2018.3.18「主イエスの受難 マタイ27:26-44」

 福音書を見て驚くことは、イエス様に対する鞭打ちや十字架がひとことで記され、周りの人たちによるあざけりや嘲笑に多くの紙面を費やしているということです。なぜ、福音書は前者を省略し、精神的な苦しみを多く書いているのでしょうか?考えられる理由は、鞭打ちや十字架は、周知のことで、あえて説明する必要がなかったということです。もう1つは、肉体的な苦しみよりも、精神的な苦しみの方がイエス様に対して応えたということではないでしょうか?

1.肉体的な苦しみ

 マタイ27:26「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」その当時は、「むち打ちと十字架」はあえて説明しなくても良いくらい知られていました。しかし、後代の私たちはローマが発明した、最も残酷な死刑の道具について知らなければなりません。ギロチンや絞首刑など、死刑の道具はたくさんありますが、多くのものは苦しまないで死ぬようになっています。ところが、十字架刑は急所をはずしていますので、ジワジワと苦しんで死ぬようになっています。しかも、裸にしてさらされるので、この上ない辱めを受けるでしょう。哲学者キケロは「十字架は、最も残酷にして、最も恐るべき刑罰。決してそれをローマ市民の身体に近づけてはならない」と言いました。十字架刑は、最初は奴隷用、および最も破廉恥な種類の犯罪者用にとっておかれました。使徒パウロはⅠコリント2章で「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かである」と述べています。ユダヤ人は「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(申命記21:23)と律法の書から知っていました。そんな忌むべき十字架が、時代の経過とともに、慕われるようになりました。なぜ、十字架が讃美歌で歌われ、国旗に用いられ、教会の尖塔に付けられ、光り輝くアクセサリーになったのでしょう?かつての最も残酷で忌まわしい十字架が、美しく神々しいものとなっているのが不思議です。現代の教会は伝道のため『4つの法則』を発明しました。『4つの法則』は大学生伝道のために、1952年ビル・ブライトによって作られました。数えきれない若者たちがこの小冊子によってキリストを信じる決断をしたと思います。私も25歳のとき、信仰の確認のために大川牧師が用いて下さいました。しかし、そのとき、「一丁上がり」みたいなイヤーな感じがしました。救いも「法則」にしては、困ります。その当時、献身者であった京子姉は「十字架体験がなければダメよ」と言っていました。残念ながら、「十字架が私のためだった」と分かったのは、洗礼を受けて半年くらいたってからでした。最も残酷で忌まわしい十字架が、救いの源になるなんて信じられるでしょうか?使徒パウロがこう述べています。Ⅰコリント1:24 「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」アーメン。私たちが救われる背後に、どのくらいの犠牲があったのか知るならば、簡単に救いを手放すことはないでしょう。

 もう1つはむち打ち刑です。ユダヤ人の場合は、40に1つ足りないむち打ち(39)と律法で決まっていました。なぜなら、それ以上、打って死ぬといけないからです。ところが、ローマの鞭は、懲らしめというよりも、「十字架で早く死ねるように」と、変な温情からのものでした。イエス様は背の低い丸太をだかされ、背中に40以上の鞭を受けたことでしょう。ローマの鞭は、先が3つか4つに分かれ、その先端に動物の骨や鉛が編み込まれ、皮膚に突き刺さるようになっていました。それを屈強なローマ兵が交代しながら鞭を放ちました。イエス様の背中がざくろのように割れて、そこから血が噴き出したでしょう。映画の『パンション』では、イエス様を裏返しにして、腹と顔面に鞭を当てていました。あまりにも残酷で、見ていられませんでした。イエス様は前の晩、裁判のため一睡もしていませんでした。その後、ローマの裁判、そしてむち打ちです。打ち傷と疲労困憊で、十字架をかつぐことはできなかったと思われます。聖書では「イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した」(マタイ27:26)とひとことで終わっています。おそらく福音書は、残酷なシーンを強調する意図はなかったのでしょう。でも、使徒ペテロのことばです。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」なぜ、イエス様の打ち傷が私たちの癒しと関係があるのでしょう?ペテロはイザヤ書53章のみことばをそのまま引用しています。旧約聖書はさまざまな病気があります。疫病、肺病、熱病、腫物、かいせん、弱さ、わずらいなどです。イザヤ書には「彼は私たちの病を負い」とありますが、苦難、罪、咎も含まれています。イエス様が福音書で病をことごとく癒されましたが、それはイザヤ書53章の成就であります。でも、イエス様の十字架と打ち傷は、病の原因を取り除くものであり、罪の贖いの中に病の癒しが含まれています。イエス様が鞭で打たれたということは、ご自身が病の苦しみとその原因を受けて下さったということです。結論的に、病は神さまからの恵みとか贈り物では決してなく、大胆に癒しを求めて良いということです。新約聖書において、はっきりと言えることは、十字架以降、病は懲らしめではなくなったということです。もちろん、私たちはアダムの罪のゆえに病になる可能性はあります。しかし、キリストの十字架から流れてくる癒しがあることを忘れてはいけません。このようにイエス様がローマの鞭を受け、残酷で忌まわしい十字架につけられたということは、罪の贖いと病の癒しのために必要不可欠であったということです。義なる神さまから見たならば、罪ある人間をさばかずに、ご自身の義を満たすために御子イエスの十字架の死が必要でした。一方、私たちの側から見るならば、私たちの罪の身代わりになるために、恥と苦しみを受けてくださったということです。これは、救いに至るための法則ではなく、イエス様の尊い犠牲があったということを知らなければなりません。子どもは小さい時に親の苦労はわかりません。しかし、成長して、息子になり娘になると、親の苦労が分かるようになります。私たちもイエス様の苦しみと父なる神さまの痛みを知るようになれたら、「救いの有り難さ」がもっとわかるでしょう。

2.精神的な苦しみ

 イエス様は肉体だけではなく、精神的な苦しみも受けられました。それがローマ兵と当時の宗教家たちからの扱いでした。ローマ兵の1つの楽しみは死刑囚をいたぶることでした。いわゆるリンチが行われました。当時、ローマ兵の中には「王様ごっこ」なる恐ろしい遊びがあったそうです。そのゲームに志願した人は、1日、王様になって、何でも好きなことを要求できるそうです。ところが、その日の夕方は、みんなに殺されるということです。おそらく、イエス様もそのような扱いをされたのでしょう。彼らはイエス様が「ユダヤ人の王」であると聞かされていました。ユダヤ人はプライドが高く、ローマ兵にとって扱いにくい存在でした。今回、十字架にかかるのが「ユダヤ人の王」と聞いて、少々、喜びました。なぜなら、日ごろのうっぷんが晴らせるからです。王様に必要なのは紫のガウンでしょう。ローマの兵服の裏地は赤であり、少し古くなると紫色に変色します。次に王冠ですが、だれかが刺の長い茨を丸めて王冠にしました。それをイエス様の頭に押し付けました。さらに、杓の代わりに、葦の棒を持たせました。「全部隊」は普通600人の兵士で構成されますが、この時は、200人くらいからなる小隊であったと思われます。彼らはイエス様を取り囲み、「ユダヤ人の王様、ばんざい」とからかいました。最初はイエス様の前にひざまずきましたが、イエス様につばきをかける者も出て来ました。あきてくると、イエス様の顔につばきをかけ、葦の棒を取り上げて、イエス様の頭をたたきました。叩いたというより、茨の冠を突っ突いたという方が正しいでしょう。さんざんからかった後、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出しました。

 ヨハネ19:17「イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた」と書いてあります。おそらく、イエス様はむち打ちと昨夜の裁判で疲労困憊して、運べなかったと思います。聖地に行くと狭い石畳の道があり、イエス様がお倒れになった場所というのがあるそうです。十字架はきわめて不浄なもの、恥ずべきものでした。そこで、百人隊長は自分の部下ではなく、祭りで田舎から出てきた男性を見つけました。そして、「おい、お前かつげ」と、喜ばしくない仕事に雇用しました。男性は顔から火の出るような気持ちで、十字架をかついだでしょう。聖書には「クレネ人、シモン」と実名が記されています。伝説によると、彼は北アフリカの出身であり、その後、家族全員が救われたようです(参考:マルコ15:21)。ローマ兵は、太い釘によってイエス様を十字架につけました。右手と左手に1本ずつ、そろえた足の甲に1本です。十字架をロープで起こしますが、立てた時、40センチくらいの穴に根本が落ちます。そのとき、全身の体重が3本の釘にかかります。横隔膜がひっぱられていますので、息を吸うときはどうしても、体を持ち上げなければなりません。フィリピンの熱心なカトリック信者がロープで結わえて実際にやってみたそうですが、数秒でギブアップしたそうです。イエス様は麻酔薬のぶどう酒を断ったということは、十字架の苦しみをまともに受けられたということです。

 しかし、肉体の苦しみに塩を塗ったのが、祭司長たち、律法学者、長老たちのあざけりです。彼らは道行く人に交じりながら、このようにイエス様をあざけりました。マタイ27:42-43「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『私は神の子だ』と言っているのだから。」ことばの暴力というのがありますが、これはとても陰湿で、宗教的なものでした。なぜなら、彼らはイエス様が半分メシヤであることを認めながら、からかっているからです。彼らはイエス様が、他人を救ったことを認めています。しかも、イエス様が「神により頼んでおり、『私は神の子だ』と言っている」と認めていました。彼らには宗教的な知識は全く役に立っておらず、むしろ、神の子をあざけるものとなっています。木曜日の宗教裁判もそうでしたが、彼らは、神の子イエスを目の前から抹殺したかったのです。そうすれば、信じなくて良いからです。私たちもイエス様を信じるか、信じないか葛藤するときがあるでしょう。しかし、何かの躓きが起こると、心が頑なになるときがあります。そして、一度、信じないと決めると、とことん信じないようになります。「頑な」という意味のことばは、皮膚が厚くなるということです。もう、感じなくなるということです。それが、当時の宗教家たちでした。ビル・ジョンソンが信仰というのは、頭・マインドではなく、心・ハートで信じるのだと言いました。では、頭・マインドが不要かと言うとそうではなく、信じたあと、それを整理するために必要なんだということです。まだ迷っている状態、つまり心が柔らかいというのは、まだ救われる可能性があります。どうぞ、静かな神の声を抹殺しないようにしましょう。

 もう1つは群衆と両脇の犯罪者のあざけりです。マタイ27:38-40そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」マタイ27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。ルカ福音書には、片方の強盗が悔い改めたことを記していますが、はじめは両者ともイエス様をののしっていたようです。十字架は私たちが考えているほど、背が高いものではありませんでした。ですから、道を行く人々が、石を投げつけたり、近くでからかうことが可能だったのです。インドネシアの教会で、青年会による降誕劇がありました。ヨセフとマリヤの配役はすぐに決まりました。ところが、イエス様の役をだれにするかもめました。結局、青年会長がその役に決まりました。一方、日ごろから彼を憎んでいた青年はローマの百人隊長になりました。劇が佳境にはいり、イエス様がローマ兵によって十字架につけられました。ローマの百人隊長は、イエス様のほほを打ちたたきました。青年会長は「あれ、こんなのあったかな?」と不思議に思いました。いよいよ、十字架が立てられました。ローマの百人隊長はイエス様の顔をめがけて「ぺっ、ぺっ」と唾を吐きかけました。イエス様の顔が真っ赤になりました。そして、こう叫びました。「父よ、私は彼を絶対に赦すことはできません。なぜなら、彼は自分で何をしているか分かっているからです。私が復活した暁には、必ず復讐してやります」と言ったそうです。その先、劇がどうなったかは分かりません。このように、人からあざけりを受けるということは、普通の人だったら耐えられないということです。ところが、イエス様は、だまって彼らの、ののしりやあざけりを耐え忍ばれました。使徒ペテロはこう述べています。Ⅰペテロ2:23キリストはののしられても、ののしりかえさず。苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになったのです。…キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」イエス・キリストは、ののしりやあざけりに勝利されました。私たちもこの地上では、不当な扱いを受けることが多々あります。しかし、私たちのために正しくさばかれる方がおられます。詩篇35:24「あなたの義にしたがって、私を弁護してください。」Judge me, Oh LORDとなっています。どうぞ、イエス様のように裁きを主にゆだね、平安のうちを歩みましょう。

3.霊的な苦しみ

 私たちは聖書から、祭司長たち、律法学者、長老たちのあざけり、そして群衆と両脇の犯罪者のあざけりを見ることができます。しかし、彼らのあざけりは単なるあざけりではなく、イエス様に対する誘惑でもありました。彼らのことばを良く見てみましょう。マタイ27:40「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」マタイ27:42「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」彼らのののしりの中に、十字架の贖いを断念させるようなことばが含まれています。それは、「自分を救え、十字架から降りたら、信じる」というものです。これはイエス様に対して、恐ろしい誘惑になったのではないでしょうか?かつて悪魔はこのように誘惑しました。マタイ4:5-6「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」この誘惑は、「人々をあっと言わせて見ろ」ということです。イエス様は十字架から降りるつもりならば、降りることができました。御使いを呼ぶこともできたし、自分で自分を救うこともできました。もし、イエス様が怒って、「救いのために来てやったのに、こんなひどいことをされて、もうがまんできない。天国に帰る!」と言ったならば、贖いは成り立ちませんでした。ですから、イエス様を十字架につけていたのは3本の釘ではなく、イエス様ご自身だったということが分かります。イエス様は自分が死ぬために来たということを最後の最後まで忘れませんでした。日本人は精神論を唱えますが、イエス様のご意志は精神以上のものです。

 私たちは悪魔が人々の背後で働いているということを忘れてはいけません。「その人が悪魔そのものだ」というのではありません。彼らの背後に、悪魔が働いているということです。悪魔の誘惑に勝って、神のみこころを成し遂げるというのが大事なのであります。私たちは「イエス様は神の子なので、十字架で死ぬということを知っておられた」と言うでしょう。ところが、イエス様には罪はありませんでしたが、私たちと同じ肉体を持っておられました。私たちの肉体は本能を持っています。それは。自己中心であり、自己保全であります。言い換えると、「自分だけは死にたくない」ということです。イエス様はゲツセマネの園で、血の汗を流して「みこころがなるように」と既に勝利していました。ところが、十字架の最後の場面でも、誘惑の手は止みませんでした。人々は「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。そうしたら信じるから」とあざけりました。人々は悪魔にあやつられていたのです。普通の人間がそこまで言えないと思います。なぜでしょう?彼らは「自分たちはイエス様を信じない」と心を頑なにしていました。もう、聖霊様の働く余地は全くありません。だから、悪魔が彼らの思いの中に入り、あのような、付き刺すようなことばを言わせたのです。悪魔は、土壇場でイエス様をひっくり返そうと誘惑したのです。しかし、イエス様は悪魔の誘惑に勝利して、十字架にご自身を付けて忍ばれました。これは、外から見ていたのでは、全く分かりません。イエス様は静かに十字架に付けられているように見えますが、悪魔からのものすごい攻撃があったということです。それでも、イエス様は贖いを全うするために、ご自身の意志で十字架についておられたのです。

 本来、十字架の贖いを言うとき、「イエス様が私たちの罪を負ったゆえに、神から捨てられた」ことに焦点を当てるでしょう。来週はそのことを述べますが、「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか」が苦しみの絶頂と言えるでしょう。でも、福音書は十字架の前に、さまざまな苦しみがあったことを書いています。英語で苦しみを表現するいくつかのことばがあります。passion(受難)もその1つですが、私はtormentということばが相応しいと思います。tormentとは、肉体的・精神的な苦痛と言う意味です。古くは「拷問、拷問の苦痛」と意味で用いられました。ローマの鞭打ち、ローマ兵のあざけり、宗教家たちのあざけり、悪魔に用いられた群衆のあざけり…これらはtormentではないかと思います。日本人は「恥」ということを非常に恐れる国民だと思います。イエス様は罪のない神の子であり、やがては御国の王になるお方です。そのお方が人類のあがないのために十字架にかかられました。このところには、感謝する者が一人もいません。反対に、「自分を救え。十字架から降りたら信じる」とものすごいことばを浴びせました。悪魔と一緒に、罪の贖いを阻止するために誘惑したのです。聖書からこういうことを見ていくと、「十字架の贖い」とひとことで済ますことができません。十字架に至る道があまりにも厳しいからです。まさしく、イエス様は私たちの恥と苦しみを負ってくださいました。ローマ兵、宗教家たち、群衆…すべて贖いの対象である人間です。その人間たちから苦しめられているのです。私たちも一つの目的のために生きようとすると、周りの人たちからひどいことを言われたり、苦しみに合わせられるかもしれません。イエス様が私たちと同じように苦しみと悩みと恥を受けられたということは救いであります。イエス様は私たちが地上で受ける苦しみ、肉体の苦しみ、精神的な苦しみ、そして霊的な苦しみを味わってくださったことを感謝します。十字架の贖いの中に、私たちが受けるさまざまな苦しみが含まれていることを感謝します。