実は、「取り扱い」というのは、ホーリネス的な表現です。十日くらい前、小笠原先生とお会いしました。小笠原先生は聖協団というホーリネスの流れを汲む、教団の先生です。横田先生という副牧師が神様のお取り扱いを受けてから、変わったと述べていました。私は冷やかし半分に、「先生、お取り扱いなんて、さすがホーリネスですね。でも、今の人はそのような表現は分かりませんよ」と言いました。通訳の津倉さんに聞いたら、英語には「取り扱い」という表現ないようですねーと言っていました。でも、ホーリネス、聖め派にはあります。私は「自我が砕かれる経験」の方が分かりやすいと思いますが、神様に用いられた人は必ずそのような取り扱いを神様から受けています。信仰の父アブラハムは75歳で神様に召されました。しかし、なかなか約束の子供が与えられませんでした。かなり回り道して、なんと100歳のときにイサクが生まれました。ひとり子イサクは犠牲としてささげられましたが、あやうくの所で助け出されました。人を押しのけるヤコブは20年間、ラバンの家で仕えました。夢を見たヨセフは13年間、エジプトで奴隷生活を余儀なくされました。解放者モーセは40年間、ミデヤンの荒野で訓練されました。80歳になり「自分は一体何者でしょうか?」と言いました。イスラエルの王ダビデは、サウルに追われて荒野をさまよい、息子のアブシャロムからも追い出されました。預言者エリヤは、3年半、からすとやもめに養われました。神の人が訓練を受けないで、用いられたことはありません。ペテロもまさしく、そういうお取り扱いを神様から受けたのです。

 でも、イエス様はペテロを特別に愛しておられました。ルカ22:32「 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、ペテロがサタンにふるわれ三度も知らないと言うことをあらかじめ知っておられました。それだけではなく、ペテロの信仰がなくらないように、祈られたのであります。同じ弟子ながらも、ユダの場合は違いました。「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マルコ14:21)とおっしゃいました。なんという違いでしょうか。ペテロはイエス様を3度も知らないと言いました。イエス様はマタイ10章において、「人の前で私を知らないと言うような者なら、私も天におられる私の父の前で、そんな者は知らないと言う」とおっしゃられました。ペテロは1度ではありません、3度も知らないと言いました。最後は、のろいをかけて誓ったのであります。ユダはイエス様を祭司長たちに売り渡しました。裏切りとしては、両者はそんなに違いはありません。なぜ、ペテロは赦され、ユダはのろわれたのでしょうか?極論と思われることがローマ9章に書いてあります。ローマ9:15「私は自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と書いてあります。これは神様の一方的な選びであり、人間の願いや努力によるものではありません。宗教改革者ジョン・カルヴァンは「神の選び」ということを強調しました。ある人は、「これはひどい、悪魔の教えだ」という人もいます。初めから、救われる人と滅びる人が選ばれているなんて、私も信じたくはありません。でも、「神の選び」というものは存在すると思います。クリスチャンになるのは、必ずしも善人ではありません。ある人は、「あんな人でも救われるの?世の中の人の方がよっぽど正直で、まじめじゃないか」と言います。でも、そうなんです。罪びとの方が天国に近いのです。私も最初は自分がキリストの神を信じたと思いました。でも、1年もたたないうちに、「そうじゃない。恵みによって救われ、あわれみによって選ばれたのだ」と知りました。

 それでは、人間の側は全く関係ないのでしょうか?私は選ばれている人と、そうでない人とでは神様への態度が若干違っていると思います。ペテロは自分の罪を悔いて泣きました。ユダも自分の罪を悔いて泣いたでしょう。ユダは「イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を打ったりして』と言った」とマタイ27章に書いてあります。ペテロもユダも後悔したのです。でも、ペテロは後悔で終わりませんでした。イエス様のところに行ったのです。「どの面下げて」と言われても、復活の朝、墓へ走っていきました。ユダはイエス様のところへは行かず、外へ出て行って、首をつりました。彼は自分で自分の罪を始末したのです。ペテロは「イエス様は私のことをきっと赦してくださるに違いない」と信じて、イエス様のところへ戻りました。でも、ユダは「イエス様は私のことを赦しては下さらないだろう。自分で自分の罪を始末するしかない」と自殺したのです。つまり、イエス様に対する信仰があるかないかであります。しかし、この信仰も神様がくださるものであり、人間が生まれつき持っているものでもありません。信じられるというのも、聖霊の助けによるものであります。結局は、みなさん、イエス様を信じられるというのは神様の恵みです。イエス様はヨハネ6:44で「父が引き寄せられないかぎり、だれも私のもとに来ることはできません」と言われました。ここに来られている方々は偶然ではなく、神様が引き寄せてくださったからです。みなさんの上に神様の選びがあると私は心から信じます。

 ペテロはイエス様を3度も否みました。どの面下げてイエス様のところに戻れましょう。でも、ペテロはイエス様の限りない愛を信じて、戻って行きました。昔、山口百恵が「これっきり、もうこれっきりーですかー」という歌を歌いました。私たちの愛は、これっきりの愛しかありません。1度目ならばなんとか許せるかもしれません。でも、2度目ならどうでしょうか?かなり、信頼度が落ちるでしょう。でも、3度目ならどうでしょう。「ああ、この人はこういう人だ」と見切りをつけるんじゃないでしょうか?ペテロはイエス様を3度も否みました。3度目はのろいをもって誓ったほどです。さらにイエス様は復活の朝、ペテロに合ってこのように質問しました。「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しますか」と聞きました。なんと、同じことを3回尋ねました。ペテロは心を痛めて「主よ。私があなたを愛することを知っておいでになります」と答えました。ペテロは3度イエス様を否定しましたが、イエス様は3度ペテロに「私を愛するか」と尋ねました。ペテロは心に痛みを覚えましたが、それによって癒されたのではないでしょうか?私たちの愛はこれっきりの愛かもしれません。でも、イエス様の愛は永遠の愛です。終わりのない愛、エンドレスの愛です。エレミヤ31:3「永遠の愛をもって、私はあなたを愛した。それゆえ、私はあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。私はあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう」とあります。おとめイスラエルとは、新約聖書では私であり、あなたです。神様は永遠の愛で、あなたを愛し、あなたを回復してくださるのです。