きょうは、純粋で高価なナルドの香油をささげた女性のお話です。ナルドの香油について調べて見ました。「ナルド油は、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎から取った香料による香油で、非常に高価である。この香油は石膏の壷、あるいは瓶に詰めて、インドから輸入された。ユダヤ人やローマ人は、この香油を、死体を葬るのに用いた。ナルドの香油は、今日はすでに古典香料の1つとして入手困難である」。そのように書いてありました。実は先週、中板橋のある教会を訪ねましたら、ナルドの香油と出会いました。「イスラエルで買ったのですか?」と聞いたら、オアシスだと言う。一滴、手の甲に付けてもらったら、けっこう強い香りがしました。表現しづらいのですが、甘い香りではありませんでした。ある姉妹が、中東の皇太子の通訳をしたそうです。そのとき、お礼にとナルドの香油をいただいたそうです。ある牧師が、それを聖書に一滴落としてもらいました。半年くらい良い香りがしたということです。
1.純粋
3節の半ばに、「純粋で、非常に高価なナルド油」とあります。「純粋」とは混ざり物がないということです。これは、彼女のイエス様に対する愛と献身が純粋だったということを象徴しています。では、当時の宗教家たちはどうだったでしょう? 1節後半、「祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。彼らは『祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから』と話していた」とあります。彼らは仮にも宗教の指導者ですから、モーセの十戒を知っているはずです。十戒の6番目は「殺すな」です。そして、9番目は「偽証をたてるな」ですから、2つの戒めを破っています。さらに、神様の目よりも、人の目を恐れています。これだったら、全くの偽善者です。イエス様をだますとか殺すなんて、「ひどい」と思うかもしれませんが、私たちは結構やっているんじゃないでしょうか。クリスチャンは、大嘘はつかないかもしれませんが、小嘘はつくかもしれません。私は郵便局でアルバイトをしていますが、先週、あることで「本当は関係あるのに」、つい白を切ってしまいました。そのときの状況というか、流れがあって正直に言えませんでした。では、「イエス様を殺す」とはどういうことでしょうか?私たちは罪を犯すとき「この場には、イエス様にいて困る。この際、無視しよう」という気持ちになります。神様とイエス様の存在は信じているのですが、「この際、いないことにしよう」。そして、神様が悲しむことを行う。これは、イエス様を殺していることになるかもしれません。ある人は、「イエス様に日曜日だけ復活してもらい、月曜日から土曜日までは眠ってもらう。日曜日の礼拝のときだけは、ハレルヤ、感謝します。」お家に帰ったら、知らんぷりでは、当時の宗教家をさばくことはできません。
この女性は神様に対して純粋な信仰を持っていました。これは動機が純粋だったということです。私たちは神様に仕えているとはいいながら、自分のためにしているかもしれません。ピリピ1章には「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいる」(ピリピ1:15)と書いてあります。やっていることはすばらしいことかもしれません。でも、その動機は純粋でしょうか?動機は、内側に隠されて見えません。ことばや行いは正しくても、動機が汚れているということはありえます。政治家がそうじゃないでしょうか。ある人が、ナルドの香油を買ったそうです。でも、この香油はあまり良くなかった。なぜなら、純粋ではなく、混ざりものが入っていたからです。私たちの奉仕やささげ物は、香りでわかるんです。動機が純粋であれば、いつまでもキリストの香りがします。でも、混ざりものがあれば、香りではなく、臭みになります。「私がやったんだ」とか「私がいなければできなかったんだ」とか、肉が出てくることがあります。それではせっかくの奉仕やささげ物が台無しです。お金や賜物、能力のある人ほど要注意です。詩篇にすばらしいみことばがあります。詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」ここに「傷ついた道」とあります。心の傷や怒りが動機になる場合もあるということです。ベン・ウォン先生がおっしゃっていました。「人を指差して責めると、一本は相手、もう1本は神様、そしてあとの3本は自分を指す」ということです。神様を責め、自分をも責めているということです。なぜなら、神様がその人を贖い、その人を生かしているからです。そして、神様と良心と悪魔の3者が自分を責めます。「そういう、お前はどうなのか!」と、神様、良心、そして悪魔が指差すのです。私たちは神様から動機をチェックしてもらう必要があります。
この女性は純粋な香油をささげました。純粋は英語でpureです。なんかpureと言うと、こっ恥ずかしくなります。この世では、CMでpureという言葉を平気で使います。pureと言いながらも、かなりの偽装があるのではないでしょうか?では、どのようにしたら私たちは、純粋な奉仕とささげものができるのでしょうか?ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」とあります。第一に、私たちは肉によって、神様を喜ばせる必要はいのです。しても無駄です。自分の知恵、能力、努力は一見、良さそうでも、神様には届かないのです。神様は神様なので、私たちの助けやささげものなどは不要なのです。私たちの真心が欲しいのです。でも、私たちは贖われた罪人なので、pureなものがありません。では、どうしたら良いのか?神の御霊、聖霊がそのことをしてくださるのです。神の御霊によって、神様に仕え、神様にささげるのです。クリスチャンであるなら、もれなく聖霊が与えられています。どうぞ、肉ではなく、御霊によって歩みましょう。聖霊に導かれ、聖霊の力によってなすときに、神の前に純粋になるのです。
2.高価
14章3節の半ばから、5節までをお読みします。「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』そうして、その女をきびしく責めた」。1デナリは1日分の給料ですから、300デナリは、1年分の給料に当たります。今だったら、300万円くらいの価値があるでしょう。なんと、彼女はおしげもなく全部、イエス様の頭の髪の毛から足先まで、注いだのであります。イエス様は「彼女は葬りの用意をしてくれたんだ」とおっしゃっていますが、イエス様はあと2日後に十字架にかかります。おそらく、その香りはピラトの法廷に、またヴィアドロローサに、またゴルゴタの丘にまで香り続けたことでしょう。ヨハネによる福音書には彼女の名前が書いてあり、ベタニヤのマリヤだということです。お姉さんがマルタで、弟がラザロです。ラザロは一度死にましたが、イエス様によって甦らされました。マリヤはその感謝もこめて、イエス様に高価なナルド油を全部注いだのではないかと思います。詩篇116:12「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」というみことばがあります。
では、弟子たちはどう反応したのでしょうか?「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。貧しい人々にほどこせばよかったのに」と憤慨し、彼女をきびしく責めたとあります。簡単な言葉で言うなら、「ああ、もったいない」と言うことです。ヨハネ福音書を見ますと、イスカリオテ・ユダが声を大にして言ったことがわかります。ヨハネ12:6「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」ユダは「ああ、香油を売った金を自分のものにできたのにナー。ちっ、惜しいことをしたなー」と思ったのです。つまり、ユダ他、数人の弟子たちは、「イエス様にささげるのはもったいない」と思ったのです。みなさんも、献金するとき「ああ、もったいない」と思ったことはないでしょうか?自分のことのためには、お金を使うけれど、いざ神様のことのためにというと、ケチになる。これは人間の本性かもしれません。イエス様の弟子たちですら「むだだ」とか「もったいない」と言ったのです。
しかし、ベタニヤのマリヤは「高価な香油」をおしげもなく注ぎました。ある本には、「その香油は家宝であり、お嫁に行くときに持っていくものだ」と書いてありました。マリヤは「自分の結婚はともかく、イエス様のためにささげたい」と願ったのであります。彼女は自分の人生をイエス様にささげたのであります。弟子たちよりも、このマリヤの方がよっぽど愛があり、献身的でありました。どうでしょうか?イエス様にささげる時間よりも、テレビを見たい。聖書や信仰書を買うよりも、他の雑誌や娯楽費が大事。献金よりも、あれこれショッピングしたい。あんまり言うと、律法的でいやみになりますので、この辺でやめます。でも、私たちは神様の恵み、神様のご恩を体験しなければ、ささげる気持ちにはなりません。ベタニヤのマリヤには、死んだ弟を生かしてもらったという感謝がありました。また、マリヤとマルタの姉妹はイエス様の愛を受けた人たちであります。なぜなら、イエス様はエルサレムに上ったときは、必ず、ベタニヤの姉妹の家に立ち寄りました。マルタは一生懸命、もてなしました。そして、マリヤはイエス様の足元で、メッセージを聞いていました。だから、マリヤは「イエス様のためにできる限りのことをしたい」と思って、純粋で高価なナルド油を注いだのであります。
私たちも神様の恵み、神様のご愛をもっと体験しましょう。そうすれば義務ではなく、喜びをもってささげることができます。いや、ささげることが喜びになります。イエス様は弟子たちの彼女に対する非難を制してこのように言われました。「この女は、自分にできることをしたのです」。さらに「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられるところなら、この人のした事も語られて、この人の記念になります」と言われました。イエス様は彼女のささげものを受け入れ、評価し、それが、世界中の人たちの記念になると預言されました。ものすごい、報いであります。彼女のささげたナルドの香油は、その部屋いっぱいに広がりました。それだけではありせん。時代を超えて、聖書から良いかおりが湧き立ってきます。2000年間、聖書の読まれるところで、マリヤのしたことが、評価され、模範とされているのです。私は300デナリの元と取ったどころか、その何百、何千倍もの報いを受けたと信じます。私たちはイエス様をもっと、高価な方とすべきです。また、私たちはイエス様の御名をもっと、高めるべきであります。
3.時
もう一度、7節と8節。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」イエス様は、「貧しい人たちへのほどこしはどうでも良い」と言ったのではありません。「貧しい人たちへのほどこしは、これから先もできるでしょう。でも、私はもうすぐ世を去ります。この女性は、埋葬の用意にと、私のからだに、前もって油を塗ってくれたのです」とおっしゃったのです。つまり、イエス様のためにささげられる時は、今しかないということです。あと、2日すれば、イエス様は十字架につけられ、殺されてしまうからです。この大事な時を知って、イエス様に持っているものをささげたのは、マリヤしかいなかったのです。あとから、ニコデモとアリマタヤのヨセフがたくさん捧げます。彼らがささげた30キログラムの没薬とアロエは、王様の葬りに等しい量だということです。しかし、それはイエス様が死んでからでした。
では、なぜ、ベタニヤのマリヤはその時を逃さなかったのでしょうか?それは、マリヤがいつもイエス様の足元に座って、お話を聞いていたからです。マリヤは姉のマルタよりも静かです。マルタの方がはるかに行動的です。マルタが怒って、イエス様に「マリヤが接待のお手伝いをするように言ってよ」とお願いしたことがあるくらいです。しかし、マリヤはいつも、主の足もとに座って、みことばに聞き入っていました。実はそのことの方が大事なのです。だから、他の弟子たちにはわかりませんでしたが、マリヤにだけは、「イエスさまがまもなく死なれる」ということが分っていたのです。そして、「今」という時を逃さないで、香油をイエス様に塗ってあげたのです。伝道者の書13章にすばらしいみことばあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。アーメン。ここに「死ぬのに時がある」と書いてあります。先週、鈴木勝美兄の葬儀がありました。昨年の11月8日に「いよいよ危ないので、お祈りに来てください」と言われ、病院にでかけました。勝美兄は一人ひとりに遺言みたいなことばを語り終えた直後でした。そして、私は聖書を朗読し、お祈りしました。一緒に「いつくしみ深き」を賛美しました。しかし、それから2ヶ月と2週間生き延びて、1月22日天に召されました。実は私は11月と12月はとても忙しかったんです。エディ・レオの集会で掛川に行ったり、コーチングで練馬教会にも出かけました。そして、12月はクリスマスです。年明けはネットワーク会議で本郷台。「いつ呼び出しが来るかなー」とハラハラしていました。そして、一段落したとき、天に召されたのです。少し、不謹慎かもしれませんが、時があるんだなーと思いましが。
また、先週は日曜日の夕方、3名の方が教会を訪れました。私はちょうど笑点のおおぎりを見ていました。笑点の時間は申し訳ありませんが、電話も取らないし、人が来ても玄関にも出ません。しかし、5時50分、来客です。「えー?」私は呼びに来た姉妹の友人だろうと思って、終わるまで見ていました。6時におもむろに行くと、そうではありませんでした。全くの求道者で、お一人は平日に一度、立ち寄った方です。先週は息子さんと、息子さんの彼女を連れて、計3人で来られました。向こうから興味を持ってこられるなんて、本当に珍しいケースです。日本にもこういう人たちがいたのかなーと不思議に思いました。彼らは「聖書は読んでいて、神様は信じている。しかし、キリスト様のことがわからないので教えて欲しい」と言われました。私は「聞く」よりも、「教える」賜物がありますので、このときとばかり、まくしたてました。どうも分ったみたいで、「イエス様、信じるお祈りをしませんか?」と勧めると、「今ですか?」と驚きながらもOKしてくれました。また、お父さんのほうは聖霊についても興味があるようなので、「信じたら即いただけますよ」と言いました。お父さん、息子さん、そして息子さんの彼女がそれぞれ、イエス様を信じる祈りをしました。その後、私がそれぞれ、背中に手を置いて聖霊が臨むようにお祈りしました。そうしたら、みなさんが「熱い!」「熱い!」と言うんですね。私はそのとき、使徒の働きの「コルネリオ一家」のことを思い出しました。彼らはまだ洗礼を受けていないのに、聖霊を受けました。布施さんと言うのですけど、神様はこういう方々を世の終りに備えていらっしゃるんだなーと思いました。すべてには時があります。「明日、信じます」と言っても、今晩、死ぬかもしれません。パウロも言いましたが「今は恵みの時、今は救いの日です」。
信じるには時があります。人は自分の意思や考えでは「イエスは主である」とは告白できません。Ⅰコリント12章には「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできない」とあります。つまり、人は聖霊が臨んだ時はじめて、罪を悔い改め、イエス様を信じることができるのです。これは人間の努力や行いではなく、神様の恵みであります。ですから、福音を聞いたときに、「今だ、今しかない」と思ったときがチャンスなのです。ある人は生きているうち好きなことをして、死ぬ直前に信じるという人がいます。しかし、それは無理です。人は死ぬ直前になると、死を恐れ、信仰どころじゃなくなります。イエス様も「光のある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)と言われました。私は仕事柄、病院に良く行きます。年をとってボケてくると、知性が暗くなります。もう、何を言っても通じなくなります。光のある間に、光であるイエス様を信じるしかないのです。聖霊様が救いの光を当ててくださるときは、人生にそう何度もありません。ふぁーと見えるときもありますが、チャンスをなくすと、何年も何十年も先になるかもしれません。ある姉妹は高校生のときに教会に行きましたが、結婚して、子育てが終り、40年たってやっと教会に来ることができました。もう、60歳近くであります。17歳から40年間は暗かったのです。「17歳で光であるイエス様を信じて、光の子となったら、なんぼ良かったろうに」と思います。最後に伝道者の書12章をお読みして終えたいと思います。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」