イエス様はわずかなパンで大勢の人たちを養うという奇跡を2回行われた。パン切れがかごいっぱいに集まったということは、奇跡が実際にあったという証拠。決して、精神的に満たされたとか、パンが水でふやかされたということではない。その後、イエス様は15節で「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分に気をつけなさい」と言われた。パン種とはパンを膨らませるイースト菌。だが、パン種が入ると、腐敗が早くなるというデメリットもある。
1.パリサイ人のパン種
パリサイ人とは、聖書の戒めをうわべだけを守っている人たち。彼らは形式的であり、偽善的であった。そのくせ、戒めを守れない人たちを見下げる高慢なところがあった。つまり、パリサイ人のパン種とは、形式的、偽善的、高慢という意味。わずかなパン種でも、パン全体を膨らませる力がある。彼らは外から見たならば、立派で、信仰深く、宗教的であったに違いない。しかし、内側はどうか?マタイ23章には「白く塗った墓のようなものです。外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」と書いてある。先月、「ロシア皇帝の至宝典」に行った。ロシア正教会は、きらびやかで贅沢、まさしく宗教そのものであった。
信仰が、形式的あるいは偽善的になるのは何故か?ガラテヤ5:9「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」。律法主義が偽善を生み出すと書いてある。パリサイ人や律法学者たちは、律法の精神を忘れ形だけを守っていくうち、偽善的になった。表と裏、外側と内側の差が出てきた。私は以前、きよめ派に属していた。聖さを求めるのは良いが、パリサイ人たちのように聖くない人たちをさばく。「祈らなければ」「伝道しなければ」「聖くならなければ」という律法からくる弊害・・・信仰生活が抑圧的。ローマ7章にあるように、肉は律法に対して逆らい、全うすることができない。パウロは熱心なパリサイ人であった。パウロは、キリストに出会ってから、自分の力や真面目さではなく、恵みによって生きるようになった。Ⅰコリント15:10「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。パウロほど神に用いられた人はいないが、彼は「私にある神の恵み」と言った。
日本には律法はないが、人の目とか評価(世間体)が律法になっている。本音と建前で生きる。「・・・しなければならない」「・・・らしく」と自らにプレッシャーをかける。過度な責任感、義務感のため精神が病むが増えている。卓球の愛ちゃんと天才少女は、毎日猛練習。日本人は、頑張ればなんとかなると思っている。だが、そこにないのは「神の恵み、神から下る賜物」である。チョー師「日本人ほど勤勉な国民はいない。だが、ウサギ小屋に住んでいる。日本人は神様を信じていないので、稼いだお金が、神様を信じている国に流れるようになっている」。日本人は、神の恵みを知らない。イエス様は、わずかなパンで、大勢の人たちを養われた。神様にはそれができる。イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」と言われた。詩篇127「 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。私たちの神様は、天と地を造られた供給者。神様の恵みは、生活の必要、能力(タラント)、聖い生活まで及ぶ。
2.ヘロデのパン種
マタイ16章には、「パン種のことではなく、パリサイ人やサドカイ人の教え」と書いてある。ヘロデとサドカイ人が同族。彼らが共通していることは、世俗主義である。ヘロデはローマの代わりにユダヤを治める国主、弟の妻ヘロデヤと結婚しヨハネの首をはねた。サドカイ人は、祭司たちで神殿に仕えていたが信仰的に堕落、金儲けの手段にしていた。世俗主義とは、来世のことを信じないで、この世のことだけのことしか考えない。天使とか霊を信じないで、目に見えるものがすべて。日本の新興宗教もだいたいが、現世利益を説く。宗教を金儲けの手段にしている。
教会の歴史において世俗主義のパン種が入った。イギリス産業革命、フランス革命以降、「人間の力は偉大だ。神から独立」。理神論なる神学が教会に入った。神が世界を創造した後、法則を与え、自然界は自動的に運行。自然(人間)は神なしでもOK.「神は死んだ!」しかし、リバイバルが起こり、信仰的に目覚める。どうしたか?世界を2つに分けた。1つは霊的なこと、神様の分野(信仰、伝道、聖書、神学)。もう1つは世俗のこと(仕事、科学、芸術、教育)。人々は教会で礼拝しているときは聖いことをしていると思った。だが、会社の仕事や政治は俗的なことだと思った。あげくのはて、宗教はこの世のことに口出ししない。教育や政治、公の場に、宗教は持ち出さない。福音派・ペンテコステ派は、霊的なことに熱心だが、この世のことは無関心。
30年前、教会に「この世でも祝福を受ける」という功利主義がはやる。アメリカや韓国、日本、シンガポール、オーストラリアの教会。Bless me, Bless me, Bless me.霊的な分野だけではなく、この世のビジネスでも祝福され、病が癒され健康になる。祝福が目的。もう1つの極端は、そういうご利益はおかしいと、世を離れ霊的なことに集中。しかし、政治とか教育、地域の人たちのニーズには無関心。もっぱら、魂の救いのみにエネルギーを注ぐ。神様にとって、霊的なことと世俗のことの区別はない。ベン・ウォン師「教会はあまりにも宗教的になりすぎている。セルチャーチとは、神の民である私たちが、この世のおける神の民となって、そしてこの世の光として輝くことである」。建物の中で行う日曜日だけが礼拝ではない。建物の外、月曜日から土曜日までも礼拝ができる。それは、何をするにしても、神の御顔の前で行うこと(コランディオー)。