前回のストーリはパリサイ人とヘロデ党員がイエス様に論議をふっかけてきました。きょうのテキストでは、サドカイ人らがイエス様のところに来て難問をふっかけてきています。サドカイ人というのは、神殿を管理している祭司集団です。彼らはとても世俗的で、復活を信じていませんでした。当時は家を絶やさないためにこのような決まりがありました。兄が死んで妻をあとに残し、しかも子どもがない場合には、その弟をその女性の妻にして、兄のための子をもうけなければならないということです。彼らはその律法を逆手にとって、「次男が三男が四男がそして七男がその女性を妻としたが子を残さずに全員死にました。最後にその女性も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女性はだれの妻なのでしょうか?七人ともその女性を妻にしたのですが」と質問しました。聖書で7と言う数字は、完全という意味ですから、徹底的にという意味合いがあります。それにしても、残酷なたとえ話しだなーと思います。8人も殺しているんですから。では、イエス様はどのようにお答えになったのでしょうか?
1.彼らの思い違い
24,25節 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。イエス様は彼らが2つのことで無知だから、そんな思い違いをしているのだとおっしゃいました。彼らは第一に聖書を知らない。第二には神の力も知りませんでした。この2つを知らないで神様に仕えているんですから、よっぽど俗的な人たちなんだなーと思います。しかし、正統派と言われるキリスト教会ではどうでしょうか?聖書を知っているけれども、神の力を知らないという人たちはいないでしょうか?あるいは、聖書を知らないけれど、神の力を知っているという人たちはいないでしょうか?ゴスペルで救われた人たちは、聖書を知らないけれども、神の力を体験しました。しかし、それではダメだと悟って、聖書を学んでいますね。すばらしいですね。逆に、聖書を知っている人たちは、神の力を体験しなければならないということです。このことは福音派の教会に言われていることだと思います。サドカイ人たちは聖書も神の力も知らずに、よく神様に仕えていたなーと思います。宗教が単なる職業にならないように、自分も含めて自戒したいと思います。
サドカイ人たちは聖書のモーセ五書しか信じなかったようです。聖書の後半、預言書には復活や千年王国のことが書いてあります。彼らは聖書を知っていたかもしれませんが、聖書の半分を切り捨てていたのです。私たちの中にも「聖書をあるところは信じていても、あるところは信じないで切り捨てている」そういうところがあるかもしれません。怖いですねー。サドカイ人たちは、復活が信じられなかったので、天国をこの世の延長としか考えていなかったのです。彼らは「天国で、彼女の本当の夫はだれになるのか?7人が彼女の夫となったんですから?」と聞いたのです。しかし、イエス様は天国では「めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」と言われました。みなさん、残念ですが、あちらに行ったならば夫婦関係はありません。みな、兄弟姉妹の関係です。福沢満雄先生のお父さんはものすごい酒乱でした。お父さんが病気で倒れた時、大人になった福沢先生が伝道しました。お母さんは息子の福沢先生に尋ねました。「お父さんはイエス様を信じたのかい?」。先生は喜びながら「ええ、お父さんはイエス様を信じたので、すべての罪が赦されて天国に行けるんだよ。お母さんも、イエス様を信じるだけで天国に行けるんだよ」と答えました。お母さんは、暗い顔をして「ああ、そうかい。それだったら、イエス様は信じないよ」と答えました。「どうして?」と聞くと、「天国に行ってまでも、酒乱のお父さんとは一緒に暮したくない」と答えました。それから何十年もかかり、80歳になってやっとイエス様を信じたそうです。わあー、日本人も「天国」と言うと、そのように考えているんじゃないでしょうか?
そうではありません。復活後の世界、つまり天国では永遠の命をもっているので、子孫を残す必要はありません。天使も永遠の存在ですが、私たちも永遠の存在になるのです。だから、結婚の制度そのものがなくなります。でも、あえて結婚と言うならば、小羊の結婚です。私たちクリスチャンが花嫁として、花婿なるキリスト結婚するのです。私たちはお互いに兄弟姉妹です。地上で、夫婦であっても向こうでは兄弟姉妹です。男性諸君は、「では、あのことはないのですか?」と聞きたくなるかもしれません。んんん、私も残念ですが、どうなんでしょう?分かりません。おそらく、天国はすべてのものが満ちたりて、あまりにもすばらしいので、その必要はないのかもしれません。ギリシャ語では「プレローマ」は満たしという意味ですが、密儀教という異端が好んで用いたことばです。彼らは神秘的な体験を通して、「プレローマ」を味わおうとしました。麻薬や大麻もそういうところがあります。でも、神様が下さる「プレローマ」は地上の私たちが想像できないような満足です。もし、今晩、夜空に広がるオーロラを見たならば、「あああー」と感激して、もう、他に欲しいものはなくなるんじゃないでしょうか?ちょっと違うかもしれませんが、とにかく、神様の栄光を見たならば、もう「プレローマ」です。私たちは神のくださる「プレローマ」を求めるべきです。これを少しでも味わうなら、いろんな依存症からも解放されます。この世には、アルコール、タバコ、薬物、ポルノ、ゲーム、ギャンブル・買い物、食べ物、人間、携帯…様々な依存症があります。どうぞ、神のくださる「プレローマ」、天国の「プレローマ」を求めましょう。
サドカイ人たちは一応、信仰はありましたが非常に世俗的でした。なぜなら、聖書も神の力も知らなかったからであります。私たちも彼らを馬鹿にすることはできません。聖書も神の力も知らないなら、どんどん世の中のものに飲み込まれて行くでしょう。お昼の番組で、小堺一機が司会する番組があります。ゲストの方に「1日何を考えていますか?」と頭の中を円グラフで書いてもらいます。ある女性のタレントさんは、「着る物、睡眠、食べること」と3つのものに支配されていました。彼女は何を着るかに一番興味があるということです。「こいつ馬鹿かなー」とテレビを消してしまいました。最近は脳内なんとかという占いに似たものもあります。頭の中で何を考えているか?私たちは頭の中をからっぽにすることはできません。空っぽにしたら、世の誘惑や恐れや欲望がどんどん入りこんで来るでしょう。ですから、その代わり、聖書と神の力に対する信仰を入れましょう。詩篇119:97「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」と書いてあります。すごいですね。この人は、一日中、神様のことばを思い巡らしているんです。さらにまた、神様の力を求め、神様の力を信じるなら、どんなに幸いでしょうか?そうすれば、恐れや心配に支配されることがありません。聖書と神様の力を知ることを求めましょう。頭の中を神の国のものでいっぱいにしましょう。たまにはテレビ・ショッピングを見るかもしれませんが、衝動買いはしなくなります。たまには他の異性に目が行くかもしれませんが、自分の伴侶に目が行きます。たまには恐れや誘惑が脳裏をかすめるかもしれませんが、キリストの信仰にとどまることができます。たまには脇道にそれることがあるかもしれませんが、すぐ神様の道に戻ることができます。アーメン。聖書と神様の力を知ることを切に求めましょう。
2.生きている者の神
12章、26,27節 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」イエス様は、預言書から復活のことを教えてもよかったのですが、あえて彼らが信じているモーセ五書から復活の根拠を述べておられます。主が「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とはおっしゃったらどうでしょうか?祖父のアブラハムが死に、父のイサクが死に、その子のヤコブが死んだ。彼らが生きていたときだけは、神様が共におられた。それでも良いような気がしますが、そうではありません。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ということは、彼らが生きているうちはもちろん、彼らが死んでからも神であるということです。いや、彼らは地上では死んだかもしれませんが、今も神と共に生きているということです。イエス様は続いて、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています」とおっしゃいました。思い違いの2つ目は、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だということです。残念ながら、日本の多くの宗教は、神は死んだ者の神になっています。生きているうちはどうでもよく、お葬式のときだけやっかいになります。また、死んだ人を祭ったり、死んだ人を供養しています。毎日、葉っぱやお供え、お線香、お水などをあげています。生きている私たちが何かをしたからといって、死んだ人が果たしてどうなるのでしょうか?しかし、聖書の神は「神は死んだ者の神ではなく。生きている者の神です」ハレルヤ。
パスカルと言えば、数学者で哲学者、また文学者でもあります。学校でパスカルの原理というのを学んだことがあります。注射器、ポンプ、自動車の油圧ブレーキなどもこの原理を応用しています。また、彼は真空を発見した人でもあります。パスカルは父が死んだあとまもなく、妹が結婚し、家族の絆を失いました。そのため彼は、心の真空(空洞)を満たそうと、上流社会の様々な楽しみを求めました。その後、彼は幻滅を感じ、人間のむなしさをいっそう確信しました。はかない楽しみにも、偉大な業績の名声にも、彼の求める魂は満足できませんでした。1654年11月23日の夜、パスカルは聖書を読んでいるとき回心しました。彼は夜中にこう叫んだのです。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い。喜び、平安。イエス・キリストの神。あなたは私の神です。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト」。彼はこのことを忘れないために、このことばを書いた紙を小さく折りたたんで、愛用のコートの襟の内側に縫い付けておいたそうです。彼は世俗的な性質のものを全て放棄し、聖書の示しに完全に従いました。人間的な努力は、一切捨てました。彼は馬車と馬、りっぱな家具、銀の器なども売り払い、貧しい人々に金を与えました。充実した自分の図書室も見捨て、わずかな信仰書と聖書だけを手元に置きました。自分の著作に名前を残すことは二度となく、自分の名前が賞賛されるのを聞こうとしませんでした。私はどうパスカルが回心したか良く分かりません。でも、同時は哲学や神学といえば、形而上的なもの、観念的なものでした。しかし、聖書のことばとイエス・キリストの臨在は、哲学では理解しえない、それは啓示であり実存であることがわかったのでしょう。神様はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が今も共におられることがわかったのです。
ウォッチマンニーは『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』という本を書いています。彼は、「人は主を信じた後、必ずアブラハム、イサク、ヤコブの経験を追い求めるべきであり、それは神の民がみな持つべき経験です」と言っています。アブラハムがその長い一生で学んだことは、神が父であることを知ることでした。アブラハムの神とは、神がすべての源であるということです。また、イサクは若い時にモリヤの山で砕かれたので、何も苦労しないで、神様からすべてのものをいただきました。イサクの神とは、神の供給、神の倉という意味です。また、ヤコブに対しては、いつもはぎ取る神様でありました。ヤコブの神とは、肉を砕き霊の人にすることです。アブラハムは神の召し、イサクの従順、ヤコブの円熟、これら三つの特別な経験があってはじめて、クリスチャンの生活と奉仕は、神の御前で価値のあるものになります。つまり、クリスチャンは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を順番に体験する必要があるということです。私たちの中には、アブラハムの神、つまり、救いの地点で留まっている人がいるかもしれません。次のイサクの神、神様の供給を受けるために従順になるということです。神様にゆだねた生活です。そして、ヤコブの神とは、自我が砕かれて聖霊の管理を受ける人になるということです。神様は私たちの自我を砕くために、ヤコブのように様々な試練を通されます。でも、その行き先は、神の皇太子、イスラエルです。
先週は、2泊3日で、エディ・レオの集会に行ってまいりました。私は1年ぶりに先生に会うことができ、とても感激しました。私は良い機会だと思って、先生のテキストやCDRを125部も作って、参上つかまつりました。何が一番良かったかと言うと、福音派の先生方が、エディ・レオ師のメッセージに触れることができるのを見たことです。今回、また先生のメッセージはグレードアップしていました。先生は天国の福音と神の国の福音とは違うとおっしゃっておりました。つまり、天国の福音とは、イエス様を信じたら罪が赦されて、天国に行けるということです。こ生きている間はどんな生活をしていても、最終的には天国に行けるから良いという感じがします。しかし、新約聖書の福音は、天国の福音ではなく、神の国の福音です。神の国の福音とは、イエス・キリストに従うという人生です。イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげます」とおっしゃいました。でも、それだけではありません。「私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」と言われました。私たちに負うべきくびきがあるとおっしゃいました。くびきとは、二頭の牛が一緒に作業できるための肩にかける木製の用具です。片方は先輩牛であるイエス様が負います。もう片方は私たちクリスチャンが負います。私たちはイエス様の進まれるところならどこへでも行きます。「主イエスと共に歩きましょう。どこまでも。主イエスと共に歩きましょう。いつも」であります。つまり、イエス様に24時間、従う人生であります。ですから、私たちは救われて天国に行けるという福音に留まってはいけません。イエス様のくびきを負って従うのです。そうすれば、魂に安らぎが来ます。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは、死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。そうであるなら、かつてアブラハムが負ったくびき、イサクが負ったくびき、ヤコブが負ったくびきを私たちも負うべきです。彼らの人生において、様々な試練がありました。私たちは「くびきがない方がなんぼ楽だろう。ま、天国だけは行けるから良いや」とくびきをはずします。でも、天国の福音だけでは、実を結ぶことができません。天国に自分がかろうじて行けるだけです。しかし、神の国の福音は、実を結ぶことができます。なぜなら、イエス様の弟子として、くびきを負うて従うからです。イエス様のくびきは負いやすい、ヒズヨーク・イズ・イジーなのです。もし私たちがイエス様のくびきを負わないで自由に生きようとするなら、この世のものがあなたを縛るでしょう。この世の欲、不安と恐れ、様々な依存症があなたが追うべきくびきとなるでしょう。天国に行けるだけの信仰ではなく、この地上において、神様のご支配を求めましょう。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、死んだ者の神ではありません。生きている者の神だからです。エディ・レオ師が牧会している教会は、どんどんと成長しています。「それに比べ、私は…」と淋しい思いもちらっとします。でも、良いんです。たとえ、歩みがのろくても、イエス様が共に歩んでくださるからです。
昨日午後は、亀青小学校の演奏会を見に行きました。まだメッセージができていないのに、10時頃家内と出かけました。全校生徒と父兄さん方ですから体育館はいっぱいです。いよいよ、小学校2年がステージにあがりました。1組から3組ですから約100人位います。ビデオを構えならが、「ゆうごはどこにいるんだろう」と思いました。「いました、いました」一番、左端に立ちました。「ああ、うるさいから、一番端っこに置かれたんだろうな」と思いながらも、ビデオでは中心にアップで撮りました。少しあわれに思いました。でも、「たとえ端っこでも、神様は同じように、私を一番愛しているんだろうなー」と思いました。一曲目が終り、二曲目になりました。ゆうごは、ステージを降りて大太鼓の横に立ちました。私は「ああ、そうか。二曲目、大太鼓を叩くために、左端に立っていたんだなー」と分かりました。痛い腕を固定して、ビデオを撮り続けました。でも、いっこうに太鼓を叩く様子はありません。最後の最後に、演奏があり、「ドン、ドン、ドン」と叩きました。「ゆうご、偉いなー」と思いました。私は思い出しました。自分も小学校の器楽のとき、大太鼓をやっていた。「私もうるさかったなー。でも、大太鼓をやっていた」。なんだか自分を見ているようでした。なんだかジーンときて心が癒されました。今のところ、「鈴木靖尋の神、鈴木有悟の神」となっています。初代のクリスチャンはどうしても荒削りです。二代目はボーっとしたイサクのようなのでしょうか?そして、三代目は押しのけるヤコブになるのでしょうか?ハレルヤ!天国に行けることもすばらしいですが、この地上で、主が共にいてくださることを感謝します。主に従って行くなら、この地上でも豊かな実を結ぶことができます。アーメン。