2018.2.4「ゲツセマネの祈り マタイ26:30-46」

 最後の晩餐の後、イエス様と弟子たちは、オリーブ山のゲツセマネの園に向かいました。ゲツセマネは「油しぼり」という意味です。園にはオリーブの木があり、果実から油をしぼる圧搾所があったことから、そう呼ばれたのでしょう。イエス様は小一時間、苦しみ悶えて祈りますが、まさしく「油しぼり」でありました。その後、イエス様は捕えられて、裁判にかけられ、十字架に向かいます。つまり、ゲツセマネはイエス様が十字架にかかる前に、ご覚悟を決められた場所でもありました。きょうは、ペテロに対する預言は後回しにして、36節からお話しいたします。

1.誘惑に陥らないように

 夜なのにユダはどこかに出かけました。イエス様は11人の弟子たちを連れて、オリーブ山に向かい、ゲツセマネと呼ばれる園に着きました。さらに、イエス様は3人の弟子たちを園の奥に連れて行きました。3人とはペテロとヤコブとヨハネです。この3人は変貌の山、ヤイロの娘のよみがえりのときも同行しました。聖書には「証人は、2人あるいは3人が必要である」と書かれているからです。彼らは寝てしまいましたが、チラッ、チラッと見ていたのです。だから、この記事を書けたのです。もし、1時間ずっと寝ていたら、イエス様の祈りの内容は記録されていません。ゲツセマネの園は、いわば奥座敷であり、普通の信仰では近づくことができません。なぜなら、イエス様が十字架を覚悟をする大事な時であったからです。また、サタンもイエス様に対して強烈に働いたので、弟子たちもその影響を受けることになりました。聖画では、イエス様が大きな石に寄りかかり、天を見上げて祈っています。何と、イエス様が悲しみもだえ始められるではありませんか。弟子たちはそんな姿を一度も見たことがありません。確信と平安と力で満ちていた、いつものイエス様とは全く違います。イエス様は3人の弟子たちにこのように願いました。38節「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていなさい」。イエス様は石を投げて届くくらいの場所に跪いて、苦しみもだえて祈りました。

 何故、イエス様は弟子たちと一緒にゲツセマネに行ったのでしょうか?しかも、3人の弟子たちに「目をさましているように」要請しました。これは「目をさまして、私のためにとりなしていてほしい」ということです。言い換えると、一人では誘惑に負けそうなので、私を助けてほしいということです。「そんな馬鹿な?」とお思いでしょうか?いや、それほどイエス様にとって悲しくて、辛い出来事がこの先に待っているからです。だから、イエス様は自分のために祈ってほしかったのです。ところが、どうでしょう?40-41節「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』」このところに、1時間とありますので、イエス様がゲツセマネで祈っていた時間は小1時間ではないかと思います。1時間、祈るって、結構大変ですね。昔、リバイバルゼミナールに出席し、愛知県民の森で祈ったことがあります。1月の寒い朝、5時半に宿舎を出て、朝食開始まで山で祈ります。真っ暗で寒いし、ちょっと怖いので、叫んで祈ります。あれはみんなだからできるのであり、ただ一人、山に入って祈ることは不可能です。しかし、滝元明先生は、一晩、山に入って祈ることもあるそうです。動物を追い払うための杖を一本持って、まるでエリヤのようでありました。しかし、1時間、叫んで祈ると、「本当に祈り尽くした」という爽やかな気持ちになります。今は、そんなに集中して祈っていません。だから、エリヤのような力がないのかもしれません。でも、弟子たちには励まされます。1時間も祈っていられなかったからです。44-45節「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。』」イエス様のおことばから、弟子たちは目をさまして祈り続けることができなかったことが分かります。イエス様は彼らのふがいなさを嘆いています。

 でも、弟子たちは何故、祈り続けることができなかったのでしょうか?それはサタンがイエス様を妨げるために強烈に働いたからです。イエス様は公生涯に入る前、サタンから誘惑を受けました。しかし、イエス様は聖書のみことばでことごとく退けました。口語訳聖書のルカ4:13「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。」「一時」ですから、また戻って来ることを暗示しています。では、イエス様にとって、最も大きな誘惑はいつだったでしょうか?それは、十字架にかけられる直前です。イエス様は弟子たちに「人の子はエルサレムで苦しみを受け、殺される」と何度も予告していました。ところが、いざ、捕えられて十字架に渡される前夜、どうなったでしょう?イエス様は「この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と必死に祈り求めました。しかし、そのときサタンが隣にいたのです。昔、広島の植竹牧師が当教会の特別伝道集会でご用されたことがあります。旧会堂に90人くらい集まり満席でした。山崎長老が、銀行員とかお茶屋さん、洗濯屋さん、保険屋さん、近所の人、合計60人くらい誘ってきました。聖書の話など聞いたことのない未信者です。植竹先生が「ゲツセマネの園」からメッセージしました。その杯とは、全人類の罪が溢れている杯です。イエス様は1つの罪も知らないお方。それを飲むことができるでしょうか?植竹先生はまるで歌舞伎のように熱演しました。「その杯には、真っ赤に熱した鉛が縁まで満ちてプツプツ音をたてていました。唇を近づけただけで、火傷をするでしょう。サタンが側にいて、『イエスよ。その杯を飲めるか?のーめーるーかー?』」とやりました。会衆はドン引き状態でした。植竹先生は「サタンに対するイエス様への誘惑があまりにも強かったので、近くにいた弟子たちは目を開けていることができなかった」というのです。イエス様は「できれば、十字架にかからずに、贖いのわざを成し遂げることができないだろうか?」と誘惑を受けたのです。それほど、人類の罪を負って、神さまから捨てられるのが怖かったからです。

 イエス様は誘惑を退けるために必死に祈りました。ルカ福音書には何と書いてあるでしょう?ルカ22:43,44「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」弟子たちは頼りにならなかったので、御使いが助けてくれました。イエス様が苦しみもだえて、いよいよ切に祈られましたが、その汗が血のしずくのように地面に落ちました。汗に血が混じっていたとも考えられますが、おそらく血のようにボタボタと落ちたということでしょう。イエス様はサタンの誘惑を退け、杯を飲む決心をされました。でも、弟子たちはどうだったでしょう?また、寝入っていました。「お祈りが、おい寝り」になっていたのです。徹夜祈祷会ではよくあることです。イエス様は「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と命じておられました。でも、弟子たちは眠って、祈り続けることができませんでした。どうなったでしょう?やがて来る誘惑に負けました。この後、イエス様は祭司長が遣わした人たちに捕えられます。ペテロはちょっとだけ抵抗しました。マタイ26:56「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」と書いてあります。少し前、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と誓っていました。しかし、「イエス様を知らない」と3度も否定しました。ペテロは自分も捕えられて殺されるのではないかと恐れたからです。ペテロは一生の不覚、大失敗、大失態を犯してしまいました。なぜなら、ゲツセマネで十分に祈っていなかったからです。他の弟子たちも同じです。

 イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と言われました。私たちはどのような誘惑に遭遇するでしょうか?サタンは私たちの弱点を知っています。お金に弱い人がいます。性的な誘惑に弱い人がいます。他には、怒りの爆発、プライド、臆病、諦め、嘘やごまかし…。サタンは「今が良ければいいじゃないか」と誘惑します。「後にどうなるかは」言ってくれません。大体、誘惑に負けて何かをしでかした後、「ああ、何てことをしたんだ」と頭をかかえることになります。つまり、誘惑に会ったときは、サタンにやられて自動的に反応することが多いのです。だから、誘惑に会うその前に、祈っておく必要があるのです。だれかと会う前、何かを始める前に、ちょっと静まって祈ると大分違います。イエス様の場合は、十字架に付けられるとても重要な局面でした。だから、サタンも全力で妨げようとしたのでしょう。私たちも普段から、誘惑に陥らないように祈っている必要があります。私たちは聖日礼拝の最後に主の祈りを賛美します。その時、「試みに会わせず、悪より救い出しー」と賛美します。一週間、一回でも、そのように心をこめて賛美するならば、何と幸いでしょう。みなさんが、「試みに会わせず、悪より救い出しー」と賛美する瞬間、私たちの生活全部が聖霊様によって点検される時ではないでしょうか?あの賛美は私たちの願いであり、祈りです。賛美した直後、忘れるかもしれませんが、神さまには届いています。「目をさまして祈っていなさい」とは、イエス様につながっているということです。つまり、それは私たちが気づかないところを、イエス様が守って、誘惑から遠ざけてくださるということです。誘惑に負けない方法は、アルソックやセコムではありません。イエス様の名前で祈ることです。そうすれば、イエス様が共にいて守ってくださいます。

2.みこころがなるように

 後半はゲツセマネでのイエスさまの祈りについて学びたいと思います。他の福音書よりも、マタイの方が詳しく書かれています。イエス様は3回同じことばで祈りましたが、マタイ福音書にはその2回が記されているからです。1回目と2回目は微妙に違います。おそらく、3回目はもっと違っていたのではないかと思います。「杯を飲みます!」と迷いのない祈りだったのではないでしょうか。まず、最初の祈りを見て行きたいと思います。マタイ26:39「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」英語では、if it possibleとなっています。この祈りから福音書のある記事を思い出します。一人のお父さんが悪霊につかれた息子を癒してくださるようにイエス様にお願いしました。その時「ただ、もし、おできになるものなら」と願いました(マルコ9:22)。英語の聖書はIf you can doです。イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と答えました。ある聖書はAll things are possibleとなっています。イエス様は「もし、できるなら?」という中途半端で不信仰な祈りはお嫌いだったようです。しかし、イエス様ご自身がこのところで、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と御父に祈っています。おそらく、イエス様は父の御心を100%ご存じだったでしょう。なぜなら、そのためにこの地上に来られたからです。これまでも、何度か、ご自分が苦しみを受けて死ぬと弟子たちに予告しています。この期に及んで、何故、そのような気弱な祈りをするのでしょうか?しかも、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。私たちはイエス様がなぜ、中途半端で、迷っているような祈りをここでしているのか知る必要があります。

 まず、「杯を飲む」とはどういう意味か知る必要があります。聖書辞典には、このように書かれていました。「杯」という表現は、普通は杯の内容を指し、しかも、それを飲み干すべきものとして用いられる。旧約、新約両方において、象徴的に用いられる場合、「分け前」「分配」「運命」の意味を持つが、多くの場合、神のさばき、怒り、災い等、悲しみや苦しみを表すのに用いられる。そのように書いてありました。つまり、イエス様にとって杯を飲むとは、人類の代わりに罪を負って、神にさばかれて死ぬということです。私たちは罪の概念がそんなにありません。なぜなら、初めから罪の中で生まれ、知らずに罪を犯してきたからです。でも、イエス様は罪を知らないお方であり、常に御父と親しく交わっていました。でも、そこに罪が入ると、交わりが断たれ、御父から捨てられてしまうのです。おそらく、イエス様が一番怖かったのは、十字架刑の苦しみではなく、罪のゆえに父から断絶されて、地獄に落とされることだったのではないでしょうか?パウロはそのことをこう説明しています。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロは「人類の罪を背負ったのではなく、罪そのものとなった」と言っているのです。それは、私たちがとても体験できないことです。たとえば、赤ちゃんの皮膚と大人の皮膚は全く違います。もし、赤ちゃんの皮膚に熱湯がかかったならば、どうなるでしょう?大やけどになり、治っても、傷が残るかもしれません。大人はどうでしょう?「あっち!」と叫んで、耳たぶにあてます。その後、水道水で冷やすでしょう。ちょっと赤くなるか、ひどくて水ぶくれです。でも、赤ちゃんほどではないでしょう。それと同じで、1つの罪も経験したことがないイエス様が、全人類の罪をかぶるとなるとどうなるでしょうか?当然、他に方法はないのか、祈りたくなるでしょう。イエス様も、ありのままで、御父に祈ったのではないでしょうか?

 こういうことを言うと、「イエス様を冒瀆しているんじゃないか」とお叱りを受けるかもしれません。イエス様が躊躇した、もう1つ理由があります。それは、イエス様が私たちと同じ肉体を持っておられたということです。それは私たちと同じような感情や意志を持つということでもあります。私たち人間の生まれつきの性質は何でしょう?「自分だけは楽をしたい。自分だけは生き延びたい。自分だけは嫌われたくない。自分だけが良いと思われたい」ではないでしょうか?もちろん、私たちには理性がありますので、「いや、いやそうじゃない」と切り替えるでしょう。イエス様には私たちのような罪の性質はありませんでしたが、自由意志だけはあったと思います。それは神さまが与えた人間が持っている最高のものです。イエス様はその自由意志をどうしたのでしょうか?「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈りました。イエス様ははじめから「みこころがなるように」とは祈っていません。「杯を飲むのは嫌です。別の方法はないのでしょうか?」と自分の気持ちをそのままぶつけました。その後に、「みこころがなるように」と祈られたのです。二度目の祈りは何となっているでしょう?マタイ26:42「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」2度目の祈りは、your will be done.父なる神さまに明け渡しているような祈りです。つまりこういうことです。人間としてのイエス様の願いや考えがありました。もう1つは、父なる神の願いや考えがありました。人間イエスとしては、「杯を飲むのは嫌です。何も悪いことをしていないのに、他の人の罪なんか負いたくありません」です。しかし、御父の願いは「お前が身代わりに罪を負ってさばきを受けないと、人類の罪を赦すことはできない」であります。イエス様は頭では分かっていましたが、人間としての性質上、葛藤がありました。でも、最後に自分の願いを諦め、御父の願いに譲ったのです。これを「明け渡し」と言います。英語ではsurrender「降参、降伏」です。つまり、イエス様は父の御心に降参したのです。

 旧約と新約聖書一日一章を書いた榎本保郎師がこのように言っておられます。イエス様は「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」と祈られました。この「しかし」は偉大な「しかし」です。もし、イエス様が「私の願うように」と、どこまでも要求していたらな、人類の贖いはなされなかったからです。「しかし」とご自分の願いを捨てて、御父のみこころを選び取ったので、人類の贖いがなされたのです。アーメンです。でも、イエス様ですら、ご自分を明け渡すまで、血のしたたりのような汗を流し、小一時間祈る必要がありました。人間の意志がどれだけ頑固なのか、このところから知ることができます。私たちはイエス様が人間性に必死に格闘して、「しかし、みこころがなるように」とご自分を明け渡して下さったことを感謝しなければなりません。ヘブル人への手紙にはイエス様がまことの大祭司となるために、苦しまれたということが何か所にも記されています。ヘブル5:7-10「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」このところに記されている「大きな叫び声と涙とをもって祈り」は、ゲツセマネの祈りのことを言っているのではないかと思います。あのイエス様ですら、多くの苦しみによって従順を学ぶ必要があったということです。イエス様は私たちが受ける苦しみや誘惑を通られたので、まことの大祭司になることができたのです。

 あなたにとってのゲツセマネは何でしょうか?父なる神のみこころが聖書からはっきりと知っているにもかかわらず、「いやです」と自分の意思や願いを曲げないところはないでしょうか?もし、それが人生を左右するものであったら、大変なことであります。イエス様は「大きな叫び声と涙とをもって祈り」ました。ゲツセマネの祈りには、恥も外聞も、体裁もありません。イエス様は身を投げ出して、自分の思いをぶちまけました。あなたは、そのような神さまと親しい関係を持っているでしょうか?もしかしたら、「あなたのみこころがなりますように」と良い子ぶった祈りをしているのではないでしょうか?そのような祈りは、表面的なものであって、誘惑に会ったら全部吹き飛んでしまうでしょう。そうではなく、心の奥そこにあるものをぶちまけるのです。大きな叫び声と涙とをもって祈るのです。もし、自分の意思や願いが間違っていると分かったなら、その時、「あなたのみこころがなりますように」と父の御心を選択しなければなりません。イエス様は十字架を前にして、このように祈る必要がありました。イエス様はご自分の願いを捨てて、「杯を飲み干す」と決断されました。言い換えると、罪をかぶって十字架で死ぬ覚悟ができたのです。この後、イエス様は捕えられ、不当な裁判を受け、鞭でたたかれ、十字架を背負わされてゴルゴタまで行進します。ローマ総督のピラトが驚きました。「ひとことも」言わないからです。普通、十字架刑を受ける人は「やめろ!俺は悪くない。助けてくれ」と願うものです。ピラトはユダヤ人の妬みが原因であり、この人には罪がないことを知っていました。なのに、イエス様は「ひとことも」言いませんでした。それは、イエス様が十字架で身代わりに死ぬ覚悟ができていたからです。十字架の前に、ゲツセマネの祈りがあったからです。あなたのゲツセマネは何でしょうか?お産する直前、手術を受ける直前、あるいは重大なことに備えるためでしょうか?何にしても覚悟が必要です。それは、父なる神に完全に明け渡したときに与えられるものです。