2018.3.4「後悔先に立たず マタイ27:1-10」

 ユダがイエス様を裏切った理由については、先月の礼拝で既にお話ししました。今日は、その後のユダについてです。正直、このような箇所は憂鬱になるので避けたいところですが、これが講解説教の醍醐味であります。伝道集会や特別集会では「ユダの裏切り」というテーマは絶対取り上げないでしょう。実はこういう暗いテーマの中に、キラリと光るものがあるのです。ダイヤとか金は地面にころがっていません。南アフリカのある金鉱は地下3,700メールもあるそうです。きょうは、鉱夫になったつもりで、暗い話題から宝を発見したいと思います。

1.イエスを売ったユダ

 1節と2節の内容は次週お話しいたします。マタイ27:3「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して…」とあります。日本語の聖書は「イエスを売ったユダ」と書いてあります。英語の聖書はbetray「裏切る」です。ギリシャ語は「敵に渡す、売る」という意味のことばが用いられています。実際、ユダは銀貨30枚でイエス様を売ったわけです。でも、それは当時の奴隷一人の代価ですから、ユダはお金欲しさに売ったということではありません。そこには、イエス様に対するあざけりや恨みがこめられています。なぜなら、「この方がイスラエルの王になる」と信じて、従って来たからです。ユダに言わせると、「裏切ったのは俺ではなく、イエスだ。俺の夢は消え去ってしまった。俺の人生返してくれ」ということでしょう。「盗人にも三分の理」と言いますが、それなりの理由はあったのでしょう。でも、ユダの裏切りは間違いや失敗ではなく、確信犯であったということです。マタイ26:16「そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」と書いてあります。そのときとは、銀貨30枚を受け取った後であります。そして、ユダは最後の晩餐に加わり、パンとぶどう酒を受けました。イエス様は「あなたがたのうちのひとりが、私を裏切ります」さらに「私と一緒に鉢に手を浸した者が、私を裏切るのです」と言いました。前者は12弟子みんなに、後者はヨハネとユダに言いました。「ユダよ。お前が私を裏切ることを知っているよ。それでもやるのか?」と言わんばかりです。そうです。イエス様は何度も、引き返すチャンスを与えていました。でも、彼は心を頑なにして、聞こうとしなかったのです。箴言28:14「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」

 主を裏切るとは、主の愛と信頼を裏切るということです。かつて、イエス様は一晩祈って、12弟子を選びました。ユダは他の11弟子と同じように、主から愛され、信頼されていました。では、イエス様は初めから、ユダがご自分を裏切るということを知っていたのでしょうか?その可能性があるとは思っていたでしょう?でも、12弟子全員がその可能性を持っていたということは確かです。人間は生まれた時から罪があるので、だれにでもその可能性があるのです。問題は「罪を捨てて、主の愛と信頼を選んで従っていくか」ということです。『スター・ウォーズ』という映画がありますが、一つの一貫したテーマがあるように思えます。ジェダイというのはフォースを正しく使うヒーロー的な存在です。一方、ダース・ベーダーのような帝国軍に仕える悪者はどうなんでしょうか?彼も元はジュダイであり、フォースを操ることができました。ところが、魂が暗黒面に魅せられたのでそうなったのです。つまり、悪への誘惑に負けて堕落したのです。どの映画や小説にも「裏切り者」が登場します。でも、最初から彼らがそうであったということではありません。何かの躓きによって、そうなったのです。そこには裏切るだけの正統な理由はあったかもしれません。でも、自分の魂を悪に売ってしまったのです。つまり、人を裏切る前に、自分の魂を裏切っているということかもしれません。一度、魂が頑なになると、引き返すのがだんだん困難になります。イエス様は、ある時からユダがはっきりとご自分を裏切ることを知りました。彼の心がサタンに乗っ取られていることも知りました。普通だったら、ユダを破門し、自分から遠ざけるでしょう。でも、そうしなかったのは、主のご愛が永遠であり、変わらない信頼を持っているということの現れではないでしょうか?同じ恵みが、私たち全員にも向けられていると信じます。でも、それが届かないところがあります。それは死んで、魂が陰府に下ったときです。ルカ16章には金持ちと貧乏人のラザロが死んで陰府に下ったことが記されています。金持ちは陰府の底でもだえ苦しんでいました。しかし、彼の願いは1つもきかれませんでした。父アブラハムとの間には大きな淵があり、渡ることも、越えることもできませんでした。イエス様が十字架の上で「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。その叫びは、神から捨てられた者の叫びです。まだ、生きているうちは希望があります。主は立ち返るチャンスを常に与えておられるからです。でも、一旦、死んで陰府に下ったならば、そこには希望はありません。もう、どんな願いも叫びも届きません。

 私たちはユダのことから教訓を得なければなりません。ユダはイエス様を裏切りました。言い換えると、イエス様の愛と信頼を裏切ったということです。英語でembrace(エンブイス)という言葉があります。第一の意味は「抱擁する」「抱きしめる」ということです。しかし、もう1つの意味は「思想などを受容する」「信条などを奉じる」という意味です。ただ単に受け入れるというのではなく、「自分の中に取り込んで離さない」ということです。イエス様は私たちを愛し、私たちを信頼しておられます。裏切るとは、その愛と信頼を捨て去る、拒絶するということです。そうではなく、embrace(エンブイス)、私たちの方も主の愛と信頼を抱きしめるのです。自分の中に取り込んで離さない。これこそが、誘惑に勝つ秘訣ではないでしょうか。もちろん、私たちの愛や信頼には限りがあります。信仰は気力とか頑張りではありません。でも、私たちの方も主にすがりつくような姿勢が必要です。この地上に御国(神のご支配)が来ていることは確かですが、完全ではありません。私たちの信仰が上がったり、下がったりするのはそのためです。イエス様の私たちに対する愛と信頼は永遠で変わることがありません。それらを受け取る私たちに問題があるのです。私たちもただ受けるだけではなく、embrace(エンブイス)、主の愛と信頼を抱き締めましょう。そうすれば、決して主を裏切ることはありません。

2.後悔したユダ

 マタイ27:3-4「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。」このところで、驚くべきことは、裏切り者のユダがイエス様を「罪のない人である」と告白していることです。イスカリオテのユダは三年半、師であるイエス様と寝食を共にしました。一緒に旅をし、教えをそばで聞き、数々の奇蹟を見ることもできました。ユダはイエス様が罪に定められたのを知って後悔しました。でも、なぜ、もっと前に進まなかったのでしょうか?ユダはポンテオ・ピラトの前に進み出て、「あの裁判は間違っていた。でっち上げだ。イエスには罪はない」と言えたでしょう。彼の問題は、後悔はしたけれど、それ以上前に進まなかったということです。後悔は英語でrepentですが、悔い改めと同じ時に用いることばです。でも、ギリシャ語の場合は幾分か違います。「後悔する」と、「悔い改める」というのは違います。ギリシャ語で「悔い改める」は、メタノエオウで「考え直す、心を変える、悔い改める」という意味です。つまり、罪を悔いただけで終わらず、向きを換える、神に立ち返るというニュアンスがあります。残念ながら、ユダは罪を後悔はしましたが、神に立ち返ることはしなかったということです。私たちは頭ではいつでも、神に立ち返ることができると思うかもしれません。でも、立ち返らせてくださるためには、聖霊の働きが不可欠だということを忘れてはいけません。ユダがなぜ、後悔したけれど、それ以上前に進めなかったのか?それは、聖霊の助けがなかったからです。

 イエス様を裏切ったことではペテロも同罪です。ユダの場合は、イエス様を売り渡す手引きをしました。ペテロの場合は、人々の前でイエス様を知らないと3度も否定したことです。ユダの味方になるわけではありませんが、遅かれ早かれ、イエス様は祭司長たちに捕えられていたでしょう。ペテロの場合は、「たとえ死んでも」と言ったのに、イエスなんか知らないと呪いをかけて誓いました。両者とも甲乙つけがたい裏切り行為です。でも、決定的な違いは、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈ってあげたということです。一方、ユダに対しては「あのような人は生まれなければよかった」と言われました。一見、不公平ですが、ペテロにはとりなしがあり、ユダにはなかったということです。ペテロも後悔しました。鶏が鳴いたとき、イエス様のことばを思い出し、激しく泣きました(マタイ26:75)。でも、ペテロはそれで終わってはいません。イエス様はペテロたちに「よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(マタイ26:32)と前もっておっしゃっていました。ペテロはその言葉を信じて、復活後、ガリラヤへ行きました。「どの面下げて」と申しましょうか?イエス様から「私を愛するか」と3度も問われ、心が痛くなりました。でも、ペテロはイエス様のところへ行ったのです。そして、罪の赦し、心の傷の癒し、そして弟子としての再召命をいただきました。その頃は、助け主であられるイエス様がペテロにお相手しています。しかし、現在は別の助け主、聖霊様が私たちのために働いておられるのです。ですから、罪を悔いることはだれでもできますが、方向転換して神さまに立ち返ることができるのは助け主、聖霊の働きだということです。アーメン。ですから、ユダのように、聖霊から見放されてしまったなら、救いがないということです。

 「後悔先に立たず」と申しますが、これまでの私の人生、後悔ばかりでした。入りたくなかった高校の土木科に入ったこと。ボクシング部に入り、デビュー戦で敗れてノイローゼになったこと。土木の建設現場に入って、辛い思いをしたこと。しかし、25歳にクリスチャンになりました。今思えば、あれが人生の方向転換でした。ローマ8:28のみことばのごとく、万事が益になることを知るようになりました。では、クリスチャンになって後悔したことがなかったというと、いっぱいありました。特に交通違反で切符を切られた時がそうでした。「ああ、あそこでスピード出し過ぎたんだ。なぜ、あんなところを曲がったんだろう。それにしても警察は陰険じゃないか!」結婚については全く後悔していません。感謝しております。亀有に赴任したことも後悔していないですね。小牧者訓練会、セルチャーチにも長い間、所属しました。あまりうまくいかなかったけど後悔はしていません。やはり、25歳のとき大きく方向転換したので、小さい失敗は余り気にならなくなりました。その時は「ああ!」と嘆きますが、少し時間がたつと「まっ、良いか」となります。でも、聖め派の神学校に入った時、やたら「悔い改め」を迫られました。自分の弱さ、罪深さをさんざん見せつけられました。そこでは、「罪を悔い改めて、きよめられる」というのが、中心的なテーマでした。「ゴールはきよめられることであり、それが何なんだ!」と思いました。そのせいもあって、「私はあまりきよめられていないんだなー」と思います。しかし、私は別のルートを発見しました。Ⅱコリント3:17,18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。そうです。自分の弱さや罪を見ること以上に、私を造られた神さま、私を贖われたイエス様を見るのです。すばらしいことに、聖霊様が私を栄光から栄光へと変えてくださるのです。もちろん自分の弱さや罪深さに気付くことは必要です。でも、それ以上に重要なことはイエス様、主の御霊を仰いで生きることです。そうすれば、自然に弱さや罪深さが消えて、良い方向に行くのです。

 私もいろんな癒しや解放の集会に出かけました。結論として言えることは、天国に行くまでは完全じゃないということです。どこかしこ、弱さや罪が残っているということです。でも、それ以上に主の恵みが私を支え、私を導いてくださるということです。中には過去の失敗に打ちひしがれて、座り込んでいる人もいるかもしれません。イザヤ書60:1,2「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」いのちの光があなたを照らすとき、あなたは暗い場所から立ち上がることができるのです。

3.自殺したユダ

 マタイ27:4 -6「『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。祭司長たちは銀貨を取って、『これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。』」この先は、省略しますが、あまり芳しくないところであることは確かです。しかし、このところにも宝が隠されていることを信じます。ユダは自分が犯した罪を後悔しました。そして、銀貨30枚を返すために、祭司長や長老たちのところへ行きました。すると彼らは「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言いました。「これが神さまに仕える人たちの言い方だろうか!」と怒りを覚えます。本来なら、「ああ、そうなんだ」と懺悔の告白を聞くべきです。しかし、彼らが言ったことばが大変、興味深いです。英語の聖書を直訳すると「それが私たちに何なのだ。あなたがそれを見なさい」となります。「見る」というギリシャ語にはいろんな意味があります。「君自身が始末をつけるがよい。自分で始末をせよ。それは君の問題だ」と訳されています。ユダは自分が犯した罪をどうすべきなのか、祭司長や長老たちのところに相談に行きました。彼らが本当に神さまに仕える人たちだったら、「罪を贖ってくださる神さまのところに持っていきましょう」と言うべきであります。でも、「自分で始末をせよ。それは君の問題だ」とは何事でしょう?「彼らは救い主・キリストを十字架につけたやつらなんだなー」と思わざるをえません。

 そのため、ユダはその罪をどうしたのでしょうか?銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去りました。そして、外に出て行って、首をつりました。「外」というのは、神殿の敷地から出たということなのでしょう。そして、大きな木を見つけて、そこで首を吊ったのです。使徒1章にはもっと詳しく書かれています。使徒1:18「ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。」木さえもユダを嫌って、その枝を折ってしまいました。そのため、ユダはまっさかさまに落ちて、ひどい状況になったのです。「何もそこまで書かなくても」と思いますが、旧約聖書のイゼベルの死と似ています。本当に呪われているという感じがします。しかし、問題は「自分の罪を自分で始末する」ことがいかに悲惨かということです。私たちは決して負ってはいけないものがあります。ヨハネ3章にはニコデモが、夜、イエス様を訪ねてきたシーンが記されています。彼はイスラエルの指導者でしたから、人目を避けて、夜こっそりイエス様を訪ねて来たのでしょう。大川牧師はそのところから『夜の訪問者』という題のメッセージを語ったことがあります。大川牧師は「私たち人間が負ったらだめになるもの、それは罪と死である。ニコデモは罪と死という夜をぶら下げてイエスさまのところに来たのだ。あなたにも夜がある」とおっしゃっていました。そうです。自分で始末をつけないで、イエス様のところに持ってくるのが一番だということです。自分で何かできるなら、救い主は必要ありません。自分で負うことができないので、救い主がいらっしゃるのです。

 昨年もいろんなニュースがありました。中には取り返しのつかない罪を犯した人も何人もおりました。電動自転車に乗った女子大学生(20)と歩道を歩いていた近くに住む無職女性(77)が衝突する事故が発生しました。女性は転倒して頭を強く打ち病院に搬送されましたが、2日後、死亡しました。女子大生は当時、左耳にイヤホンをつけ、左手にスマホを、右手には飲み物を持っていたました。女子大生は「ぶつかるまで気付かなかった」と話しているということです。まだ、人生これからなのに、あまりにも重い十字架を背負わされました。十字架と言って良いのか分かりませんが、本当に気の毒だと思います。ずっとこれから先も、人を死なせてしまったという罪責が心から離れないでしょう。後悔しても後悔しきれないでしょう。しかし、自分で始末をつけるのではなく、罪と死を持って行けるお方がいらっしゃいます。自分で負えないからこそ、救い主イエス様がいらっしゃるのです。取り返しのつかない失敗や罪を犯した人こそ、救い主イエス様に出会ってもらいたいと思います。使徒16章にありますが、大地震が起こり、看守は囚人たちがみな逃げたと思いました。彼は剣を抜いて自殺しようとしました。そこで、パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏してこう言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」。ふたりは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。もし、看守が自らの命を絶ったなら、彼も彼の家族も滅びます。そうではなく、主イエスを信じるなら、彼も彼の家族も救われるとは、ものすごい逆転勝利です。

旧約聖書には「逃れの町」について記されています。イスラエルの山地6か所に設けられていました。故意ではなく、過失のゆえに人を殺してしまった場合、近い逃れの町に逃れることが許されました。その人は正当な審判を受けることができましたが、過失と言っても、復讐者が追いかけて来るでしょう。その町の大祭司が死ねば、過失殺人者は家に戻ることができました。この制度は後に来るキリストの贖いを指し示しています。ユダは自分の罪を始末するために自殺しました。一方、ペテロは復活の主に会うためにガリラヤに向かいました。第一のポイントでembrace(エンブイス)、主の愛と信頼を抱きしめるということを申し上げました。私たちの人生で、取り返しのつかない過ちを犯すとき、後悔しても後悔しきれないことがあるかもしれません。でも、私たちは罪と死の重荷を負ってはいけません。「逃れの町」であるイエス様の懐に逃れるのです。イエス様は私たちの罪を赦すために十字架にかかって、命を捨ててくださいました。十字架の血潮によって赦されない罪など1つもありません。韓国の金賢姫(キム・ヨンヒ)は大韓航空機爆破事件の被告で、死刑の判決を受けた人です。彼女は、クリスチャン捜査官のすすめで、はじめてキリストの福音に触れました。聖書を読み、キリストと出会って神の愛を知ったのです。十字架に示された神の愛、これこそ、極限の神の自己啓示です。キリストにある人生は、決して後悔では、終わりません。すべての罪が赦され、万事が益となる逆転勝利の人生が与えられます。