本日の聖書箇所を読むといくつかの疑問が起こります。弟子たちは夕方から午前3時まで少なくとも8時間くらいは湖の上にいたことになります。舟の上で何をしていたんでしょう。そんなにも時間がかかるものなのかなーと不思議に思います。また、イエス様が真っ暗な湖の上を歩いてきました。弟子たちは「幽霊だ」と思って、恐れました。イエス様が舟に乗り込まれると、風がやみ、ほどなく向こう岸に着くことができました。イエス様が湖の上を歩いてやって来る、しかし、これがどんな意味があるのだろうか?んー、正直言って、今日の箇所は説教者泣かせであります。みなさんも個人で聖書を読んでいたなら、ぱーっと、あまり考えずに読み過ごしてしまう箇所ではないでしょうか?私の恩師、大川従道先生は、「人生論的アプローチ」で、聖書からよく語られます。私もこの物語を、私たちの人生と絡ませながら、語りたいと思います。
1.人生における向かい風
弟子たちは漁師でありましたが、思った以上に向かい風が吹きまくっていました。みなさんは、ここでモーターボートとかディーゼル・エンジンの船を連想してはいけません。帆掛け舟を思い出してください。向かい風ですから、帆は使えません。手で漕いでいくしかないのです。8時間も頑張ったので、手もいたいんです。お腹も減ってきて、疲労もたまってきました。そういう状況の中で、イエス様が湖の上を渡って近づいてこられたのです。私たちの人生においても向かい風もあれば、追い風もあります。だいたい、人生を振り返ると順調に行ったことは、記憶からすぐ失せます。それよりも、「あのときは苦労したなー」と辛いことの方がよく残るのではないでしょうか?失業や失恋もあるでしょう。ひどい職場に派遣されたとか、人から裏切られた。赤字で借金だらけだった。事故や怪我、あるいは病気で入院してひどい目にあった。何をやっても失敗の連続だった。こういう記憶の方が、よく残るのであります。
でも、みなさん、そんなとき、イエス様に出会ったんじゃないでしょうか?イエス様に出会ってから、あなたの人生が変わったんじゃないでしょうか?でも、最初は、救い主じゃなくて、幽霊か、悪魔に思えて、受け入れがたかったでしょう。最初から「はい、信じます!」なんて受け入れた人は恐らくだれもいないと思います。あの弟子たちだって、イエス様を「幽霊だ!」と恐れたんですから。でも、どうにかこうにか、メッセージを聞いたり、人の証を聞いて、心が開かれ受け入れた。あるいは、人生の嵐の中で、イエス様と出会うきっかけがあったのかもしれません。聖歌472番に『人生の海のあらし』という賛美があります。「人生の海の嵐に、もまれきしこの身もー、不思議なる神の手により、命拾いしぬー。いと静けき港に着き、われは今、やすろう。救い主イェースの手にある身はいとも安しー。悲しみと罪の中より救われしこの身に、いざないの声も魂ゆるぶることえじー、いと静けき港に着き、われは今、やすろう。救い主イェースの手にある身はいとも安しー、すさまじき罪の嵐の・・・」。みなさん、これが人生であります。人生という嵐の中で、イエス様に出会い、あなたも私も命拾いしたのです。あー、嬉しいですねー、よかったですねー。しかし、クリスチャンになったら、再び人生の嵐に遭遇しませんか?もう、順風満帆でしょうか?向かい風など1つもありませんか?ありますねー。
あなたはクリスチャンになって、「これが私の生きる道!」と目的や使命を持たれたと思います。クリスチャンになりますと、「食べて寝て起きて、食べて寝て起きて」という人生ではなくなります。おそらく、神様から「このように生きなさい、こういうことをしなさい」と大小の差はあれ、目的や使命をいただいたのではないでしょうか?でも、この世の嵐、向かい風にあったのです。それでもう挫折したり、風にもてあそばれ、しまいには目的や使命を忘れることもあります。どうぞ、まず、あなたが神様からいただいた目的や使命を思い起こしてください。週報にも書いてありますが、あなたが抱いている目標は何でしょうか?次に、向かい風は何ですか?その次には、追い風は何ですかという項目があります。本日は説教後、分かち合いの時間がありますので、このことを分かち合っても良いかもしれません。実はこの考え方は、以前、小笠原先生から学んだ分析法であります。三つの項目がありまして、真ん中に「あなたが目指すこと、目指すものを」書きます。私ならば「日本のモデルとなるようなセル教会」と書くでしょう。みなさんだったら、「自分の賜物を生かす奉仕」とか「宣教の働きの拡大」というのもあるかもしれません。「家でセル集会を開く」とか、「素敵な人と結婚してクリスチャンホームを造る」あるいは、「心身のカウンセラーになる」というのもあるかもしれません。そんな崇高なものでもなくても良いです。「老後は温泉付きの家に住みたい」(私のことですが・・・)。なんでも良いです。あなたが目指すものであります。そして、左側には「追い風」です。これはあなたの目標を達成するために推進力となるものです。人材やお金、聖霊の助け、これまでの経験などがあるでしょうか。いわゆるプラスの要素です。今度は、右側に「向かい風」の欄があります。これはあなたの目標を達成するための妨げになっているものです。不景気の嵐、人材不足、資金不足、能力不足、時間不足、あるいは、反対者がいるかもしれません。マイナスの要素です。
私の場合は、最初、目標自体が間違っていました。大きい教会と大きな建物、いわゆるメガチャーチを目指していました。しかし、セルチャーチはこのメガチャーチをあきらめなければなりません。人数の多さよりも一人ひとりの質が大事です。つまり、量よりも質を目指さなければらないということです。正直、「ともかく人が集まれば良いーなー」という誘惑があります。これは、たなぼた式のリバイバルです。こういうのは海外に良くあります。私もこういうのを求めてきました。確かにあることはありますが、私が生きているうちにあるかないか分かりません。3億円の宝くじが当たる夢を見るようなものかもしれません。それよりも、聖書的な目標があるはずです。私は数年前から「でかい教会よりも、良い教会を目指すべきだ」と示されています。4月15日付けのリバイバル新聞の大一面にこのような記事がありました。見出しが『牧会を職業にするな』で、ジェムス・フーストン師の公演からのものでした。彼は、現代のキリスト教界の一部にある「教会員が多い教会こそが良い教会」という意識を批判し、教会の人数より一人ひとりの信仰を重視する必要を説き、牧師たちに対し、牧会が機械的になるあまり、人々が疎外されていないかと訴えました。また、神が与えるアイデンティテイを再認識する必要を説き、まず「牧会者としての奉仕を自分の職業にしてはいけない」と述べました。そして、専門意識が高まることは知識の蓄積や職業倫理の徹底といった面で良いにせよ、学位や資格を重んじる弊害を生み出し、世俗化する傾向を持つ。自分が何であるかを職業で定義してはいけない。また「どれだけ成功しているか」で自分を捉えるのではなく、「どれだけ神に忠実に仕えているか」で自分を捉えるべきだと説きました。私よりも先輩の牧師たちの多くは、会社を経営するように牧会してきたようです。目標を誤ると、とんでもないことになります。
なぜ、向かい風で弟子たちが翻弄されていたのでしょうか?しかも、せっかく、近づいて来られたイエス様を「幽霊だ」と恐れおののいたのはなぜでしょうか?52節「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」。この箇所は、イエス様が男性だけでも5000人を養われた奇跡の直後でした。「人々はみな、食べて満腹した」と42節に書いてありますので、弟子たちは、最初は肉体的に満たされていたわけです。いや、心も満たされていたことでしょう。ヨハネ6章には、奇跡の直後、人々はイエス様を王様にしようとしたと書いてあります。弟子たちも大きな夢を抱いたことでしょう。「我らがイエス様は、経済的な問題を解決してくださる王様だ。このお方に着いていけば食いっぱぐれはないぞ。イエス様が王様になれば、俺たちは大臣になれるかも。ガリラヤの一漁師からイスラエル王国の大臣だ!うれしいなー、うれしいなー。やったなー、やったなー。」このように、彼らは肉体的にも精神的にも満たされていたので、多少の向かい風で舟を漕いでも、問題がなかったのではないかと思います。でも、向かい風はおさまりそうもありません。漕いでも、漕いでも、進みません。もうあたりも真っ暗で、どっちが正しい方角かわからなくなったんじゃないでしょうか?彼らの望みは、この世において偉くなることでした。イエス様がヨハネ6章でなんとおっしゃったでしょうか?ヨハネ6:27「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働くことが重要だったのです。私たちがしている仕事、家事、学業、何かを買い求めることも、すべて手段であります。何か重要なポストにつくこと、お金をいっぱい稼ぐことも、偉い人になること、これらは目的ではありません。当時のパリサイ人や律法学者は、虚栄心というパン種によって膨らませていました。しかし、イエス様のパンの奇跡は、神の永遠の命から来るものでした。私たちはこの世の栄華のためではなく、永遠に至るもののために労するべきであります。
2.人生におけるイエス様の介入
6:48-50「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」。弟子たちは湖の上を歩いて近づいてこられた方が、まさかイエス様だとは思いませんでした。彼らは、「あれは幽霊だ!」と恐れて叫んだのであります。「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」とありますように、イエス様は山の上から超自然的に、見ておられました。しかし、イエス様は遠くから見守っているだけの方ではありません。私たちの人生に介入しようと近づいてくださるのです。「湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」。イエス様も薄情だなーと思います。そのままそばを通り過ぎようとされました。何故でしょう?彼らは湖の上に、8時間もいたわけです。最初は、こんな嵐はたいしたことない、何とかなると思ったことでしょう。なぜなら、彼らの多くは元漁師であり、ガリラヤ湖を良く知っていたからです。おまけに、頭の中には「もうすぐ、イスラエル王国の大臣になれるぞ!」というやましいことを思いがありました。自分たちの経験を過信していたこと、世の欲望があったので、神様に頼ろうとはしなかったのです。おそらく、この8時間、一度も主の名を呼んで助けを求めなかったと思います。だから、イエス様は彼らが乗っている舟のそばを通り過ぎようとされたのではないでしょうか?
私はよくものをなくしますが、まず、一生懸命自分でさがします。そして、いよいよ見つからないなーというときに、跪いて祈ります。探すために、手足が勝手に動いて、静まろうとしないのです。でも、努力をやめて、静まって祈るとどうでしょう?ふっと、どこからか見つかるんです。また、車でもよく道に迷います。私の車にはカーナビがありません。私はそういうものを頼らないで、地図と感で運転するのが正攻法だと思っています。ある人はそれを「カンナビね」と言いました。学校の春休みに伊東の方まで行きました。熱海から厚木にかけて、有料道路がとても多いんです。しゃくにさわるので、帰りは一般道で厚木まで来ようとしました。しかし、秦野付近で迷い、なかなか、厚木のインターまで来れないんですね。家内は「だれかに聞いたら?」と言いますが、私はあまり人に聞くのも嫌なんですね。もう、30分くらいぐるぐる回って自分がどこを走っているのかわからない。お昼何も食べていないので、コンビニに入って、やっとそこで道を聞きました。悔しいというか、なんでだよーという思いがいっぱいでした。もし、私が一寸、車を止めて祈るならば、そんなに迷うことはなかったと思います。弟子たちは30分ではなく、8時間もそうしていたのであります。まだ、私の方がまだましです。弟子たちは、主に祈り求めなかったのです。だから、せっかく近づいて来られたイエス様を「ああー、幽霊だ」と恐れたのです。クリスチャンになる前はともかく、クリスチャンになってからも、肉に頼るところがあるのではないでしょうか。恐らく、神様に頼らないのは、自分がよく知っていて、経験豊かな分野かもしれません。そういう分野は、とことん、行き詰まらないと、神様に願い求めないのです。ああー、なんと私たちは頑固なんでしょう。
週報にもありますが、
①あなたがイエス様に頼ろうとしない分野は何ですか?
②とことん打ちのめされた後、祈ったことはありますか?
③あなたは今後、どのような態度を取ろうと思いますか?
どうぞ、このことも分かち合ってください。時間がなければ、前半のポイントもしくは、後半のポイントどちらか選択してください。旧約聖書に「うなじのこわいもの」とあります。これは、馬やロバが手綱を動かしても、首を動かさないことです。転じて、心が頑なで神様の言うことをきかないということです。イスラエルの民は、うなじのこわいものだと言われました。私たちも主が「そうしなさい」とおっしゃっているにもかかわらず、逆の方に行こうとするところはないでしょうか?私たちはとことん、向かい風に、打ちのめされないと、言うことを聞かないのであります。弟子たちは8時間たっても、それができず、イエス様がようやく登場されたのです。しかも、近づいてこられたイエス様を幽霊だと勘違いました。それでもイエス様は「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と励ましました。「私だ」とは、ギリシヤ語では「エゴー・エイミー」であり、神宣言であります。イエス様は私は幽霊じゃない「神である」とおっしゃったのであります。マタイによる福音書には、弟子たちが「確かにあなたは神の子です」とイエス様を礼拝したと書いてあります。
では、イエス様が弟子たちの乗っている舟に来られたら、どうなったでしょうか?51節「そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。」。おそらく、スムースに、舟は対岸に着いたことと思います。さっきまでの悪戦苦闘が嘘のようであります。みなさん、これがイエス様が乗っておられる人生であります。その当時は、イエス様は山の上におられれば、舟には同時におられませんでした。なぜなら、肉体を持っていたからです。でも、今の時代は、イエス様は聖霊によってこちらにおいでになっておられます。古い英語の聖書は、聖霊をホーリー・ゴーストと呼んでいます。今もそのように呼ぶ人がいます。聖なる幽霊であります。でも、聖霊は、幽霊ではありません。イエス様の霊であり、私たちの人生のただ中に、介入してくださいます。ある人は、「神様どうぞ見守ってください」と祈ります。悪い祈りじゃありませんが、これは「私がやりますので、あなたは見ていてください」という意味合いがあります。これよりも、「イエス様、一緒にやりましょう」「イエス様、一緒に行きましょう」「イエス様あなたが先立ってください。私が後から従っていきます」。こういう信仰の方が、だんぜん良いと思います。どうぞ、神様を祭り上げないでください。信仰は生命保険やアクセサリーではありません。信仰とは小さいことから大きなことまで神に頼ることであります。この間、道を歩いていましたら、危ない目に二度も合いました。一度は私が道を歩いていたとき、急に車が左折してきました。二度目は自転車に乗っていたとき、小路から若者が乗った自転車が飛び出してきました。どちらも、すんでのところで助かりました。交通事故の場合は、こちらが正しくても、相手がいますのでどうなるか分かりません。本当に、イエス様に助けていだだかないと、いつこの命を落とすかわかりません。みなさんの人生、大きいことから日常のことまで、イエス様を歓迎しましょう。
詩篇107:28-30は、今日の聖書箇所にふさわしいみことばです。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた」。聖書には、嵐の記事がいくつかあります。旧約聖書のヨナ書における嵐、マルコ4章と6章にガリラヤ湖の嵐があります。使徒27章は地中海の嵐です。聖書では海は悪魔的なものとみなされています。なぜなら、絶えず変化するからです。黙示録を見ますと、完成された神の国には海がありません。「それがどうした」思うかもしれませんが、この世にいる限りは、海の嵐がつきものなのです。困難の嵐は必ずやってきます。世の人も嵐に遭遇しますし、クリスチャンも例外ではありません。しかし、決定的な違いは何でしょうか。イエス様が私たちの人生に共におられるということです。イエス様と一緒だったら、必ず、乗り越えられるのです。たとい死の嵐がやって来ても、乗り越えられるのです。ここ2週間、当教会で2回の葬儀がありました。香港の新村兄弟の葬儀は中野雄一郎先生が司式をなされました。もう1つは先週、日本キリスト教団系の改革派の葬儀に会堂をお貸ししました。司式は改革派の神学校の元教授でした。ホーリネス系の中野先生は200%の力で、涙を流し、声を張り上げ、勇猛多感に福音を語りました。ある人は歌舞伎のようだと言いました。一方、教団の改革派の先生はぼそぼそ声で、しかも四方山話ばかりで、一体やる気があるのかと思いました。私はPAに座っていて、こんなに違うのかなーと愕然としました。両者とも、詩篇23篇を引用しておられました。中野先生は「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いをおそれませーん」と歌舞伎調に声を張り上げて宣言されました。もう一人の先生は、ただ詩篇23篇を朗読しただけであります。私が葬儀をしてもらうなら、だんぜん、中野先生のようにやってもらいたいなーと思いました。中野先生は、いかに、故人が主の恵みによって、人生の荒波を乗り越えてきたことを語ってくれました。参列者一同は、悲しみの中でありましたが、大きな励ましをいただきました。イエス様が葬儀の中にもいらっしゃるなーと思いました。先生は火葬場でも祝祷され、骨壷の前でも祝祷されました。なんと、四つ木の斎場にも主イエス・キリストがおられるなーと思いました。イエス様はすぐそばにおられます。でも、あなたが自分自身を頼り、呼ばなければイエス様は通り過ぎてしまうでしょう。どうぞ、イエス様を人生のどんな場面でもお迎えしましょう。イエス様をお乗せした、人生という航海を進ませていただきましょう。