イエス様は福音書において、数々の癒しや奇跡を行われた。多くの場合、一瞬にしてみわざが起こるが、ここだけは、序々に癒されている。もしろん、他でもそのようなことがあったかもしれないが、この箇所で、イエス様は「癒し」について教えておられるのではないかと思う。
1.奇跡と癒し
Ⅰコリント12章に御霊の賜物が記されている。その中に、「いやしの賜物」と「奇跡を行う力」がある。奇跡は「力あるわざ」とも言われているが、病の癒しも奇跡的に癒される場合がある。奇跡と癒しの違いをあえて言うならば、奇跡は瞬間的、癒しは漸進的(だんだんと良くなる)。イエス様は両方の賜物で病を癒されたのではないかと思う。25節「すっかり直り」は、「回復させられた」が正しい。つまり、この人の場合は、だんだんと回復したので、むしろ癒しではないか。私は、癒しの賜物にはいくつかの段階があると思う。第一ステージはマルコ16章「信じる人々には次のようなしるしが伴います。・・・病人に手を置けば病人はいやされます」。すべてのクリスチャンはある程度の癒しができる。背骨の矯正、腰のゆがみくらいはだれでもできる。第二ステージは、創造の癒し。片方の足が5センチくらい短い、それが伸びる場合。眼球のない人の目が新たに創られる。歯のない人の歯が生える。つまり、第二ステージは「奇跡」とも言うことができます。しかも、第二ステージの場合は、いつでもできるというのでなく、特別な聖霊の介入が必要。中嶋先生は、「私はあんまり区別していない。だんだんやっていくうちにパワーアップしてきました」と言われた。タラントのたとえ、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです」(マタイ25:29)。
2.何度も祈るべき
イエス様ですら、直すために2度も祈られた。だったら、私たちは何度も祈るべきではないか。Ⅱ列王記13章、ヨアシュが矢を3回放ってやめた。エリシャは「あなたは、5回、6回打つべきだった」。何度も祈ることは不信仰なことではない。むしろ、癒しが染み込んで行くsoaking prayer。エリヤハウスに通っているとき、講師のエッガー夫人は、非常に姿勢が悪かった(猫背)。背骨と骨盤の癒しをした。その後、先生は「目が白内障のため良く見えない」と訴えた。何回か、手を当てて祈ったら「かなり良く見えるようになった」とおっしゃっていた。私たちは奇跡を期待して、瞬時に結果が出ないと諦めてしまう。だが、癒しの場合は、「癒しが染み込んで、だんだん良くなっていくんだ」というイメージをもって行う。真光とか、新興宗教の方々が手を当てて祈っているが、本来はイエス様がなさっておられたこと。私の下の子どもは、喘息気味、歯並びも悪いので、毎晩のように祈っている。まず、身近な人からやってみる。癒しが染み込んでいるというイメージを持つ。
3.途中で様子を尋ねてみる
「何か見えるか」と、途中でたずねるのは勇気のいること。もし、「何も」と言われたらショック。この人は「人が、木のようですが、歩いて見えます」と正直に答えた。見えていないのに、「信仰によって見えたと信じます」と無理して言うことはない。癒されていれば、何か変化があるのは当然だから、それを繰り返す。何年か前、アメリカからメルボンド師が来られた。聾唖者が前に出てきて、先生が祈られた。「何か聞こえますか?」「・・・」。また祈った。「何か聞こえますか?」「・・・」。3回か4回やっても効果なし。私は海外でこういうことが起こっているので、よっぽど自信があると思った。そして、諦めない真摯な態度に感銘した。中嶋先生は、様子を聞いてから、再び祈る。お医者も、患者さんの状態を聞いて処方する。私はそうしていくうちに、祈られる人も癒しに対する信仰が増すのではと思う。25「見つめていると」は、原文では「しっかりと見ていると」、見ようという意思がある。見ているうちに、だんだん見えてきた。
4.いろいろな方法で祈る
23節「つばきをつけ」は原文では「目につばきをして」ということ。「ぺっ」と目に唾をかけた。きたないと思うかもしれないが、ヨハネ11章では、つばきで泥をこさえて、目に塗られた。あるときはことばで、あるときは手を当てて、またあるときは何かを用いる。私たちも聖霊に導かれたら色んな方法で祈ってよい。ただし、異性の場合は注意しないとセクハラに間違えられる。ヤコブ5章には「主の御名によって、オリーブ油を塗ってもらいなさい」と書いてある。しかし、いつでもオリーブ油を塗れば良いというのではない。魔法になったり、パターン化してはいけない。イエス様はあるときは、祈らないで「祭司に見せなさい」「家に帰りなさい」と言われたこともある。エリシャはナアマン大将の顔も見ないで「ヨルダン川で七回からだを洗え」と言った。ナアマン大将はエリシャが、主の名を呼んで、患部の上に手を当てて直してくれると思っていた。
5.教祖(カリスマ)にならない
死人のよみがえりや、重い患者の癒しの場合、イエス様は人払いされました。33節「そこで、イエスは、その人だけを群集の中から連れ出し」と書いてある。イエス様は決して、パフォーマンスで癒しや奇跡を行っていない。むしろ、隠れて癒しのわざをし、それを人に話さないように注意している。これは、7章の聾唖者のときも同じ。なぜか、それは人々は地上的なメシヤ観をもっていた。奇跡で人々が騒ぎ出し、イエス様は町に入って、福音を伝えられなくなった。これは私たちで言うと、自分が教祖のような特別な存在になること。外国でもそうだが、癒しや奇跡を行う人は、特別扱いされ、「あの人しかできない」とカリスマ的になる。そうではない。使徒14章でバルナバとサウロが生まれつきの足なえを癒した。人々は「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言って、礼拝しようとした。二人は衣を裂いて「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です」と言った。つまり、癒しをなさるのは、神ご自身であって、私たちは癒しの管(チャンネル)。たとい、死人が生き返ることがあったとしても、栄光は主のもの。しかし、私たちは誘惑に弱いので、自分を何者かに思ってしまう。だから、癒しや奇跡はある意味では危険である。癒すのは主ご自身!私たちは道具。