先週は郷里に帰って、代わりに毛利姉、有田姉がメッセージしてくれ、感謝。台風も関東をかすめ大変だったと思う。秋田の方は雨が降らなかったので、自転車で動きまわることができた。本日の箇所は、マタイ16章でも語られている有名な箇所。マルコでは何が強調されているだろうか。
1.イエスはキリスト
多くの人は、イエス・キリストと言うと、名前と苗字みたいに思っているかも。しかし、キリストは、「油注がれた者」という職名。旧約ではメシヤと言うが、「救い主」と訳すことができる。だから、「イエスはキリスト」とは、「イエスが私の救い主である」と信じるということ。これは大変なこと。Ⅰコリント12:3「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」とある。ペテロは自分の考えではなく、神の霊によって、信仰告白できた。私たちも、イエス様を救い主、人生の主として信じられたのは、聖霊の助け、主の恵み。 この信仰告白のあった場所、ピリポ・カイザリヤとはどういう所か。ガリラヤの北、異邦の地。ヘレニズム時代は、高台にパンの神の神殿があった。紀元前20年、ヘロデ大王の息子ピリポがこの町を支配し、ローマ皇帝に敬意を表して「ピリポ・カイザリヤ」と付けた。つまり、自然神パンと皇帝崇拝がなされた場所。マルコ福音書が完成する頃は皇帝崇拝がますます盛んになり、迫害の時代へ突入。異郷の、偶像崇拝と皇帝崇拝がなされている地で、イエス様は「私をだれと言いますか?」と問われた。しかし、最初は遠回しに聞く、「人々は私をだれと言っていますか?」Bヨハネ、エリヤ、預言者の一人?「では、あなたがたは私をだれと言いますか?」(ぐさっ)。すばらしい教師。まず、イエス様は人に考えさせる。そして、自分で答えを出させるように導く。 一番弟子と自負していたペテロが「あなたは、キリストです」と答えた。マタイ16章では、イエス様が「あなたは幸いです。あなたに天の御国の鍵をあげよう」と、お褒めの言葉。マルコになぜないか?マルコはペテロから聞いて書いたので、栄光を自分に帰するようなところはカットしたのかも。ペテロは、ピリポ・カイザリヤという偶像崇拝が盛んになされている地で告白。私は秋田に帰ったが、義兄は神社の役員さんのような務め。友人の奥さんはいろんな霊を信じていた。実家にも像や仏壇・・・日本は偶像に満ちた国。そのような国で、唯一の神を信じ、イエスをキリストと告白するのは、生易しいことではない。 ペテロもそのときは、「イエスはキリスト」と告白できたかもしれないが、イエス様が捕らえられたときには、「私は知らない」と3度も否んだ。自分の身が危ないと思ったときは、否定した。西暦70年前後から、ユダヤ教とキリスト教の迫害がひどくなった。その当時は、カイサルが唯一の主(キュリオス)であった。イエスを主と言ったら、殺される。クオバデスという伝説があるが、ペテロはローマから逃げ去る途中、復活の主と出会ったらしい。その後ペテロは、ローマに戻り、信仰を告白し、逆さ十字架にかけられた。教会の中では「イエスはキリスト、救い主」と告白できるかもしれない。だが、イエス様を知らない、あるいは敵対しているところではどうだろうか。家庭、職場、地域社会においても、「イエスはキリスト、救い主」と告白したい。
2.苦難を経るキリスト
確かにペテロはイエスをキリストと告白したが、その理解は不完全だったかもしれない。信じる対象自体は正しかったが、キリスト理解がまだ不完全。私たちも、完全に神様やイエス様を知らなければ救われないだろうか。この地上で、神様を完全に知ることは不可能である。だが、救われるための最小限の信仰はあるに違いない。車を運転するのに、車の構造全部知らなければならないだろうか。パソコンを使うのに、パソコンの構造全部知らなければならない?しかし、ペテロや弟子たちは重要なことを見逃していた。それは、キリストが苦難を経なければならないこと。イエス様が31節で「必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえなければならない」と言われたが、そんなことは信じられなかった。イザヤ書53:1「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」とある。イザヤ53章は受難のキリストのキリストを預言している書であるが、「だれが信じられるか」の意味。当時も今も、十字架はつまずきである。
ペテロはイエス様をいさめたとあるが、キリストが死んだら困ると思ったのであろう。つまり、 イエス様が死んだら、地上における神の国も自分の夢もかなわなくなる。「人のこと」とは、この地上のこと、自分のことという意味。ペテロは信仰告白後、「下がれ。サタン」と言われ、天国から地獄に落とされた感じ。イエス様ご自身も、「多くの苦しみを受け、捨てられ、殺される」のがイヤだっただろう。だから、「必ず・・・しなければならない」と受難の必然性を強調している。おそらく、サタンはペテロの口を借りて、イエス様が受難をパスするように仕向けようとした。「神のことを思わないで、人のことを思う」とは、人本主義、ヒューマニズム。私たちは良かれと思ってしたことが、人本主義になることがある。過剰な親切、過干渉。かまいすぎ。その人のすべきこと(責任、役目)を奪うことになる。その人自身が苦しんで学ぶこともある。 34節以降に、イエス様がなぜ、十字架で死ななければならないか書かれている。イエス様だって、自分の命は捨てたくなかった。だが、人々の命を買い戻すために、ご自分の命を差し出した。これは、キリストの使命であり、イエス様がこの世に来られた目的。もし、イエス様が自分の命を捨てるのがイヤで、十字架をパスしたなら、人類の贖いはなされなかった。だから、「必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえなければならない」と言われた。No cross no crown. では、私たちにとって、最も大切な信仰とは何か?神様に対して、どういう告白が必要なのか。それは、だれでもない私のためにイエス様が十字架にかかり、罪を贖ってくださったこと。「私のために」が大切。イザヤ53章にも、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」とある。人は自分には罪があると気付くまで結構時間がかかる。だが、その後、「ああ、キリストが死なれたのは私の罪のためだたんだ。アーメン」とならなければならない。キリストによる、罪の赦し、罪のあがないこそが、私たちの信仰の土台。岩。