2018.1.21「高価な香油 マタイ26:1-16」

 世の終わりについての教えが終わりました。マタイ26章のはじめに「イエス様を捕えて、殺そう」という不遜な動きがしるされています。ところが、その前に一服の清涼とも思えるような出来事がありました。イエス様はベタニヤで親しい人たちと食卓に着いていました。当時は体を横たえて食事をしていました。おそらく、左手で体を支えながら、右手をのばして食べ物を取ったと思われます。そういうところに、香油を携えた女性がイエス様のそばにやってきました。ヨハネによる福音書から、この女性はマルタの妹、マリヤであることがわかります。

1.マリヤの信仰と献身

 この女性はイエス様の母マリヤではありません。新約聖書にマリヤは少なくとも4人登場します。マリヤの弟はラザロであり、イエス様からよみがえらされた男性です。ヨハネによる福音書には、ラザロも一緒に食卓についていたと書かれています。前半のポイントは「マリヤの信仰と献身」ですが、弟ラザロに対する感謝の気持もあったに違いありません。このマリヤの捧げものから、イエス様に対する愛、信仰、そして献身を読み取ることができます。マリヤは何をイエス様にささげたのでしょう?マタイ26:7「ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」マルコによる福音書には「純粋で、非常に高価なナルド油」と詳しく書かれています。つまり、マリヤがささげたものは品質、qualityが高かったということです。現代の私たちも、qualityが高かいとか、低いとか言います。金などは純度何%と問われます。また、食べ物や飲み物も品質管理がうるさいです。たまに不純物が入っていたということで、全製品を回収したりします。最近は音楽や芸の世界でも、qualityが高いとか低いとか言います。では、神様の前にささげる物や奉仕はどのレベルであるべきなのでしょうか?旧約聖書では、はじめて採れた「はつなり」を主にささげなさいと言われていました。創世記にアベルとカインの物語があります。カインは地の作物から主へのささげ物を持ってきました。一方、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はアベルとそのささげ物とに目をとめられました。だが、カインとそのささげ物には目をとめられませんでした(創世記4:3-5)。おそらくカインは作物の中の1つ、one of themを持ってきたのでしょう。一方、アベルは羊の初子の中から、それも最上のもの、the best of allを持ってきました。主はアベルとアベルのささげ物に目をとめました。英語の聖書はrespect重んじたと書かれています。注目すべきことは、ささげた物の品質がその人自身を象徴しているということです。彼女は純粋で、非常に高価なナルド油イエス様にささげました。それはマリヤ自身の信仰と献身を象徴しています。

 もう1つはその量であります。英語ではquantityと言います。Qualityもすごかったけど、quantityもすごかったのです。ところで、ナルドとはどのような香油なのでしょうか?ナルドは、おみなえし科の宿根草で、今ではすでに古典的香料の一つとなっており、簡単に入手できなくなっています。今日ではヒマラヤ山中の村々で栽培されているということです。おそらく、とても高価な香油なのでしょう。ところが、マリヤは香油を壺ごと注いだのであります。マルコ福音書は「その壺を割り、イエスの頭に注いだ」と書かれています。どれくらいの価値かと申しますと、「その量は300グラムで売ったら、300デナリになる」とヨハネ福音書に書かれています。1デナリが今日で約1万円ですから、300万円ということになります。一滴や二滴ではありません。300CC、300万円分です。だから、弟子たちは「何のために、こんな無駄なことをするのか」と憤慨しました。高価な香油を壺ごと全部注いだというところにも、マリヤの信仰と献身を見ることができます。旧約聖書でアブラハムが御使いたちをもてなした記事があります。「ちょっとだけ」と言いながら、「三セアの上等の小麦粉でパン菓子を作り、おいしそうな子牛一頭を料理しました(創世記18:6-8)。三セアの小麦は約22リットルです。すごい量です。では、ロトはどうでしょうか?彼は「どうぞ」としきりに勧めましたが、パン種の入っていないパンでした。堅くて食べられないですね。神様に対する信仰と献身がアブラハムとロトとは明らかに違います。私たちは神様のささげるとき、「もったいない」とけちる時はないでしょうか。「献金はお金をどぶに捨てるようなものだ」と考えるなら寂しいですね。

ところが、弟子たちはそう思ったのです。マタイ26:8-9「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。』」一見、正論のように聞こえますが、これは貧しい人たちのことを思っているのではありません。ヨハネ福音書にはこのことを言ったのは、ユダであると書かれています。ヨハネ12:6 「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」この頃、ユダは「いつイエス様を売ろうか」と、機会をねらっていました(参考.ヨハネ6:21)。なぜなら、イエス様がこの世の王になることを諦め、エルサレムで死ぬと言っているからです。ユダはイエス様に対する望みが消えうせると同時に憎しみが湧き上がってきました。ユダは会計係りを任されていることを良いことに、その中から盗んでいました。彼が「それを売れば、貧しい人たちに施しができたのに」と言ったのは、自分の懐に入らないからです。しかし、「何のために、こんなむだなことをするのか」と思ったのは、ユダだけではなく、他の弟子たちも同じでした。なぜなら、マリヤのようにイエス様に対する信仰と献身がなかったからです。だれが一番偉いか争っていたのですから、イエス様を利用していたのと同じです。

 私は洗礼を受けて、半年後、献身しました。しかし、動機は純粋ではありませんでした。私を導いてくれた先輩はアメリカの神学校に行く予定でした。しかし、私にはそのようなコネはありません。そのため、「日本の神学校だったら」と大川牧師に頼んだのです。大川牧師はそのことを見抜いておられたのか、私を志願兵として受け入れて下さいました。志願兵というのは、上から召されたのではなく、自分から申し出たという感じがします。もちろん、その時はイエス様の弟子になりたいと思っていましたが、「日本でも、しょうがないか」という気持ちもありました。神学校の入試も「落ちる人なんかいないんだ」と、非常に舐めてかかっていました。それに、私から見ると神学校の学生たちは、ボンボンで世間知らずに見えました。「何が神様からの召命だ、賜物もないくせに」と半分馬鹿にしていました。また、大川牧師のもとでスタッフが何人かいました。特に、口うるさい副牧師のことが気に障り、ライバル心がメラメラ燃えていました。だれが説教うまいか競い合っていました。ですから、イエス様の弟子たち、そしてユダのことを馬鹿にてきません。動機の不純さから言えば、50歩100歩だったからです。でも、イエス様の贖いによって救われたことがだんだんわかり始めました。罪赦され、永遠のいのちが与えられたことを思うとありがたくて涙が出ました。その頃、『ちいろば先生物語』の榎本保朗牧師が有名でした。榎本牧師は「人々は自分を見ていると思っていたけど、お乗せしているイエス様なんだ」と分かったそうです。私もだんだんと聖められ、「イエス様のしもべ」になることを決意しました。弟子ではなく、「しもべで良いんだ」と思えるようになったのです。でも、33歳で亀有に赴任したときは、大教会を目指していましたので、まだまだギラギラしていました。教会も当初、宣言したように、成長しなかったので、ずいぶんと砕かれました。でも、若い時に、神様に献身できたということは、今、思えばすばらしい特権であると思います。

 聖歌338番は、「いとも良きものを君にささげよ、熱きなが心、若き力よ」と賛美します。「若き力をささげよ」となっています。献身も年をとってからではなく、若くてまだエネルギーがあふれているときが良いと思います。会社にエネルギーを全部吸い取られたあと、出がらしを捧げても「何だかなー?」と思います。牧師のような直接献身だけが道ではありませんが、マリヤの信仰と献身は学ぶべきではないかと思います。彼女はイエス様を本当に愛していました。ある学者は「300デナリのナルド油は、家宝であり、彼女の嫁入り道具ではなかっただろうか」と言っています。ということは、マリヤは結婚を後回しにして、イエス様に「純粋で、非常に高価なナルド油」を壺ごとささげたのです。女性にとって、結婚こそが人生で最も重要なイベントかもしれません。しかし、マリヤはそうではありませんでした。その後、マリヤが結婚したかどうかは分かりませんが、主イエス様に対する愛は、男女の愛を超えた、次元の違う愛です。さきほど、アベルのことを取り上げました。ヘブル11:4「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」何を語っているのでしょう?アベルは兄に殺され、短い人生でしかありませんでした。でも、神様は豊かに報いでくださるということを語っているのです。神様は私たちの精一杯の捧げものを軽んじることなく、価値あるものとして喜んでくださいます。

2.マリヤの霊的理解力

 マタイ26:12-13「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」イエス様はマリヤのしたことをとても喜ばれました。そして、「わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」と解釈しました。マルコ14章には「前もって油を塗ってくれたのです」と書いてあります。おそらく、マリヤはイエス様がまもなく死んで葬られるということを知っていたのでしょう。マリヤは「油を注ぐのは今しかない」と決断したのです。十字架の死の後、復活の朝ですが女性たちが油を塗るために出かけました。でも、どうだったでしょうか?マルコ16:1-2「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」すると、御使いが「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」と言いました。すでに復活していたので、油を塗る必要がなかったのです。マタイ26章後半になると、イエス様はゲツセマネの園で捕えられ、ユダヤ人とローマの裁判にかけられます。そして、十字架を背負わされて、ゴルゴタの丘で死にます。ということは、この時以外に油を塗ることはできなかったということです。あとから、婦人たちがイエス様のおからだに油を塗ろうと出かけましたが、It’s too late.遅かったのです。つまり、マリヤはチャンスを逃さなかったということです。でも、どうして、マリヤはイエス様がまもなく捕えられ、十字架で死ぬということを知っていたのでしょう?

 ルカ10:39「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」とあります。姉のマルタはイライラして「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」とイエス様に言いました。イエス様は「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」と言われました。マリヤは普段からイエス様のそばに座って、みことばに聞き入っていました。つまり、マリヤは他の人たちには分からないことが分かっていたのです。主のみことばに聞き入って、この先どうなるか理解していたのです。でも、他の弟子たちは目に霞がかかって分かりませんでした。私たちは叱られた姉のマルタを同情します。「あれだけ働いているのに、ひどいじゃないか。それに比べ、だまって座っているマリヤは何なんだろう」と思うかもしれません。ベターはベストの敵であると言われます。マルタはベターでしたが、マリヤはベストを選んでいたのです。ベストと言っても春日が来ているチョッキvestではありません。Bestです。私たちは不思議なもので、体を動かすと思考がストップします。体を動かしながら、深く考えることができません。私もかつて現場で走り回っていました。「事務のやつらはエアコンが効いている部屋で楽だなー」と思いました。ところが転職してデスクの前に座る仕事になりました。お尻が痛くて、しょうがありませんでした。私も教会内でいろんな作業をしますが、体を動かすと深く考えることができなくなります。詩篇46篇にすばらしいことばがあります。詩篇46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と書かれています。英語の聖書はbe still「静まれ」ですが、日本語の聖書は「やめよ」です。こちらの方が厳しく感じます。現代的に言うなら、「いたずらに動かないで、みことばを読んで瞑想せよ」ということなのでしょう。

 伝道者の書には「すべてに時がある」と記されています。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」最後に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者3:11)と書いてあります。神さまは永遠なのですべてのことをご存じです。だから、「一番良い時はいつでしょうか?」と神さまに聞くしかありません。そうすれば、私たちを愛しておられる父なる神さまが打ち明けてくださるに違いありません。私も自分の人生を振り返ると、「ああ、神さまが導いてくださったんだなー」と感謝が湧き上がってきます。マリヤの「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」というのは、まさしく弟子の姿です。だから、彼女はイエス様の「十字架の時」を知っていたのです。私たちの人生にはいくつかの大事な時があります。その決定的な時を逃さないように、主の足もとでみことばに聞く者となりたいと思います。

3.マリヤの記念物

 マタイ26:13 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」「まことに」とは、「アーメン、本当に」という意味です。確かに私たちはこの聖書をもっており、聖書からマリヤのしたことを知ることができます。マタイもマルコも「世界」ということばを使っています。彼らは「この福音が世界中に伝わるので、そのときマリヤのことも語られる」と確信していたのでしょう。でも、わからないのは「この人の記念となる」という意味です。ギリシャ語は「記念物」という意味です。その動詞形は「思い出す」「覚えている」ですから、英語ではmemoryです。それがmemorialとなります。つまりそのことを思い出すための「記念物」であります。ナルドの香油はとても強い香りがするそうです。それを300グラム、壺ごとささげたのですから、部屋いっぱいに香りが満ちたでしょう。イエス様のおからだ全部に注がれたのですから、その香りは、裁判所、ゴルゴタの道、十字架の死までも続いたに違いありません。しかし、それだけではありません。私たちは福音書からマリヤのしたことを見ると、聖書からかおりがしてくるのです。ナルドの香油はまぼろしの香油なので、私たちは想像するしかありません。でも、それは良きかおり、福音のかおりです。まさしくそれは「マリヤの記念物」となっています。

 まわりの弟子たちは「ああ、もったいないことをしている」とマリヤをさばきました。ところが、イエス様はそれを受け入れ、それが彼女の記念物となるとおっしゃいました。壺の香油は金額にして、300デナリです。弟子たちは「無駄なことをする」と思っていましたが、イエス様は価値あるものとして尊んでくださいました。これらのことから察すると、イエスさまにしたことは無駄ではなく、神さまがちゃんと報いてくださることがわかります。JC.ライルという聖書学者はこう述べています。「神の前での裁きの日、キリストのためになしたことは1つとして忘れられることはない。その日、これまでの議会での多くの演説、戦士たちの功績、詩人や画家の作品は取り上げられないであろう。しかし、最も小さいクリスチャンの女性がキリストにしたことは、永遠の書物に記されていることを発見できるであろう。ひとつの親切なことばや行い、冷たい水一杯、あるいは壺の香油もその記録から割愛されることがない。」アーメン。

昨年、11月18日、芳賀英昭兄がご病気のため天に召されました。私が18日午後2時前、お見舞に行きましたが、どの病室をさがしてもいません。ようやく看護師さんと出会い、「食堂にご家族がおられますよ」と言われました。奥様とご長男とご長女の3人がおられ、「1時間前に亡くなりましたよ。でも、どうして来られたんですか?神さまが知らせてくださったんですか?」と驚いて言いました。その場で葬儀の打ち合わせが始まりました。芳賀兄は前から、「家族葬でしたい」と申し上げていたそうです。おそらく、教会の葬儀が大変だということを見ていたのでしょう。だから人に迷惑をかけるのがいやだからというのです。「芳賀さんらしいなー」と思いました。13名しか入らない葬儀場の一室で、オルガンもない、マイクもないところで葬儀をさせていただきました。限られた時間の中で、芳賀さんがこれまでなしたことを語りました。51才のとき、突然、半徹夜祈祷会に来られ、名刺を差し出して「これから教会に来ます」と言いました。15年間、教会の役員と会計をなさってくださいました。また、自営業をしながら、たくさんのご奉仕をしてくださいました。ギデオン聖書協会、日曜日朝の送迎、男性セルの食事、流しそうめんの機材、教会設備の営繕などもなさり手がとても器用な方でした。うちの息子たち、とくに3男の有悟が大変お世話になりました。5歳のときアリオに連れて行ってもらい、おもちゃを買ってもらいました。店員さんが「この人はだれなの?」と聞きました。有悟は、一瞬考えたあと「相棒!」と答えたそうです。その頃、テレビで『相棒』が放映されていたからでしょう。有悟は中学、高校と演劇部に入りました。運動会のときもそうですが、劇の発表会があるときは、いつでも駆けつけてくださいました。まるで自分の孫のようにかわいがって下さいました。芳賀兄は物静かな方でしたが、信仰に満ちて謙遜な方でした。きょうはマリヤが香油をささげたことをお話ししました。同時に、芳賀兄のなさったことをきょうの説教の中で不十分ながら、分かち合えたことを感謝します。しかし、神さまはご自分の書物にちゃんと記録しておられます。マリヤのようにイエス様が豊か報いてくださると信じます。私たちのイエス様の小さな弟子として、いとも良きものをささげていきましょう。主のためにしたことは決して無駄ではありません。神さまは豊かに報いてくださいます。御国においても、この地上においても、です。アーメン。