私たちは、時々「かけがえのない命」という言葉を耳にします。これは、命は唯一のものであって、予備のもの、かわりになるものがないという意味です。しかし、命を聖書的に考えるならば、命には2種類あります。1つは、地上の命であります。詩篇90:10「私たちの齢は70年、健やかであっても80年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と書いてあります。私たちの人生は、朝は花を咲かせていても、夕べにはしおれて枯れる花のようであります。地上の命というものは、本当にはかないものであります。もう1つ聖書には、永遠の命が記されています。これは、イエス・キリストによって与えられる「救い」であります。父なる神様は私たちのために天国に永遠の住まいを用意して下さっています。私は、こういうお話は、告別式のときは、必ず話すようにしています。しかし、きょうは、告別式ではなく、日曜日の礼拝でありますので、地獄の話もしたいと思います。
1.天国のかけがえなさ
43節から見て行きますと、人は死後、2箇所のいずれかに行く事が書かれています。1つはゲヘナであり、もう1つはいのちあるいは神の国であります。「いのち」とはゾーエーですから、永遠の命という意味です。また、「神の国」とはいわゆる「天国」であります。では、ゲヘナとはどういう意味でしょうか?ゲヘナのもとの言葉は、「ベン・ヒノムの谷」です。旧約時代にユダヤ人たちがこの谷に祭壇を築き、異教の神々に、息子や娘を火で焼いて人身御供を捧げました。しかし、ヨシアの時代にこの祭壇がこわされ、今度は、町の汚物や動物、罪人(ざいにん)の死体を焼却するようになりました。やがて、この谷ゲヘナは、神の審判の場所である地獄を意味するようになりました。ですから、英語の聖書では、ゲヘナをhell「地獄」と言い換えています。きょうは地獄の話をしなければなりません。語りたくなくても、あるいは聞きたくなくても、私たちは順番に聖書を学んでいますので飛ばす訳には行きません。地獄のメッセージは、49節と50節にありますように、信仰における塩気であります。ケーキのように甘い恵みばかりをいただいていますと、太ってしまいます。たまには、ピリッとしたものも必用なのであります。大人になると、苦いものや辛いものが欲しくなるのです。地獄のテーマほど、辛口なものはありません。
イエス様は「何としてでも地獄を避け、永遠の命を得よ!天国に入れ!」と教えておられます。私たちに罪を犯させ地獄へといざなうものにはどのようなものがあるでしょう。43節「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」手は、罪を犯させる道具になります。私たちはこの手でたくさんの罪を具体的に犯すです。人を殴ったり、盗みをしたり、痴漢をするのも手であります。「そんな手だったら、切り捨てよ、両手そろって地獄へ落ちるよりはましだ」というのです。その次は、足です。45節「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」足とは、罪あるところに人を向かわせるものです。私たちはこの足で歓楽街とか、ギャンブル、行ってはならない場所へ行くでしょう。「そんな足なら切り捨てよ、両足そろって地獄へ落ちるよりはましだ」と言うのです。三番目は目です。47節「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」「目」は罪の誘惑の入り口であります。大体、この目から入ったものが、心に入って欲望が膨らみます。男性は異性に弱いですね。先週、子どもを連れて稲毛の海浜プールに行きました。どうしても若い娘のビキニ姿が目に入ります。幸い私は近眼なので、良かったなーと思いました。しかし、回るプールに子どもと入りましたが、目の前に来ると近眼でも見えます。ま、守られて帰ってきました。女性の場合「目」は、むさぼりや嫉妬心と関係があります。バッグとか靴、宝石、「ああ欲しいなー」と思うでしょう。もし、目が罪を犯させるなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていて地獄に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。
そして、48節「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」。聖書を良く見ますと、44節と46節が欠如しています。しかし、ある写本はこの48節のことばが、44節と46節に繰り返して書かれているとのことです。おそらく、「ベン・ヒノムの谷」を見た人たちの感想でしょう。動物や人の死体にはうじがおり、そばには火が燃えているのでしょう。地獄は「永遠の火」とも言われていますので、焼却炉の火のように火が燃えて尽きる事がないのです。メアリー・バクスターという女性が、『天国と地獄』という本を書いています。私はこういう本はうさんくさそうなので買って読むことはしません。でも、ホームページに、いくつかの抜粋が載っていたので、紹介させていただきます。『地獄にいた女性』の項目。最初の穴の中央から泣き声が聞こえました。骸骨(がいこつ)の形の中に一人のたましいがいて、「イエス様、あわれんでください!」と叫んでいるのが見えました。「ああ、主よ!」と、私は言いました。それはひとりの女性の声でした。私は彼女を見て、その火から彼女を引き出してあげたい、と思いました。彼女を見て、私は心が激しく痛みました。イエス様に話しかけたのは骸骨の形をした女性で、内側はきたない灰色の霧でした。ショックを受けながらも私は彼女の言うことに耳を傾けていました。腐った肉の切れっぱしが彼女の骨にぶら下がっていて、それが焼けると穴の底にはがれ落ちました。彼女の目があったところは、今はただ空っぽの穴になっていました。髪の毛はありませんでした。火は彼女の足元で小さな炎で始まり、上に達して彼女の体をおおうにつれて、大きくなりました。炎がほんの燃えさしである時も、彼女は絶えず焼かれているように見えました。彼女の内側の奥深いところから、絶望の泣き声とうめき声が聞こえて来ました。「主よ、主よ、私はここから出たいのです!」彼女はイエス様のほうに手を伸ばしたままでした。私はイエス様を見ました。イエス様の顔に大きな悲しみが現われていました。イエス様は私に言われました。「我が子よ、あなたが私と一緒にここにいるのは、罪の結果が死となることと、地獄が現実にあることとを、世界に知らせるためなのです」私がもう一度その女性を見ると、虫が何匹も、彼女の骸骨の骨から、うようよはい出ていました。それらの虫は火で焼かれてはいませんでした。イエス様は言われました。「彼女はあれらの虫が中にいることを知っており、また感じています」「神様、あわれんであげてください!」私が叫んだ時、火はそのピークに達し、また火があたり一面に激しく燃え始めました。激しい泣き声と深いすすり泣きとで、この女性のたましいの形が揺れ動きました。『地獄にいた男性』という項目もありましたが、その男性は、イエス様にこのようにお願いしています。「主よ、何人か私の知り合いがここに来るはずです。彼らも悔い改めることはないでしょうから。お願いです。主よ、私を彼らのところに送って、まだ地上にいる間に自分の罪を悔い改めなければいけない、と話させてください。私は彼らがここに来てほしくないんです。」
私はメアリー・バクスターという女性が地獄を本当に見たのかどうか分かりません。しかし、聖書に地獄はあると明記されています。しかも、彼女が記していることとは、あまり矛盾していないようです。私は家内にも言いました。地獄が本当にあるなら、ゆうちょなことをしていて良いのだろうか!お父さんやお母さん、友人のところに行って、襟首を捕まえてでも「イエス様を信じてください。さもないと、死後、地獄に行ってしまうんですよ」と説得すべきじゃないだろうか。DL.ムーディというアメリカの大伝道者は、「もし、いっぺんでも地獄を見たなら、火の玉のようになって伝道するだろう」と言いました。ということは、私たちクリスチャンの多くは、「地獄」を単なる脅しくらいにしか思っていないのでしょうか?私は信じた頃は、「信じる者は天国、信じない者は地獄なんだ」と、燃えて伝道しました。しかし、それでは人から馬鹿にされるので、今度は上品になり過ぎたようです。天国の話はしますが、地獄の話はあまりしません。今のこの時も、大勢の人たちが、永遠の滅びに向かっています。昨年、大阪の原祐二という牧師が私たちにこうチャレンジしました。「日本では、1年間に約90万人が死んでいる。1ヶ月だと約7万5千人、1日に約2500人死んでいる。日本のクリスチャン人口は微々たるものである。地獄の前に行列ができていることを想像したらどうだろうか。1日に2500人の日本人がそこに並んでいるとしたら、どうだろうか。」正直、言って、私は「がんばらなくちゃ!」とは思いませんでした。それよりも、「日本は仕方がない、しょうがない」と諦めがありました。牧師自身がこうだから、あまり救われないのだと思います。私たちはもっと、日本の滅び行く魂に対して、愛と情熱を持つべきではないでしょうか。神様に「天国だけではなく、地獄も一目でも見させてください」と祈るべきではないでしょうか。
2.天国と地獄の神学的な意味
私が当教会に赴任して間もない頃ですが、役員会で「地獄は本当にあるか」という話題になりました。「地獄はないと思う人?」と聞きましたら、2人が手をあげました。私は「教会の役員さんが、地獄を信じてないの?」と唖然としました。そのとき、山崎長老さんが「聖書に書いてあるから、私はあると思う」と言われました。私は「さすがだなー」と思いました。山崎さんは、何とか一人でも救われるようにと、数え切れない人を集会に誘ってきました。別の機会に、手をあげた一人に「どうして地獄はないと思うのですか?」とお聞きしました。その人は「愛なる神様が、地獄を作るわけがありません」と答えました。役員さんではありませんでしたが、「神様は、最後にはみんな救ってくださるに違いない」と答えた人もいました。テレビ伝道をしておられる、中川先生がこのようにおっしゃっていました。「イエス様を信じなくても、だれでも天国に行けるなら、天国はこの地上と変わらなくなる」と。ところで、「愛なる神様がなぜ、地獄を作ったのか?」という問にどう答えたら良いのでしょう。確かに神様は愛であられます。しかし、聖書を良くみますと、神様は愛であられると同時に義なるお方です。義というのは全く正しいという意味です。もし、神様が「どんなに罪を犯した人でも良いよ、赦すよ」と言ったら、その神様は神様でなくなるでしょう。なぜなら、神ご自身の義が成り立たなくなるからです。義なる神は、一片の罪をも赦さず、裁かなければなりません。しかし、同時に神様は愛なので、罪人を赦したいのです。滅びに行ってもらいたくないのです。神様は、どのようにして相反する考えを解決されたのでしょうか?それはイエス・キリストの十字架においてです。神様はキリストに全人類の罪をかぶせて、キリストを代わりに罰しました。それによって、ご自身の義が満足されたのです。しかし、キリストは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と神から捨てられ、地獄を体験しました。神は、そのキリストを三日目によみがえらされ、復活の初穂とされました。それ以来、愛なる神は、キリストを信じる者がひとりも滅びないように、救いの道を与えられたのです。新約聖書とは、新しい契約という意味ですが、人は行いではなく、信仰によって、恵みによって御国に入ることができるのです。
では、地獄とはどうして存在するのでしょうか?黙示録を見て分かりますが、本来、地獄とは悪魔とその手下のために作られたものです。でも、みなさん、人間は神のかたちに似せて作られたので、魂が永遠に生きるようになっています。この魂を滅ぼすためには、永遠の火でなければならないのです。人類の先祖、アダムが罪を犯したために、その子孫である私たちは地獄に行くことが定まっていました。私たちは裁かれて地獄へ行っても文句が言えなかったのです。しかし、神様は救いの道を備え、御子イエスを信じる者は義とされ、裁きが免除されるようにしてくれたのです。人が天国に行けるということは、特権であり滅多にない事なのであります。皆さん、私たちはイエス様を信じたら「救われる」と言います。では、一体、何から救われたのでしょうか。それは永遠の滅びから救われたのです。だから、嬉しいのです。信じても信じなくても、救われて、天国に行けるとしたら、そんなに喜ぶ必用はありません。ある人が言いました。人間は死刑を待つ、死刑囚と似ている。「きょうは生きられたが、もしかしたら明日、刑を執行されるかもしれない」とびくびくして生きている存在。そして、人が、救われるとは、死刑囚が無罪放免になることだ。「あなたの罪は赦された。無罪放免、ここから出て良い」ということなのです。このことを言っている箇所は、ローマ3:23-24です。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
戦時中のことですが、リトアニアに杉原千畝という人いました。彼はリトアニアの領事館の大使でしたが、ある日からポーランドにいるユダヤ人たちがどっと押し寄せてきました。ナチスによるユダヤ人狩りが迫っており、「日本通過のビザを発行してくれ」とのことでした。杉原氏は日本の外務省に何度も許可を求めましたが、「ドイツに逆らってはならない、否」でした。まもなく、ソ連と日本から退去命令が出ました。それでも、杉原氏は自分の良心で、ビザを発行しました。朝から夕方まで、昼食も取らず、手書きでビザを書くものですから、疲労困憊です。1ヶ月くらい頑張ったのでしょうか?もう、退去しないと国から出られなくなります。列車の窓からも、ビザに代わる許可証を発行しました。列車が走り出して、もう書く事ができません。ホームに立つユダヤ人は深々と頭を下げました。そして、だれから「バンザイ、ニッポン」と叫ぶと、みんなが、同じように叫び、手を振りました。杉原氏が書いたビザは6000であります。このビザを持っている人たちはソ連と日本を通過して、第三国に逃れることができました。しかし、他の人たちはアウシュビッツ送りです。ビザが命の分かれ目になったのです。これは、イエス・キリストを信じることによって与えられる、天国の行きのビザとよく似ています。一般に、他の国に入るためにはビザが必用です。旅行など、短期間の場合は免除される国もありますが、長く滞在する場合はビザや永住権が必要であります。天国も同じであり、ビザなしでは入ることができません。でも、恵み深い神様はそのビザを「あなたのために喜んで発行します」とおっしゃっているのです。そのみことばが、ヨハネ3:16、聖書で最も有名な言葉です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ですから、信仰というビザが必用なのです。ヨハネ黙示録20:14-15にもそのことが書いてあります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
もう、何年も前になりますが、仙台のある宣教団体がキリスト教のチラシを配りに来たことがあります。車から「キリストを信じなさい」と、ラウドスピーカーで叫ぶ団体であり、私はあまり好きじゃありませんでした。当教会の板橋姉妹が伊勢家かどこかでうどんを食べていたそうです。そこへお店のお孫さんでしょうか、1枚のチラシをもって家族に話しかけていました。「おばあちゃん、どうしたら天国に行けるか、知ってる?」。「それりゃー、良いことをたくさんしなければならないでしょう」。「ちがうよ、おばあちゃん。ここに、信じれば天国に行けると書いてあるよ」と答えたそうです。近くで聞いていた、板橋姉妹は嬉しくて、もっと説明したくなったそうです。そうなんです。私たちは行いではなく、信仰によって天国に入ることができるのです。あるところに、正直なお寺の住職さんがいたそうです。ある人が「どれだけ良いことをすれば、極楽に行けるのですか?」と聞きました。住職さんは、「そうだなー、そりゃー死んで見なけりゃ、分からないなー」と答えたそうです。みなさん、死んでからでは遅すぎるのです。生命保険と同じように、生きているうちに契約をしなければならないのです。神様との契約です。私が福音書において最も感動する物語はこれです。ルカ23章の犯罪人です。イエス様はお一人で十字架にかかられたのではなく、右と左に、犯罪人が十字架に付けられていました。片方の犯罪人が、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言いました。すると、もう片方の犯罪人は彼をたしなめて「お前は神をも恐れないのか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。さらに彼は「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言いました。英語の聖書では、”Jesus remember me”であります。彼は十字架に付けられていますので、聖書を読むこともできません。もちろん、手足が釘付けされていますので、何か良いこともすることができません。彼はまもなく死ぬのです。でも、その直前、「イエス様、私を思い出してください」と願いました。イエス様は何と答えたでしょうか?「何をいまさら、手遅れだよ」と答えたでしょうか。いいえ、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」と言われました。みなさん、これが福音です。地獄へ行ってから「私を思い出してください」では遅すぎます。今、息をしているうちに、イエス様を救い主として受け入れ、神様と契約を結びましょう。はっきり言いますが、人は死んでから天国に入るのではありません。生きているうちに、天国に入るのです。そして、クリスチャンは、この世の命と、神からの永遠の命の両方を持って生きるのです。やがて、この世の命は尽きるでしょう、でも、安心してください。神からの永遠の命は肉体の死に左右されません。魂はパラダイスに引き上げられ、死んだ肉体は復活を待つのです。世の終り、イエス様が再び地上に来られるでしょう。そのとき、私たちの朽ちた肉体がよみがえり、新しい天と地に永遠に住まうのです。
さきほど、ビザの話をしたしましたが、ビザを発行するところは大使館であります。では、天国のビザを発行するところはどこでしょうか?それは、キリストの教会であります。そして、発行する権限をもった全権大使とは、私たちクリスチャンであります。私だけではなく、あなたも、あなたも、天国行きのビザを杉原千畝のように書く事ができるのです。本来なら、教会の入口に、ビザを求める黒山の人だかりができて良いのです。