先週、説教を準備するために、本日の説教箇所を一読しました。「なんだかなー」という感じで、モチベーションが上がりませんでした。何故でしょう。それは、私たちの生活とかけ離れた話題だからです。このところを読んでも、家庭生活や仕事、人間関係に役立つわけではありません。しかし、この何度か読んでピーンときました。もし、「私たちのニーズは何か」ということに、ポイントを当てる説教だったら、決してこのようなところからは語らないでしょう。でも、私たちは連続して、聖書から学んでいます。そして、こういう箇所に出くわします。この箇所は私たちのニーズではなく、神様の私たちに対するニーズなのです。私たちは蟻んこのように、この地上で、毎日の生活に追われて生活しています。でも、神様は「目をあげて、時代を見分けよ」と私たちにチャレンジしておられます。31節「この天地は滅びます。しかし、私のことばは決して滅びることはありません」。なんと力強いことばでしょうか。イエス様は「この世がいつまでも続くと思ったら大間違いだ。この天地は滅びる。だが、私が預言したことは必ず成就する」とおっしゃっているのです。この天地の存在よりも、イエス様のことばの方が、確かで永遠であるということです。世の終り、イエス様が再び来られることを再臨と言いますが、背筋がピンとします。聖歌には再臨の歌が、たくさんあります。「夕べ雲やくる、空を見れば、主の来たりたもう、日のしのばるー。ああ、神の前に我れいそしまん。わざやむるときのー、間近き今」(聖歌622)。本当に再臨のメッセージは、厳粛な気持ちになります。きょうは、「天地は滅びる」と題して、3つのポイントで語りたいと思います。
1.見る
再臨の第一のキーワードは「見る」であります。24-25「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」。世の終り、イエス様が再び来られるとき、人々は偉大な力と栄光を帯びたイエス様を見ることでしょう。でも、主役が登場する前に、舞台装置が作られるべきです。どんな舞台装置でしょうか?「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちる」のです。つまり、自然の光が全くなくなり、暗闇になるということです。そうすると、超自然的な「光」が顕著になります。真っ暗だった空に、まばゆいばかりの光で、ひとり子なる神の栄光があふれます。かつて、弟子たちは変貌の山で、栄光に輝いたイエス様を垣間見たときと同じです。そのとき、地球は真っ暗です。カーテンが上がり、まばゆいばかりの光で、イエス様が登場します。地球の周りにきらめくイエス様の栄光を、すべての人が見ることでしょう。マタイ24:27「人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです」。闇夜に、稲妻が雷鳴を響かせ、天空の端から端まで、かけめぐってひらめき渡ります。すると、だれでも「ああ、稲妻だ」と分かります。そのように、イエス様のすさまじい来臨は、誰の目にも明らかになるのです。
でも、そのとき2種類の人がいます。嘆く人たちと喜ぶ人たちです。黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」「なんてこった!イエスが本当に来るなんで!」と嘆くのです。そのとき、まだイエス様を信じていないユダヤ人たちがいるでしょう。また、反キリストと偽預言者、そして神に逆らう地上の王たちが嘆くことでしょう。イザヤ2:21主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる」とあります。光に照らされたゴキブリのように、パーッと逃げるわけです。その後に、ハルマゲドンの戦いがあり、主とその軍勢が勝利します。黙示録19章には、「獣と獣の刻印を受けた人々、偽預言者は、硫黄の燃えている火の池に生きたまま投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほど食べた」と書いてあります。一方、主が再び来られるのを待ち望んでいる人たちもいます。先週、大艱難が起こる前、もしくは、その後に天に引き上げられると申し上げました。彼らは反キリストによる大迫害にもめげず、命がけで信仰を守り抜いた人たちでしょう。黙示録7:9,14「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。・・・彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」。
26節に「見る」ということばがあります。これは世の終り、イエス・キリストが目に見えるお姿で再びやってこられる時であります。今から2000年前は、弟子たちがこの地上で、イエス様を見ることができました。これを初臨と言います。まことに残念ですが、私たちは初臨と再臨の間に生きていますので、イエス様を肉眼で見ることができません。実際、この肉眼で見えるものはわずかです。目の前にはラジオやテレビ、携帯など、さまざまな電波が飛び交っています。でも、見えないからと言って、電波が存在しないでしょうか?ここに受信する物を持ってきたら、ちゃんと見ることができます。では、イエス様を霊的に見るために、何が必要なのでしょうか?信仰という受信機です。実際に、見たことも、会ったこともないのに信じているとしたら、私たちは不思議な人種です。世の人たちは「ああ、妄想に取り付かれている気の毒な人たちだ」と言うかもしれません。でも、大丈夫です。Ⅰペテロ1:8,9にその答えがあります。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。げー、肉眼で見たこともないのに、イエス様を慕っている。それは、「たましいの救いを得ているから、信仰の結果である」と書いてあります。つまり、信仰とは見て信じるものではなく、信じてから見えるものだということです。イエス様は疑い深いトマスに「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。でも、それはむやみに信じるという意味ではなく、聖書のみことばから信じるということです。聖書はイエス・キリストのことを啓示している、神のことばだからです。私たちは自分の知性ではなく、神からの啓示によって、信じるしかないのです。世の終り、肉眼で見る前に、霊のまなこでイエス様を見ておきましょう。
2.集める
再臨の第二のキーワードは「集める」であります。27節「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」。世の終り、四方から救われている人たちが集められます。もちろん、このとき死んでいた人たちは復活してから、集められるのです。Ⅰコリント15:52「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」聖歌634はそのことを歌っています。「世の終りのラッパ鳴り渡るとき、世はとこよの朝となり、救われし者は、四方(よも)の隅より、すべて主のもとに呼ばれん。その時、我が名も、その時、我が名も、その時、我が名もー、呼ばれなば必ずあらん」。「そのとき眠れる聖徒よみがえり、栄えの体に変わり、我らも共に携え上げられ、空にて主に会いまつらん。その時、我が名も・・・」。世の終り、ラッパつまり、角笛が吹かれ、救われている人たちが四方(よも)から集められるということです。旧約聖書にありますが、角笛は集合の合図や軍事行動の合図に用いられました。大和キリスト教会に宮田四郎先生がおられますが、彼はN饗と東京交響楽団のホルン奏者でした。「聖書のいたるところに、角笛があるのに感動し、世の終りの救いためにホルンを吹きます」と献身しました。「手弁当で行きますよ」という年賀状も来ました。世の終り、集合ラッパが鳴り渡り、選ばれた人たちが集められるのです。毎日、夕方4時半頃、チャイムが鳴り、「遊んでいる子供たちは、お家に帰りましょう」という放送が聞こえます。ままごとしていた子供たち、砂のごはん、葉っぱのお皿をそこに残し、手をぱんぱんと叩いてから、お家に帰ります。私たちの地上の生活は、影のようなものです。やがて来る御国の方が、本体であり永遠に続くのです。
マタイによる福音書には、世の終りの「選び」のことがもっと詳しく書かれています。マタイ13章には「毒麦のたとえ」があります。13:30「収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう」。世の終りに、毒麦は火で焼かれ、麦は倉に納められるということです。毒麦は反キリストとキリストを信じていない人たちです。救われた人たちは、麦のように天の御倉に入ります。また、マタイ25章には「羊と山羊のたとえ」があります。25:31-33「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」山羊とは実を結ばない、名ばかりのクリスチャンです。そして、羊とは実際に救い実のが現れている人たちです。世の終りには、永遠の救いか永遠の滅びか、どちらかに選別されます。聖書の神様を信じていない人たちは、「馬鹿にすんなー!そんなこと信じるもんか!」とわめき散らすでしょう。もし私が、クリスチャンでなかったなら、こんな教えを聞くと、はらわたが煮えくり返ってどなり散らすかもしれません。「本当に私のようなものが…、本当に憐れみによって救われて、本当に良かったなー」と胸をなでおろす者のひとりです。よく、「本当に」「本当に」を証しの中に連発する人がいます。「本当に」はヘブル語で「アーメン」なんです。何と言いましょうか、こういう「選びと裁き」の箇所を見るたびごとに、「ああ、本当に良かった」と思います。多少の失敗とか、うまくいかなかったこと、あるいは悩みごとあっても、どうでもよくなります。8歳の息子は、漫画を見ているせいでしょうか?やたら難しい英語を使います。「なんとかエクスプロージョン!」、「アルティメイトなんとか!」と叫びます。「爆発」とか「究極」が大好きなようです。まさしく、世の終りとは、究極的な出来事です。クリスチャンは、究極を生きている者たちです。
久保有政という先生が『終末時代に起こること』という本を出しています。あるページにこうかいてありました。「それは『神につくか』が問われる時。ですから、終末の時は、神の側につくか、それともこの世の欲と罪のもとにとどまるかということが、最も問われる時となるでしょう。聖書は『世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる』(Ⅰヨハネ1:17)と述べています。神につくか、世につくかということは、私たちの生き方に対する、神の最終的な問いです。そして私たちがどちらかを選ぶかによって、私たちは永遠のいのち、あるいは滅亡のどちらかを選んでいるのです。世界の終末の時、すなわち神が世界に最終的に介入される時は、そう遠くはありません。おそらく間近でしょう。信仰をまだ明確に持っていない人は、一刻も早く明確にしなければなりません。やがて地の果てから果てまでのすべての人が、神の御前に立つ時が来ます。私たちは、神に立ち帰らねばなりません。そして、私たちが、神に立ち帰り、神に受け入れられるよう、道を開いてくださった方が、私たちの救い主イエス・キリストなのです」。実は、きょう洗礼式があります。きょう受ける兄弟は、11月末に来られ、先週、決断した人です。また、来月末にも洗礼式があります。その姉妹は、12月末に来られ、1月に決断しました。「何か早すぎて大丈夫ですか?」と役員さんから、クレームが付きそうです。でも、紹介した本には、「世の終りが間近なので、信仰をまだ明確に持っていない人は、一刻も早く明確にしなければなりません」と書いてありました。このお二人は、いつ世の終りが来ても大丈夫な人たちです。アーメン。イザヤ書にすばらしいみことばがあります。イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。」アーメン。
3.知らない
再臨の第三のキーワードは「知らない」であります。13:32-33「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」イエス様は神様ですから、知ろうと思えば知ることができました。しかし、世の終りがいつくるかは、あえて知らない。御父におまかせしているということです。しかし、ここに多少のヒントも隠されています。13:28「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」このところの解釈は、賛否両論がありますので、断言はできませんが、イスラエルの建国に関係があるようです。イチジクは、イスラエルを象徴する樹木です。実は紀元70年以来、世界中に散らされていたユダヤ人が、もとの場所に集まって国を再建しました。それはシオニズム運動と言いますが、1948年、パレスチナ人を追い出して、国を作ってしまいました。1900年も流浪していた民が国を再建するなんてありえないことです。もちろん、今も中東では、小競り合いが続いています。おそらく、イスラエルは、もともと所有していた国土を奪回し、エルサレムに第三神殿を建てるまでやめないでしょう。しかしやがて、異邦人の国の中に、強力な独裁者が現われ、野望を抱くようになります。彼は自分を神とし、キリスト教およびユダヤ教に対しても、激しく敵対するようになります。ともかく、イスラエルという国が再建したということは、「いちじくの葉が出ている」と解釈することも可能であります。
しかし、これまでにおいて、様々な人が「再臨は何年だ」と予告しました。やたらに世の終りをあおる、エホバの証人(ものみの塔)があります。その創設者チャールズ・ラセッセルは1914年を選びました。なんども修正し、最後には「イエスは空中に来たんだ」とまで言いました。昭和5年頃、ホーリネス教団にリバイバルが起こりました。中田重治監督は「イエスは、まもなく来る」と予告しました。ある人たちは白い衣を着て、屋根にのぼり待っていたということです。その失敗の後、ホーリネス教団はあまり再臨のことを強調しなくなりました。ノストラダムスの大預言もはずれました。また、西暦2000年で、この世は終るだろうという説も出ました。しかし、もう2008年になってしまいました。おそらく「イエスはもう来ないんじゃないだろうか」と世の終りのことを話題にしなくなった頃だと思います。マタイ25章には「花婿を待つ、10人の乙女」のたとえがあります。その箇所を見ると、乙女たちは「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた」と書いてあります。ところが花婿は、夜中になって、突然やって来て、「わあ、大変だ」と乙女たちはともしびを整えました。ここで注目すべきことは、愚かな乙女も賢い乙女も、花婿が思ったより遅かったので、眠っていたということです。乙女は教会を象徴しています。世の終り、キリスト教会が「キリストなんか来ないんだ」と終末論すら話題にせず、霊的に眠りこけているときが、危ないのです。ですから私たちは、こういう箇所を飛ばさないで、「ああ、終末は忘れたことにやってくる」と思わなければなりません。
イエス様は「すぐに来る」と言われたのにどうしたんでしょう?また、なぜ、イエス様が来られるのが思ったより遅くなるのでしょうか?Ⅱペテロ3章にその答えがあります。Ⅱペテロ38-10「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」神様にとっては、1000年も1日のようであります。2000年だったら、たったの2日です。私たちは自分たちの感覚でなく、神様の時間感覚で「すぐに」を捉えるべきであります。また、神様が終りの日が来るのを伸ばしておられるのは、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」からです。10年前に、世の終りが来たなら、ここにおられる半分の人たちは救われなかったでしょう。また、今晩、世の終りが来たならば、
まだキリストを信じてない、私たちの家族や友人たちが残されることになります。では、世の終りはずっとずっと遅くなるのでしょうか?そうではありません。マルコ13章の「世の終りの前兆」が成就しつつあります。世の終りが12時だとしたら、私たちは11時55分の人たちであると思ってもまず間違いありません。ですから、世の終りこそ、魂の救い、救霊に励むときであります。父なる神のみこころは「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。アーメン。世の終りにおける教会の存在目的は、第一の使命は、福音宣教であると言っても過言ではありません。