去る8月4日、当教会の役員であり、また日曜学校の校長先生であられた松浦孝行兄が天に召されました。先週はお葬儀が当教会でありました。日曜学校の子どもたちとKGCが賛美をしてくださり、大変恵まれました。1つ感じたのは、遺影と申しましょうか、お写真のことです。今回はキリスト教の葬儀屋さんでしたが、お写真が49,000円もしました。小さな写真から拡大するために結構ぼやけてしまいます。それで、その額です。私からの提案ですが、そこの立花写真館で写真をあらかじめ撮っておかれたら良いです。おそらく、その3分の1の値段でかっこよくできるのではないかと思います。私も真面目に撮っておこうと思いました。10年ごとに1回撮っておけば、いざという時に使えるでしょう。多少若くてもだれも文句を言いません。今週は、お盆で、故郷に帰省された兄姉もたくさんおられると思います。逆に、こちらの方にお帰りになる方もおられるかもしれませんね。歓迎いたします。
1.山の下の出来事
イエス様と弟子たちとの関係から見ていきたいと思います。先週学びましたが、3人の弟子たちは山の上で、天にも昇るような経験をしました。なぜなら、栄光に輝いたイエス様とエリヤとモーセに会ったからです。さらには、天の神様の声をじかに聞く事ができました。ところが、山を降りたら、とんでもない出来事が待っていました。9人の弟子たちが「悪霊も追い出すことができないのか」と人々からやりこめられていたのです。イエス様はがっかりしてこのように言いました。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」わぁ、寛容なイエス様のお言葉とは思えません。なぜでしょう?イエス様は山から下りて、エルサレムに向かおうと決意を固めました。「ああ、十字架にかかる日がせまっているのに、こんな弟子たちに後を任せて、天に帰っても良いだろうか」と思っていたに違いありません。人間的な表現で申し訳ありませんが、あせりと言いましょうか、いらだちと言いましょうか、そういうものを感じておられたのではないでしょうか。でも、イエス様はすばらしい教師であります。おそらく、超自然的に弟子たちがこうなることは知っておられたのに違いありません。「弟子たちに悪霊追い出しを経験させてみよう。そして、失敗したなら、失敗から学ばせてみよう」と考えていたに違いありません。イエス様は、神学校のように頭にいっぺんに知識をつめこむのではなく、体験を通して教える方法をとっていたと思われます。
マルコ9:28,29、イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」それでは、弟子たちは祈る代わりに、何をしていたのでしょうか?14節以降を見てわかりますが、弟子たちは律法学者たちと議論していたようです。祈らないで、議論していたのであります。ある人が言いました。韓国の教会は祈る教会。台湾の教会は賛美する教会。日本の教会は議論する教会。まさしく、そうかもしれません。悪魔は人間よりもはるかに賢いので、人間が議論して勝てる相手ではありません。悪魔が一番、怖いのは祈りであります。教会では総会とか役員会をしますが、議論をするよりも、共に祈った方がはるかに効果的なのです。では、イエス様はどのように悪霊を追い出されたのでしょうか?まず、イエス様は山の上で父なる神様とお会いし、御声を聞きました。「これは私の愛する子だ」と、ご承認を受けました。イエス様は山の上でお祈りをし、聖霊にも満たされていたのではないかと思います。その後、山から降りてきて問題に遭遇しました。それでは、イエス様は悪霊を追い出すとき、祈っているでしょうか?「父なる神様、悪霊が出て行きますように助けてください」と祈っているでしょうか?25節、イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」イエス様は、ちっとも祈っていません。悪霊をしかりつけながら「この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と命じています。本当にすごいですね。神としての権威を感じます。
では、私たちが悪霊を追い出すときは、どうしたら良いのでしょうか。「私が、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と言って、悪霊が出て行くでしょうか?悪霊が「お前は何様だ?」と逆に襲い掛かって来るかもしれません。イエス様は「この種のものは、祈りによらなければダメだ」と言われました。では、悪霊を追い出すための祈りとはどういうものでしょう?「私」では権威がありません。「イエスの御名によって、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と、言えば良いのです。私ではなく、イエス様の御名の権威を用いれば良いのです。これが、悪霊を追い出すときの祈りではないでしょうか?でも、29節は、「祈りと断食によらなければ」という写本もあるようです。断食は辛いので、できれば避けたいですね。安海先生が、インドネシアで活躍しておられた頃、しょっちゅう断食させられたそうです。「こんど、あの部族の祈祷師と対決しなければならないので、先生、お願いします」と頼まれる。あるいは、「あの悪霊を追い出してください」と頼まれる。すると、先生は断食して、祈りに行くわけです。もちろん、断食が必要な時もあるでしょう。でも、ここで学ぶべきことは、イエス様の御名の権威を用いて、祈るということです。正確には、祈りというよりも、イエス様の権威を行使するということです。マタイ28:18「私は天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って・・・」と書かれています。私たちに権威があるのではありません。イエス様に権威があるのです。そして、私たちクリスチャン、つまりキリストに属する者は、イエス様の権威を用いて良いと許可されているのです。
私は丸屋先生から牧会カウンセリングを学んでいます。4月からすでに、5回も学んでいるのですが、先生の立場が良く分かりました。一般恩寵である医学や薬の力をとても大事にしておられます。でも、悪霊の影響とか、特別恩寵についてはほとんど語りません。先生はアメリカで18年も学ばれた臨床心理学博士です。確かに、すばらしい臨床心理学者かもしれませんが、やはり欧米のキリスト教の影響を受けていらっしゃいます。でも、私が不得意な「学問的な立場」というものを知るために、1年間くらいは通おうと思っています。聖書は悪霊のことがひんぱんに出てきます。今日は悪霊がいないのでしょうか?イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆かれました。「世」といういのは「時代」という意味であります。創造から世の終りにイエス様が来られて御国を完成するまでの「時代」であります。現代は、悪霊は本体を隠しながら、もっと巧妙に働いているのではないかと思います。心療内科はいろんな病名を付けることができても、直すのは別問題なのであります。医者は、この少年の病名は、てんかんを持った聾唖者だと言うかもしれません。もちろん、なんでも悪霊のせいにしてはいけません。でも、人間の罪や傷は、悪霊に対して付け込む隙を与えます。心の病が癒される方法は、もっとシンプルではないかと思います。まず、神の前で罪を悔い改めます。赦すべき人を赦します。そして、神様の愛によって、心の傷が癒されるように祈ります。その後、イエスの御名によって、悪霊に対して「この人から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と祈れば良いのです。現代は、科学や学問は発達しているかもしれませんが、「不信仰な時代」に変わりありません。私たちはイエスの御名というもっとも切れ味の良い剣を持っているのです。剣をさやにおさめて床の間に飾ってはいけません。良く管理していないと、錆びてしまい、いざというときに抜けないかもしれません。どうぞ、剣をいつも身に帯びて、悪霊をけちらして行きましょう。あなたにはイエスの御名の権威があたえられているのです。もし、なかったなら、今、この場で所持しましょう。「イエスの御名の権威をゲットします」アーメン。
2.不信仰から信仰へ(イエス様と父親との関係)
31節以降をお読みします。「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです」。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」イエス様は神なので、すべてのことが超自然的に分かっていたはずです。しかし、イエス様は父親に子どもの状況を尋ねているのは何故でしょうか。ひきこもりの治療で有名な服部氏は、カウンセリングの基本は、状況を聞く事だと言います。状況とか自分の感情を告げているうちに、当人自身が分かってくるとのことです。この父親は子どもが小さい時から悪霊によって滅ぼされそうになるのを幾度も見てきたのです。ですから、悪霊の脅威、悪霊の力を十分に知っていました。それでイエス様の弟子たちにもお願いしましたが、できませんでした。ですから、この父親は「悪霊は手ごわいぞ」という信仰ができていたに違いありません。それに対して、「イエス様はどうなんだろう。どれほどの力があるのだろうか?」この父親は、イエス様に対する信仰はあまりありませんでした。だから、イエス様に「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」これが彼の本音でありました。英語の聖書は、If you can do.であります。「もし、できるなら」とは、やはり不信仰な頼み方であります。この父親は、イエス様と話しているうちに、「自分には信仰がないことが分かったのです」。
それで、イエス様はどうされたでしょうか。するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」24節、するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」イエス様は、すばらしいカウンセラー、信仰の導き手であります。この父親は、自分の不信仰を悔い改め、「信じます。不信仰な私をお助けください」と願いました。イエス様は、この父親に信仰を持ってもらいたかったのであります。それでも、彼の信仰はまだ十分とはいえません。日本語の聖書は、「不信仰な私」となっていますが、これだと信仰がないということになります。クリスチャンは自分を「不信仰な私」と謙遜してはいけません。原文から、「私の不信仰をお助けください」という訳がより正しいのではないかと思います。イギリスの聖書NEBは「信仰の足りないところを助けてください」となっています。つまり、この父親の信仰は本来100であるべきなのに、65くらいしかないのです。「あと35は、イエス様、あなたが足してください」という意味ではないかと思います。私たちは肉体を持っていますので、信じると言いながらも、どこかに疑いがあります。では、この信仰が完全になるまで待たなければならないのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちの信仰が不十分であっても、「信じます」と神様の前に出るのです。そして、イエス様に、「私の足りない信仰の部分を満たしてください」と願えば良いのです。私たちの信仰は不十分であっても、イエス様の信仰は完全です。ハレルヤ!足りない分は、イエス様が下さるのです。ですから、たとい、信仰が弱くても、多少疑いが混じっていても、主に叫び求めましょう。なぜなら、恵み深いイエス様がご自分の信仰によって、解決してくださるからです。
中嶋先生が癒しのときに、良く言われます。中には「癒されるなんて信じられない」という人がいます。すると中嶋先生は、「あなたに信仰がなければ、私の信仰でやりますので、安心してください」と言います。教会では、「あなたに信仰がなかったから、癒されなかったんだ」と言うときがあります。そうすると、癒されなかった人は、もう1つの傷を負って帰ることになります。ですから、信仰があるとかないとかというプレッシャーを与えてはいけません。「本人に信仰がなければ、癒し手の信仰によって祈ります。癒し手になければ、イエス様の信仰によって祈ります」。これで良いのではないかと思います。信仰の祈りと言えば、マルコ11:22はあまりにも有名です。11:22,23 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。この「神を信じなさい」は原文では、「神の信仰を持ちなさい」であります。私たちは元来、神の信仰がないのです。「信じます」と言いながらも、疑ったり、恐れたりします。だからこそ、神の信仰が必要なのです。私たちが、神の信仰をいただいて、祈り求めるときに奇跡が起こるのです。でも、私たちにとっては奇跡かもしれませんが、神様にとっては奇跡ではありません。神様にとっては普通のことなのです。私たちのこざかしい理性が自然と超自然を分けてしまったのです。私たちはこの父親のことを笑えません。私たちも疑いやすいものであり、完全な信仰を持ち合わせていません。でも、イエス様には完全な信仰があるのです。このように考えると、信仰生活って結構、楽だなーと思います。なぜなら、信仰、信仰と力まなくて良いからです。イエス様の信仰をいただいて、やれば良いからです。私たちの信仰は不完全ですが、イエス様の信仰は完全です。ハレルヤ!愛も同じです。自分の愛でなんとかしようとするからダメなのです。神様から愛をいただいて、愛すれば良いのです。神様の愛は太平洋の水よりも豊かなので、汲んでも、汲んでも枯れないのです。
コンテンポラリー・イングリッシュ・ヴァージョンという聖書があります。昔、当教会の英会話スクールのテキストで使用されていた聖書です。これも、マルコ11章の「神の信仰を持ちなさい」と同じ考え方をしています。23節のイエス様の言葉。「なぜ、あなたは『もしできるなら』と言うのか。信仰を持つ者には、どんなことでも可能なのです。」24節の父親の言葉です。「私は信仰を持ちます。どうぞ、もっと持てるように助けてください」。前半は、悪霊を追い出すときの祈りは、イエスの御名を用いて祈ることだとメッセージしました。そして、後半は、イエス様から、神様の信仰をもらうように祈ることだと言いたいと思います。みなさん、私たちは生まれつきの信仰、つまり一般的な信仰はだれでもあります。みなさんは、今日の朝10時半から礼拝があると信じてここにやって来ました。私たちは明日も太陽が東から昇ることを信じています。飛行機や電車に乗るときも「安全だ!」と信じて乗ります。レストランで何かを食べるときも、「毒が入っていない」と信じていただきます。でも、みなさんそういう信仰はこの世において、体験的に得た信仰であります。私たちがもっと必用な信仰は、神様の信仰です。残念ながら、私たちには神の信仰がないのです。クリスチャンになって、ある程度は持っているかもしれませんが、いざというときに足りないのです。それではどうしたら良いか。この父親のように。「信仰を持ちます。どうぞ、もっと持てるように助けてください」と願えば良いのです。
しかし、悪魔は弱い者いじめをします。この子が、何をしたというのでしょうか?悪魔はこの子を滅ぼそうと「何度も火の中や水の中に投げ込んだ」ということです。おそらく子ども自身が偶像礼拝をしたとか、霊的な罪を犯したということではないでしょう。何故か?私はその子どもに可能性があったからではないかと思います。「この子が大きくなったら、神様の栄光を現すか、神様のしもべになるかもしれない。だから、今のうち滅ぼすんだ」と考えたのではないでしょうか?みなさんの中にも病気や悪霊に悩まされてきた人はいないでしょうか?それは、悪霊が将来、神に用いられるであろうあなたを恐れているからです。「火の中や水の中に投げ込んだ」というところからイザヤ書43章のみことばを思い出しました。43章の1節以降、引用して終えたいと思います。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」ハレルヤ!力ある神様により頼みましょう。信仰とは、力ある神様により頼むことであります。高校野球がたけなわですが、多くの選手は、胸のところを握ってバットを構えます。このように胸を一度、握ってから、バットを構えるのです。おそらく、ユニホームの中にはお守りがあるんじゃないでしょうか?日本人は理性や科学を信じながらも、やっぱり何かにすがりたいのです。でも、お守りぐらいじゃダメなんです。「あなたの神は小さすぎる」と言いたいです。私たちは、この天地を創り、私たちの名を呼び、私たちを愛しておられる大能の神様を信じなければなりません。イエス様は贖い主ですが、同時に、どのようにしたら神の信仰を持てるのか教えてくださいました。答えは簡単です。その信仰を神様からいただけば良いのです。イエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言われました。お祈りいたしましょう。