2018.2.11「ユダの裏切り マタイ26:47-56」

 過ぎ越しの祭りのときは満月なので、その夜は月が煌々と照っていたと思われます。イエス様は敵たちが近づいてきたことを超自然的にご存じでした。だから、「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と弟子たちに告げました。しかし、残念なのは弟子のユダが彼らの手引きをするために先頭に立っていたということです。まもなく、イエス様は犯罪人のように捕えられてしまいます。十字架の前にこのような悲しいことがあったのです。

1.ユダの裏切り

 何故、ユダがイエス様を裏切ったのでしょう?J.Sスチュアートは『受肉者イエス』という本の中でこのように解説しています。「ペテロ、アンデレ、その他の弟子たちと同様、ユダがキリストへの服従のためにすべてを投げ打った時があった。イエスのために、ユダは家庭、親族を捨てた。この決断には、確かに地上の王国への望みが働いていた。それよりも重大な事実は、ユダに対するイエスの評価への事実である。ユダの中に真の使徒の素質を見出していた。」ある人たちは、「イエス様はあえて自分を裏切るユダを選だのだと」言います。「ユダがいないと十字架の贖いもない」と言うなら、安っぽい舞台劇になるでしょう。そうではなく、イエス様は他の11人を召されたのと同じ理由で、ユダを弟子として召したのです。ユダは、最初、弟子となったとき、可能性を持った神の人でした。では、どこからおかしくなったのでしょうか?ヨハネ6章には、わずかなパンで5000人の人たちを養った奇跡が記されています。その時、人々は「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエス様を王にしようとしました。直後、イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちをもっています」と告げました。それを聞いた弟子たちの多くは「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と躓いて去って行きました。ペテロは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたが神の聖者であることを知っています」と告白しました。しかし、ユダは「ああ、絶好の機会は永遠に失われてしまった。これまで何度も『エルサレムで死ぬ』と告げていたけれど、やっぱり本当だったんだ」とがっかりしたでしょう。その時からユダは心に怒りと憎しみと敵意を抱くようになったのでしょう。これが忌まわしい裏切り行為の、真の動機を暗示するものです。ある人は「動機は金銭欲だった」と言うかもしれません。でも、銀30枚は安すぎます。当時、銀30枚は奴隷を売る時の額でした。お金よりも憎しみと復讐心であったことは間違いありません。

 しかも、このところには、はっきりとユダのイエス様に対する裏切りの動機が見えます。何とユダは、当時の社会で信愛の情を表す「口づけ」で裏切ったからです。マタイ26:48-50「イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、『私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ』と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。」他の方法もあったでしょう。でも、あえてユダは、口づけを合図にしたのです。イエスさまは「友よ。何のために来たのですか」と言われました。なんと、自分を裏切る者を「友よ」と言うなんてありえるでしょうか?ローマのカエサルは「ブルータス、お前もか?」と言ったそうです。しかし、イエス様は最後までユダを信じていました。つまり、イエス様は最後まで悔い改めのチャンスを与えておられたのです。もちろん、イエス様はユダの心を知っていました。最後の晩餐のときも「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。でも、ユダの心には既にサタンが入っており、もう引き返すことはできませんでした。イエス様はゲツセマネで十字架にかかる覚悟を決めました。一方、ユダはイエス様を裏切るために敵に渡す覚悟を決めたのです。「確信犯」のように、ユダは平気な顔をして、「先生、お元気ですか」と言って、口づけしたのです。ユダはその時、裏切りにおける快感を覚えたのではないでしょうか?「こいつのおかげで、俺の人生が無駄になった。3年間、いや俺の一生を返せ!」という、憎しみと復讐心でいっぱいでした。後でユダは「義人を売った」と後悔します。でも、この時は、してやったりという、裏切りの快感を味わったのではないでしょうか?私たちの人生において、人を裏切ってしまったり、裏切られたりすることが何度かあったと思います。裏切ってしまったことは忘れても、裏切られたことは良く覚えているものです。なぜでしょう?裏切ったのは自分なりの正統な理由があったからです。たとえば、「私が裏切るのは、相手がその前に私を裏切ったからだ」と考えることもあるでしょう。ユダも「私もイエスから裏切られたので、これでお相子だ」と思ったのではないでしょうか?

 しかし、私たちはこのところから、弟子の一人から裏切られたイエス様の思いがいかばかりなのか知る必要があります。なぜなら、イエス様は可能性と期待を持ってユダを弟子の一人として選んでいたからです。この世では子どもが悪いことをすると「親の教育が悪いからだ」と批判します。同じように弟子が悪いことをすると、「ああ、その師匠も大したことないなー」と思うでしょう。後代の人たちも、「あの神の教師であられるイエス様でも、12人をまともに訓練できなかったんだ」と言うでしょう。良く見ると、イエス様を残して、全員の弟子が見捨てて、逃げたのですから、「え?」と思います。イエス様の心の痛みは、逃げ去った11人よりも、直接、裏切ったユダにあったのではないでしょうか?イエス様はかつて、「しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」とおっしゃっていました(マタイ26:24)。イエス様がそのようにおっしゃるのは全人類でそんなにいないのではないでしょうか?イエス様はほとんどの人たちを「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)とおっしゃっているでしょう。でも、ユダは「そういう人は生まれなかったほうがよかった」とおっしゃいました。これはよっぽどのことであります。つまり、それほどイエス様にとって大きな悲しみであったということです。イエス様は、すぐ十字架に付けられて殺されたのではありません。ユダの裏切り、それに続く捕縛、不当な裁判、嘲笑、ローマの裁判、むち打ち刑、ゴルゴタへの行進、それから十字架の死です。十字架だけでも大変なのに、このようにして、悲しくて嫌な思いをするというのは何故でしょう?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」と書かれています。この「悲しみの人」というところに、「ユダの裏切り」があるのではないかと思います。

 私たちも人生を振り返ると、「ああ、裏切られたなー」という経験があるのではないでしょうか? 昨年の12月の半ば、夜散歩をしながら、牧師になってから、何人から裏切られたか数えていました。そういう人というのは名前をちゃんと覚えているものです。もちろん、「あれでも牧師か?」と私に躓いて去った人たちもたくさんいるでしょう。でも、先ほども申しましたように、人を裏切ったことは忘れても、裏切られたことは残っています。なぜでしょう?そこには悲しみや痛みがあるからです。その人に対する怒りとか憤りは、すぐ消えるかもしれません。しかし、悲しみや痛みというものは、なかなか消えないものです。「心がうずく」と言いますが、そういう痛みがあります。でも、イエス様は人から裏切られ、言葉で言い表せないほど、ひどい目に会われました。イエス様が「悲しみの人で病を知っていた」というのは何と言う慰めでしょう。その病は肉体だけではなく、心の病も含むのではないでしょうか?この世にはすばらしいカウンセラーの先生方がおられると思います。そういう先生に聞いてもらって、癒される道もあります。でも、もう一度、人の前で再現するのも辛いものです。でも、イエス様はこれまでのことと自分の悲しみと痛みを良くご存じです。やっぱり、イエス様に話すのが一番です。

詩篇56:8-9「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。」この詩はダビデが書いたものと思われますが、はっきりと「敵」がいることを書いています。同時に、神さまが「味方なんだ」とも書かれています。私たちはヒューマニズム、人本主義に陥ってはいけません。人生においては自分を裏切るような「敵」はいるということです。でも、いつまでも憤って、苦味を持っているならば、自分が参ってしまいます。ですから、そういう出来事を神さまにお委ねするのが一番です。そして、自分の悲哀と申しましょうか、その涙は、イエス様が皮袋にたくわえてくださいます。つまり、ちゃんと覚えておられ、慰めてくださるということです。イエス様はずっと一緒だった弟子のユダから口づけで裏切られました。確かに、悲しいことですが、私たちにとっては大きな慰めです。イエス様が私たちの痛みをご存じだからです。

2.イエスの捕縛

 イエス様を捕えに来た人たちはどんな人たちだったでしょうか?彼らはローマ兵ではなく、神殿警察とその手下です。聖書には「祭司長、民の長老たちから差し向けられた群衆。剣や棒を手にした大勢の群衆」と書かれています。ヨハネ福音書には「一隊の兵士」と書かれていますが、ローマの軍隊では600人です。そんなに大勢でイエス様お一人を捕えに来たのでしょうか?おそらく、彼らはイエス様には奇跡を行なう力があると知っていたかもしれません。「もし、抵抗されても600人もいれば、大丈夫だ」と思ったのでしょう。しかし、イエス様は人を傷つけるために抵抗するような人でしょうか?あえて、剣や棒を持って来たのは、「イエスは犯罪者だ」ということをアピールしたかったのでしょう。その時、弟子の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落としました。ヨハネによる福音書には「弟子とはシモン・ペテロである」と書かれています。「すごい勇気があるなー」と思います。相手の耳を切り落としたのは下手だったのかもしれません。なぜなら、彼の本職は漁師だったからです。でも、殺さなくて良かったです。イエス様は、剣を収めるように命じてから、その人の耳を癒されました(ルカ22:51)。それからどうおっしゃったでしょう?マタイ26:53-54「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」イエス様を捕えに来た人たちの数は、1軍団、600人でした。イエス様がおっしゃる御使いの数は12軍団以上であります。単純に計算すると、7,200人であります。天使一人でもかなわないのに、12レギオン、12軍団です。旧約聖書に、アラムの軍隊がエリシャを取り囲んだという記事があります。エリシャは召使の目を開けてあげました。「彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」(Ⅱ列王6:17)とあります。イエス様は父なる神さまに、天使を遣わして下さるように願うこともできました。でも、それをしませんでした。なぜなら、聖書のみことばが実現されなくなるからです。イエス様は56節で「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」と繰り返されました。

 私たちはこのところから、イエス様は無理やり捕えられたのではなく、自ら進んで捕えられたということを知るべきです。でも、感情的にはイヤーな思いがあったと思います。イエス様はあとから「私は毎日、宮で座って教えていたのに、どうして私を捕えなかったのか」とおっしゃっています。彼らは人々の目を恐れ、真夜中に、大勢でイエス様を捕えに来たのです。この兵士たちはどう人たちだったでしょう?祭司長、民の長老たちから差し向けられた、神殿警察や役人たちです。おそらく腕に自信のあるユダヤ人も一緒だったでしょう。彼らのトップは神さまに仕え、人々に律法を説く人たちでした。「人を殺してはならない」とか「偽証を立ててはならない」と教える人たちが、逆のことをしているのです。神をも恐れないというか、イエス様に対する嫉妬心と怒りで、正義なんかどうでも良くなったのです。ペンテコステの後、ステパノが説教しました。その時「あなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました」と彼らに説教しました。人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯切りしました。そして、ステパノを町の外に連れ出して、石で打ち殺しました。彼らはイエス様にしたことをステパノにもやったのです(使徒7:52-58抜粋)。宗教的指導者たちはイエス様に対する嫉妬心と怒りで、とにかく捕えて、殺してしまおうと思っていたのです。もし、私だったら「神に仕える者が、何ということを!赦せない!」と思うでしょう。イエス様は不当な扱いを受け、言わば不条理の真ん中におられたのです。ユダの裏切りには、悲しみと痛みがあったことでしょう。また、兵士を遣わした指導者たちには、怒りと憤りを持っても当然だと思います。私たちは警察など国家権力から不当な扱いを受けることがあるかもしれません。でも、逆らったらもっと罪が重くなります。彼らは権力を持っていることを良いことにもっと横暴な振る舞いをするかもしれせん。その怒りと憤りをどこに持っていったら良いのでしょうか?幸い私などは交通違反の切符ぐらいですが、ある人たちは濡れ衣を着せられる人もいるでしょう。今はそんなにないかもしれませんが、取調室でひどい扱いを受ける場合だってあるでしょう。しかし、相手が大きすぎると、どうにもなりません。日本には「お上には逆らえない」とか「長いものには巻かれろ」という諺があります。日本人はそうやって、自分なりに納得して生きているのではないでしょうか?では、イエス様は「長いものには巻かれろ」風だったのかと言うとそうではありません。何という低くて温和な物越しなんでしょう。一言も反論したり、罵倒する言葉さえありません。本来なら、十二軍団よりも多くの御使いを、ご自分の配下に置いていただくことができたのに、それをしませんでした。自分から進んで捕えられたという感じです。その理由はイエス様に対するみことばの成就です。54節「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」。56節「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現されるためです」。アーメン。

 そうです。イエス様は、御父に願って12軍団の御使いを遣わしていただいて、兵士たちを一網打尽にすることも可能でした。もし、それをしたなら、ご自分が人類の贖いをするために来られたという神のみこころが実現しなくなります。既に、ゲツセマネでの祈りで「杯を飲みます」と決断されていたので、覚悟ができていたのです。でも、十字架の前に、このような不当な使いを受けるということはイヤだったのではないでしょうか?いや、それらも覚悟していたのです。これから受ける不当な裁判、嘲笑、ローマの裁判、鞭打ち、ゴルコタまで十字架を運ぶこと、全部です。私たちはすぐ「イエス様は十字架にかかって死なれた」と言うかもしれません。でも、すぐではありませんでした。そこまで神の子としてのプライド、権威、立場、さんざんでした。ペテロはそのことを後で手紙に書いています。なぜなら、ポント、ガラテヤ、カパドキヤに散って寄留していた人たちがひどい試練に会っていたからです。ペテロが彼らにこう勧めています。Ⅰペテロ2:22-24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」ペテロも、イエス様が十字架の前にさんざんな目にあったことを書き記しています。でも、イエス様は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。本来なら、神の子の権威を行使することができました。間違ったことをしている宗教家たちをめちゃめちゃにすることもできたのです。でも、それをしなかったということは私たちの慰めであり、また救いではないでしょうか?イエス様は「長いものには巻かれろ」と泣き寝入りしたのではありません。人間イエスですから、不当な使いを受けることの怒りや憤りの感情もあったでしょう。でも、それらを克服して、「正しくさばかれる方にお任せになりました」。興味深いことに、イエス様は「彼らを赦す」とはおっしゃっていません。正しくさばかれる神さまにお任せになったということです。つまり、その不当な扱いをしている人たちの罪を神さまのさばきに委ねたということです。ここが重要です。多くの教会は「キリストのゆえに赦しなさい」と勧めます。もちろん、私たちは「主の祈り」のように、人の罪を赦さなければなりません。でも、順番というか、手続きがあることを忘れてはいけません。まず、「正しくさばかれる方にお任せする」ということです。そうすると、自分の中にあったどうしようもない怒りと憤りが消えて、赦すことができるようになるのです。不当な扱いを受けて生じてしまった怒りと憤りを押さえつけてはいけません。押さえつけるので、他のだれらに転化するか、自分が病気になるのです。ちゃんとさばいてくださる神さまに訴え、神さまからさばいていただくのです。その後、赦すという選択を取るのです。そうすると、赦すことができます。どうしても私たちの正統性を認めてほしいという感情があるので、赦すことができません。赦すためには順番が必要です。旧約聖書には「主はvindicator弁護者である」と何度も書かれています。Vindicateには「…に対する非難や汚名を取り去る。汚名や嫌疑などから免れさせるという意味があります。

きょうのメッセージは、イエス様が弟子のユダによって裏切られるという記事からでした。私たちはイエス様の悲しみと痛みを多少なりとも知ることができました。問題は、私たちがある人から裏切られたことを今も根を持っていないか?ということです。言い換えると、心から赦していないということです。そのため、時々、思い出しては憤慨や悲しみがぶりかえすかもしれません。私は高校3年生のときですが、母が一階から二階にいる私に吐き捨てるように言いました。「やす。お前が一番親不孝者だった。他の兄弟はみんな我慢したのに、なんでお前は我慢できないのか。ああ、情けない」と言われました。私は友達が持っている同じものを買ってくれと母を困らせました。母は隣からお金を借りたりしていました。「ああ、情けない」と言われたとき、「あれだけ田んぼや畑、家のことを手伝ったのに…」裏切られたなと思いました。他にも「ああ、裏切られたな」という痛みを覚えることがいくつかありました。思い出す度に辛くなります。みなさんの中にも信頼していた人から裏切られたという心の傷がうずいている人がいるのではないでしょうか?イエス様は悲しみの人で病を知っていました。イエス様も人から裏切られ、捨てられました。イエス様が、あなたにおっしゃっているかもしれません。「私に免じて、赦してやりなさい。もう、その怒りと悲しみを手放しなさい」と。「はい、わかりました。私を裏切ったあの人を赦します。私にひどいことをしたあの人を赦します」。そのような祈りをしようではありませんか。主の愛が今、あなたを包み、打たれた傷がいやされますように。嘆きや悲しみが逃げ去りますように。