2007.10.28 神の信仰を持て マルコ11:19-25

イエス様はエルサレム郊外に植わっていた、いちじくの木を呪われました。そのいちじくは葉っぱばかりが生い茂り、実が1つもありませんでした。先週学びましたように、いちじくはイスラエルを象徴していました。彼らには立派な宗教がありましたが、形ばかりで命がありませんでした。それで、イエス様は呪ったのであります。次の朝、通りかかるとそのいちじくの木は、根まで枯れていました。呪われたいちじくは可愛そうでありますが、イエス様はそのことを通して、信仰の大切さを教えておられます。

1.神の信仰を持て

 マルコ11:22イエスは答えて言われた。「神を信じなさい…。」日本語の聖書では「神を信じなさい」となっています。しかし、原文では、「神の信仰を持て」となっています。つまり、信仰とは自分の中からがんばって生み出すというものではなく、神様からいただくものなんだということです。特に奇跡を起こすような信仰などは、生まれつきの私たちにはありません。このような信仰はある時、神様から一方的に与えられるものです。ところが、私たちの方が、その信仰を受け取らなければ、神様のみわざは起こらないのであります。まず、神様はご自身の信仰をその人に与えようとします。もし、その人が神の信仰を持ったならば、今度は神様がその信仰を通して奇跡的なみわざをなすことができるのです。みなさんは自転車の乗り方を子供に教えたことがあるでしょうか。子供にハンドルを握らせます。パパは後ろから荷台を支えながら、押してあげます。子供は、ただハンドルを握っていれば良いだけです。あとは、ちゃんと倒れないように押して上げられます。でも、子供が「パパ、怖いよー」とハンドルを放したらどうなるでしょうか。ハンドルが右か左に、がくんと曲がってしまって、もう後ろから押すことができません。それと同じです。旧約聖書で最も大きな奇跡は、紅海が真っ二つに分かれたことです。「十戒」という映画で何度も見たことがありますが、ものすごい迫力がありました。モーセのすべきことは、杖を上げ、手を海の上に差し伸ばすことでした。主がなしたことは、強い東風で海を退かせ、海を陸地とすることでした。聖書で神様は何度も「恐れるな」とおっしゃっています。それは、「恐れて信仰を捨ててはいけない。あなたが信仰を持っていれば、私が道を開く」とおっしゃっているのです。

次に、信じることが何より先であることを学びたいと思います。マルコ11:24「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」たいていの人は、受け取ってから信じようとします。しかし、それはあべこべです。信じることが最初に来るのです。祈ることはとても大切です。でも、人が繰り返し、繰り返し同じことを求めるならどうなるでしょうか。たとえば、子供が私に「あのおもちゃを買ってくれ」と求めたとします。私は「わかった、今度の給料日に買ってあげるよ」と約束しました。それなのに、子供が次の日、「パパ、あのおもちゃ、きっと買ってね」と求めました。私は「OK、買ってあげるよ、楽しみに待っていてね」と答えます。ところが、子供は三日後にまた「パパ、あのおもちゃ、きっと買ってよ」と言ったらどうなるでしょうか。私は少々怒りながら「パパをどうして信じることができないの。必ず買ってあげるから待っていなさい」と答えるでしょう。ケネス・へーゲンの『祈りにおける神のみこころ』という本にこのように書いてありました。もし、だれかが同じことを再度求めるとすれば、最初に求めた時、それを受けたと信じてはいなかったのです。もし、それを受けたと信じていたら、彼はそのことのゆえに神に感謝しているはずであり、また、それが明らかになるはずです。私たちは自分の肉眼で答えが見えていなくても、「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じるべきです。このことは肉体の癒しにも当てはまります。しかし、肉体の癒しのために信仰を実行することは、他の何よりも難しいように見えます。なぜなら、私たちには体があり、様々な感覚や症状と戦わなければならないからです。たいていの人は、自分の症状が良くなったとわかってから、あるいは、様々な症状(兆候)がなくなってから、「神は癒して下さった」と信じます。自分で見てわかることなら、だれでも信じることができます。イエス様がこの箇所で教えておられるのは、「私たちは祈る時に信じるべきであり、そうすれば、その後で私たちは受け取るようになる」ということなのです。

ケネス・へーゲン先生が、長年にわたって実行してきた信仰は、そのような信仰でした。マルコ11:24は、先生の頼りとするみことばになっており、病気の癒しだけではなく、生活のどんな分野についても当てはまると言っています。つまり、それは物質的必要でも、霊的必用でも、あるいは経済的必要でも、そのように受け取ることができるということです。どういう信仰だったでしょうか?それは自分の肉眼で答えが見えていなくても、「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じるということです。私の尊敬する先生の中に、チョー・ヨンギ先生がいらっしゃいます。私はチョー先生の賜物は「信仰」だと思います。この教会に来られた、メルボンド師も同じ賜物があると思います。牧師は羊飼いとして、神様から任された羊の世話をするべきでしょう。家庭を訪問したり、カウンセリングしたり、教えたり、祈ってあげたり、具体的に助けてあげたり色々なことをすべきでしょう。でも、チョー・ヨンギ先生は、何十万人もの信徒たちをどのように養われたのでしょうか?日本の牧師なら100人も信徒がいたら、大忙しでしょう。本当に世話をしようと思ったら、10人でも多いくらいです。たとえば、チョー先生が病の癒しをなさるとき、一人ひとりに手を置いて癒しを行っていません。また、一人ひとりを呼んでカウンセリングもしていません。もし、そんなことをしていたら、体と時間がいくらあっても足りないでしょう。チョー先生がなさることは、神のことばを人々に与えることです。癒しのことばを宣言したとき、人々が「アーメン」と信じたとき、人々が癒されます。手を置いていないのです。信徒が自分でみことばを信じて癒されるのです。また、経済的に祝されるように、祝福のことばを聖書から宣言します。そのとき、人々が「アーメン」と信じとき、人々が祝福の中を歩むようになるのです。また、先生は自分で聖書を読んで、みことばから信仰を得なさいと教えておられます。もちろん、何十万人もの区域長が1つ1つの家庭をお世話しています。が、チョー先生は、区域長たちも含め、信徒たちに神の信仰を与えて養っておられるのです。

牧師ができる最大のことは何でしょう。それは聖書のことばから神の信仰を持つように勧めることであります。もし、自分が一人ひとりを手助けするなら、命がいくつあっても足りないでしょう。でも、彼らが聖書を読み、約束のことばを握って、求めるならどうでしょう。神様ご自身が、彼らを癒し、彼らに経済的な必要を与え、彼らを様々な困難から救ってくださるでしょう。つまり、実際にみわざをなして下さる神様を紹介し、聖書のことばから信仰を持つことを勧めることが何よりも大事なのです。チョー先生がよくおっしゃっておりました(今も生きておられますが)。もし、あなたが救いのことばを語るなら、人々が救われます。もし、あなたが聖化(きよめ)のことばを語るなら、人々は聖められるでしょう。でも、あなたが来る日も来る日も聖めのことしか語らないならどうなるでしょう。人々は聖められるかもしれないけれど、癒しや経済的な祝福は得られないでしょう。だから、あなたは福音の1部分だけではなく、福音の全部を語りなさい。そのように教えられたことがあります。日本のクリスチャンは霊的なことだけを求める傾向があります。経済的な祝福や病気の癒しは、ご利益信仰だと馬鹿にして退けます。だから、教会は貧しく、病気の人たちがたくさんいるのです。なぜなら、そういう分野の信仰を説いていないからです。私たちは天国に行ったら、倉庫に案内されるかもしれません。神様が私たちに与えようとしていたものが、受取人不在のために山積になっていたら、どんなにがっかりするでしょう。天国は豊かなところなので、そういうものはもう不要です。でも、父なる神様が神の子たちが、この地上で豊かに生活できるように、多くのものを用意しておられるのです。ですから、神の信仰を持ちましょう。イエス様がおっしゃいました。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」肉眼で答えが見えていなくても、「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じましょう。

2.告白の力

マルコ11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。信仰がやってきても、その後にすぐ疑いがやってくるでしょう。そのためには、私たちは信じたことを告白することがとても重要です。私たちは告白というと、すぐ思い出すのは、罪の告白であります。Ⅰヨハネ1:9には、罪を告白するなら、その罪が赦され、すべての悪からきよめられると書いてあります。罪の告白はもちろん大切ですが、それは告白の消極面であります。イエス様はこのところで、告白の積極面を教えておられます。23節に何と書いてあるでしょうか。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。ここに、「言って」「言った」と告白が、2回出てきます。ケネス・ヘーゲン先生は、この聖句をこのように訳しています。「だれでも…言って、心の中で疑わず、自分の言っていることが起こっていると信じるなら、何でも彼が言うことは彼になる」。つまり、イエス様は「あなたが言うとおりになる」と言われたのです。もしあなたが心の中であることを信じるなら、…それが積極的なことであれ、あるいは消極的なことであれ…そして自分の口でそれを言うなら、あなたは現実にそれを得るようになるのです。前も学びましたが、イスラエルの民は悪い報告を受け入れ、「我々にはできない。我々はあの地を占領することはできない」と言いました。実際、彼らが占領することはありませんでした。イスラエルの民は、自分たちの言ったとおりのものを受け取りました。彼らはみな、死ぬまで荒野をさまよい続けたのです。一方、カレブは「私たちは上って行ってそこを占領しよう。必ずそれができるから」と言いました。ヨシュアも「ただ、主にそむいてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ」と言いました。つまり、ヨシュアとカレブは「私たちの神は、彼らを私たちの手に渡すことが十分できる方です。私たちは彼らに打ち勝つことが十分可能です」と言いました。そして、自分たちが言ったとおりのものを受け取ったのです。みなさんにプリントでお分けしましたが、「あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」。

失敗する人の特徴は、失敗することばかりしゃべっていることです。まだ、失敗していないのに、失敗することを想定し、失敗することを準備しているのです。もちろん、失敗することもあるでしょう。でも、成功を常に考えている人は、失敗も貴重な体験になるのです。でも、失敗を予想している人は、「ああ、やっぱり失敗したか」とそこに座りこんでしまうでしょう。箴言6:2「あなたは口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられる」と書いてあります。ということは、私たちの語ることばによって、幸いが来たり、災いが来たりするのです。なぜなら、私たちの語ることばと信仰とは深い関係があるからです。ケネス・ヘーゲン先生がこのように教えています。私たちが言うことが、私たちの告白なのです。そして私たちの告白、すなわち言うことは、私たちを支配するのです。イエス様はそのように言われました。「自分の言っていることが起こっていると信じるなら、何でも彼が言うことは成るからである」。ヘブル4:14に「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」とあります。正しい告白とは何でしょうか。それは、私たちには偉大な大祭司、神の子イエスがおられるということです。そして、間違った告白とは、敗北とか失敗を告白したり、サタンがすぐれていることを告白することです。彼らは、悪魔がどんなに自分を病気にしているか、束縛しているか、どんなに苦境にあるか話します。けれども、彼らがしているそういう告白は、無意識のうちに、私たちの父なる神様は失敗者であると宣言していることなのです。どうぞ、悪魔やサタンのことを話すのはやめましょう。私たちには十字架で罪と死とサタンを滅ぼして復活された、大祭司イエスがいるのです。「私たちの中におられる御霊が、この世の霊よりも大きい」と信じて、告白し続けましょう。もし、私たちがみことばのとおり告白するならば、私たちの大祭司は行動を起してくださるのです。アーメン。

 イエス様は、「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」と言われました。私たちは信仰を一度持ったならば、恐れと疑いに勝利しなければなりません。別な言い方をするなら、ずっと信仰のことばを告白し続けなければならないということです。私たちは自然の領域で恐れを感じることがあるでしょう。もっと病気がひどくなるんじゃないかとか、借金が増えて破産してしまうんじゃないかという思いがくるかもしれません。しかし、それでも、恐れを告白すべきではありません。なぜなら、恐れは神から来るものではないからです。私たちの内には聖霊様がおられます。聖霊は恐れの霊ではありません。Ⅱテモテ1:7に「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」と書いてあります。では、恐れはどこから来るのでしょうか。それは、外側から来て、あなたを捕らえようとするものです。それは、敵である悪魔から来るものです。ですから、私たちは恐れを告白すべきではありません。むしろ私たちは、力と愛と慎みとを告白をすべきであります。それと同じことが疑いについても当てはまります。「疑いを認めるな」と言うわけではありません。たとえ、疑いがやって来ても、それを口に出して言ってはいけないのです。なぜなら、疑いは悪魔から来るからです。疑いはクリスチャンに属するものではないので、私たちは疑いを話題にすべきではありません。ある人たちは、自分に正直になることが大切だと主張します。だからと言って、疑いがやってきたから疑いを言って良いわけではないのです。私たちは疑いを抱くように誘惑されたとしても、悪魔に抵抗することによって、悪魔を敗走させることができるのです。ですから、疑いを告白しないようにしましょう。信仰を告白しましょう。

ヤコブの手紙3章に舌のことが書いてあります。「舌は馬のくつわのようであり、からだ全体を引き回すことができます。舌は火であり、小さい火でも大きい森を燃やします。舌は私たちの器官の1つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼きます」とあります。私たちはこの舌を良いことに用いるなら、すばらしいことが起こります。逆に、悪いことに用いるなら、破壊的なことが起こるでしょう。説教を聞いて、聖書を読んで信仰がやってきました。その後、信仰のことばを告白すれば良いのですが、「やっぱ現実は厳しいからなー」と言ったりします。あるいは、聖書のみことばから「キリストの御霊によって私は癒された」と信仰を持つことができました。でもその後、友人から「あなたの病気はどうですか」と聞かれます。すると思わず「なかなか治らないですね」と答えます。ということは、あなたの舌が、神からいただいた信仰をキャンセルしてしまったということです。先日、年配の方々が自転車を乗りながら、ことばを交わしていたのが耳に入りました。一人の人が「もう、年だから、どこかかしか悪くなるよねー」と言ったら、もう一人の人も「本当にそうだよね。俺も○○だ」と答えていました。ひょっとしたら、自分が持っている病気の自慢大会が続いたのかもしれません。「俺は血圧が高くて薬飲んでんだ」と言うと、「俺は肝臓が悪くて医者通いだよ、もう先長くないよ」。「私は手足の関節が痛くて」と言うと、「私なんか椎間板ヘルニヤだよ、いつか歩けなくなるよ」なんて答える。ある人は「もう年だから、病気の1つや2つ当たり前だね。一病息災というけど、なんか病気があるから、体を大事にするんだよね」と、病気を肯定したりします。ヤコブは、「舌は体で最も小さな器官であるが、体全体を引き回すことができる」と言いました。あなたが「自分は年だから」と言うなら、言語中枢が「体全身よ、全力をもって老化を進めよ」と命令するでしょう。もし、「最近、物忘れがひどくて、ボケが始まったのかな」と言ったとします。すると、言語中枢が「頭脳よ、さらに物を忘れ、ボケになるように」と命令するでしょう。どうぞ、体の感覚や世の中の常識に左右されないようにしましょう。私たちは聖書のことばをもって、自分に言い聞かせ、信仰を与えるようにすべきです。イザヤ書40:31「 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。アーメン。「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命記34:7)とあります。「老眼だ、老眼だ」と言っていれば、ますます老眼になります。「私はモーセのように、目はかすまず、気力も衰えない。アーメン」と告白すればそうなると信じます。どうぞ、聖書を読んで、神のみことばと同じことを告白しましょう。そして、神のことばと反するようなことばを一切、口から出さないようにしましょう。もう一度、繰り返します。「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じましょう。「あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」アーメン。