2007.4.22 羊飼いのない羊 マルコ6:30-44

本日の午後は教会総会があります。先週は、総会資料の冒頭にあります「伝道牧会のビジョン、4つのM」についてお話しました。その中の4つ目のMは、Ministry であると申し上げました。Ministryとは、「仕える、奉仕する」という意味です。神様は私たちが奉仕できるように、御霊の賜物を与えておられます。私たちは、神様から与えられたおのおのの賜物を用いて、奉仕すべきであります。また、本日の箇所を見ますと、奉仕に関していくつかの注意すべき点が書かれています。神様と人々に仕えることはすばらしいことです。でも、これら3つのことを注意しないと、奉仕者自身が目的を見失い、倒れてしまいます。本日の箇所にあります5000人の給食は、イエス様がなされた、最も華々しい奇跡の1つであります。私たちは奇跡に目が行き勝ちでありますが、見えないところに神様の御心が示されています。奉仕もこの世と同じで、結果重視になりがちですが、そうであってはなりません。見えないところに大切な要素があります。

1.奉仕における休息

 奉仕には休みが必要です。6:31「そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った」。飛んで、6:45,46「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた」。マルコ6章の前半に書いてありますが、弟子たちは、短期宣教に遣わされました。彼らは福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、意気揚々として帰ってきたことでしょう。「あんなことがあった、こんなことがあった」と次々と報告したと思います。するとイエス様は「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事をする時間さえもないほど忙しかったからです。イエス様ご自身も、この奇跡のあと、群集を解散させ、祈るために山のほうに向かわれました。ここから学ぶことは、奉仕の合間に休みが必要だということです。子どものころ、「馬鹿も休み休みに言え」と叱られたことがあります。それと似ていますが、「奉仕も休み休みに行なえ」と言うことです。電池も休み休み使うと長持ちします。ゴムもずーっとひっぱられぱなしだと、のびきってしまいます。私たちの肉体と魂には限界があります。ずっとストレスをかけてがんばると、しまいにはバーン・アウト、燃え尽きてしまいます。名古屋の方に「聞き屋」をしていたグループがいました。駅前に出かけ、椅子に腰掛けて、人の話を聞くという奉仕であります。そのグループは、必要を覚えている人には食べさせ、自分たちの家にも泊めてあげました。電話もメールもしょっちゅう来ます。「夜回り先生」という人がいますが、彼と同じようなことをし続けました。しかし3年でバーン・アウトしていまい、牧師は牧会からも離れ、教会も閉鎖しています。

 神様は全能ですが、私たちはそうではありません。いや、創世記には、神様も7日目に休まれたと書かれています。また、本日のテキストでも、イエス様も群集を解散させて、祈るために山のほうに向かわれたと書かれています。イエス様も肉体をもっておられたので、休息する必要があったということです。私も牧会、20年目なので、1,2年は安息年をいただくということになりました。ま、休むと言っても、礼拝説教だけは、やらさせていただきます。説教は牧師の生命線であり、説教することによって牧師自身が生かされるからです。

では、休むことには、どんなメリットがあるのでしょうか?いろいろありますが、心身がリフレッシュされるということです。キリスト教的には、リニューアルの方が良いかもしれません。休むことによって、疲れがとれるばかりか、新しいアイデア、新しい力が与えられます。しかし、日本人は勤勉すぎるところがあって、休むのは一日か二日で、1週間も休むのは入院するときくらいです。「みのもんた」と言う人は、ものすごく忙しいようです。彼はご病気になり、1年くらい前、入院しました。しかし、今は朝、昼、晩、テレビに出っぱなしです。彼のモットーは「仕事は断らない。させられる仕事は喜んでさせていただく」ということのようです。でも、遅かれ早かれ、倒れてしまうでしょう。睡眠時間が3時間以下のようであります。彼はずーっとしゃべっています。でも、新しいアイデアや新しい力がなくなり、視聴者も、同じ顔ばかりで飽きてしまうでしょう。それはともかく、私たちには休息が必要です。イエス様は多くの奉仕をなされていました。しかし、人々のニーズに振り回されていたわけではありません。主導権はいつもご自分にありました。父なる神様にお聞きし、父のみこころに従って奉仕していたのです。その当時、困っている人はパレスチナだけではなかったでしょう。世界中に、困っている人がいたと思います。でも、イエス様はご自分をパレスチナの小さな地域に制限しておられました。「私が働かなければ、会社がなりたたない、家がなりたたない」そういうことはありません。父なる神様が世界を創造し、世界を保持しておられます。私たちは被造物です。神様の御手の中で安らぐときが必要なのです。神様のもとで安らぐとき、神様からすばらしい創造力や新しい力が与えられるのです。

2.奉仕における動機

 奉仕においては動機が大切です。この世においては目に見える結果がすべてであります。スポーツ、ビジネス、学校の成績でも結果オンリーというところがあります。でも、キリスト教の神様、まことの神様は私たちの心をご覧になっておられます。イエスさまはたくさんの奇跡を行いましたが、イエス様の動機は何だったのでしょうか?マルコ6:34「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。イエス様は、この直後、成人男性だけでも5000人たちの人々の食物を与えました。女性や子どもたちを加えると、1万人以上はいたでしょう。この偉大な奇跡をなされたイエス様の動機は「あわれみ」でありました。ヨハネ6章を見ますと、この直後、人々はイエス様を王様に祭り上げようとしたと書いてあります。人々は「これで食べ物のことは心配ない。イエスこそ経済的な問題を解決してくれる王様だ」と思ったからであります。でも、イエス様はすでに「神の子なら、石をパンに変えなさい」という悪魔の誘惑に勝利していました。イエス様にとって、経済的問題を解決することが第一だったのではありません。また、ご自分がメシアであることを誇示するために、奇跡を行なったのではありません。羊飼いのない羊のような群集をご覧になって、深くあわれんだからであります。私たちの奉仕もこれと同じであります。目をみはるような立派なことをしたとしても、動機が何なのか問われます。使徒パウロはⅠコリント13章で「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません」と言いました。あなたを動かしている動機、つまりエネルギーの源は何でしょうか?ある人は、怒りでやっている人がいます。李光雨先生はそれを「怨念晴らし」と言いました。つまり、「馬鹿にしたやつらを、きっと見返してやるぞ!」「オレだってできるんだということを見せて、やつらをぎゃふんと言わせるぞ!」ということです。怒りはものすごいエネルギーを与えてくれます。しかし、怒りは神の義を全うすることができないと箴言に書いてあります。また、ある人は心の傷から動いています。劣等感、プライド、貪欲、競争心、人から認められたい、人から必要とされたい、そういう思いが根底にあります。

私は留学している長男のため、あるところでアルバイトしていますが、自分が一生懸命やるタイプだなーと分かりました。仕事でも、あえて困難なところを選びます。そして、その中で自分が翻弄されつつ、なんとか仕事の山を減らして行く。一途というか、悲壮感にあふれたところがあります。李英洙(ヨンス)先生が私にメシアニック・コンプレックスがあると言いました。ずけずけと、よく言ったもんであります。しかし、そうかもしれないなーと思いました。私の家は8人兄弟で私が7番目。父はあまり働かなかったので、家はかなり貧しかったです。母は長男や長女を頼りにしていました。私は下ですから、あまり期待されていません。でも、母が縄をなっていたので、その藁を打って一生懸命手伝いました。また、母が竹の子(小さな)取りに行くと、私もしゃにむに取りました。一握り15円くらいで売れたからです。子どもながらも、なんとか家をささえなければならないと思っていたのでしょう。しかし、長男や長女、他の兄や姉と比べたら、私のしたことは微々たるものです。せかせかと、動いている私を傍で見て、2種類の人が出てきます。1つは「一生懸命やって偉いね!」とほほえみながら、ほめてくれる人。私はそういう人には一生懸命尽くそうとします。しかし、「牧師のくせにちょこまか動いて軽いね。指導者はもっとどっしり構えなけりゃ!」と軽く見る人がいます。ある人は、「あなたは、こういうところがなってないよ」なとど足りないところを指摘するでしょう。そう言われたら、私は「ああ、そうですか。それでも結構ですよ」と開き直り、もうその人と絶縁(絶交)するでしょう。なぜでしょう?自分は一生懸命やっているという自負心があるからです。ですから、一生懸命も問題であります。なぜなら、自分を動かしているものが、悲壮感、悲しみだからです。

 ピリピ1章には、「ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者がいる。純粋な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えていた」と書かれています。日本のキリスト教会はそういうところがあります。負けたくないあまり、足を引っ張り合うところがあります。また、自己実現のために奉仕をする場合もあります。心理学では自己実現は最も崇高な動機であり、罪であるとは言われていません。でも、ミニストリーを自己実現の場にしてしまうと、キリストの御名があがめられなくなります。「おれがやった」「私がやってあげた」になります。神様は私たちの助けが必要な小さい方でしょうか?私たちが奉仕しなければ、神様は何もできないのでしょうか?神様に手や足や口がないのでしょうか?神様はご自分で何でもできるのですが、あえて私たちを用いてくださるのです。それは私たちと喜びを共にしたいからです。イエス様はエルサレム入場のとき、ロバの子どもを用いられました。イエス様を乗せたロバは、鼻高々だったでしょう。自分が行く先々に、やしの木の葉っぱや、上着が敷かれます。みんな、「ホサナ、ホサナ」と賛美して迎えてくれます。子ろばは「みんな、俺のことを礼拝している。ひょっとしたら、俺は本当は偉いのかも」と思ったでしょう。でも、それは勘違いでした。人々はロバではなく、ロバの上のイエス様を歓迎し、イエス様を礼拝していたのです。ここんところを忘れると、その人の奉仕、ミニストリーは台無しになります。おいしいスープにハエが1匹飛び込んでしまいました。みなさんは、ハエをスプーンでどけて、残りのスープを食べますか?そんなことはしないでしょう。皿に入ったスープ全部を捨てるでしょう。同じように、私たちの動機が汚れている場合、その奉仕全体に影響を与えてしまいます。動機は、表面に出て来ないので、最初はわからないかもしれません。でも、キリストのかおりがしないのです。私たちは動機をきよめていただく必要があります。イエス様のように、愛とあわれみという、ピュアーな動機で奉仕をしたいと思います。

3.奉仕における主役

 奉仕における主役はだれでしょうか?私たちは神様のためにやっていると思っているかもしれません。でも、神様が私たちを用いているのであって、主役は神様なのです。いかなる奉仕であっても、神様が私たちを通して働くのであって、私たちが神様を助けるということではありません。本来、神様は全知全能であり、私たちの助けを必要とされません。献金もそうであります。神様は私たちのお金が必要なほど貧乏なのでしょうか?そうではありません。神様は全宇宙、全世界を創造された万物の所有者です。私たちがささげなければならないほど貧しいわけではありません。神様が求めておられるのは、私たちのささげる心であります。本日の聖書箇所を見て見たいと思います。人間がやることと、神様がなさることとがはっきりわかります。弟子たちは群集を見て、パンがどれくらい必要か見積もって見ました。おそらく1万人位いたでしょうから、200デナリのパンでも足りるかどうかという計算をしました。200デナリは今なら、200万円です。1万で割ると、一人200円です。パンが2つくらい買えるかもしれません。しかし、37節を見ますと、イエス様は弟子たちを試しているのがわかります。37節。すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」答えは、200デナリものパンを買って来ることではありません。イエス様はすでにどうするか考えておられたのです。現実には、5つのパンと魚が2匹でした。「現実は厳しい」といいたくなります。でも、イエス様はその5つのパンと2匹の魚を用いて、奇跡を起こしました。イエス様は、全くなにも無いところからでも、奇跡を起こすことができたでしょう。でも、あえて、わずかなパンと魚を用いて奇跡を行なったのです。では、弟子たちの奉仕、ミニストリーとは何だったでしょう?イエス様が命じられたように、人々を100人、50人、と固まって席につかせました。イエス様が5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祝福しました。そして、パンを裂きました。おそらく、そのとき、パンがどんどん増えていったことでしょう。弟子たちの奉仕は、イエス様からパンを受け取って、人々に配ることでした。魚も同じです。ここに奉仕の重要なポイントがあります。5000人、いや1万人の人々を養った奇跡の主役は、イエス・キリストであります。弟子たちは、イエス様が増やしたパンを人々に配ったのです。つまり、イエス様と人々との間に立ったわけです。病の癒しも同じです。ベニー・ヒンが癒すのではありません。聖霊様が人々を癒すのであり、ベニー・ヒンは癒しのチャンネル、管にすぎません。私たちは器が大事だといいます。いいえ、器よりも器を用いる神様のほうが大事なのです。

 神様はロバのあごの骨も用います。私たちはディボーションで士師記を読みました。神様はかなり問題のあるサムソンを用いました。サムソンは女性に弱い人でした。あるときサムソンはペリシテ人に囲まれたとき、道端におちていたロバのあごの骨を用いました。ペリシテ人はその当時、最新の武器である鉄の剣を持っていました。イスラエル人は棍棒か、良くて青銅の武器でした。しかし、サムソンが用いたのはロバのあごの骨でした。それで、1000人を打ち殺しました。聖書を見ると、神様は取るに足りないものをあえて用いられます。ギデオンの家はマナセのもっとも弱い分団であり、ギデオンはその家で一番若い人でした。神様はそういうギデオンを用いたのであります。また、将軍シセラを倒したのはバラクではありません。一人の女性が、天幕の鉄のくいで、彼を倒しました。アビメレクは町を火で焼き、破壊しました。しかし、ひとりの女性がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけました。彼の頭蓋骨が砕けました。なんと、ひき臼の石であります。戦いの主役はだれでしょうか?サムソンであり、ギデオンであり、女性たちでしょうか?あるいは、ロバのあごの骨、たいまつ、鉄のくい、ひき臼の石でしょうか?そうではありません、主であり、神様です。神様がそういう人や器具を用いて、敵を倒したのです。私たちはどうしても、器に目が行きます。「ああ、あの人は神の人だ!すばらしい器だ!」そうではありません。バプテスマのヨハネは「神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」と言いました。私たちは神様の器であり、道具なのです。主役は神様です。ペンテコステ教会やカリスマ教会は、神様よりも、人間に栄光を当ててしまいます。それは、栄光のどろぼうであります。神様はすべてのものを私たちと分かち合いたいと願っていますが、栄光だけは別であります。栄光は神様だけのものであり、牧師や伝道者のものではありません。ハレルヤ!

 この奇跡から学ぶことは、私たち奉仕者は神様との間に立つ仲介者みたいなものだということです。5つのパンと2匹の魚を差し出したのは人間(子ども)です。大群衆に対して、本当にわずかな量であります。でも、それをイエス様のところにもって行きました。そして、パンと魚を増やしたのはイエス様でした。奇跡を行なわれる方はイエス様です。そして、その増えたパンや魚を群集に配ったのは弟子たちでした。私たちも神様からの恵み、神様からの力、神様からの知恵、神様からの賜物を人々に手渡すことによって仕えることができます。しかし、あくまでも私たちは仲介者に過ぎません。みわざをなすのは、神様であり、イエス・キリストであり、聖霊様です。牧師もそうであります。もし、私が人々を救い、教え、諭し、導き、弟子に作り変える・・・とんでもないことです。もちろん、みことばを語り教える必要はあります。でも、人々を救い、人々を変えるのは神様です。私たちも癒しの祈りをしますが、祈るのは私たちであり、癒すのは神様です。また、私たちは福音を伝えますが、救うのは神様です。奉仕も、神様が私たちを御手で握って、私たちを用いるのです。私たちはロバのあごの骨であり、たいまつであり、鉄のくいであり、ひき臼の石くらいのような存在です。だから、あんまり緊張する必要もありません。また、何かできたからと言って誇る必要もないのです。「私のロバのあごの骨はものすごく硬いぞ!」「いや、私のロバのあごの骨の方が硬い!」そういう馬鹿馬鹿しい自慢をするのは愚かなことです。でも、実際はやっています。大きい教会は、小さい教会を見下すところがあります。小さい教会は、大きい教会に対して卑屈になるところがあります。でも究極的には、大きい、小さいは、神様がそうしているのであります。器が大きいとか器が小さい、これも神様がお決めになることです。私たちは与えられたものに忠実であれば良いのです。奉仕、ミニストリーで忘れてはならないことは、私たちは神様の道具だということです。いや、道具に徹するべきだという方が良いでしょう。

 本日は、奉仕、ミニストリーの心得みたいなものを学びました。なぜ、神様は私たちを用いたいのでしょうか?その答えは、マタイ25章のタラントのたとえにあります。マタイ25:23をお読みして終えたいと思います。これは2タラントもうけたもべに対して言ったことばであります。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」全能なる神様が私たちを用いるのは、喜びを共にしたいからであります。