2018.1.1「油を絶やすな マタイ25:1-13」

 「待つ」というのは大変な作業です。会衆の中には、私を含め、待つことが苦手だという方がおられるのではないでしょうか。本日の物語は、再び来られるキリストを備えて待つことを教えている譬え話です。当時の結婚式と披露宴は花婿と花嫁の両家で行なわれ、時としては1週間も続きました。この物語は、花婿の家で結婚式が行なわれ、花嫁の家で披露宴がなされようとしています。そして、習慣にならって、花嫁の友人である乙女たちがともしびを持って花婿を出迎えるというシーンです。

 

1.世の終わりの教会

 

 マタイ25:5「花婿が来るのが遅れたので」と書いていますが、キリストが来られるが、思ったよりも遅くなることが暗示されます。10人の娘は教会をたとえており、花婿であるキリストがあまり遅いもので、うとうと眠りはじめました。世の終りの教会も、信仰的にそうなりがちだということです。さて、最初にこの譬え話しの間違った解釈を1つあげたいと思います。「油を持っていなかった5人の娘は、クリスチャンであったが、準備をしていなかったために、天国から締め出しを食らった」と解釈してしまうと福音の中心からはずれてしまいます。昔こういうことがあったそうです。礼拝のときに、再臨について先生が説教し、突然こう言われました。「実は昨日、台湾から来た牧師に会いました。その有名な先生がおっしゃるのに、その先生の教会員の中で、終末にイエス・キリストが再臨された時、天にそのまま引上げられる教会員は半分いないだろう。そして、私も思うに、今日、4、50人の皆さんが集まっておられますが、今日、主の再臨があったとして、この中から即座に天に引上げられる人は14,5人ぐらいだろうと私は思います」とお話ししました。そのとたん、何とも言えない不安な雰囲気が、会場全体を支配したそうです。「14,5人と言えば、3人に1人。こうやって礼拝を一生懸命守っていても、3分の2は救われないのか。それでは誰が救われて、誰が油のないクリスチャンだろう。」そして互いの裁き合いが心の内側で一瞬にして始まったそうです。本当に笑えない怖いお話しです。イエス様は、そのようなことを譬え話しで教えようとされたのではありません。福音の中心は、イエス様の十字架を信じるだけで罪赦され、天国に行けるということです。信仰のみによって救われ、一度でもイエス様を受け入れた者は滅びることはありません。そうしますと、この譬え話しは、再臨を待つ信仰者の姿を教えるために語られたものと考えられます。 

 

 愚かな娘たちも賢い娘たちも、花婿を待っていたのですが、あまりに遅いので、うとうと眠り始めました。ですから、両者とも信仰があるのですが、弱さも見受けられます。しかし、決定的な違いは何でしょうか。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意していなかったということです。そして、賢い娘たちは油を入れた器を持っていました。私はある絵を見たことがありますが、5人は右手にはともしび、左手には入れ物をちゃんと持っていました。両者とも、ともしびを持っているんですから、「私はイエス様を信じます」と告白し、洗礼を受けたに違いありません。しかし、一方は再臨に備える信仰を持ち、他方はそうではなかったということです。イエス様が今から2,000 年前、この地上に初めて来られたときはどうだったでしょうか。旧約聖書の最後の預言者マラキから400年間、預言が絶えていました。その間、ギリシヤとローマによって国土が占領されました。その頃、イスラエルではキリストが来る備えをしている人はごくわずかでした。東方から博士たちが星に導かれ、ヘロデの宮殿に来ました。律法学者や祭司たちは聖書から、どこで産まれるかを知ることができました。しかし、彼らは会いに行こうとはしませんでした。むしろ「別の王が来るなんて、これはやっかいなことになるぞ」と恐れました。彼らはキリストが自分たちの所に来ても、拒絶してしまったのです。喜んで歓迎したのはほんの一握りの人たちでした。同じように、世の終り、キリストが再び来られるというとき、そのような信仰があるだろうかということです。

 世の終わり、キリストが再び来られるときどのようでしょうか。都市では、人々が政治やビジネスに励んでいます。地方では田畑を耕し、売り買いをしています。ある人は快楽を求め、ある人たちは世の注目を集めようとやっきになっています。イエス・キリストが戻ってくるとき、生きた信仰を持っている人がどれほどいるでしょうか。金持ちはぜいたくに暮らし、貧しい人たちは不平や不満でいっぱいです。教会はささいな神学の違いで論争し、分裂分派を繰り返して弱体化しています。そういうところに、イエス様が突然来られるのです。世の終りの時こそ、再び来られるイエス・キリストを迎える信仰を持たなければなりません。私たちは、イスラエルの民からも、初代教会からも、そして歴史の数々の教会からもたくさんの教訓を得ました。そこには法則があります。最初は信仰的に燃えていますが。安定期に入り、しばらくたつと眠って堕落してしまいます。神の民は罪深い世の中に何の力も発揮できないのです。そのとき、悔い改めて信仰的に燃えるのです。それを私たちはリバイバルと呼んでいます。燃えたり、消えたり、燃えたり、消えたり、そういう繰り返しを通りながら、終末がやってくるのです。

 しかし、この5人の愚かな娘と5人の賢い娘は、教会全体というよりも、一人一人の信仰者を象徴しているようです。教会が霊的に燃えている時代の信仰者は良いですが、信仰の火が消えかかっている時代の信仰者は大変です。それでも、5人の賢い娘たちのように、信仰を持続するために油を絶やしてはいけません。この物語を読んでいて、油が切れたとき、どうして、賢い娘たちが分けてあげなかったのでしょうか。賢い娘たちは少し意地悪じゃないかと思いました。おそらく他者にあげる分はなかったのでしょう。愚かな娘たちが、お店に買いに行っている間に花婿が来てしまったのです。なんだか気の毒になってしまいます。この所から考えますと、油は簡単には人には分けてあげられないもののようです。たとえば、信仰は基本的には個人的なものです。奥様が信仰を持っていたとしても、ご主人がそれで救われるわけではありません。両親が非常に熱心だからといっても、子どもたちがそのまま救われるわけではありません。もちろん、1人のクリスチャンがお家にいるだけで、ともしびがともり、祝福が家族に注がれることは確かです。しかし、人は個人的にイエス様を心にお迎えしなければ救われません。ですから、人をあてにしないで、一人一人自立した信仰を持つべきであります。そのために、神様としっかりとベルトを結ぶべきです。「たとえ、全世界の人が私を見捨てても、イエス様は私を見捨てません。イエス様は私の救い主、王の王です。」こういう信仰を持ちましょう。

 また、ここでは時があることを教えています。愚かな5人の娘たちは、昼の間、お店にでかけて油を用意する時間はいくらでもあったと思います。真夜中ですと、今と違ってお店は開いていないのでしょう。今では、セブンイレブンとかローソンにさっと行って、ちょっとした足りないものはすぐ購入できます。私は自分の子供が小さかった頃、夜中に、パンパースを買いに行かされたことがあります。紙おむつにも何種類かあって、赤ちゃんの肌に合うのと合わないのがあります。いろんなお店に行って、「あったー!」と喜び、少々高くても買うわけです。パンパースが宝物のように見えたりしました。当時は、真夜中、お店なんか開いていないので、ドンドンドンとお店の人を起こしてから売ってもらうので、手間取ってしまったのでしょう。その間に花婿が来てしまいました。ですから、イエス様を信じるのも光のある間に信じるべきなのです。今は恵みのとき、今は救いの日です。世の終りは、暗闇が覆い、惑わしの霊や迫害が強くなるので、信じたくても信じられなくなってしまいます。また、信仰を維持するために日頃から、聖書を読み祈っているべきです。この世のことに、お金やエネルギーを使い過ぎてはいけません。信仰書を読んだり、学びや訓練の場に身を置くことも必要です。信仰も体の筋肉と同じで用いないと退化してしまいます。

 ます、教会につながって信仰の火を絶やさないでいるのが一番です。よく、キャンプやクリスマスでキャンドルサービスをしますが、たまに自分のろうそくの火が消えてしまうときがあります。しかし、隣の人からすぐ貰えるから安心です。しかし、それが、人里離れた山小屋で、1本しかいないときは大変です。イエス・キリストを信じるのは確かに個人的であります。人の信仰を頼ってはいけません。イエス様と個人的に救い主としてお迎えするしかありません。毎日、神様と深い交わりを持つべきです。また、信仰を維持していくためには、信仰の火元である教会につながっているということです。一方の手にともしび、もう一方の手に油を入れた器を持ちましょう。暗い時代にあって、ともしびを燃やし続けましょう。

2.油の補充

 

 ともしびの油とは、聖霊を指すのではないかと思います。しかし、聖霊は神様ですから、厳密には減ったり増えたりするものではありません。ですから、私たちの信仰を燃やすところの、「聖霊の油」と言った方が良いと思います。世の終りに、必ずリバイバルが起こります。教会が信仰的に眠って、世の中が堕落していきますと、あるところからリバイバル運動が叫ばれます。リバイバルというのは霊的目覚め、覚醒であります。そのときに、初代教会のように聖霊の火を求める祈りがなされます。「主よ、火を与えて下さい」、「油を注いで下さい」と祈るわけです。「火に油を注いだら、危ないだろう!」と思うくらい過激になります。私たちの信仰はまるで生き物のようです。昨日までは、非常に燃えて生き生きしていました。ところが、今日は、失望落胆と疑いの沼地にはまっています。はまり込んでいるときは、「現実は難しい、信じていても変わらない」となるのです。先週はものすごく、燃えて信仰に満たされていた。しかし、今週は気が重くて、ビジョンも見えない。大きな失敗や罪を犯したわけでもないのに、気が滅入ってしまう。みなさんもそういうときはありませんか。なぜ、こんな風になってしまうのでしょうか。確かに私たちの中の肉の弱さもあります。それ以上に、私たちは不信仰な人々に囲まれ、悪霊がはびこっているこの世で生きているからです。この世の中に住んでいる限り、ひとりでに、信仰が冷えてしまうのです。 

   

信仰はともしびのように、たえず燃えていないとダメなんであります。10年前の信仰や昨日の信仰ではなく、今、現在の信仰が必要です。ですから、たえず、聖霊の油を補充しなければなりません。そのために、毎日、聖書を読み祈るべきです。これが一番の充電です。大きなものが一度にドーンと来るわけではありませんが、継続は力です。毎日コツコツと霊の糧を得ることに勝るものはありません。そして、その次に重要なのは、やはり礼拝出席だと思います。礼拝を1週間休んでもあまり、変わりないかもしれません。しかし、2,3ケ月休みますと、霊的な力がすっかり失せてしまいます。ピアノやバイオリンのプロは毎日、4時間から8時間練習するそうです。一日しないとまず自分がわかるそうです。三日しないとまわりの人がわかります。一週間さぼると聴衆がわかるそうです。私も講壇で毎週、説教していますが、油注ぎがないかあるかは会衆がすぐ分かるでしょう。ですから、毎週、備えて説教しています。礼拝はお参りではありませんが、神様と公に交わるときで、大変重要です。私たちは全身全霊で神を礼拝し、あるときは方向転換し生活の衿を正していただきます。礼拝に臨在しておられる神様は特別です。私たちはその中にいるだけで、神様の力をまとい、祝福をいただいているのです。そのために、礼拝はできるだけ休まない。そして遅刻をしないと良いです。遅刻をすると、だれも責めていないのに、何だか後ろめたい気持ちがして、すぐ恵みの中に飛び込むことができません。礼拝のために備えてきますと、200 %恵まれます。恵まれないのは必ずしも牧師の説教のせいではありません。礼拝をささげる会衆一人一人にも責任があるのです。アーメン。

 また、私のように奉仕する者は、時々、聖会に行って恵みをいただく必要があります。1時間も叫んで賛美してから、みことばをいただき、時間をかけて祈ります。そしてメッセージのあと按手してもらったりすると本当に良いです。最近の聖会は、「油注ぎの受けたい方(インパーティーション)のために祈ります」とはっきりおっしゃいます。私は恵みの座に行き、個人的に手を当てて祈ってもらうと霊的に満たされます。ですから、どこへ行っても招きがあれば、祈ってもらうことにしています。10数年前、兵庫県の高砂教会の水曜祈祷会に出たときがあります。一斉にお祈りしている間に、だれかが頭をスッと触って行きました。だれかな!と思って目をあげると、手束先生が一人一人、頭に按手して祈っておられました。私はそのとき、温かいものを感じました。韓国の祈祷会や聖会も、先生が按手してくれないと、信徒は寂しいと感ずるようです。ある焼き肉やのおかみさんは、先生をお店に招いて、お肉が焼ける前に、先生「チョットチョット」と言って、隅っこで按手してもらうそうです。不思議なことに、「牧師が祈ると牧師の分がなくなるか」というとそうではありません。また、新たな油が上から補充されるでしょう。エリヤのやもめの物語と同じです。空の器に注いでも、注いでも次から次とあふれてくるのです。しかし、例外もあります。注ぎ過ぎると枯渇するときがあります。昔、兵庫県の井上牧師のところに招かれ、日曜日、かなりの人たちを預言し按手して祈りました。すると月曜日、体が重たくて起きられませんでした。霊的に重たい人に、按手して霊力を注いだので、こちらが枯れてしいました。私たちは聖霊の管でありますから、私たちを通して注がれるように願いたいと思います。

按手をするのは聖書的なのだろうかという方に対して、みことばを1箇所お開きします。パウロがテモテにあてた手紙、Ⅱテモテ1:5-7「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。神が私たちに与えて下さったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテは信仰がなかったわけではなく、純粋な信仰がちゃんとありました。彼は神様から、群れを任せられていました。しかし、テモテは度重なる激務によって、おそらく胃潰瘍になり、少量のぶどう酒を飲むのも良いとも勧められていました。そして、この所でパウロは、おくびょうになりがちなテモテに注意をしています。パウロは神の賜物、力と愛と慎みの霊が再び燃え立たせるように按手してあげたいと言っているのです。  

 テモテの神の賜物が具体的に何であるのかわかりません。しかし、それが奉仕の源であることは確かです。奉仕する者には、この「油注ぎ」が本当に必要なのです。私はペンテコステ派がこのことを早くから理解し、聖会のミニストリーでよく行われていることを感謝しています。これまで、申賢均師、チョーヨンギ師、ベニー・ヒン、カルロス・アナコンディア、エディ・レオ、メル・ボンドなど、よく日本に来ては奉仕して下さいました。私は、この「油注ぎ」が来るときに、悪霊を追い出し、病を癒す権威が上から与えられると信じます。大和カルバリーの大川牧師は、神の器がいるところには、アルゼンチンであろうと、トロント、ペンサコーラ、レディングどこでも行かれるようです。そして、「油注ぎ」をいただいてから、ご自分のところで、ミニストリーをするわけです。私も昔は、シンガポールやインドネシアの教会研修に行きました。5000人とか1万人の集会にいると、天国にいるみたいです。ヘブル11章には「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と書いてあります。霊的に燃えている場所にいくと、やはり燃やされて帰ってきます。

 それでは、そういう聖会や集会にいかなければダメかというと必ずしもそうとはいえません。当教会に来られたことのある松岡欣也先生は少し考え方が違います。「何でも外国人の世話になって、リバイバルも外国の先生を呼んできてやってもらおうとしている。日本人はどこまで甘えたら気がすむんじゃ。そういう聖会をめぐっている人がいるけど、1,2ケ月たったら冷めて、また新しい講師を呼んで祈ってもらう。同じことの繰り返しだ」と言います。確かに当たっていないわけではありません。松岡先生がおっしゃりたいことは、「イエス様がどこにいるか知らなければならない。聖霊、聖霊と言うが、その方はイエス・キリスト様のことである。私たちの内側にすでに、イエス様がおられる、これを再発見すべきだ」ということでしょう。パウロもテモテに純粋な信仰があるのを認めています。パウロは別の信仰を与えようとしておられるのではなく、再び燃え立たせるようにとおっしゃっているのです。つまり、内側をかき回していただき、「聖霊の炎に満たされよ」ということなのです。ですから、いろんな集会に行くもの良い方法ですが、だれでもできるのは、祈って賛美することです。祈りと賛美は、ソーラー発電みたいに、神様の光をエネルギーに変えることができるのです。マーリン・キャロザーズも言っていますが、賛美には力があります。ある人は異言だと言いますが、賛美は、聖霊と信仰に満たされていく最もすぐれた方法です。賛美したあと、何か肩の荷が軽くなったということを良く経験します。みなさん、クリスチャンの内側にはすでに、イエス様がおられるのです。私たちの内におられるキリストが栄光の望みであることを信じましょう。

 また、イエス様は一人の中にもおられますが、2、3人イエスの名によって集まるところにも臨在されます。ですから、共に集まり、賛美し祈っているところにも、すばらしいみわざが現わされるのです。ヘブル10:25 「ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近付いているのを見て、ますますそうしようではありませんか」、と書いています。「かの日が近付いている」とは世の終り、キリストが再び来られる日が近付いているから、という意味です。ですから、世の終り、共に集って励まし合う小グループが必要だということです。ある外国の講師が預言をされました。「日本には確かに暗闇が覆っている。しかし、よーく見ると、小さなあかりが点々と見える。非常にかぼそくて消えそうだけど、しかし、消えない。やがて、そのあかりの数が増してきて、日本のあちこちに大きな光となります。」アーメン。使徒の働き1章では、おのおの上に舌のような火がとどまった、と書いていますから、一人一人がともし火になったのです。世の終り、私たちもともし火となり、再び来られるイエス様を待ちましょう。そして油があるかどうか点検しましょう。信仰的に枯れていたら、祈って賛美して、イエス様から聖霊の油注ぎを受けましょう。イエス様は飢え渇く人々に、豊かに油を注いで下さいます。日本中の教会、クリスチャンに油注ぎが与えられますように。そして、当教会の兄弟姉妹に注がれますように。