最近礼拝の人数が少なくなるときがあります。私は「教会は人数じゃない」と言っていますが、それでもやっぱり気になります。英語で「コミットする」という表現があります。日本語で訳しにくいことばです。しいて訳すなら、献身するとか、専念するという意味です。つまり、他のことはさておいて、このことに自分は時間とお金をかけるか、優先順位のトップにするということです。みなさんは何にコミットしていらっしゃるでしょうか?何を優先順位のトップにしておられるでしょうか。きょうは、そのようなことを共に考えるようなメッセージです。
1.呪われたいちじく
イエス様はいちじくの木をご覧になって、実がないのでその木を呪われました。その理由は、「いちじくのなる季節ではなかったからである」と書いてあります。「えーなんでー?」と言いたくなるでしょう。いろんな解釈があり、ここは大変難しい箇所ですが、私なりにこのように結論付けております。そのいちじくの木は異常だったのであります。どうしてかと言うと、季節でもないのに葉っぱが生い茂っており、さも、実がありそうな感じだったのです。イエス様は、「季節でもないのにどうしてこんなに葉っぱが生い茂っているのだろうか。ひょっとしたら、実があるのかな」と探してみました。しかし、1個もなかったのです。実は、いちじくの木はイスラエルを象徴しています。ヨハネ1章に書いてありますが、ナタナエルは、いちじくの木の下で祈っていました。それは、イスラエルの繁栄の回復のため祈っていたのではないかと思います。エルサレムの郊外に植わっていたいちじく、葉っぱだけが生い茂り、実が1つもなかった。これはどういう意味でしょうか?イエス様はエルサレムに入り、彼らの信仰が形式的で、偽善的なことをつぶさに見るわけです。イエス様は確かにいちじくの木をのろいましたが、それはエルサレムのことだったのです。エルサレムは宗教的には確かに栄えていましたが、命がなく、形ばっかりだったのす。イエス様はマタイ23章で「忌まわしいものだ」と偽善的な律法学者やパリサイ人たちをさばいています。
そして、イエス様が15節から、「宮きよめ」をしています。ヨハネ2章には、イエス様は縄で鞭を作り、羊や牛を追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒したと書いてあります。一般に、イエス様はおとなしい方と想像されていますが、そうではありません。マシンガンは持っていませんが、映画の「ランボー」に似たところがあります。イエス様は何をごらんになられたのでしょう。まず、人々が宮の中で売り買いしていました。日本でも、どこかの神社の縁日には、たくさんの店が出ています。近くに帝釈天というのがありますが、団子家さんとか、おみやげ品店が軒を並べています。また、イエス様は、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒したとあります。当時は、一般のところではローマの貨幣が使われていました。その貨幣にはカイザルの肖像が刻まれていたでしょう。しかし、神殿にささげるお金は、そんなお金じゃなく、イスラエルの貨幣が必要でした。そのため、神殿の中には両替商がいました。私たちは外国に行くとき、飛行場なので両替をします。交換するときに手数料がかかり、また円に戻す時も手数料がかかります。「エンカゲンにせーよー」と言いたくなります。両替人はお金を右から左に移しただけで、もうけているわけです。また神殿の中では鳩や羊も売られていました。なぜなら、人々が遠くから犠牲の動物を連れてくるのは大変です。また、傷や欠けのある動物はふさわしくないので、神殿の中にはちゃんとした動物が売られていたのです。これもまた、1つの商売になっていました。旧訳の預言書にも書いてありますが、「私は動物の脂肪には飽き飽きした。本当にささげるべきものは、あなた方自身の心なんだと」ということでしょう。そこには宗教はありましたが、人々の神様に対するまことの信仰がなかったのです。全く、形骸化し、命なかったのであります。
これは、現在のヨーロッパの教会にも言えることであります。私は実際には行ったことがありませんが、ロンドンのウェストミンスター寺院は今や観光地になっています。かつては、F.B.マイヤーやロイド・ジョーンズが説教した教会です。アメリカのメガチャーチはどうでしょうか?ステージに魅力的な歌い手やメッセンジャーが登場します。大ホールの中で、人々は目をつぶり、手をあげ、恍惚状態になっています。かつてはあのような教会に私もあこがれました。テレビを見ていて、「亀有教会は、あのブロックの1枡にもいかないだろうなー」と寂しく思いました。しかし、みなさんクリスチャンは礼拝堂にいるときが、大切なのではありません。礼拝堂で「ハレルヤー、主をあがめます」とやっても、家に帰って、妻や子供たちをビシバシ叩いたらどうでしょうか。教会では聖い手をあげているつもりですが、ビジネスや政治では、全く裏腹なことをしている場合もあるのです。イザヤ書58章には宗教に対してまことに辛らつなことが書いてあります。人々は断食までして非常に宗教的に熱心です。ところが、私生活において労働者をしいたげ、貧しい人には決して与えません。隠れたところでは、自分が好むことをし、おしゃべりばかりしています。もう、「宗教ごっこはやめてくれ」と言っているかのようです。つまり、教会はうわべだけの華々しさや、敬虔さに騙されてはいけないということです。ダンスや音楽が悪いと言っているわけではありません。集会とかイベントよりも、日々の神様との関係が大切だということであります。あっちこっちの集会やイベントを廻って、自分の生活を疎かにしているクリスチャンもいないわけではありません。
一番大切なことは何でしょうか。それは主の臨在であります。私たちが集っているところに、「主がおられるだろうか!」ということです。イエス様は「私の家は祈りの家と呼ばれるべきだ」とおっしゃいました。祈りは神様との交わりであり、そこに主がおられるということであります。でも、ふだんはちっとも祈らないで、すばらしい恵まれた集会に行けば良い。そこですばらしい音楽を聞いて、すばらしいメッセージを聞けば恵まれる。教会が劇場になって、1つの楽しみになる恐れがあります。ステージの人たちも演技をし、会衆も恵まれたクリスチャンを演技する。帰ってくると、普通の人になり、世の中の人と同じことをする。それではいけません。主の臨在とは私たち一人ひとりがかもし出すものであります。なぜなら、主の宮とは建物ではなく、私たち一人ひとりだからです。Ⅰコリント6章には「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」と書いてあります。また、Ⅰコリント3章には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられるのを知らないのですか」と書いてあります。Ⅰコリント6章では個人が神の神殿と書いてありますが、Ⅰコリント3章は「あなたがたが神の神殿」と言っています。つまり、神殿とは建物ではありません。また、華やかな劇場やイベントでもありません。私たち一人ひとりがキリストの御名によって集まり、組み合わさったものであります。ハレルヤ!教会とは建物ではなく、私たち自身です。御霊なるキリストを宿した者たちが集まる。すると、そこに生ける大いなる、主イエス・キリストが現れてくださるのです。私はそういう意味で、このような礼拝は大切ではないかと思います。なぜなら、ここで心を合わせ賛美し、心を合わせ祈るからです。ですから、まったく未信者さえも、この礼拝で神様を体験することができます。「ああ、ここに神様がおられるなー」ということが分かるのです。私たちは華やかな劇場のような教会ではなく、今も生きておられる主イエスを心からあがめる教会を作りたいと思います。そして、教会という建物の中で輝くのではなく、暗い世の中に遣わされて、「世の光」として輝きたいと思います。
2.祈りの家
「私の家」とは、イザヤ書56章からの引用であります。イザヤ56:2「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。56:6、7「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」。つまり、祈りの家とは、安息日礼拝と関係があります。これを新約的に言うならば、聖日礼拝を喜んで守るということです。私は座間キリスト教会では、「聖日礼拝厳守」と言われて育ちました。大川牧師はから「昔は這ってでも来いと言われたものだ。来ることができるのにサボるのはよくない。私たちの信仰を守る律法もある」と言われ、私は休んだことがほとんどありません。セルチャーチになってから、日曜日だけが礼拝ではなく、毎日が礼拝と思っていますが、週一回はなんとか工夫して、礼拝を守っていただきたいと思います。仕事や、ご商売で日曜日休めない人もおられると思います。他の日にでも結構ですから、ビデオやインターネットがあります。また、最近は衛星放送でキリスト教番組をいつでも見ることができます。1週間、1時間でも聖別して礼拝の時を持つのはすばらしいことです。なぜなら、一週間に一日休んで、これを聖としなさいというのは創世記や出エジプト、預言書にあるからです。そうしないと、私たちの信仰はこの世の価値観に吸収され、塩気がなくなってしまうでしょう。
また、「私の家」とは、実際に神殿で祈りをささげるということです。新約時代においては、マタイ18:19,20が重要な聖句だと思います。「 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」共に集まって心を合わせて祈る、ことがとても大切です。なぜなら、一人で祈るよりも、主がそこに臨在して、どんな祈りもかなえてくださるからです。ですから、使徒の働きを見ますと、初代教会はよく祈っていたことがわかります。使徒の1章では、120人が聖霊を待ち望んで祈っていました。使徒1:14「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」。10日後、彼らが集まっていたところに、聖霊が火のように風のように下って来たのであります。また、迫害が始まったときも集まって祈りました。使徒4:24「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った」。29-31「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」。ペンテコステの再来を見るようであります。また、ペテロが捕らえられたとき、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と使徒12:5にあります。
個人のディボーションとセルによる祈りを強調してから、いわゆる「祈祷会」を開かなくなりました。ある人から「祈祷会のない教会は教会ではない」とお叱りのことばをいただいたことがあります。私はこう見えても、信仰を持った時から早天祈祷会、水曜祈祷会、断食祈祷会、徹夜祈祷会、合心祈祷…なんでもやってきました。韓国の教会から影響を受けたからかもしれません。でも、早天祈祷会よりも、個人で神様と聖書を通して交わるディボーションは、10倍くらい喜びを感じました。また、1990年にラルフネィバー師が来日して、セルチャーチについて話されたとき大変ショックを覚えました。彼は「教会では祈祷会を開いて祈るが、実際に問題のある人のところへは行かないで遠隔操作で祈っている。なぜ、問題のある人のところへ直接行って祈らないのか」と言いました。確かに、祈祷会では祈りますが、個人の深い悩みや問題は打ち明けません。全体的な祈りの課題だけになったり、人の手前、美しい祈りをしてしまいます。でも、セルの集まりでは、もっと深刻な課題も祈り合うことができます。ですから、私はある時から、早天をディボーションに、祈祷会をセルに変えたのであります。もう、10年以上たちますが、少し反省点もあります。セルの祈りは深い祈りはできますが、とりなしの祈りがどうしても自分たちのものだけになります。また、大声で宣言するということもとても大事です。私たちは顔を上げて「そうなることを信じます」と口で言うことがとても大事なんです。そういうチャンスはあるでしょうか。祈祷会という単なるプログラムになるのは反対ですが、祈りの勇士たちが、祈り会を開くというのは大賛成です。今、ヨシュアの祈り会が毎週土曜日開かれています。こんど、11月3日は断食をもって祈る日と決めているようです。ぜひ、なさってください。
日本で、祈祷会を大事にして成長している教会がいくつかあります。それは母教会の大和カルバリーチャペル、主都福音百合丘教会、儀間先生の沖縄リバイバル教会…他にもあります。大川牧師は聖日礼拝は潮干狩り的説教で、初めて教会に来た方でも分かり易くて溺れない説教をします。でも、水曜と木曜の祈祷会では、もっと堅い食物、チャレンジを与える説教です。でも、私は「セル教会いのち」になりましたので、逆戻りする気はありません。日本の教会は礼拝と祈祷会をやっていれば良いというところがあります。でも、多くの祈祷会は10名未満のところが多いと聞きます。私もこの教会では平均5名くらいでした。それよりも、私はセルグループが週に一度、集まってみことばを分かち合って共に祈ることを強くお勧めいたします。また、とりなしの重荷が与えられた人たちが、共に集まって祈り会を持つということもすばらしいと思います。そして、時々、聖会も開いたらとっても祝福されます。聖会は旧約聖書のところどころに書かれています。献身とか聖めのメッセージ、あるいは癒しと解放、聖霊充満ための按手ができます。なかなか、聖日礼拝では泣いたり、叫んだりはできません。泣けば良いというものじゃありませんが、聖会は恵まれます。インドネシヤでは男性のための集会や女性のための集会があります。エディ・レオ師などは、3日間の聖会で、10回近く話してくれます。もう、みことば漬けであります。むこうの国の人たちは、日本と違って、長い話が喜ばれます。せっかく遠くから来たのに30分じゃもったいない。1時間のメッセージを休憩を挟んで、何度もしてもらいます。私もそういうのは大好きです。みなさん、1週間に30分のメッセージを聞いただけで、人生が変わるでしょうか。それで、霊性が維持できるでしょうか?月に1度の人だっていますので、よっぽど工夫しないと、聖書から離れてしまします。信仰は生き物です。個人で聖書や信仰書を読み、祈りのときを持つ。また、共に集まりみことばを分かち合い共に祈る。そして、公の集会で共に賛美し主を礼拝する。テレビを見ていると1時間、2時間がすぐたってしまいます。なんとか、主と交わる時を確保しましょう。
日本はお隣の韓国と違って、リバイバルが来ていませんので、霊的環境がものすごく悪いです。外国に行くとものすごく祈りやすいのですが、日本に帰ってくると霊的な圧迫を感じて祈れないというのは事実だと思います。テレビや新聞には、悪いニュースがいつもいっぱいです。私は2,3日どこかのセミナーに出席すると、テレビや新聞を見ないので、とっても恵まれます。そして、外界に降りてくると、「ああ、あんな事件があった」のかと初めて気がつきます。正直言って、ニュースを全部知らなくても生きていけます。新聞はつまみ喰い程度にして、なんとか信仰的なことに時間を取ることはできないでしょうか。私は牧師として幸いなのは、毎週の日曜日、説教しなければならないことです。どうしても聖書を読んで、瞑想するでしょう。また、他の信仰書も読みます。ダイヤル一日一生もあり、その日の箇所を読んでちょっと解説します。本当に守られているなーと思います。説教の奉仕というのは、自分の信仰をキープするためにもありがたいのであります。一番大切なのは、霊的な飢え渇きであります。詩篇42篇は歌にもなっています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。…わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」。確かにこの地上で生活をしていますと、霊的にダウンするようなことがいっぱいです。でも、私たちは必死になんとか工夫して信仰を保っていく必用があります。どんな環境でも、信仰の火を絶やさないで燃やし続ける必要があります。ですから、私たちはすぐ側におられる、神様に近づくのです。神様は私たちが一歩近づくと、二歩近づいてくださいます。わずかな時間でもとって、みことばを読み、「ハレルヤ!主を感謝します。人にはできないことも神にはできます。アーメン」と口ずさむ。それだけでも、ぐーんとアップします。ときどき、否定的なことが浮かんだりするでしょう。悩みや誘惑が来るかもしれません。そのとき、「おお、主よ、私を贖ってくださって本当にありがとうございます。あなたに求めます。あなたはなんでも答えてくださいます。アーメン」。新約では、私たちが神殿なのです。私たちが移動式の神殿、祈りの家なのであります。ですから、どんな時でもどんな場所意でも、「おお、主よ」と祈ることができるのです。ある人が、「聖書は霊的な食物、祈りは霊的な呼吸」と言いました。私たちの信仰がいつも燃やされ、聖霊に満たされた歩みができますように。アーメン。