2007.11.25 二国での責任 マルコ12:13-17

先週は三重県の尾鷲教会に招かれて、土日と2回のメッセージをさせていただきました。片道5時間弱かかり、「とにかく、遠いなー」という感じがしました。最近、近くの熊野古道が世界遺産になったそうです。朝、散歩がてら、近くの漁港に行きましたが、市場一面に、とんび、からす、しらさぎ、かもめと4種類の鳥が群がっていました。売り物にならない魚を食べるんでしょう。それはもう、かなりの数で「どんだけー」と思いました。私は尾鷲ではなく、これじゃ尾鳶じゃないかと一人つぶやきました。教会は、なんと平均年齢が70何歳かで、最高齢の方が93歳でした。私は会衆を見ながら、その牧師に「老人ホームやっているんじゃないのー」と言ってしまい、傷つけたかなーと思いました。でも、ああいうところで謙遜に、頑張っている若い牧師がいるんだなーと感動しました。きょうのテキストは、ふだん仲の悪い、パリサイ人とヘロデ党が結託して、イエス様を陥れるという箇所です。パリサイ人はユダヤの独立を願い、税金なんか納めたくありません。一方、ヘロデ党はローマ政府のもとでうまい汁を吸っていました。ですから、税金を納めない者を訴えるでしょう。イエス様はどっちに答えても、不利で、逃げ道なしという罠をしかけられたのです。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めよ」と言えば、ローマにへつらう者であり、売国奴とか偽教師と言われ、人気をなくすでしょう。また、イエス様が「カイザルに税金を納めなくても良い」と言えば、謀反を起す危険な輩として、ローマに引き出されるでしょう。

1.この世に対する責任

「カイザルのものはカイザルに」とは、この世に対する責任あるいは義務のことを言っています。当時はユダヤに対してだけではなく、一人あたり、いくらいくらという「「人頭税」をローマ政府に納めることになっていました。これはローマに対する服従を意味するもので、パリサイ人にとって屈辱的なものでした。イエス様は「納める銀貨を持って来て見せなさい」と言われました。これは、1つの実物教育であります。その当時、銀貨の表面には、ティベリウスの胸像が刻まれており、「ティベリウス、カイザル、聖なるアウグトゥストの息子、大祭司」という銘が刻まれていました。貨幣にカイザルの像が刻まれているということは、その貨幣がカイザルの所有物であるということを示していました。ですから、それは「カイザルに返す」、つまり納税の義務は果たすべきであるということです。つまり、イエス様はここで、「この世に対する責任と義務を果たしなさい」と教えているのであります。では、ローマがユダヤのために何かためになることをしているのでしょうか?「世界の道はローマに通ず」と言われえているように、山賊や盗賊が取り除かれ、ユダヤ人たちはどこへでも安全に旅ができました。そればかりか、ユダヤは他の国と違い、宗教の自由がある程度認められていたようです。でも、被支配国であるユダヤに対して、極悪非道なこともなかったわけではないでしょう。実際、紀元70年には、ローマによってエルサレム神殿が破壊され、イスラエルという国そのものがなくなってしまいました。

私たちは日本という国家のもとで平和に暮しています。ですから、政府が決めた税金を納め、さまざまな法律や義務にしたがわざるを得ません。税金も所得税ばかりではなく、住民税、固定資産税、消費税、物品税…いろいろあります。最近、地方税の地域格差ということが言われています。東京都はもうかっているようですが、地方はとても厳しいようです。そこで地方税が何かを調べてみました。福祉や教育、消防・救急、ゴミ処理といった様々な住民サービスを提供する上で、重要な原資だということです。いざという時、救急車呼べるもの感謝、毎週ごみを出せるのも感謝であります。交通のおまわりさんは嫌いですが、国からいろいろお世話になっているなーという感じがします。でも、最近のニュースを見て、選挙のポースター代もそうですが、「政治家の領収書はいい加減だなー」と思います。海外にもお金をばらまき、税金の無駄使いをしているんじゃないかと思います。でも、みなさん、極端かもしれませんが、当時のローマと比べたら良い方ではないかと思います。イスラエルは完全にローマに支配されており、自由がきかなかったのであります。だから、イスラエルの民は、ローマを倒してくれるメシヤを待望したのであります。でも、イエス様は「ローマに税金を納めよ」と言ったのであります。

福音書やパウロ書簡を見ますと、「ローマを倒せ」みたいな教えは1箇所もありません。それよりも、彼らの宣教を考え、親ローマになっているようにも見えます。福音書ではローマの百卒長が自分の家来のために、癒しをもとめて来るところがあります。また、十字架の死後、「あの方は、まことの神の子だった」と胸を打って嘆く百卒長がいました。パウロは伝道旅行を何度もしましたが、迫害する人たちはユダヤ人で、暴徒から守ってくれるのはローマ兵たちでした。パウロはローマ13章でこのように言っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。・・・彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」上に立つ権威の中には、ローマのカイザルも含まれていると思います。おそらく、ローマ時代の人たちが福音書やパウロの書簡を読んで、キリスト教の敵だとは思わないでしょう。

でも、起源100年前後は、クリスチャンに対して、ものすごい迫害がありました。これは、難しいテーマになりますが、この世が神の分を冒したときは、従ってはいけません。むしろ、断固として戦うべきであります。黙示録13章には、悪魔化した政府が記されています。666のナンバーの刻印のない者は、売り買いできないと書いてあります。こういう場合は、信仰を守るために、戦わなければなりません。残念ですが、ナチスドイツのとき、教会は彼らの非道さに対して黙認していました。宗教改革が起こった国とは思えません。では、日本ではどうでしょうか。内村鑑三などは、勇敢に戦った一人であります。残念ですが、キリスト教会は戦時中、神棚を祭って戦勝祈願をしたのであります。教会は全く、地の塩、世の光の役目を果たしませんでした。そういう反省をふまえ、この世に対して「我関せず、そんなの関係ない」といわないで、旧約聖書の預言者たちのように見張っていく必要があります。私たちクリスチャンは、世の中の見張り人だということです。世の中はますます物質主義に染まり、不正がはびこり、愛が冷えていくでしょう。私たちは、この世と妥協せず、何が善で何が神様に受け入れられることなのか、神のことばの上に立ち続けるべきであります。

 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言うのは、この世と神の国の二元論を言っているのではありません。この世のことと、教会のこととは別だという考えは、間違っています。ナチスドイツの支配のとき、勇敢に立ち向かった人たちもいます。ボン・ヘッファーという牧師は、ヒットラーを暗殺しようとしたかどで捕らえられ、殺されました。彼は「主は1つである。神の国の主だけではなく、この世においても主である」と主張しました。残念ながらドイツの国教会は、「宗教と政治とは別だ、教会は政治に口を出さない」という、契約をヒットラーから交わされていました。つまり、骨抜きにされていたのです。同じようなことが、戦時中の日本基督教団にもありました。戦時中は、政府の力で、すべての教団教派が日本基督教団の中に入れられていました。それでないと、宗教活動ができなかったわけです。宗教活動ができるかわり、戦勝祈願をさせられました。戦後、平和になってから、「日本の教会もボン・ヘッファーのように戦うべきだった」と言います。でも、まわりが戦争一色のときは、何も言えないのであります。その点、韓国教会は偉いと思います。日本政府が本当に韓国の教会を迫害しました。なぜなら、彼らは神社参拝をせず、侵略と信仰の自由のために対抗したからです。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」とは、私たちはこの世と神の国の両方の責任を負っているということです。でも、この世と神の国は、対等のものではありません。神の国の下に、この世があるのです。この世は神に逆らっている駄々っ子であります。何故、この世にいろんな悪や不条理が起こるのでしょうか?それは神の国、つまり神の支配がきていないからです。ギリシャ語で罪とは元来、「的をはずす」という意味があります。この世の人たちは、一生懸命頑張っているつもりですが、的をはずしている存在なのです。何故、当時のクリスチャンがローマ支配のもとで、平気だったのでしょうか?それは、ローマの上に神の国があることを信じていたからです。本当の支配者はキュリオス・カイザルではなく、キュリオス(主)イエス・キリストであると信じていたからです。私たちはどんなところであっても、主のご支配のもとで暮すなら、的をはずさず、この世の不条理からも守られるのです。

2.神に対する責任

 イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。彼らはイエスに驚嘆したとあります。私たちは「それって、何なの?」と首をかしげるかもしれません。これは、イスラエル人が神の国という理解があるので、イエス様のことばが有効なのであります。異邦人である日本は、神様に対する義務なんか全く感じていないでしょう。「教会に行く人だけが、献金して、宗教的な義務を果たせば良い。そんなの関係ない。」と言っているんじゃないでしょうか?でも、神に対する責任あるいは義務は、信じている者たちだけのものなのでしょうか?ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像と銘が刻まれていました。それは、この貨幣がカイザルの所有物であるということを示していました。それと同じように、人間には神の肖像、イメージが刻まれているのです。創世記1章には、「神のかたち(イメージ)に似せて、人を創造された」とあります。クリスチャンであろうとなかろうと、人はすべて、神の肖像、イメージが刻まれているのであります。ということは、人間は本来、神の所有物であり、神様に対して義務と責任を負う存在なんだということです。でも、神から離れた罪人は我が物顔に、この地上で生きているのであります。神様はそれでも、私たちに恵みを施しておられます。マタイ5章には「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです(5:45)」とあります。私は聖書を読み始めたころ、太陽は良いもので、雨が降るのは良くないことだと思いました。みなさんも、天気予報で、雨マークがついていると、イヤだなーと思うでしょう。ところが、そうではなく、旱魃の多い地方では、雨は恵みなんです。つまり、神様は誰に対しても、ある程度の恵みを与えておられます。これを、神学的には一般恩寵と言います。

 イエス様は「神のものは神に返しなさい」と言われました。伝道者の12章には「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである」と書かれています。少し古い、口語訳の聖書は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と訳されています。「本分」なんて現代はあまり使われませんが、「本来、尽くすべきつとめ」という意味です。すべての人の本分とは、神を恐れ、その命令を守ることです。なんと、シンプルで力強いことばでしょう。新約聖書では、イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。これより大事な命令は他にない」と言われました。神と隣人を愛することが、人間の義務であり責任なのです。世の中、あまりにも複雑になりすぎています。私はときどき、テレビの討論会を見ることがあります。みんな口から泡を飛ばして激論しています。でも、そこには残念ですが、絶対的なものがありません。みんな勝手なことを言っているという感じがします。箴言19:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである」と書かれています。神様のことばがなければ、それは、烏合の衆であります。神のことば、神の命令を守ることが、私たちの義務であり責任だと確信します。

 では、クリスチャンはこの世の義務を果たし、神の国の義務も果たすので、損をしているのでしょうか?だって、私たちクリスチャンは国に税金も納めるだけではなく、神様に献金しているわけですから大変です。また、この世では罪でないことも、神様の前では罪だということがたくさんあります。クリスチャンは心の中で人と憎んでも罪だし、情欲を抱いただけでも罪なんです。貪欲や高慢、人を赦さないことも罪です。もちろん、姦淫や偶像崇拝や占いも罪です。こんなに窮屈な思いをして、信仰生活を続けるのに何か意味があるのでしょうか?あります。さきほど、神様は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と言いました。でも、それは一般恩寵、一般的な恵みです。でも、みなさんクリスチャンの場合は、一般ではなく、特別な恩寵であります。私たちはイエス様を信じて、神様と親子の関係になったのです。そして、イエス様は主であり、私たちは彼に従う弟子であります。弟子でないクリスチャンもいるかもしれませんが、クリスチャンの標準はキリストの弟子であります。するとどうなるのでしょうか?あなたは国に対して税金を納め、様々な義務を果たしています。そのため、ある程度の人権も守られますし、保護も受けられます。同じように、神様との関係を回復するとどうなるのでしょうか?あなたは神の国の住民であり、神様があなたを保護し、必要と守りを与えてくれるのではないでしょうか。これは世の人が持っている一般恩寵ではなく、特別な恩寵です。世の人は運、不運という運命に翻弄されて生きていますが、私たちクリスチャンは万軍の主の摂理のもとで、生きて行くことができます。主の御手が私たちにあるので、運命や不条理に翻弄されることはありません。主から特別な守りを与えられ、すべてのことが益とされるのです。

 教会では今、詩篇からディボーションしています。先日は、詩篇91篇を学びました。これこそが、特別恩寵の世界ではないでしょうか。詩篇91篇。いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである(詩篇91:1-9)。いやー、「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない」。私は丸愛軽金属株式会社の朝祈会に月一度招かれて、奨励をいたします。天に召された山崎長老さんが朝祈会で「千人がかたわらに、万人が右手に倒れても、私たちには近づきません」と祈っていました。「なんと自分勝手な祈りだろう」と、思えば、思えないわけでもありません。でも、神様は自分の子どもたちを特別に守っておられるのは真実です。今から数年前、インドネシアに大地震がありました。エディ・レオ師がこのようにおっしゃっていました。被害にあったプーケットとかジョグジャカルタは、ものすごいイスラムの原理主義の場所で、教会がほとんどない。いつも教会を迫害する。でも、津波が来てもクリスチャンは奇跡的に助け出され、イスラムの人たちはそれを見て、本当に驚いたそうです。津波のあとに、たくさんの教会ができたそうです。なぜなら、奇跡だけではなく、クリスチャンの愛に触れたからです。

 日本でいるとクリスチャンが少数派(マイノリティ)で、貧乏くじを引いているような錯覚を起してしまいます。ノンクリスチャンの方が、楽しく暮しているような気がします。しかし、それは錯覚であり、真実ではありません。ヒリピ3:19,20「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」アーメン。私たちクリスチャンには2つの国籍があります。また、私たちはこの世の命と神の命の2つを持っています。いずれこの世の市民権がなくなり、戸籍から抹消される時が来るでしょう。でも、そんなの関係ありません。私たちはやがて、むこうで永住するのです。向こうの大邸宅には、家具調度品が備わっています。からだ1つで行けるのです。でも、皆さん、私たちの信仰は天国に行くためだけのものではありません。この地上にあっても、神の命が役に立つのです。私たちが肉体的に精神的に限界だなー、四方から患難を受けているなーと思うときがあります。でも、私たちはパウロのように、土の器の中に宝をもっているので、イエス様のいのちが現れるチャンスとなるのです。ハレルヤ!靴屋さんが狭い作業所でいつもお仕事をしていました。ある人が「いつも大変ですね。それじゃ、気が滅入ってしまうでしょう」と心配して声をかけました。「いやぁ、大丈夫でさあ。気が滅入るときは、後ろの木戸を開けるんですよ」と答えた。戸を開けると、なんと大海原が見えたそうです。私たちは、この世にありながらも、すでに永遠の世界で生きているんです。礼拝とは、後ろの木戸を開けて、天国を垣間見るときであります。