2018.2.18「真夜中の裁判 マタイ26:57-68」

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と告白したことがあります。イエス様はその告白を聞かれ、大変喜ばれました。しかし、その直後、イエス様は「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受ける」と弟子たちに予告しました。まさに、本日の聖書箇所はそのことが記されています。イエス様はどのような苦しみを受けられたのでしょうか?きょうは、「偽証」「拒絶」「辱め」の3つのポイントで学びたいと思います。

1.偽証

 イエス様はゲツセマネの園において、下役どもによって捕えられました。何と弟子のユダが彼らを先導していました。イエス様は彼らを蹴散らすこともできましたが、聖書のことばを実現させるために、あえて捕えられました。残念ながら、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。マタイ26:57-59「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。」これは、いわば宗教裁判です。キリスト教会の歴史の中で忌まわしい宗教裁判が数えきれないほど開かれましたが、きょうのものがその原型と言えるでしょう。まず、裁判は夜が明けてから開くというのが決まりでした。ところが、彼らは真夜中、非公式に集まったのです。59節に「祭司長たちと全議会」とありますが、これは70人で構成させるサンヒドリン議会です。議長が大祭司のカヤパでした。ヨハネ福音書には元大祭司のアンナスも関わっていたことが記されています。もっと不当なのは審議する前から結論が出ていたということです。仮にも神さま仕える人たちが、神の子イエスを死刑にするために、裁判をするとは何事でしょう。しかも、弁護人もいません。パウロはイエス様のことを「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエス」(Ⅱテモテ4:1)と言っています。生殺与奪の権を持っておられるお方を、人間が裁こうとしています。しかし、まだ、この時は王なる権威を受けていませんでした。そのため、人間イエスとして不当な裁判を甘んじて受けられました。

 それにしても、人を死刑にするために偽証をたてるとは一体何事でしょう。十戒の6番目は「人を殺してはならない」です。そして、9番目は「偽りの証言をしてはならない」です。最低でも十戒の2つは破っていることになります。彼らは「なりふり構わず」と申しましょうか、妬みのゆえに目の前の邪魔者を殺そうとしました。60-61節、偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」「偽証者がたくさん出てきた」ということは、議員の中に「嘘つき」がたくさんいるということです。残念ながら、だれもイエス様に罪を見出すことができませんでした。最後にふたりの者が進み出て、「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」このことはヨハネ2章にありますが、「イエス様はご自分のからだの神殿のことを言われた」と解説されています。まさしくこれは、キリストのからだなる教会のことです。弟子たちはイエス様が復活した後で分かりました。でも、これが死刑になるような罪ではありません。『ガリバー旅行記』という本があります。リリパットという小人の国に捕えられます。横たわっているガリバーを細い糸で縛っている絵を見たことがあります。実はこれはイギリスの政治を風刺したものだそうです。当時、イギリスは「大英帝国」として世界を支配していました。でも、それは神さまから見たら小人に等しいということでしょう。長老、祭司長、律法学者たちがこぞって、イエス様を死刑にするために罪をでっちあげようとしています。でも、目の前のお方は、神の子イエス、全く罪のないお方です。でも、イエス様はひとことも答えず、ただ黙っておられました。なぜなら、イエス様はご自身が罪となることを覚悟しておられたからです。

 偽証をたてられても黙って耐えるイエス様は、私たちの模範でもあります。山上の説教でイエス様なこのように言われました。マタイ5:10-11「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」私は、テレビ・ドラマはほとんど見ません。特に韓国のドラマは絶対に見ません。なぜかと言うと、そこには主人公を陥れる人が必ず出てくるからです。嫉妬深い人や意地悪をする人も出てきます。彼らは嘘偽りを言ったり、何か策略を設けるのです。私はドラマに入り込み、現実との区別ができなくなり、胸が締め付けられる思いがします。だから、テレビ・ドラマは見ないのです。例外として、時代劇の勧善懲悪ものは良く見ていました。遠山の金さん、大岡越前、必殺仕掛け人、隠密同心…。でも、最近は馬鹿らしくなりました。ストーリーがあまりにも単純だからです。前半は、理不尽にも人が殺されます。最後に仕返しがあり、正しい報いを与えます。昔は良く見ましたが、心が癒されたせいか「もういいや」と思えるようになりました。イエス様が何を言われてもだまっておられたのは何故でしょう?それは、ご自分の中にしっかりとした義と真実があったからです。人間イエスにとって裁判官は父なる神さまでありました。イエス様は、正しく裁く父なる神さまにゆだねておられました。だから、偽証をたてられるようなひどい裁判をも耐え忍ぶことができたのです。そのため、イエス様は不当な扱いを受ける私たちの苦しみを良く御存じであり、私たちを必ず救ってくださいます。しかし、今はどういうお方でしょう?復活・昇天されたイエス様は王なるキリストです。父なる神さまはイエス様に天においても地においてもいっさいの権威をお与えになられました。現在はイエス・キリストがさばき主であられます。しかし、同時にイエス様は救い主であられます。私たちのために十字架ですべての罪をあがなってくださったからです。このイエス様が私たちの罪を赦し、同時に神のみ前で弁護してくださるのです。

2.拒絶

 マタイ26:62-66そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。大祭司カヤパは事件を審理する裁判官であり、同時に検事側の指導者でもありました。証人たちの間に一致が見られず、罪が現れない場合には、裁判を放棄するのが法廷の義務でした。ところが、カヤパは有罪判決をするために裁判長の地位を占めていました。かつてカヤパは「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策である」(ヨハネ11:50)と言っていました。裁判官は自ら先頭に立って、囚人となられた方に質問をし始めました。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」最後に、カヤパはとっておきの質問をイエス様に与えました。イエス様はこれまで、律法学者、パリサイ人、サドカイ人らから罠にかけられるような質問を度々、受けて来ました。この時も、もちまえの知恵によってかわすことも可能だったはずです。もし、このように答えたなら、死刑にされるというということを百も承知だったと思います。大祭司カヤパから伝家の宝刀を抜かれてしまったので、もう答えるしかありません。

 64節、イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」「あなたの言うとおりです」とは、ご自分が神の子キリストであることをお認めになられたということです。そして、その後のことばはそのことを預言しているダニエル書7章のことばです。ダニエル書7章では、「人の子」というのは、主権と栄光と国が与えられるメシヤのことです。難しいことばで言うなら、「人の子」は終末論的なメシヤの表現であります。ですから、同じことばがヨハネ黙示録1章にも記されています。黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」聖書で「雲」というのは、神の栄光を比喩していることばです。再臨のキリストは、栄光に包まれてやって来られるということです。大祭司カヤパも、そのことぐらいは知っていました。イエス様は二重の意味でご自分が神の子キリストであることを証しました。第一は、大祭司のことばに「あなたの言うとおりです」と答えたこと、第二はダニエル書から、ご自分が世の終わりにやって来るメシヤ、「人の子」であることを言ったからです。この2つを言われたなら、「ははー」と床にひれ伏すのが本当です。なぜなら、イエス様はご自分が神の子キリストであると宣言しておられるからです。

 しかし、どうでしょう?カヤパはそれを死刑の判決をくだすための最大の証言にしました。65節、すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。そうです。当時の考えでは、人が自分を神と言ったならば、冒瀆罪であり死刑になります。カヤパは演技なのかどうか分かりませんが、自分の衣を引き裂いて言いました。自分の衣を裂くときというのは、よっぽど悲しいことや、忌まわしいことが起きた時です。旧約聖書ではエステルのおじ、モルデカイも同じことをしました。すべてのユダヤ人が殺害され、滅ぼされるという勅令を知った時です。モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びました(エステル4:1)。おそらく、議会には「してやったり」という歓喜があったのではないでしょうか。「神の子キリストに死刑宣告を下して、何と言うことでしょう。どっちが神を冒瀆しているのでしょう」と言いたくなります。しかし、これが当時のイスラエルだったのです。一番最初引用しましたマタイ16章と同じことばが、マルコ8章にも記されています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ」(マルコ8:31)とあります。「捨てられ」はマタイ福音書には書いていませんが、マルコとルカ福音書には書かれています。「捨てられ」は英語ではbe rejectedです。Rejectは拒絶であり、イエス様は「拒絶された」ということです。何を拒絶されたのでしょうか?そうです。ご自分が「神の子キリストである」と証言したにも関わらず、ユダヤ人の指導者たちから拒絶されたということです。彼らは当時のイスラエルのいわば代表でした。イエス様は、宗教と政治と学問の指導者たちから拒絶されたのです。

 イエス様は拒絶を味われました。それは罪の贖いのためでありましたが、同時に私たちの慰めでもあります。あのイエス様が拒絶を味わったのです。私たちも人生において親や兄弟、先生、友人、仲間から拒絶されるときがあるでしょう。アイドルから拒絶されて、キレて、殺害にいたる人がいます。「こっちが真心からプレゼントしたのに、無視するとは何だ!」と怒るわけです。拒絶ほど深い傷はありません。それも親や信頼のおける親しい人からの拒絶です。それを何度も味わうと、過剰な反応をして、殺人まで犯すかもしれません。人を殺さない人は、自分を殺すかもしれません。それほど、拒絶は重くて、暗くて、辛い出来事です。しかし、私たちの救い主、イエス・キリストは拒絶を味われました。ヨハネ1:1「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とあります。でも、イエス様が「神の子キリストである」と受け入れた人にはどうなるのでしょうか?慰めと共に救いが与えられます。ヨハネ1:12 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」神さまの愛は無条件の愛であり、私たちの拒絶の傷を癒してくださいます。

3.辱め

 マタイ26:26-70そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。次週の聖書箇所まで読んでしまいましたが、イエス様が長老、祭司長、下役どもから辱めを受けているそのときです。なんと弟子のペテロは「イエスなんか知らない」と否認していたのです。イエス様はあとでローマ兵たちからさんざん馬鹿にされ嘲弄されますが、その前にユダヤ人たちからこのようなひどい扱いを受けました。つまり、イエス様は十字架にかかる前、2度にわたって辱めを受けたということです。第一はユダヤ人から、第二は異邦人たちからです。しかし、同胞のユダヤ人から、しかも神さまに仕える人たちから、このような辱めを受けるとは何ということでしょうか?私は福音書からメッセージするとき、JCライルの本を読むことにしています。彼は今から約200年前、1816年生まれのイギリスで活躍した説教者でした。この箇所の解説において、ライルはたくさんの表現を用いています。mockery侮り、ridiculeあざけり、insult辱め、contempt侮辱、indignity不面目などです。Indignityの反対は、dignity「尊厳」「高貴」「気高さ」という意味です。イエス様は神の子キリストであり、dignityが相応しいお方です。「尊厳」「高貴」「気高さ」を受けるべきお方が、不面目とは何事でしょう。もし、人から顔につばきをかけられたらどうしますか?こぶしでなぐりつけられたり、平手で打たれたらどうしますか?

 昨年の末、テレビやニュースを騒がせたのは横綱の暴力事件です。最初はビール瓶で殴打されたとスポーツ新聞に載りましたが、本当はリモコンで殴ったということでした。白鵬関が「物で殴ってはいけない」と制止したそうです。数分間、手で殴っていたのは黙認されていたということです。リモコンで頭が切れたので問題になったということでした。結果的に「暴力は絶対ダメ」ということになったようですが、大分、基準がいい加減だったということです。殴られた力士がかなり経ってから「地元高校の関係者の前で暴行を受け、恥ずかしかった」と述べていました。稽古場ならともかく、公衆の面前で叩かれたわけです。親方が怒ったのは「我が子のように可愛がっている弟子が、他の部屋の人たちから辱めを受けた」という感情があったからではないかと思います。日本人だけではないかもしれませんが、公の面前で恥をかかされるというのは、嫌なものです。私も学校ではしょっちゅうみんなの前で叱られました。私の場合は、見せしめであり、私を叱ったら、他の生徒が黙るという構図だったのかもしれません。「私を叱っても良い」と顔に書いてあったのかもしれません。indignity不面目ということばは、ジーンと心に響いてきます。日本では面目丸つぶれと言いますが、そういうことです。イエス様も人々から叩かれましたが、肉体の痛みよりも、心(感情)が傷ついたのではないでしょうか?何度も申し上げていますが、イエス様はすぐ十字架にかかって死なれたわけではありまでん。その前に、弟子たちから裏切られ、不当な裁判を受け、このような辱めを受け、鞭で打たれた後、ゴルゴタの丘に上ったのです。十字架の直前まで、人々は「もし、神の子なら十字架から降りて、自分を救ってみろ」とあざけりました。私だったら「こんなのやっていられるか!」とケツを割るところでしょう。表現はゲスですが、「救い主なんかやめて帰りたい」ということです。イエス様はよく我慢しておられたなーと思います。

 でも、イエス様はそうなることを地上に来る前からご存じだったのかもしれません。イザヤ書53章は「苦難のメシヤ」と言われています。地上に来られるメシヤがこのような苦しみを受けるという預言が記されています。イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」このところから、イエス様が受けた拒絶と辱めと不面目を知ることができます。つまり、イエス様はたまたまではなくて、そういうことがあることをちゃんと覚悟して来られたということです。だから、だまって何もおっしゃらなかったのです。イエス様の本当の強さがそういうところにあるのだと思います。すぐ、かーっとなったり切れたりするのは、弱い証拠なのかもしれません。自分の世界が壊れそうなので、反抗したり、防御するのです。イエス様の場合は、だれから何を言われても、何をされても揺るがない「世界」があったのではないかと思います。「世界」と聞くと、ちょっと聞きなれない方もおられると思います。言い換えると「自分はだれであり、何のために生きているか」ということです。私たちの場合は、父なる神さまによって「自分はだれであり、何のために生かされているか」と言うふうになります。イエス様は神さまなので、だれからも承認される必要のない「ある」というお方でした。「ある」はヘブライ語で「ハヤー」であり、ヤーウェ(主)と関係があることばです。つまり、「自存性」と言って、だれからも存在させられないお方です。でも、イエス様は地上にあっては、人間イエスであったので、そうではありませんでした。父なる神さまがご自分を支持し、ご自分を認めておられました。ですから、このときは、父なる神さまに全幅の信頼を置いて、罪の贖いのために自分をささげておられました。だから、人々から偽証をたてられ、拒絶され、辱めを受けても耐え忍ぶことができたのです。もちろん人間イエスとしては、辛いし、悲しいし、悔しいし、嫌な思いはしたはずです。でも、「自分はだれであり、何のために生きているか」ということを知っていたのです。

私たちはイエス様と全く同じではありません。しかし、イエス様が父なる神さまに全幅の信頼を置いていたからこそこれらの試練を乗り越えることができました。みなさんは自分の揺るがない世界を持っておられるでしょうか?主にあって「自分はだれであり、何のために生きているか」ということを知っておられるでしょうか?もし、そのことがはっきりしているならば、人々から偽証をたてられたり、拒絶されたり、あるいは辱めを受けたとしても、乗り越えられます。平気ではないかもしれませんが、イエス様のように勝利をすることはできると信じます。アーメン。