2007.12.30 一番大切な戒め マルコ12:28-34

今年最後の聖日礼拝です。52回目になります。ひょっとしたら、52回一度も休んでいない人もおられるかもしれませんね。日曜学校では、皆勤賞とか精勤賞があるようです。でも、聖日礼拝よりも大切なことが起こったりしますので、律法でありませんから休まれても大丈夫です。でも、きょうのみことばに「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とありますので、礼拝を守るためにベストを尽くすことは大切だと思います。もちろん、日曜日お仕事の場合もありますので、工夫して他の日を聖別してくだされば良いと思います。病気や高齢のために、来たくても来れない人がいるのですから、聖日礼拝を捧げられることは、恵みであります。浦和に三崎さんというクリスチャンのパン屋さんがおります。座間教会時代のとき、大川先生の礼拝テープを購入しておられた方です。安海先生からお聞きしましたが、三崎姉妹は今は、老人ホームからタクシーを飛ばして、聖日礼拝を守っているそうです。きょうは12月30日、この世では、くそ忙しい時ですが、私たちは主の前に静まり、みことばに耳を傾けたいと思います。おせち一品、多くするよりも、マリヤのように主の足元でみことばを聞く方が幸いです。ハレルヤ!

1.一番大切な戒め

イエス様は数ある多くの戒めをたった2つにまとめられた。それらは、神である主を愛することと、自分のように隣人を愛することです。第一の戒めは申命記6章からの引用です。29-30節、イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』「聞け!」はヘブル語で「シェマー」ですが、この命令自体を「シェマー」と言いました。イスラエルの子供たちは、幼いときから「シェマー」を毎日、たたきこまれました。彼らは家ですわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えたのであります。さらに、忘れないようにこの戒めを書いた紙を手に結びつけたり、記章として額の上に置きました。旧約の祭司の服は、山伏の衣装とそっくりです。はっきりしたことは言えませんが、山伏も記章のようなものを額の上に結びつけています。「神を愛せよ」は、すべての信仰者に対しての第一の戒めです。人類、すべての人に対して言いたいところですが、そうではありません。生まれつきの人は神様から離れていますので、神を敬うことも愛することも知りません。ここに「あなたの神である主を愛せよ」とあります。主というのは、王様とか主人という意味があります。罪人が神様によって贖いを受け、「あなたは私の神であり、私の主です」と告白しなければなりません。神様を愛するためには、まず神様から大いなる愛を受ける必要があります。

私たちは夜空の月のように、太陽の光を反射しているような存在です。自らの力では神を愛することができません。神様からの無限の愛をいだだいて、一生懸命、愛を反射させるのであります。月でも三日月、半月、満月、新月もあります。神様に半分しか顔を向けていない人は半分しか、反射できません。三日月はかなり、顔を背けています。何か告白していない罪があるのでしょうか?新月の人は救われているのになおも、神にさからって生きている人かもしれません。頭の後ろだと、ダメです。光があたっていてもぜんぜん輝きません。私たちは満月のように、神様にまっすぐ顔を向けて歩みたいと思います。Ⅰヨハネ1:7-9「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。何か罪があるならただちに神の前に告白し、神様から100%の反映をいただきましょう。

 この律法学者は「先生。そのとおりです」とイエス様のことばに同意しました。それに対して、イエス様は何と答えられたでしょう。34節「イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、『あなたは神の国から遠くない』と答えられました。律法学者は律法を熟知していたので、何が最も大切な戒めなのかを知っていました。それで、彼は「神の国から遠くない」と言われたのです。神の国から遠くないとは、近いということです。近いんです。でも、彼はまだ神の国には入ってはいません。律法を知っていても、たとえ律法すべてを行ったとしても、神の国には入れないのです。これが人間の限界です。神の律法を知ることも重要です。でも、もっと知らなければならないことがあります。それは、自ら愛のないことを悟り、救い主を受け入れなければならないということです。律法学者は救い主が前にいるのにもかかわらず、「先生、そのとおりです」と対等になって同意しただけでした。それではダメです。心砕かれて、主の前にぬかずき、「主よ、神を愛する愛と隣人を愛する愛をください」と願わなければならないのです。それなのに、イエス様に質問をし、イエスさまが答えたら、「先生、そのとおりです」なんて、自分を何様のように思っているんでしょうか。マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」とあるとおりです。心砕かれ、心が貧しくなった者にだけ、天の御国が与えられるのです。ですから、立派で道徳的な人が神の国に入れるわけではありません。彼らは自分の努力で、限りなく近く神の国の近くまで達することができるかもしれません。でも、入るのと近いのでは大違いであります。どうぞ、私たちは自分に神も隣人も愛する愛がないことを認め、救い主にすがりましょう。そして、救いを受け、神の国に入ったならば、神様の愛を受け、神様と隣人を愛することができるのです。神様と向き合い、神様の反映を受ければ、だれでも可能なのです。

2.神を愛せよ

 この世の宗教は、お布施とかお勤め、あるいは修行とかがあるかもしれません。もちろん、してはいけないこともあるでしょうが、その理由は祟りとか罰を受けないためであります。怖いから、あるいは身に害が及ばないために、それらの戒めに従うのであります。しかし、私たちの神様は愛なるお方であります。そして、愛なるお方が私たちにも「愛せよ」と命じます。しかし、すべての戒めの中で最も大切なものが、「神を愛せよ」というのが、この世界の宗教、どこにあるでしょうか?私はキリスト教を宗教と思っていません。愛なる神様との人格関係だと思います。なぜ、偶像礼拝をしないのか?なぜ、故意に罪を犯さないのか?それは愛なる神様を悲しませたくないからであります。もちろん、神を恐れます。神様は私たち人間とは違いますので、恐れなくてはいけません。畏敬の意味の恐れはありますが、愛というぬくもりの中で、私たちはリラックスして生きることができます。なぜなら、私たちはイエス・キリストの十字架によってすべての罪がすでに贖われているからです。たとえどんな罪を犯したとしても、永遠の滅び(地獄)に落とされることはありません。こういう神様の全き愛の中で、私たちは生かされているのです。前のポイントでも言いましたが、「愛せよ」と命令する限りは、神様は愛を私たちに注いでくださるのです。神様の愛が私たちに注がれたら、その愛で私たちは神様を愛することが可能なのです。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。アーメン。神の霊、聖霊様が私たちに神様の愛を注いでいてくださるのです。

 私たちのなすことすべて、神様の愛を受け、神様を愛するという動機でなされていなければなりません。では、「神を愛する」とは具体的にどういうことでしょうか。こういう礼拝も神様を愛するからです。奉仕も献げ物も神様を愛することが動機になっていなければいけません。肉でやったとしても、ダメです。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることはできません」とあります。神様は私たちが肉で、やっていることには全く興味がありません。また、そうすることを望んでもいません。神様を愛するという動機と、聖霊によって注がれる愛が源であることが期待されています。私たちは、神を愛するがゆえに、聖書を読み、祈り、礼拝ささげ、献金するのであります。それらは義務とかお勤めではありません。また、私たちが罪を犯さないのは、神が怖いからではありません。愛する神様、イエス様を悲しませたくないからであります。私たちは神を愛するがゆえに、みこころを行おうとするのです。しかし、私たちの周りにはグレーゾーンもある。グレーゾーンとは、神様は私たちに喜んで、OKとおっしゃっていないことがらであります。喫煙は絶対ダメとは聖書に書いてありません。でも、聖書には「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」とあります。私たちの体の中には聖霊がご自分の宮として住んでいらっしゃるのです。もし、聖霊様をタバコの煙でいぶり出してしまうならどうなるでしょうか?未信者との結婚は、聖書にはふさわしくないと書いてあります。でも、「そんなことは私の自由でしょう」と言うかもしれません。でも、だれであっても、神様の愛よりも優先させてはならないのです。聖書に書かれていない、グレーゾーンは「それは神様を愛することと何の関係があるだろうか」「それは愛なる神様を悲しませることにならないだろうか」という質問で、ほとんど解決するのではないでしょうか?

 愛なる神様は私たちの思いや行動を1つ1つ細かくチェックするお方ではありません。もし、「あなたがどうしてもしたい」と言うのであれば、「まあ、それも仕方ないでしょう」と許すことでしょう。でも、それは神様ご自身がみこころを変えたのではありません。あなたがそれを選択することによって、後日、実を刈り取り、そこから自ら学ぶしかないと考えておられるからです。ルカ15章の放蕩息子の父親は、弟息子を「家から出て行ってはいけない」と縛っておいたわけではありません。弟息子は自ら痛みを経験して、自分の意思で父のもとに帰ったのです。父はそれまで、息子のために祈り、そして待っていたことでしょう。私たちは救われても、新生しても、なお頑なな者です。悲しいことに、自分の思いや願いを神様のみこころよりも、優先させてしまいます。どうぞ、選択にまよったら、神様、イエス様の御顔を仰いでみましょう。OKと喜んでおられるか?それとも、「まあ、それも仕方ないでしょう」とおっしゃっておられるだろうか?私たちはいつも、神様との愛の関係を維持することを、第一に考えるべきであります。「イスラエルよ(あなたの名前を入れる)。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』アーメン。

3.隣人を愛せよ

 2つ目の戒めは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」です。これまで、日本の牧師たちは、「隣人を愛する前に、あなた自身を愛さなければならない」と説いてきました。私もその一人で、そのためにはセルフイメージの回復、癒しが必要だといろんなことをやってきました。講師を呼んでセミナーを開いたり、解放のキャンプをしました。しかし、多くの場合、自分を愛することが目的になり、そこで終りになって、隣人を愛することまで達していなかったのではないでしょうか。これがカウンセリング、心理学の限界です。ある人たちは「自分の気持ちに正直に生きて良いんだ。良かった、感謝します」と言います。そして、「嫌いは嫌い、好きは好きと言って良いんだ」と言います。この間、車を運転しながらラジオを聴いていました。あるお店のマスターが歌を作りました。やりたくないことは「やりたくない」と言って良い。嫌いな人は無理して好きになる必要はない。その後、彼がコメントしました。「私の店には好きな人だけが集まる。嫌いな人はたとえ客であっても追い出す。嫌いな人はどんなに親切にしてくれても嫌いなものである」と言いました。それを聞いていた、もう一人の女性DJは「嫌いなものは嫌いで良いんですね。無理しなくても良いんですね。ほっとしました」と喜んで答えていました。確かに、日本人は本音を隠して、建前で生きています。本心が嫌いなので、好意を持っているかのような顔をします。でも、その顔はひきつっています。そのことに対して、「自分の気持ちに正直になれ」というのはうなずけます。自分の感情や意思を表すことに反対はしません。私なんかは、ありのまんまに生きています。通訳の津倉さんとセルの関係でよく会うことがあります。私は「日本の成長している教会の牧師っていうのは、みんな変わっているよね。北海道のごんべい先生、仙台ラブリーの藤本先生、蒲郡の石原先生もそうだし…」とかいろんな先生の名前をあげました。すると、津倉さんは「鈴木先生もかなり変わっているうちの一人だと思います」と言われました。聖職者ならば自分の感情を隠すべきなのかもせれません。しかし、私の場合は喜怒哀楽がはっきりしすぎであります。教会の姉妹に対しても、「好きだ」とか言ったりします。これは問題です。

 メッセージをもとに戻します。では、自分の気持ちに正直になって、好きな人は好き、嫌いな人は嫌いで良いのでしょうか?しかし、イエス様がおっしゃる第二の戒めは、命令であります。「あなたの隣人を愛せよ」という命令なんです。これは、自分の感情とか、自分の好み以上のものであります。神の命令ですから、選択の余地はありません。隣人を愛さないならばそれは不服従の罪を犯すことになります。自分の感情のおもむくままに生きるのが私たちのゴールではありません。抑えていた感情をあらわにし、解放されることも重要です。しかし、解放はゴールではなくプロセスです。私たちは神様から自分が愛されているように、隣人を愛するという任務を遂行するべきなのです。神様の命令なんですから、私たちは従うしかないのです。今の人たちは、命令に対して、非常に反抗的です。命令に対して、リベリオン、反抗心を持っている人は、癒しが必要です。子供のときに、父か母に対して怒ったのかもしれません。あるいは、すべての男性に対して、すべての女性に対して、すべての権威ある者に対して、反抗を誓ったのかもしれません。神様の命令は私たちを不幸にするためではなく、私たちを幸福にするためのものです。もし、あなたが自分の思いや感情のままに、これからも生きていくならば、実りがとても少ないでしょう。エレミヤ書4:3「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」とあります。いばらの地にいくら種を蒔いても、収穫をすることはできません。いばらを抜き、耕地を開拓する必要があります。そのような人にでも、やはり愛が必要です。愛しか、その人を耕すことができません。神の愛、隣人の愛しか変えることができない。だけど、私たちには拒絶や反逆を乗り越えて、与えるほどの愛がありません。

 ルカ10章には、「あなたの隣人を愛せよ」という戒めの直後、サマリヤ人の物語が記されています。一人の旅人が強盗に襲われ半死の状態でした。その脇を祭司やレビ人も通りましたが、見て見ないふりです。ところが、サマリヤ人だけが、彼を介抱してあげました。ユダヤ人はサマリヤ人を嫌っていました。「エルサレムからエリコに下っていた」と書いてありますから、旅人はユダヤ人だったかもしれません。自分たちを嫌っていた人を助けるなんてできるでしょうか。祭司やレビ人は自分の仕事を優先させました。そんな人と関わるとあとあと面倒になる。それが、私たちの心です。最近はマンションの隣にだれが住んでいるか分かりません。隣の人が強盗に入られ、悲鳴を上げているのに、通報もしないということがあるようです。数ヶ月前、東京拘置所から1通の手紙が届きました。「字の大きな聖書があまっていたら、送ってください」とありました。60代の受刑者だったと思いますが、「ギデオンの聖書はあるけど、あまっている聖書なんかないなー」で終わってしまいました。サマリヤ人のように、隣人になるというのはリスクもあるし、損をするかもしれません。これは、生まれつきの人間の愛では、無理であります。嫌いな人、自分を軽蔑している人、これももちろん無理であります。でも、神様の命令は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。隣人を限定したいところですが、隣人を限定すること自体が、神様の愛とかけ離れたものであります。さきほど、神様を愛するためには、神の愛をいただいて、その愛を反映することだと言いました。隣人を愛するためにも、同じように神の愛をいただいて、その愛を反映するしかありません。重要なことはイエス・キリストと出会うことです。かつての自分は、強盗であるサタンに襲われて倒れていた旅人でありました。みんなが、自分をさけて通り過ぎて行きました。もちろん、自分を助けてくれた親友もいました。それは人生の宝で幸いなことです。でも、もっともすばらしい親友であり隣人は、主イエス・キリストしかいません。イエス様が、罪と汚れに満ち、滅びに向かっていた私を抱き、引き上げ、安全な場所に移してくれたのです。自分がどんなところで、イエス様に出会ったのか。だれも助けてくれない、だれも理解してくれない、孤独のど真ん中にいたときに、イエス様が私を受け入れ、救ってくれたのです。私に何か価値があったからとか、何か良いことをしたからではありません。罪の中にいたときに、イエス様がどん底まで降りて来てくださったのです。そういう意味では、イエス様に愛の借りがあるのです。使徒パウロがローマ13章でこう言いました。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」。これは「人から物やお金を借りっぱなしにしてはいけない、すぐ返せ」という戒めです。でも、1つだけ例外がある。「愛はいつも借りているなー。愛は返さなければならない」という負い目があるということです。愛は返してもこれで良いということはありません。愛はいつも借りている借金のようなものなのです。愛は一生、「返さなければならない」と思っていなければなりません。なぜなら、私たちは無尽蔵の愛を、神様から既にいただいているからです。今も、これからも、です。愛の負債を私もあなたも負っているのです。これを一生、支払い続けるしかありません。でも、神様は、そのときに必要な愛をいつでも注いでくださいます。