2007.11.11 ぶどう園のたとえ マルコ12:1-12

先週は教会のお掃除がありましたが、本当に、みなさんは教会を愛しているなーと思いました。一番すらばしいのは、自主的になさることであります。掃除もそうですが、お花や植木、勉強会、祈り会、賛美…みな自主的です。来月は、クリスマス祭りをなさるそうですが、飾りつけやローソクまで、みなさんがやります。私は母教会のときから、どこからか木を切ってきてリースとかツリーを作りました。しかし、こっちに来たら山がないのに驚きました。どこかに雑木林があるかなーと、流山まで行ったことがあります。実際は、江戸川の手前に杉の枝が山積みになっていました。捨てられていたと解釈して、それで飾りを作ったことがあります。正直、クリスマスは忙しくてイヤでしたが、最近はみなさんがやってくれるので、クリスマスが好きになりました。きょうは、イエス様のたとえ話しから学びたいと思います。

1.たとえの意味

 イエス様がここで、たとえを用いたのは訳があります。「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老たちでした。彼らはイエス様に対して敵意を抱いておりました。もし、ダイレクトに話したなら、彼らは怒り狂って、イエス様に襲い掛かかるでしょう。しかし、たとえは、物語ですので、遠まわしに、暗に気付かせることができます。これはイエス様の知恵であります。1つ1つ説明しなくても分かるかもしれませんが、たとえをご一緒に見て行きたいと思います。

 「ある人」と言うのは、ぶどう園の主人であり、父なる神様です。父なる神様は、世界を創造されました。また、アブラハムの子孫を特別に愛し、パレスチナの地を与えました。バビロン捕囚もありましたが、帰還した後はギリシヤ、ローマ時代を生き残ります。彼らユダヤ人は特別に、神様の愛顧を受けた民であります。

 「ぶどう園」とは、まさしく乳と蜜のあふれるカナンの地であります。でも、もっと広い意味では、神の国であります。マタイ21:43には「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」と書いてあります。教会の中に、一部ではありますが神の国を見ることができます。

 「農夫たち」は小作人とも訳されていますが、ユダヤ人の指導者です。祭司長、律法学者、長老たちであります。彼らは神様から祭司の国になるように、契約と律法を与えられました。

 「しもべ」とは、旧約聖書の預言者たちです。アモス、イザヤ、エレミヤ、そしてバプテスマのヨハネもその中に入ります。彼らの多くは迫害され、殺されました。

 「愛する息子」は、御子イエスであります。神様は「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と最後にご自分の息子を遣わしました。

 「他の人たち」とは異邦人であります。異邦人とは、神様から約束が与えられていない、選ばれていない民という意味であります。新しいイスラエルと言えるかもしれませんが、神の国は、私たち異邦人に与えられるということです。

 私は聖書の参考書である、注解書はあまり見ません。例外ですが、福音書では、イギリスのJ.C.ライルが書いたものがすばらしいですね。でも、英語ですから、読むのがめんどうで、とても時間がかかります。J.C.ライルは1816-1900年の人ですから、産業革命以降、もっとも栄えた頃の人です。ビクトリア女王の頃、イギリスはアフリカやアジアに植民地を広げます。ところが、女王の死後、世界大恐慌、植民地における独立運動が起こり、次第に陰りを見せていきます。J.C.ライルはマルコ12章の解説において、自国のことを取り上げ、このようにおっしゃっています。「グレート・ブリテンは神様から特別な憐れみを受けた国ではないだろうか。中国のような異教徒の国でもなく、インドのようなヒンズー階級があるわけでもない。私たちが特別な愛顧を受けてきたのは、神様のおかげである。私たちが良かったとか、価値があったからではなく、一方的な神様の恵みである。私たちは神様から愛顧を取り去られないように、高慢にならないで、もっと謙遜にならなければならない。イスラエルが特権を受けた国であったように、イギリスもそうであった。イスラエルに起こったことがイギリスにも起こらないように、私たちは注意をしなければならない。」すごいですね。さすが、ビジョップ・ライルであります。これは、アメリカにも言えることであります。そして、日本にも言えることです。私たちの国が、敗戦後、植民地にならないで、奇跡的な復興を遂げました。神様は忍耐の限りを尽くして、待ってきました。でも、福音宣教が根づかないで、教会も成長していません。マザーテレサがおっしゃっていましたが、日本は霊的にとっても貧しい国であることを自覚しなければなりません。

2.神様はどういうお方か

 次に、このたとえから、神様がどのようなお方かを学びたいと思います。たとえの中である人は、どのようなものを備えてくださったでしょうか?1節を見ますと、「ぶどう園を造り、垣を巡らし、酒ぶねを堀り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出かけた」とあります。農夫たちは何もしていません。彼らはただで、そこに住まわせてもらい、毎年、収穫を得ることができました。人は6日目、地球の環境が整えられてから造られました。そして、すべてが備えられたエデンに住むことを許されました。アダムは妻エバも与えられ、善悪を知る木の実以外は、すべてのものが満たされていたのです。でも、神に逆らって、エデンの園から追い出されました。それから神様はアブラハムを選び、その子孫を約束の地に住まわせると約束しました。でも、その子孫は、400年間、エジプトの奴隷生活を余儀なくされていました。主はモーセを立てて、エジプトから脱出させ、乳と蜜の流れるカナンの地へと向かわせます。民の不従順のため40年間、道草を食いましたが、ヨシュアの指導のもとに、カナンの地に住むことができました。戦いはありましたが、主ご自身が、7つの先住民を追い出してくださったのです。彼らはやがて、サムエルに「私たちの王様が欲しい」とねだりました。本当は神様が王様なのに、他国のように王様を求めたのです。ソロモン王のときがもっとも栄えましたが、その後は、南北に分かれました。神様の刑罰として、アッシリアやバビロンの侵略を受けます。それでも、人々は悪事をたくらみ、偶像礼拝を行い、神様から全く離れた生活をしていました。多くの預言者が、神様に立ち返りなさいと言ったにもかかわらず、逆らい続けました。彼らは、神様が遣わしたしもべたちを、辱め、殺しました。神様は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思って、最後に、御子イエスを遣わしました。それでも、だめでした。彼らは、「あれはあと取りだから、あれを殺そう。そうすれば、財産はこちらのものだ」と、息子を殺しました。ゴルゴタの十字架でそのことが成就しました。彼らの失敗は、神様のものを横取りしたということです。

 ここで知るべきことは2つあります。1つは神様がとても忍耐深いお方だということです。民たちが悔い改めるまで、忍耐の限りを尽くして待っておられるということです。もう1つは、私たちは所有者ではなく、管理者だということです。これは現代にも言えることです。現代は、環境破壊が進み、砂漠化、地球温暖化を引き起こし、歯止めがきかない状態です。ルカ15章にほうとう息子の物語があります。「彼は放蕩して、湯水のように財産を使い果たした」とあります。私たちも「自分の人生を私が何と生きようと関係ない。そんなの関係ない」と浪費しているのではないでしょうか?私もイエス様を信じる25歳までは、全くそうでした。でも、イエス様を信じて、人生の目的が与えられてから、「暇をつぶす」ということがなくなりました。酒もパチンコもマージャンもやらなくなりました。酒を飲むと、頭がぼーっとして、考えることができなくなります。私はそれがとってもイヤでした。子供たちは、ゲームがとっても好きですが、あれこそ時間の無駄だと思います。すべての娯楽がダメだと言っているわけではありません。私たちは神様から与えられた時間、この肉体、能力、お金、そしてすべての資源を無駄に使ってはいけないと思います。新約聖書の、私たちは恵みだけではなく、神様に対する義務も負っています。週報には、マラキ書から10分の1献金のことを書いています。ぶどう園を借りていた農夫たちが、神様におさめるべきものを納めなかったということと関係しています。マラキ3:9,10「あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 すこし前、東京聖書教会で「恵みの歩み」のセミナーがありました。私たちは律法の時代ではなく、恵みの時代に生きているんだというメッセージでした。ある人が、「10分の1献金は旧約聖書にあるので、新約の時代に生きる私たちに、どう関係があるのですか?」と質問しました。講師は何と答えたでしょうか?「新約の私たちは10分の1ではなく、10分の10である。すべてが神様のためであり、神様の栄光のために用いられるべきだ」と答えました。使徒パウロは、Ⅰコリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」と言いました。食べても、飲んでも良いのです。買い物をしても良いし、遊んでも良いのです。でも、何をするにしても、ただ神の栄光を現わすためであります。テレビを見ますと、2つか3つのチャンネルで、テレビ・ショッピングをしています。青汁もあれば、宝石類、なんとかジャパン、「ああー」と思います。この間、なんとなく見ていたら、電動足もみ器が出ていました。「ああ、これは家内に良いなー」と思って、666・666に電話をしました。でも、生産が追いつかないようで、11月末になるそうです。神の栄光を現わすためなら、テレビ・ショッピングをしても良いのです。でも、私たちは忘れてはならないのは、神様がすべての所有者であり、私たちは管理者だということです。私たちには、肉体の他に、時間、お金、家庭、職場、さまざまな能力、霊的賜物があります。また、信仰、神の権威、聖書のみことば、福音の奥義もまかされています。使徒パウロは、Ⅰコリント4:2「この場合、管理者には、忠実であることが要求されます」と言っています。アーメン。

3.イエス様はどういうお方か

 最後に、このたとえから、イエス様がどのようなお方かを学びたいと思います。このたとえの中の「主人の息子」と言うのは、主イエス・キリストであります。でも、彼らは「息子をつかまえて、殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた」とあります。イエス様はたとえのとおり、エルサレムの外で、十字架で殺されました。しかし、イエス様は詩篇を引用して、ご自分のことをお示しになられました。「家を建てる者たち」とは、ユダヤ人の指導者たちです。イエス様はユダヤ人に捨てられましたが、別の建物の礎石となりました。別の建物とは、新しいイスラエルである教会であります。主イエス・キリストこそが、私たちの信仰の土台だということです。エペソ2:20には、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」と書いてあります。イエス様が礎石ならば、私たち一人ひとりは、建物のブロックであります。私たちが組み合わされることによって、神の宮になるということです。旧約聖書には、ソロモンが建てた立派な神殿がありました。しかし、バビロンによって破壊され、跡形もなく壊されました。バビロンからもどったユダヤ人が、第二神殿を建てました。それもギリシヤ人によって汚されました。最後にヒロデ王が40年以上もかけて、神殿を建てました。でも、紀元70年にローマによって破壊されました。もう、神の神殿はないのです。現在、エルサレムに行っても、壁しかありません。代わりにイスラム教の黄金の寺院が建っています。しかし、イエス様の敵たちは、何と言っていたでしょうか?「イエスが神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言ったと証言しました。でも、彼らの言ったことは間違いではありませんでした。イエス様が神の神殿の礎石で、私たち一人ひとりが神殿の建物だということです。と言うことは、私たちの内に神様が宿っておられるということです。

 このように考えますと、教会は建物ではなく、私たち一人ひとりだということです。どうしても私たちは「教会」というと、教会堂をイメージしてしまいます。実際、教会でも「日曜日は、教会へ」と案内しています。正確には、「日曜日は教会堂へ」であります。もし、「日曜日は、教会へ」と言うならば、月曜日から土曜日までは、お休みと言うことになります。だから、日本はサンディ・クリスチャンが増えるのであります。教会は建物ではありません、私たち一人ひとりが教会なのです。確かに、日曜日は教会堂に共に集まって神様を礼拝します。でも、礼拝が終わったら教会は次の日曜日までお休みなのでしょうか?そうではありません、礼拝が終わったら、教会はこの世に出て行って、歩き出します。私たちは、月曜日から土曜日まで、この世において、教会をしているわけです。なぜなら、私たちが生ける神の宮であり、私たちの中に聖霊なる神が宿っておられるからです。考えたら、すごいことだなーと思います。日本には8000近くの教会があります。教会のない町や村がまだまだ、たくさんあります。でも、イエス様は「二人、三人が私の名において集まるところに私もいる」とおっしゃいました。ですから、3人集まれば、1つのセルになります。もし、1つのセルを教会として考えたら、いっきょに増えます。亀有教会に20のセルができたら、20の教会になります。もっと、信仰によって励み、100のセルを持った教会にして、この地にはびこっていきましょう。

 Ⅰペテロ2章では、キリストが礎石であることを詳しく述べています。Ⅰペテロ2:6-8なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。ユダヤ人はイエス様につまずき、イエス様を捨てました。でも、幸いなことに、イエス様が私たちの礎の石となりました。ペテロは旧約聖書を引用して、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」と言いました。使徒パウロも9:33で「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と言っています。私たちは失望させられることがよくあります。それは人間を頼っているからです。では、人間を決して信頼してはいけないかというとそうではありません。イエス様を土台とし、その上に人間を置くわけです。鈴木牧師を本当に信頼できるのだろうか?信頼したら、ずぶずぶと、一緒に沈んでしまうんじゃないだろうか?特に、亀有は地盤が悪いので、地震が起きたら液状化が起こります。でも、牧師の下にイエス様という礎石があったらどうでしょうか?あなたの夫、あなたの妻、教会の兄弟姉妹、信頼できるでしょうか?イエス様なしでは、完全に信頼できる人なんかいません。ある教会は、若い牧師がいつかないそうです。主任牧師が完璧主義なので、若い牧師には任せられないと思うのでしょう。本当はその牧師だって、若い頃は信頼に足りる者じゃなかったはずです。ですから、牧師自身も信徒や奉仕者を主にあって、信頼しなければなりません。

 でも、ありがたいですね。ユダヤ人がイエス様につまずき、イエス様を捨てました。だからこそ、イエス様が異邦人である私たちの救い主になったということです。私はときどき、島田伸介の鑑定の番組を見ます。あれは面白いですね。つぼとか、掛け軸、茶器、香炉…いろいろな骨董品が出てきます。だいたい、おじいちゃんが骨董屋から高く買った家宝が、実はガラクタだったということが良くあります。でも、だれかが捨てたものが、実はお宝だったということがたまにあります。ある人が倉庫を壊したら絵が何枚か出てきたそうです。その絵を外に放置していたので、通りがかりの人が「これもらって良いですか?」と1枚もらいました。その人が、鑑定に出したら、ものすごい絵だったというのを見たことがあります。ユダヤ人は「あのイエスはガラス玉だ」と捨てたんです。ところが、イエス様は本物のダイヤだったんです。私たちは本物のメシヤ、キリストをいただいているということです。私たちの人生において、いろいろ、誤った選択をしてきたかもしれません。結婚相手はそんなことないと思いますが、まがいものを買わされた、貧乏くじを引かされたとか、あるでしょう。でも、救い主イエス様を選ばせていただいた、信じさせていただいた。この選択があれば、他のマイナスはどうってことありません。ある人が競馬と先物取引でお金をすった。奥さんは「もし、競馬をしなかったなら、家が2件は建っていた」と言いました。でも、その人は死ぬ前にイエス様を信じて洗礼を受けました。ご病気で10年以上も苦しみましたけど、イエス様を信じて、天国に行けるんですから、元を取れたのではないかと思います。人生の最大の恵みは、主イエス・キリストに出会えたことではないでしょうか。「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」のです。主イエス・キリストに信頼する者は、決して失望させられることがありません。