2018.4.8「最後の命令 マタイ28:11-20」

 いよいよ、本日はマタイによる福音書の最後の説教になりました。なんとNo.103になります。満二年間かかりました。今後は、テーマ別の説教をしばらくしたいと思いますので、ご期待ください。イエス様が天にお帰りになる前の「最後の命令」ですから、とっても大事なものに違いありません。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書にも「最後の命令」がありますが、それぞれ異なっています。マタイ福音書における「最後の命令」とは何なのでしょうか?

1.嘘の福音

 イエス様が墓からいなくなったことを番兵たちは目撃しました。彼らは、女性たちよりも早く、起った事を全部、祭司長たちに報告しました。普通だったら、神を畏れ、本当によみがえったのか調べる必要があります。もし、それが事実なら、イエス様をメシヤとして信じなければなりません。ところがどうでしょう?12-15節そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。ローマ兵が任務を遂行できなかったならば、死刑であります。使徒の働き16章には、看守が責任を取って自害しようとしたことが書かれているからです。でも、「『眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言え」と言われても、そんな嘘が通るのでしょうか?第一、弟子たちがイエス様の死体を盗んでも何の価値があるでしょう?死んだ方を「イエスはよみがえりました」と命賭けで言う訳がありません。しかし、ペンテコステの日以来、死をも恐れずに、弟子たちはキリストの復活を全世界に宣べ伝えに行きました。かつては部屋に隠れていた弟子たちが、あの変わりようは何だったのでしょう?人は嘘のために命を駆けたりはしません。

 祭司長と長老たちはローマ兵を買収して、嘘の報告をさせました。「もし、総督の耳に入っても、心配するな、なんとかするから」と保証しました。「そこまでやるなら、どうしてよみがえられたイエス様を信じないのか?」と言いたくなります。でも、どうでしょう?「彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる」とマタイが記しています。「今日とは」おそらく、紀元後60年から80年くらいかと思われます。教会が誕生し、キリストがよみがえられたという福音がローマにも伝えられていました。同時に、嘘の福音も伝わっていたということです。実は青森県に行くと「キリストの墓」という名所があるそうです。私たちは、「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と一笑したくなります。しかし、実際にあるのです。青森県新郷村にその資料館があります。古文書の『竹内文書』が元ネタで、最高裁判所でもその真偽が争われた謎の文書です。「ゴルゴダの丘で磔刑となったのは、実はキリストではなく弟のイスキリでした。キリストは弟子と日本に逃れ、青森県において十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改めました。後にユミ子という名の女性と結婚し三女をもうけ、106歳の天寿を全うしてこの地に葬られました。」もちろん、これは嘘でありますが、なぜ、こんな嘘が極東の日本にあるのでしょうか?それは、ユダヤ人が日本にまでやってきた事の証拠です。6世紀頃だと言われています。その時、ヘブライ語やイスラエルの神事も伝えられました。何とユダヤ人たちは、マタイ28章に記されている、嘘の福音まで伝えたのでしょう。それはユダヤ人が何故イエス様を信じなかったという自己弁護的な嘘です。かえって、このような奇想天外な物語の存在が、マタイ28章の真意を証明していると言うことができます。

 祭司長たちや民の長老たちは、兵士の報告を受けても信じようとしませんでした。逆に嘘の福音を流布させました。ということは、キリストを信じない人は、どんな証言を持ってきても信じないということです。キリスト教会では「不信仰」と言いますが、正しくはそうでありません。そういう人たちは、「神はいない。キリストは救い主ではない」ということを信じているということです。なぜなら、聖書の預言や人々の証明がなされているにも関わらず、「私はそれを信じません」言っているからです。ある人たちは「キリスト教は非科学的で、妄想を信じている」と笑うかもしれません。でも、彼らが本当に聖書の預言を調べ、当時の人たちの証言、弟子たちの変化について調べたのか、というと恐らくそうではないでしょう。科学的というのは、自然科学のことだけではありません。自然科学はおもに目に見えるもの、重さがあって測れるものが対象であります。しかし、世の中には目に見えないものがたくさんあります。神さまも霊であり、私たちにも霊があります。科学的というのは、客観的な出来事を集めて、実験を重ねながら、論証していくことです。自ら調べることもしないで、「神はいない。キリストは救い主ではない」というのは、むしろ非科学的です。ルー・ウォーレスは、かつては無神論者で、キリスト教を完全に否定するための書物を書こうと思い立ちました。そして、欧米の主要な図書館を巡り歩き、研究を重ねました。二年間に亘る熱心な研究を終えて、いよいよ本を書きはじめましたが、その執筆の途中で、突然彼はひざまずいて、主イエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」と叫んだそうです。キリストを否定しようとして研究を始めたのですが、逆にキリストが神であるということを否定できなくなってしまったのです。その結果書かれたのが「ベン・ハー」です。この小説の正式な題は「ベン・ハー、キリストの物語」です。この題からも分かるように、この本の本当の主人公は、ベン・ハーではなくて主イエスです。私もテレビで映画を見ましたが、評論家は「いやー、戦車の戦いのシーン、ものすごく迫力がありましたね」と言っていました。

私が高校3年生のとき、映画が封切されたのですが、全く、興味がありませんでした。24歳の時、職場の先輩が「ベン・ハー」について教えてくれました。先輩は「ベン・ハー」の副題は、The tale of Christ「キリストの物語なんだよ」と教えてくれました。ああ、高校生の時に「ベン・ハー」を見ていたなら、もっと人生変わっていたのになー」と思いました。無神論も1つの信仰です。よみがえられたキリストを神さまとして信じるのも1つの信仰です。でも、信じる者たちには、数えきれないほどの実が生まれます。信仰は天国に行くことだけではありません。目に見えない神と共に歩むことにより、目に見える多くの果実を享受することができます。見えるものは一時的ですが、見えないものが永遠に続きます。でも、もう1つ言えることは、見えないものが見える現実を生み出すということです。なぜなら、私たちが信じたものが、やがて見える現実となるからです。目に見えるものしか信じない人は、この世の一時的なものしか得られません。しかし、キリストの神さまを信じる者には、豊かな報いが今からとこしえにいたるまで与えられるのです。ハレルヤ!

2.最後の命令

 イエス様は天にお帰りになられる前、弟子たちを再びガリラヤに呼び出しました。ガリラヤは特別な場所であり、多くの弟子たちはここでイエス様から弟子として召されました。彼らは十字架の前に逃げ出しました。ペテロなどは、イエス様を3度も知らないと否定しました。トマスは他の弟子たちが復活したイエス様に会ったと言っても最初は信じませんでした。おそらく全員が、イエス様の死によって、失望落胆し、生きる目的も失っていたことでしょう。復活した夜のことがヨハネ福音書に記されていますが、今後どうすれば良いかは分からなかったと思います。一度、挫折した者たちが、「分かりました」と、簡単に出直すことなどできません。マタイ28:16-20 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」このところに「ある者は疑った」と書いてありますが、トマスのことでしょうか?あるいは他にだれかいたのでしょうか?このところで、弟子たちはイエス様を「礼拝した」と書かれています。ギリシャ語の「礼拝した」はプロスキュネオーであり、神さまや王様の前に、ひざまずいて拝む行為であります。つまり、よみがえられたイエス様は神さまだということです。ピリピ2章には、「すべてがひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白する」と書いてあります。礼拝はよみがえられたイエス様にふさわしいということです。

 後半は、「最後の命令」と題して、詳しく学びたいと思います。まず、イエス様が弟子たちに与えた命令の内容は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」です。しかし、ギリシャ語の聖書を見ますと、正しい命令構成が分かります。この命令の主動詞は「弟子としなさい」です。他は「〇〇することによって」という動名詞になっています。もし、この命令を正しく訳すとするなら、こうなります。「あらゆる国の人々を弟子としなさい。行くことによって、父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授けることによって、彼らに教えることによって、すべてのことを守らせることによって」となります。つまり。「弟子としなさい」という命令に、行くこと、バプテスマを授けること、教えること、守らせることと4つのことが形容されているということです。ですから、ある人たちは、これは大宣教命令ではなく、「大弟子作り命令である」と言います。これまで、教会は人々に福音を伝え、バプテスマを授けて教会員にすることを第一の目的にしてきました。言い換えると、「その人がイエス様を信じて救われる」ことがゴールでした。洗礼を受けて救われたあとは、礼拝を守り、献金をささげ、教会につながるようにとやってきました。残念ながら、キリストの弟子となることがオプションであり、「クリスチャンになっても、キリストの弟子にはなりたくない」という人がたくさん出ることになりました。しかし、本来はクリスチャンになることは、キリストの弟子になるのと同じ意味でありました。なぜなら、イエス様は救い主だけではなく、主であり、王様だからです。でも、教会は人を躓かせたくないために、優しくいたわってきました。

 

 ところが1990年代より、弟子訓練ブームが日本に訪れました。その発端は、アメリカで起きた、学生伝道団体であるキャンパスクルセード、あるいはナビゲータでした。1985年(日航機が墜落した年)、アメリカの教会が日本人5人を招いてくれて、2か月間、学生たちと共に弟子訓練の学びを受けさせてくれました。私たち5人は、「マタイ28章のみことばに、こんな命令があったのか!これこそ地上最大の命令だ!」と目を開かれました。私が日本に帰って、大川牧師に「弟子訓練が必要です」と告げました。その後、まもなく亀有赴任が決まりました。おそらく、「それだけいうなら、まず、お前がやってみろ」ということなのでしょう。1989年から、韓国のサラン教会に見学ツアーが始まりました。日本の牧師たちがたくさん参加して、火を付けられて帰ってきました。私は1990年から「小牧者訓練会」に属して学びました。「日本の教会成長は、これしかない」とみんな思っていました。ところが弟子訓練を行う教会で、信徒との不協和音が起こり、思った結果がでませんでした。私は2000年でその訓練会を離れ、セル・チャーチに移行しました。ところが、2010年に日本で弟子訓練を指導していた宣教師がセクハラ問題で逮捕されました。福音派の教会で、ものすごいスキャンダルになり、「弟子訓練は悪い。カルトになる」と言われるようになりました。ですから、今では「弟子訓練」はほとんど死語になり、良い響きではありません。私も弟子訓練会に属していたとき、いくつか問題を感じました。第一は、韓国のカルチャーが色濃く入っているということです。それは儒教の精神と徴兵制度による絶対服従です。第二は、教会員を群衆と本当の弟子に分けるという考えです。使徒パウロは「すべての人が聖徒である」と言っており、2つに分けることをしていません。第三は、訓練のための訓練になり、いつまでも弟子になることができない。ゴールが見えないということです。しかし、礼拝のメッセージで「弟子訓練は悪であり、聖書的でない」と言ったなら、このマタイ28章を否定することになります。イエス様のご命令に対して、否を唱えてしまうことになりかねません。では、本当の「弟子を作りなさい」と意味は何なのでしょうか?

3.本当の弟子となるために

 私は弟子訓練で最も苦しんだ者の一人なので、「本当の弟子となるために」ということをお伝えすることが可能だと思っています。私は2000年頃、インドネシアのエディ・レオ師に出会いました。その時、目が開かれた思いがしました。エディ・レオ師は「イエス様を信じたら、みなイエス様の弟子なんだ。ただし、本当の弟子になる必要がある」とおっしゃっていました。使徒パウロもコリントの教会の人たちに「あなたがたは聖徒である」と言っています。コリントの教会内はこの世の罪にあふれていましたが、身分的には聖徒なんであります。問題は、身分だけではなく、中身がそうなる必要があるということです。弟子も同じで、イエス様を信じたら弟子なのですが、本当の弟子になる必要があるということです。では、どうしたなら本当の弟子になることができるのでしょうか?イエス様の弟子の特徴というものがあるはずです。イエス様はルカ福音書で「自分の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子になることはできません」とおっしゃいました。このことはルカ14章に記されていますが、「自分のすべてをイエス様に明け渡す」ということです。十字架とはだれかのために苦労することではなく、自分自身がかかる十字架です。言い換えると、従うべき者は自分ではなくて、主イエス様なんだということです。イエス様を信じても、相変わらず自分が主人で、イエス様をしもべにしている人がいます。困った時だけ、イエス様を神さまにするのは、弟子の姿ではありません。調子が良いときも、悪いときもイエス様を主として従っていく人生こそが弟子の姿です。みなさんは、自分自身をイエス様に明け渡す祈りをなさったことがあるでしょうか?一度でも、そういう祈りをしたなら、信仰のアップダウンはなくなります。

 忘れてはならないことは、この命令の前後にすばらしいresource資源があるということです。イエス様は何も与えないで、命令だけを与えるようなお方ではありません。この命令が守れるようにすばらしい資源も与えておられます。その第一は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ」となっています。イエス様は復活されたとき、すべての権威、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられました。その権威を弟子たち、そして私たちに与えてくださったということです。大切なのは、11弟子たちだけではなく、今の私たちにもその権威が与えられているという自覚です。イエス様の権威は死と悪魔にも打ち勝つ偉大な権威です。私たちは警察を恐れています。彼らをからかったり、石を投げたりしません。なぜなら、彼らの背後には国家権力があるからです。サタンや悪霊も同じで、胸にバッチがついているクリスチャンを恐れています。胸にバッチがついていない隠れクリスチャンは恐れません。悪魔は「イエスは主です」と告白している人が怖いのです。私たちはイエス様からこの権威を受け取って、イエスの御名によって祈り、イエスの御名によって命じることができます。お願いばかりしてはいけません。サタンや悪霊にはイエスの御名によって、命じる必要があります。そうすれば彼らはあなたから退くでしょう。第二の資源は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」です。これは「私があなたと共にいますよ、守ってあげますよ」ということです。言い換えると「主の臨在」と言います。でも、これは自動的になされるものではありません。ビル・ジョンソンが『神の臨在をおもてなす』という本を書きました。私たちはイエス様を人格のあるお方として丁重に歓迎する必要があるということです。教会の礼拝はもちろんそうですが、日常のささいなことの中にも主を歓迎するのです。そうすれば、決して敗北ではなく、恵みにあふれた勝利的な人生を送ることができます。

 最後にだれが一体、本当の弟子にするのでしょうか?牧師でしょうか?もし、牧師だけがそのことをしたなら偏ることになります。エペソ4章には「キリストが5人の指導者を与えた」と書かれています。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ…」「整える」とは弟子として、聖徒として建て上げることです。そのためキリストが5人の指導者をお立てになりました。第一は使徒です。使徒は「すべての国民を」と視野を広げるように常にチャレンジします。亀有や葛飾だけではなく、すべての国民を弟子にするのです。第二は預言者です。預言者は「あなたに権威を授けます。主があなたと共にいますよ」と行くべき道を示してくださいます。第三は伝道者です。伝道者は「行きなさい」と命じます。私たちは住み慣れたところにじっとしていたいのですが、「行って、福音を伝えよ」と魂の救いを強調します。第四は牧師です。牧師は「すべてのことを守るように」指導します。みことばの糧を与えながら、守るように育てます。第五は教師です。教師は「キリストの教えはこうですよ。聖書を勉強しなさい」と教えながら形を整えます。この5人は自分の持っている賜物に色づけしたがります。たとえると、すべての人には聖霊のソーダーが与えられています。しかし、5人はそれぞれ、ぶどう、コーラー、セブンアップ、メロン、カルピスのflavor味を持っています。まるでドリンクバーです。共通して持っているのが聖霊の命です。でも、5人の指導者は自分の味を持っています。重要なのはこれらの5人からバランス良く、整えてもらうということです。でも、日本の教会の多くは牧師しかいません。だから、この牧師は自分にない、他の4つの賜物を学びながら、使徒的な、預言者的な、伝道者的な、教師的な、牧師として指導することが大切なのです。しかし、現実は、一人の牧師がそのようにバランス良くできるわけではありません。牧師の重要な役目はイエス様を見上げ、イエス様につながり、イエス様から学ぶことを教えることです。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」