2018.2.25「ペテロの裏切り マタイ26:69-75」

 ユダはキリストを裏切った弟子として有名です。でも、ペテロもイエス様を裏切った弟子の一人です。なぜなら、イエス様を3度も知らないと否んだからです。イエス様はかつて、「人の前で私を知らないというような者なら、私も天におられる私の父の前で、そんな者は知らないと言う」(マタイ10:33)とおっしゃったことがあります。ペテロは自分こそはイエス様の一番弟子だと自負していたことでしょう。ところが、イエス様が捕えられたとき、自分の命を惜しんで、「イエスなんか知らない」と言ってしまいました。

1.ペテロへの誘惑

 ペテロは、一度は逃げました。でも、「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語していました(マタイ26:33)。そう言った手前、ペテロは戻って来ました。マタイ26:57-58「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。」周りが暗かったせいもあり、ペテロは自分の素姓を隠して中庭に入りました。中庭の真ん中には焚火がたかれ、さきほどイエス様をとらえた下役どもが火にあたっていました。ペテロは、何食わぬ顔をして、周りの人たちに加わりました。何という危険な状況でしょうか。イエス様を捕えた敵たちの真ん中に、弟子のペテロがいたのです。詩篇1:1「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」とあります。ペテロは、詩篇のみことばに反して、罪人の道に立ち、あざける者たちの座に着いていました。誘惑に勝利する一番良い方法とは何でしょう?それは誘惑に近づかないということです。誘惑と真正面から戦って勝てる人はいません。「君子危うきに近寄らず」、「逃げるが勝ち」とあります。でも、ペテロは遠くに逃げるのでもなく、身分を隠してその場にいました。それは、とても危険な状態でした。クリスチャンも、「自分がクリスチャンである」と言えない場所には近づかないことです。私はアリオの映画館ぐらいには行きますが、遊技場とか競輪・競馬には行きません。「先生、赤ペンを耳にはさんで、北松戸で降りたところを見ましたよ」ということはまずありません。秋葉原に行くときはありますが、パソコン店だけです。怪しげなカフェには絶対立ち寄りません。誘惑に勝利する一番の方法は、誘惑になるようなものに近づかないということです。

 何と、この誘惑は誰でもない、サタンがセットした舞台装置でした。ペテロはそのセットにはまってしまいました。ルカ福音書に書いてありますが、かつてイエス様はこのようにペテロに告げていました。ルカ22:31「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」サタンが神さまに弟子たちをふるいにかけることを願いました。何とそれが聞き届けられたというのです。ヨブ記にも同じような記事があります。サタンが主なる神さまのところへ行き、「しかし、あなたの手を伸べ、ヨブのすべての持ち物を打ってください。ヨブはきっと、あなたに向かってのろうに違いありません」と進言しました。すると、主は「では、彼のすべての持ち物をお前の手に任せよう」と言われました。同じように、サタンは神さまの許しを得て、ペテロを誘惑したのです。その誘惑の仕方(策略)はとても巧妙でした。サタンは、男性ではなく女性を用いました。聖書には「女中のひとり」とありますが、原文は「若い女奴隷、若いメイドさん」です。ペテロは油断しました。もし、公の場で「あなたはあの人の弟子ですか」と聞かれたら、「その通りです」と命を駆けて答えたでしょう。でも、薄暗い中庭の焚火のそばで座っていた時、若いメイドさんから何気なく聞かれました。「あなたも、ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」。彼女は「一緒にいましたね」と単純に聞いただけです。70節、しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。ペテロは真正面から否定してはいません。「何を言っているのか、意味がわからない」と言ったのです。ペテロはその場を去ろうとして、出口まで向かいました。でも、もう一人の女中が、彼を見て、そこにいる人々に言いました。「この人はナザレ人イエスと一緒でした」(マタイ26:71)。72節、それで、ペテロは、またそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。打ち消して、誓ったのですから、もっと強い否定になりました。ああ、何ということでしょう。ペテロは出るに出られず、焚火にまた戻されてしまいました。女中さんA、焚火から出口へ、女中さんB、出口から焚火へ。ピン・ボールのように弾き飛ばされました。73節、しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。3度目はもっと強烈で「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓いました。「毒を食らわば、皿までも」であります。

 聖書で「3」は完全数です。3度もイエス様を知らないと否んだのですから、完全に否んだということです。ペテロは、サタンが仕掛けた舞台装置に完全にはまって敗北しました。鶏が鳴いて、カーテンが降りました。スポットライトの下で、イエス様の言われたことを思い出したペテロは、激しく泣きました。ペテロはなぜ、誘惑に負けたのでしょう?いくつかの原因があげられます。第一は、祈って備えていなかったということです。イエス様はゲツセマネの園で「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタイ26:41)と命じていました。ところが、ペテロたちは目を開けていることができず、眠ってしまいました。イエス様はゲツセマネの園で十字架にかかる覚悟を決めていました。ところが、ペテロはそうではありませんでした。第二は、自分の弱さに気づいていなかったということです。イエス様が「あなたは私を三度知らないと言うよ」と予告していました。しかし、ペテロは「たとえ死んでも、あなたを知らないと決して申しません」と言っていました。そう言った手前、ペテロは大祭司の中庭に様子を見に行きました。そして、敵たちの中に座ってしまいました。つまり、信仰の欠けた中途半端な状態に身を置いていたのです。だから、サタンが設定した誘惑の罠にはまったのです。第三は、詩篇1:1にあるように「あざける者の座についていた」ということです。マタイ7:69「ペテロが外の中庭に座っていると、女中のひとりが来て言った」と書いてあります。彼はキリストをとらえた敵たちの中に座っていたのです。まさに、ロックオンです。女中さんが近づいて声をかけました。しかも「ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と遠回しに告げました。サタンの台本通りに、役者たちが演じました。1度否定したら、2度、3度と、止まりません。最後にはペテロはのろいをかけて誓いました。サタンのシナリオ通りに、幕は閉じました。いくら「誘惑に合わないように」と注意しても、はまる時ははまるんだなーと思います。この世でも、いわれのない罪を着せられたりします。電車の中の痴漢とか、ハニートラップとかあります。立場のある人であればあるほど、そういう誘惑がセットされたりします。

 しかし、誘惑に会うこと自体は罪ではありません。イエス様も悪魔から誘惑を受けました。マルチン・ルターは「空の鳥が頭の上を飛ぶのは妨げることはできない。それは鳥の権利だから。でも、その鳥が頭の髪の毛で巣を作るのはやめさせることができる」と言いました。誘惑は私たちの頭上を飛び交います。ビジネスマンは、電車に乗っても、会社に行っても、どこでも会うでしょう。学生だっていろんな友達がいます。また、最近はネット社会なので面識もない人たちとネットでつながっています。年若い人は、そういう被害にあっています。主の祈りにあるように、私たちは「誘惑に会わせず、悪より救い出したまえ」と日々、祈る必要があります。聖書をみますと、みんな誘惑に負けています。アブラハムも子どもが生まれないので、サラの提案を受け入れて、イシュマエルを儲けてしまいました。サムソンは、神に聖別された人でしたが、女性に弱い人でした。ダビデは理想的な王様でしたが、バテシバに目がくらみました。ヒゼキヤ王は快気祝いに訪れたバビロンの使者に宝物蔵を全部見せてしまいました。どうして誘惑が訪れるのでしょう?神さまがそうしているのでしょうか?ヤコブ1:13-16「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」自分の中に誘惑にひかれるような欲があるということです。ペテロにとってそれは、自分が一番弟子だというプライドだったかもしれません。結構、自分の強みだと思っている部分が、誘惑のターゲットになるということはよくあることです。なぜなら、弱い部分は慎重になりますが、自信のあるものは気がゆるんでしまいます。「大丈夫だ」と過信するからです。しかし、聖書の教えは処世術とか道徳倫理ではありません。だれでも、誘惑に合うことはあるということです。大切なのは、その時、神さまからの脱出の道も備えられているということを知るべきです。Ⅰコリント10:13「あなたがたの会った試練(誘惑)はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

2.ペテロへの御手

 ペテロはサタンの誘惑に負けてイエス様を三度も知らないと言ってしまいました。人々の前で、イエス様を知らないと言ったのですから、やがて天においてもイエス様から「あなたを知らない」と言われるでしょう。ペテロは我に返って、激しく泣きました。恩師を裏切ったこと、そして自分のふがいなさに泣いたのでしょう。ここで終わると、ユダと同じです。ユダもイエス様を売ったことを後で後悔し、「私は罪を犯した」と認めました。でも、ユダと違う点がいつくかあります。まず、イエス様はペテロに「あなたは私を三度知らないという」と前もって告げていました。同時に、イエス様は何とおっしゃっていたでしょう?ルカ22:32「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はユダには「そういう人は生まれなかった方が良かった」と言いました。しかし、ペテロのためには、彼の信仰がなくならないように祈りました。さらに彼が立ち直ったら、「兄弟たちを力づけるように」とまで言われました。このことばは預言であると同時に、ペテロへのordain聖定です。確かにペテロはサタンによってふるいにかけられます。ペテロは3度、私を知らないというでしょう。でも、それで終わらない。彼はやがて立ち直り、兄弟たちを力づける人になるんだということです。このことばのごとくペテロは初代教会のリーダーになります。ペンテコステの日、人々の前で大胆に説教し、一回で3,000人の人が救われました。ペテロにはリーダーシップという良い賜物が神さまから与えられていたのです。だから、イエス様はシモンと出会ったとき、「あなたはペテロ、岩である」とおっしゃったのです。シモンは風に揺らぐ葦という意味があります。確かにペテロは恐れのゆえに、イエス様を三度も知らないと否定しました。でも、その根底には、神さまが与えた岩のように大胆なペテロがあったのです。たとえ、一時的に誘惑に負けても、神さまの賜物と召命は失われることはないのです。

 でも、イエス様はあえてサタンの誘惑、つまりは試練の火を通す必要がありました。ペテロ自身が手紙の中でこのように言っています。Ⅰペテロ1:6-7「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」そうです。ペテロは試練という火の中で精錬されたのです。イエス様がサタンに許可したのは、ペテロを滅ぼすためではなく、精錬されて金よりも尊いものとなるためです。ペテロはイエス様の弟子たちの中ではリーダー的な存在でした。イエス様が「あなたがたは私を誰と言いますか」と聞いた時、ペテロが「あなたは生ける、神の御子、キリストです」と告白しました。その時、イエス様は大変喜ばれ、「あなたに天の御国の鍵を上げます」と言われました。また、夜の荒れた湖を歩いて来られる方がイエス様だと分かると、「私にそこへ行くように、命じてください」と願いました。大胆にもペテロは舟から降りて、数歩ではありますが水の上を歩いたのです。それからヨハネ6章で、イエス様は「私の肉を食べ、血を飲むものは永遠の命を持つ」と言われました。その時、多くの弟子たちが「こんなひどい言葉を聞いていられようか」と躓いて去って行きました。イエス様も弟子たちに「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました。すると、ペテロは「主よ。私たちがだれの所へ行きましょう。あなたは、永遠のいのちをもっておられます。あなたは神の聖者であることを信じています」と答えました。このように福音書には、ペテロが大胆な信仰を持ち、熱心な弟子であることがわかります。イエス様が捕えられる直前も「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っておりました。それは嘘ではなく、ペテロの本心であったと思います。ペテロはそうできると信じていたのです。

 では、イエス様はペテロの何を取り扱う必要があったのでしょうか?ペテロの自信過剰でしょうか?それとも、何でも主張したい自我でしょうか?あるいはシモンのようにすぐ揺らいでしまう弱さでしょうか。聖め派の教会では、「ペテロの古い自我が砕かれたんだ」と言います。私もその神学校に2年通っていたので「死ね、死ね」とよく言われました。でも、死ねませんでした。後から、自分で自分を殺すことはできないとわかりました。確かに、ペテロは自分の弱さを見せつけられ、古い自我が砕かれたと思います。だけど、砕かれっぱなしというのも辛いですね。聖め派は、砕かれることは強調しますが、再生されるほうが弱いです。砕かれた後は、ずっと謙遜でいなければならないのです。しかし、ペンテコステの日のペテロは、イエス様を三度も否定したペテロとは全く別人です。人々に「悔い改めなさい。曲がった時代から救われなさい」と大胆に説教しました。彼は試練の火を通過されて、不純物が取り除かれたのです。ペテロには一番弟子になりたいという自負心、野心がありました。彼の熱心は聖霊から来たものではなく肉でした。肉でもある程度まで行きます。人間には信念、自信、克己心、根性、生まれつきの才能があります。でも、肉はすべて古い人アダムから来たものです。この世において、スポーツとかあらゆるものは肉の力に源を置いています。人に負けたくない、悔しさをバネにする。自分の夢を叶える。トップに立つ。全然、問題ではありません。しかし、イエス様はヨハネ6章でこのように言われました。ヨハネ6:63「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」また、パウロもこのように言っています。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。」そうです。ペテロは肉、つまり古い人に頼るということをやめさせられたのです。「自分の肉の熱心さ、肉の頑張り、肉の信念…これじゃ無理だ。これでは神さまに仕えることはできない」とわかったのです。ペテロは激しく泣きました。それは自分の弱さ、肉の不完全さに気付いたということです。

 これで終わりだと、悔いただけで、まだ再生まで言っていません。古い人に死んだなら、こんどは新しい人に生きる必要があります。ペテロには信仰的な大胆さ、さらにはリーダーシップという良いものがありました。だから、イエス様は「あなたはシモンではなく、ペテロです」とおっしゃったのです。多くの人はペテロの弱さとか、ペテロの自我、ペテロの自信過剰について注目します。しかし、ペテロには神さまからとてもよいものも与えられていたことを忘れてはいけません。では、どうすることによって、ペテロは初代教会の大使徒になることができたのでしょうか?簡単に言うと、それはエネルギーの転換です。彼の弟子としての人生を支えていたものは肉でした。肉というのは古い人であるアダムに源を置くものです。たとえ、美しくて、能力があったとしても、そのエネルギーが間違っているなら、神さまの栄光を現すことはできません。さきほども「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません(ヨハネ6:63)」。「肉にある者は神を喜ばせることができません(ローマ8:8)。と申しあげました。肉でいくら頑張っても、何の益をもたらさないし、神さまを喜ばせることもできません。ペテロは弟子たちの中でスポークスマンのような存在で、何でも率先して行いました。しかし、今回、イエス様を三度も知らないと否定して、自分の弱さにとことん泣きました。彼は悔い改めました。どのように?これからは自分の力ではなく、イエス様の力により頼む者になると決断したのです。ユダは自分が犯した罪を後悔しまし、自分で責任を取りました。しかし、ペテロは後悔で終わらず、イエス様のところに行ったのです。ペテロは、言われたとおりガリラヤに向かいました。ガリラヤでもう一度、召命を受けなおしました。その時、イエス様から「私を愛するか?」と3度も問われました。自分がイエス様を否定した数と同じです。ペテロは心が痛くなり、「愛しますよ」とは言えず、「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。全く、受け身的な答えです。これは、「私はあなたの愛とあなたの力に、自分の源を置きますよ」ということなのです。いわば、エネルギーの転換と言うことができます。

 さらにイエス様は決定的な力の源を与えました。それは聖霊です。ルカ24:49「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ペンテコステの日、ペテロをはじめ弟子たちは、上から聖霊が臨んで力をいただきました。古い人、自我が砕かれて謙遜になることはすばらしいことです。ペテロは聖められたのです。でも、それだけでは、ペテロを大使徒とすることはできませんでした。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒1:8)。まさしく、ペテロは上から聖霊を注がれたときに、エリシャのようなマントを着たのです。ペンテコステの日、一回で3,000名の人が救われ、さらには足なえの人が歩き、5,000人が救われました。ペテロは初代教会のリーダーになり、まさしく兄弟たちを励ます人になったのです。これが神さまの計画です。誘惑に終わらず、癒され、全く新しい人になるのです。人生において誘惑に会って、ある時は敗けるかもしれません。しかし、イエス様は私たちの信仰がなくならないように祈っておられます。それだけではありません。イエス様はあなたに、成し遂げてもらいたい計画を持っておられます。かつては肉の力により頼んでいたかもしれません。しかし、立ち直ったあなたは、主により頼みながら勝利の人生を歩むことができるのです。